区別できない領域にあるもの


他のアジアの監督は、小栗監督のそうした新しい考え方、アプローチの仕方をどう受け止めるでしょうか。理解、共感は得られるでしょうか。


小栗 そこは伝わりやすいところだろうと思っています。ただ、国によって当然、近代化の過程も違うし、それぞれのもっている民族性も違いますから、映画の具体的な表現として同じようなものは出てこないと思います。大ざっぱに分けて考えると、明らかに精神性というところでは、欧米の人と比べた場合、アジアの人たちの方がより強く伝わるということがいえます。


なるほど、わかります。

小栗 ただ欧米では誰も、そういうことをやっていないかというと、たくさんの監督がやっています。でもどこかが違う。よく例えを出すんですが、家があります。日本家屋は日本の気候、風土ににあったもので、廊下、縁側でもいいのですが、これは家の中にありますが、同時に外とつながっています。内とも外とも呼べる非常に中途半端な領域になっています。これは目本人の白然観とか、自然から学んだ死生観の現れにも影響していると思うのです。


アジアの各地域とも共通していますね。


小栗 その点、石でできているヨーロッパの建物の場合、内と外とははっきりと区別されています。ヨーロッパの石の囲いの家では『眠る男』は撮れません。日本の家屋だから撮れるんです。拓次が眠っている背後に、月の絵が描かれた板戸があります。彼が永眠していく時、背後に見えていたのは月でした。アジアでは珍しくありませんが、日本の家屋、建物の構造も、内と外の区別がはっきりとしていません。内と外の区別が明確に分かれている石の家では、『眠る男』は成立しないのです。石の建物、コンクリートでも同ですが、そこに住む人間が作る映画の表現と、木の家、外に開かれた家に住む民族なり、文化からできた映画では明らかに違うのだと思います。


 ところが近代の考え方は、すべて石の建物の発想に基づいてできています。すなわち、内と外に境界を設け、はっきりと区別する思考法が一般化されたのです。それは、境界のない生態系的世界とはまるで違っていて、あるいは断絶を、僕たちの意識に植えつけたのだと思うんです。


人工的環境の建設に繋がるわけすね。


小栗 ええ、堅い仕切りをつくるということですか。そうして近代は均質化していくんです。映画の世界もまったく同じで、均一化の方向をたどってきました。映画の世界にも、この不幸があったと思います。でも、近代の初期は、多くの人達が均一化していくことに喜びを感じていたことも確かです。便利なものが次々と発明され、近代化、都市化が広がっていきました。みんな同じものが使える。機械、文明は、どんなところにも素早く入り込んでいきます。そのために、文明と文化に微妙なタイムラグが生じ、それがひずみを作ってきました。文明というのは.いずれは文化化されなければいけない。文化というのは、簡単に共有できないのです。ところが、テレビでも、冷蔵庫、コンピューターでも、お金があって電気が通じていれば、誰もがすぐ使えます。


文明の力、つまり経済は、民族、宗教の違いなど軽く飛び越えてしまいます。


小栗 文明の移動はとてもスピードが早い。それは基本的にはいいことなんです。ある日、個人が発明したものが、たちまち万人が共有できる。しかし、文化はそうはいきません。文化は、伝わる、別の言い力をすると受容するのに非常に時間がかかります。当然、文明と文化は衝突を起こします。そこで、あらためて文明が問われるのだと思います。生活のスタイルは変えられた。しかし、価値観、意識は、それまでと何ら変わっていないという現実を抱え込むことになるのです。


 映像の世界で言えぱ、均一化し、時間をかけずに仕上げるものはすべてテレビが担うことになりました。映画は積極的に時間のかかる世界を引き受けざるを得ないのです。それこそが映画の役割だといってもよいのかもしれません。


この『眠る男』は世界に広がっていってもいいですね。アジアも可能性ありますでしょ。


小栗 ええ、今も、イ・チャンホ(李長鎬・韓国の名監督)が、「韓国で最初に上映する映画だ」と言って帰ったんてす。


おもしろいですね。とてもいい広がり方をしそうな感じですね。地域から地域へ、地域からアジアの地域へ、そしてアジアの地域から世界の地域へと境界を超えて広がってゆけば理想的ですね。


小栗 そうですね。危なっかしいし、デリケートだし、ホンモノかな、どうかなっていう、まだ姿がしっかり見えないけれど、京阪神地域では、ボランティアの方々が「眠る男」京阪神上映ネットワークという小さな組織を作ってくれ、活動してくれています。こうい広がり方はとてもいいですね。なんだか不思議な波紋があるような気もします。(次号続く)

(地球人通信1996.7)