見えてきたもの
映画では、自然も、人間も、虫も動物も、同じ比重で描写されているのが、とても新鮮でした。アップが少なく、周囲の情景がいつも写し出されるように描かれていますので、それぞれの繋がりが感じられます。町の人たち、虫や動物も、周囲の自然に包まれ、それら自然は宇宙の秩序に支えられて、生かされているという印象を受けます。
小栗 共存、共生、いろいろな言葉で言われていますが、それを本当の力にするのは、なかなか難しい。この前、著述家の花崎皋平さんと食事をする機会がありました。花崎さんは、岩波書店から『個人/個人を超えるもの』を出版されています。わたくしとは何か、というのは、従来は何に帰属するか、ということでしかなかった、というんです。思想もそうですね。
ですが、花崎さんがおっしゃるには、もともと人間は、どこかに帰属して存在するのではなくて、本来、ひとりひとりが、存在そのものなのだというのです。つまり、どこかに帰属するとすれば自分と違ったものに帰属している人々はすべて否定的な存在ということになってしまいます。
つまり、帰属に照らし合わせて、この帰属の仕方は違うじゃないか、という否定も起こってきます。そうやって思想なども形成されてきたのですが、そうじゃない思想というのは、いったいどうやったら形作ることができるか。
花崎さんは、現在、著述と市民運動に関わられながら、千葉に住むお母さんのケアをされています。何ものにも帰属せず、放棄せず、現実を変える思想、行動をどうするか、という生き力をおやりになっているのだな、と思います。
これは僕なりの解釈ですが、場には、それぞれがもっている限界というのがあると思います。その限界同士が響き合う時、ケアのこころが生まれると花崎さんはおっしゃっているのだと思います。限界に気づいた者が、お互いケアし合い、その限界を踏み越えて思想を形成していくのでしょう。
どこにも、何ものにも帰属しないで、人生の、社会のさまざまな重荷を受け入れる、という素朴な、原初的な姿勢を重視する生き方が大切になってきたということでしょうか。
小栗 『地球人通信』も、そこを目指しているのでしょう? 単に市民運動だとか、自然保護だとか、環境汚染だということではないように思うんです。結局、これまでの「わたくしとは何か」という組み立て方では生きられないから、こういうアクセスを用意されたのでしょう。そうしないと、自分の全体像も見えてこないし、また、そういうことを求められているから、おやりになるのだろうと共感としてもつんですね。
ふるさとの話にもう一度戻しますと、あの頃、とんがった形で、我とか、自我といったことを考えていたなぁ、と思います。もちろん、そういう時代をくぐり抜けたから今日があるわけです。それは、ある程度、近代と格闘し、たどってきたから、改めてこういう視点をもつことができたのだと思います。
その意味で、今回の『眠る男』は、私たちがすっかり忘れていた世界を気づかせてくれましたし、見えない世界を見せてもくれたと思うのです。
小粟 FM群馬のアナウンサーが、とても面白い反応をしたのを思い出しました。四国出身の方でした。映画を観た後、「私、なんだか、今日、田舎の母に電話をしてみたくなっちゃった」って言うんです。映画の感想は、直接言ってくれないんです。
あとでまた会ったのでそのことを聞いてみたら、その日、やはり電話をしたそうです。「すごくしあわせだった」って言っていました。
僕の場合、親とか、ふるさととかは高校の頃、最も忌み嫌って逃れようとしたものでした。その問い直しを今やっているわけですが、当時、僕たちは相当狭く、目くじらたてて前のめりになって、言語をいじっていたんですね。
先ほどの友人が、「でもさぁ、人間ってどんな不幸な時にも風呂入る時には結構気持ちいいよね」って言うんです。真剣に考え、これこそが重要と主張したりしていることも、案外脳みその薄皮の部分だけで言っているんじゃないかって気がしましてね。もうちょっと、僕たちも自信をもって穏やかに生きてもいいのかもしれません。ただ、南北間題を忘れて、おいしいところだけ食べて、満腹して、腹ごなしするために、どうしたらいいか、みたいなことになっては困りますから、思想化はちゃんとしないと・・・・。
(地球人通信1996.10)

|