みのりのある日々

ニホンにいながら国境を越える場所

深田みのり(日本語教師)


先生の初体験は?


 その日、2時間目はいつものとおり漢字の授業。「『体験』という言葉は、どんな時に使いますか」

 「体験入学!」「NOVA!」「アイ・ハプ・アン・アポイントメント!」

う〜む。テレビコマーシャルの伝播力のすごさよ。

「そう、ほかには?」


しばし沈黙。

「初体験という使い方があります。初経験とは言わない。たとえば?」

「デートの初体験!」

みんなニヤニヤ、目がクリクリ。言葉をもち出した私の思うツボなのだが、ここでなぜか私は赤くなる。


「先生の初体験は?」
キャーと、喜ぶ声があがる。
「はい、私のデートの初体験は・・・」どんどん顔に血が上がる。この上昇気流は一度始まると止められない。

「先生、どうして顔が赤いになりますか」と、韓国の女学生Jさん。


「『赤いになりますか』じゃなくて『赤くなりましたか』。えーっと、高校二年の時でした・・・」

「先生、本当は言いたくないんじゃないか」と、同じく韓国の男子学生H君。
「いや、そんなことはありません。むしろ言いたい。赤くなるのは私のくせです」


教えながら教えられている


 日本語教師を始めて4年。狼狽するとすぐ赤面する。人の話を聞きながら空想の世界にしばしばトリップする。こんな私が日本語教師をやるのは大罪ではなかろうか。それを自認しながら、平気でいるほどワルではない。反省ばかりの毎日に耐え続けられるほど辛抱強いわけでもない。向かない条件を数多くもちながらも、うちひしがれずにこの仕事を続けられるのはなぜかと問えば、それはきっと私が「人間を好き」だということだ。

 日本語学校はさまざまな人間の宝庫である。狭い日本にいながらにして国境を越えられる。大人の思考と未完成な言語というアンバランスな状態である彼らの表現は、荒削りで、単刀直入で、なま温かい。学生たちは、日本人のサンプルである教師たちを温かく鋭い目でよく見ている。

 教え始めて間もない頃、「先生の日本語はヘンです」と言われ、落ち込んで家路についた。「先生の授業おもしろいけど、たくさんです」と言われた日、私は10準備してきたことを10教えようとしていた。受け取る側の許容量も考えずに。目を見開いてしゃべる私に、
「先生、目をしめて」と言った学生には、訂正を忘れて拍手した。


 「先生はふつうの日本人と違います」 これを学生に言われたらほめ言葉と思っていいというのは、教務室にいた教師たちの一致した意見だ。教師は教えながら教えられている。

(地球人通信1996.7)