『眠る男』国境を超える TOPIC審査員特別大賞受賞
限界を踏み越えて 見えてきたもの
嬉しいニュースが飛び込んできた。第二十回モントリオール(カナダ)映画祭に招待を受けた『眠る男』が、審査員特別大賞(準グランプリ)を受賞した。また、第1回釜山国際映画祭(韓国)で『眠る男』の上映が行われた。韓国ではこれまで日本映画の上映が事実上禁止されてきたが、この新しい映画を評価した韓国のイ・チャンホ(季長鎬)監督をはじめとする映画人の働きかけによって、実現されたのである。
『眠る男』は昨年(1995年)10月に完成、12月に公開してから、群馬県で10万人、東京・岩波ホールで11万人を超える観客を動員。京阪神ではボランティアによる実行委員会が組織され、独自の上映ネットワークが作られた。既存の映画配給システムに頼らず、独自の上映で、公開以来約25万人が鑑賞、予想を上回るヒットとなった。
日本映画の代表としてモントリオール映画祭の招待に続き、ニューーヨーク、ウィーン、サンパウロなど、世界中の映画祭から招待が相次いでいる。『眠る男』は、地域から地域へ、地域からアジアの地域へ、そしてアジアの地域から世界の地域へと国境を超えて広がり出した。
森の中で出会う意味
今回の『眠る男』は群馬県の記念事業がきっかけで誕生したということですが、これは日本では画期的なことだと思います。PR映画ではなく、芸術作品のスポンサーを地方自治体が引き受けたわけですから。おお、群馬県はやるなぁと、思わず拍手を贈りたくなったほどです。そのあたりの経緯を少し聞かせて下さい。小栗監督ご自身、群馬のご出身ですね。
小栗 ええ。ちょうど『死の棘』が終わって、次の作品を模索していた時に群馬県から話がありました。「群馬県の人口が200万人に達し、それを記念して後世に残るような精神的モニュメントを作りたい」ということでした。最初から、「ご当地映画にはしないで、普遍的なものにして下さい。群馬で作るのだからこそ、開かれたものにしましょうよ」、という発想をもっていて、これは僕も大賛成でした。小寺弘之群馬県知事ご自身、「ひとりひとりが次なる時代のこころの座標軸を考える契機になるような作品を」、というご意見をもっておられたので、とても人間的ないい取り組みがてきたという気がしています。
個人もそうですが、家族の問題、地域をどうとらえるかなど、今あらゆる事柄の問い直しが迫られているように思われます。それを考えると、群馬県が小栗監督に映画製作をわざわさ依頼したことも、小栗監督ご自身それを引き受けられたことも含めてとても現代的だと思います。
小栗 暮らしの足元を見つめていくと、地域とか地方とか、多文化とか、多言語を考えていかなければならない。今、そういう流れの中にあるのかもしれません。こういう取り組みはまだ数少ないにしても、この映画製作を可能にしたのは、時代の空気が押しあげてくれているんだと思うんです。他との違いを囲って、閉じ込めることが個性だという意味ではない。今、その根本がひとりひとりにとっても、組織にとっても、問われている気がするんです。
国とか中央とか、際立った中心を経由してからおりる、という関係が、既に成り立たなくなっているんです。もともと日本が島国で単一民族に近い。それが文化に結びつき、表れている。その良さも悪さもありますが、多くの場合、悪いことが、歴史的に大きな傷を残してきたんです。ところがいやおうなく単一民族幻想が経済によって破られてしまった。
人間の中身は変わることができないけれど、日本人がおこした経済行為によって物理的に壊れてしまったんです。ところが、どう壊れているか、どう立て直しをすればいいのかということに、日本はまだ気づけないでいる。
日本の経済がこれだけ世界のトップに立てば、周辺諸国から外国人労働者が入ってくるのは当然です。違法だ、合法だという以前に避けられない流れです。ところが僕たちはそれを不法の外国人、外国人ホステスと呼んで片付けようとする。不法な人たちは合法化しなければいけない。不法であるうちは常に<社会的な弱者>だという枠組みの中でとらえてしまう。そこに限界があるような気がします。もちろんそれは運動としても、闘いとしても大事なんだけれど、それだけではない。日本が壊れているにもかかわらず変われない。
『眠る男』では、クリスティン・ハキムが「南の女」ということで、どこからどう来たかということが明らかにされていない。ワタルという障害者がいる。自転車置き場にオモニ(韓国語でお母さんの意昧)と呼ばれる人がいる。見方によっては、「どうして社会的な弱者ばかり描くんですか」と尋ねられる。確かに社会的弱者といえば言えるでしょう。だけど、「社会的弱者として描いてはいませんよ」と、言いたくなるんです。
ひとつの町があって、川があって、背後に森がある。南アジアの人々が来てくれたことによって、森のもつ力を再発する。あるいは、森の中で新たに日本人が南アジアの人たちと出会うこと、再会することが可能になるということなんじゃないかと思うんです。

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