近代的表現法のゆきづまり


つまり、人間中心主義、ヒューマニズム時代の映画に不満、あきたりないものを感じるようになった。そうした方法では、現代に生きている人間と時代を描ききれなくなってきた、ということでしょうか。


小栗 画面の中で際立つ、目立つということが、イコール表現と言えるのかどうか、難しい問題ですが、映画を離れて表現ということを考えると、そのことがいつも疑問として残るんです。ひとりの自己主張を際立たせると、他の意見はすべてその陰に隠されてしまいます。すなわち、否定されるわけです。西欧的なドラマの基本は、人間を中心に据え、会話で繋いでいく。ところが時代がゆきづまってくると、人間をクローズアップするやり方、人間を中心に考えるというこれまでの伝統的手法に、ある限界を感じないではいられません。カメラをもって人物に寄って寄っていって、場面をセリフや会話で繋ぎ、人物が動くと、それをカメラが追うという撮影方法は、どうもぴったりこなくなってきました。


 実際の暮らしを考えてみても、僕たちの感性は、そんなに人間に近接して動くことはありません。むしろ、点景となるような距離を保っている。事実人間の眼の視野は、カメラのレンズとは比較にならないぐらい広角にできていますので、真ん中に人間がいても、その周辺のたくさんの情報を同時にキャッチできます。視野に映ったものや人、自然の位置や関係だってわかりますし、その方が安らぎを感じると思うんですよ。

 その点、カメラのレンズは不自然なんです。狭い画角で撮影するので、セリフや会話が重要になってくる。作り手としては会話が終わると間が保てないので、どうしても次の会話が欲しくなる。つまり、これまでの映画というのは、主たる人物にたくさんのセリフを押しつけ、そのセリフによって物語を繋ぎ、展開させていく、という作り方をしてきました。でも、これは、僕たちの実感と違うんじゃないかと思うのです。


 僕たちは、非キリスト教徒として、万物にアニミスティックな感情を抱いて生きてきたわけです。子供の頃、何から学んだかといえば、僕たちはむしろ自然から多くの精神を学んできたと思います。そういう観点から映画作りを考えてみると、狭い画面一杯に人間を映し、たくさんのセリフをしゃべらせるというやり方では、むしろ、肝心なこと、本当に大事なことが隠されてしまうと思うのです。映画が誕生して100年、ここで僕は少し映画の伝統から離れてみて新しい文体を考えてみたい、というより、考えざるを得ないところにきていると思ったのです。それがイコール、アジアに結びつくのかどうかはわかりませんが。


こういう撮り方を決断したのはいつ頃だったのでしょう。


小粟 シナリオを書き出した時です。前作の『死の棘』で、否定型のアプローチのギリギリをやったのですが、それで自分のなかにある壁ができたように感じたんです。簡単に言えば、否定を強めるような形でしか、メッセージできないのか、表現は成り立たないのか、という恐怖に似た感情が湧いてきたのです。


 それは実生活でも同じで、例えぱ、「おまえ、そういう言い方は違うのではないか」、「俺はこう思うからこうしなさい」などと、家族や周辺の連中に言うわけです。その一方で、どうしてあるがままに受け入れられないのだろうと自分に問うのです。実際に、自分が50になって、「ああじゃない、こうじゃない」って言い続けて死ぬのかって思ったら、怖くなってきたんです。


 あるものを受け入れるというのは、実生活ではかなり怖いことなんです。主体制を失う感じがしますから、やっぱりコミットしようとする。時代に流され、商業王義に流され、商品のなかに埋もれてしまうんじゃないかと。だから、一言主張しておかなければ、とつい否定的に関わろうとしてしまいます。それとは全く逆の生き方。つまり、ともかく受け入れる。受け入れたうえで、なおかつ放棄しない生き力、そういう選択もあるし、むしろそういう生き方がこれからは大切なのでは、と考えるようになりました。


それはすごいことですね。


小栗 でも、できないんですよ、それは。できないんですけど、そういうことを思想化するようなことを心掛けていかないと。ソ連の崩壊とか、先の見えにくい時代だからこそ必要だと思うのです。それぞれが生きていく場で、すべてを受け人れ、なおかつ放棄しないで組み立て直す作業をやっていくことが、これからは重要になると思うのです。