私の青春時代
着物は縫いなおしながらいつまでも着たんだよ


保坂キクさん(91)

明治38年東京生まれ。高井戸村(杉並区)から21歳で、中野の名主・保坂家へ嫁ぐ。第二次世界大戦で夫を失い、土地を売り切りし、外に働きに出ながら女手ひとつで子どもたちを育てあげる。息子、孫と同居。趣味は散歩、好物はまぐろの寿司。



お腰からズロースへ


 娘時代の格好? 髪は丸く結って・・・・、化粧はしないねえ。顔洗うのに洗い粉は使いました。よろずや(雑貨店)に置いてあったの。あたしの母親は、かね(お歯黒)してましたよ。近所で不幸なんかあって、かねが落ちていると、「あれ、はずかしいよ」なんて言ってつけている。母親は眉も落としていました。


  正月には皆、いい着物を着たね。暮れになると母親が型をもとにして足袋を縫うんだよ。正月に新しいのが履けるように。正月の下駄は薄歯。


  着物を仕立てるときには、長く着られるようにと地味なものを作ったもんです。汚れると洗って張り板にふのりで張って、裏返して縫い直す。そうしていつまでも着たんだよ。火のしっていう、炭を入れて使うアイロンみたいなものもあった。


  下着は、お腰と長襦袢。白木屋(デパート/東京・日本橋)が火事になったとき、女の人が着物のなかが見えるといやだってんで死んじゃった(※当時、ヘリコプターからロープで地上へ救出。野次馬が股間が見えるぞ、と大騒ぎ。それをいやがり、死傷者がでたといわれ、女性の下着革命をもたらした火災として知られる)。それであたしの姉がズロース買いに行ったの。でもズロースっていう言葉が思い出せなくて。「ズルモースくれ」って言って大笑いされたことがあったっけ。ブラジャー? したことないんじゃないかな? 着物から洋服には・・・う〜ん、いつの間になったんだっけねぇ。


夫を見たのは披露宴当日


  子どもの頃の一番の楽しみは秋祭り。祭りには村の頭(かしら)が金を出して御輿を仕立てる。太鼓やお神楽、芝居も出て、賑やかだった。先代萩なんかやったの覚えてるね。


  店が出てね、食べ物は大福や寿司。「ちょいちょいみせ」っていうのがあって、おもちゃやお菓子を売る。


  「はじからはじまでちょ〜い、ちょい」なんていうの。子どもはこづかいもらって出かけるんだよ。娘はいい着物着て出かける。すると、「おや、あそこのなんとかちゃんがあんなにいい娘になって」なんて評判がたつ。それで緑づいたりするんだね。


  うちは名主をしていたの。今も阿佐ヶ谷に実家の長屋門が残っている。区の文化財だっていってね。嫁いだこのうちも名主で、結婚は最初から決まっていた。おじいさん(夫)の顔は、(披露宴)当日、初めて見たんですよ。


  昔の嫁入りしたくはたいへんでしたよ。あたしのときは、たんす2竿、下駄箱、針箱、鏡台に布団が2組。嫁入りのときは、新しい着物を何枚も仕立てるんだよ。羽織や着物用のコート、黒い帯・・・。もう一生作らなくてもいいようにね。このとき、昔あたしを取り上げてくれた産婆さんが、大きな箱に入ったおひなさまをくれました。


  披露はうち(婚家)でやった。男たちが築地まで荷車で仕入れに行ったり、魚屋が仕出しをしたり。


  婚礼のときは、あたしは黒地の振袖、おじいさんは紋付姿。髪は自分の髪で、髪結いさんが結ってくれました。それまで化粧なんてしたことないもの。結婚しても化粧なんてめったにしなかったねぇ。


  売っていた化粧品は、お皿に塗り付けてある紅。これを小指でちょっと取ってつける。それからビン入りのハケで溶いて使う水おしろいで、これも雑貨屋で売っていた。あんまり方々にはなかったね。


  戦後は暮らすのに精一杯で、とんでもない、おしゃれどころじゃありませんでした。ちょっと前まで美容院にも行っていたけど、最近行かない。足が弱くなって、杖から押して歩くやつ(手押しカート兼椅子)にしたらば散歩が楽になった。買ったものも入れられるしね。
聞き手:川又由紀子 (地球人通信1996.
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 キクさんは、お話をうかがったときはお元気そうだったのですが、それから2週間ほど後に、急に体調を崩され、亡くなられました。お通夜の帰り、空を見あげるときれいな満月が出ていました。楽しいお話を聞かせていただき、ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。