地球人インタビュー(1996.7)

小栗康平さん
映画監督。1945年群馬県生まれ。1981年監督第1回作品『泥の河』で米アカデミー賞ノミネートの他、国内外で多数の賞に輝く。1984年『伽耶子のために』で仏ジョルジュ・サンドゥール賞を受賞。90年『死の棘』で力ンヌ国際映画祭グランプリ・カンヌ1990などを受賞。『眠る男』は「眠る男」拓次役に韓国の安聖基、「南の女ティア」役にインドネシアのクリスティン・ハキムという、共に国民的俳優を起用。岩波ホールでロンク・ラン上映。


アニミズムの可能性
〜境界のない生態系的世界〜


人間って、大きいんかい、小さいんかい・・・・・・
                        (映画『眠る男』より)


 小栗康平監督の新作『眠る男』が大きな反響をまき起こしている。『死の棘』が、カンヌ国際映画祭でクランプリを受賞したのが1990年。あれから5年、しかも自らシナリオを書いたオリジナル作品。

 近代映画が誕生して百年。この『眠る男』では、それまでの表現方法を根底から変え、アニミズム的生命観の可能性を追及する全く新しい映像世界を実現させている。そこで、小粟監督に、なぜ、これまでとは違った表現方法をとることになったのか、『眠る男』誕生の背景を聞いてみた。ロードショウは、現在、東京・岩波ホールで上映されているが、連日満員の盛況だ。

自分の感性に近づけて


 月明かりに照らされて、闇に浮かびあがった川の流れ。一瞬、息をのむような美しいファースト・シーン。映画『眠る男』は、こうして始まりますが、暗示に富んだ、とても印象的な幕開きです。『眠る男』は、じんわりと、にじみ出てくるような感動、それでいて、とても強い触発力を秘めた映画でした。森に囲まれた、開発をやや免れた一筋町。そこに佳むさまざまな職業の人たち、知恵遅れのワタル、南の女、オモニもいて、虫や、鹿といった生き物たち、季節の移り変わりを支配する宇宙、地域の個々の暮らしの営みが、植物人間ともいえる「眠る男」拓次を介して、美しく響き合い、交感し合う。近代化が、これまで無理やり抑圧し、否定してきた世界が、この映画では一気に甦えらされ、瑞々しく生き生きと描き出されている感じを受けました。


 これまでの小栗作品は、いずれも原作があって、それに基づいて作られたものでしたが、今回の『眠る男』は、自らシナリオを書かれた初めての作品とうかがいました。その意昧では、小栗監督の現在の心境、思想、哲学などすべてが、まるごと反映する重要な作品になったのではないかと思います。


小栗 僕が一番素直に出ていると思います。「泥の河」、「伽椰子のために」、「死の棘」の1950年代を背景にした三作品は、以前から映画監督になったら撮りたいと、考えていたものでした。今度は、より自分の感受性に近いところで作品を作りたいと思ったんです。オリジナルとなると、どうやって物語が可能なのか、自分の中で問いかけ問いかけ練り上げていく必要がありました。そうやってできたのがこの作品です。


 まず、びっくりさせられたのは、やはり主役の「眠る男」拓次の存在でした。「眠る男」が主役に据えられています。これまでの映画では考えられないような設定ですが、こうしたおもいきった演出をみますと、この作品にかける意気込みに、並々ならぬものを感じます。布団に横たわったまま、セリフは一ロもなく死んでゆきます。正確には、亡くなったあと、森の中で、南の国から来たティアが、「この先はどこへ出ますか」と亡霊の拓治に尋ねると、「森の向こうにまた、村があります」と答えるシーンがあります。主役を拒否する主役といった感じですが、映画評論家の西島雄造氏は、キネマ旬報の小栗監督との対談で、いみじくも゛アンチ・シネマ”と評していましたが、そのあたりのことからうかがわせてください。


小栗 通常の映画ですと、主役に代表される個人が、あるひとつの物語を担って結末へと進みます。いわゆるドラマですが、僕はそういう映画の作り方に、限界と息苦しさを感じていたんだと思います。


 映画の歴史で言えば、映画は紛れもなくヨーロッパ近代から生まれ、ヨーロッパの近代思想を体現する形で社会化しました。そのことは、僕らに人間性、ヒューマニズムというものをもたらしたし、市民社会の成熟もうながしてくれました。その恩恵に浴して今、僕らはあるのですが、同時に、近代がもたらした合理主義、機能主義に縛られていることも確かだと思います。映画も同じなんですよ。


 映画の画面の真ん中に映っているのはいつも人間です。人間の姿を中心に据える、言葉を変えていえば、ヒューマニズムということです。これが映画の原理的出発でした。それまでは、人間の背丈には納まらないものも、自然、信仰、あらゆる魑魅魍魎(ちみもうりょう)を含んだ世界観をもっていたのです。


アニミズムの世界観ですね。


小栗 
ヒューマニズム、つまり人間中心主義は、そうしたものをことごとく壊してくれた。抑圧的なもの、封建性も壊し、我々は白由を得て、地域から地域へ移動することも可能にしてくれました。科学の発達は高度な技術文明をもたらしてくれたのですが、それも、今や極限にきていると思います。


 ところが映画を見ると、相変わらず人間、個人が中心で直線的な物語が進んでいく作りが主流をなしています。僕はどうもそういう映画になじめなくなってきた。わかりやすくいうと、セリフが多い。つまり、言葉のやりとりがストーリーを作り、主役はどんどん浮き立っていきます。そういった映画の表現の仕方、手法に、違和感を感じるようになっていたんです。