雑記帳


湯ノ倉温泉 −栗駒山後記
湯ノ倉温泉は栗駒山の南麓山中に湯煙を上げる一軒宿の温泉だ。林道から高低のある林間の山道を20分ほど歩けば、谷間の眺めが開けて赤い屋根が見えてくる。ランプの宿として名があり、じっさい客室に電気は通っておらず、なにも知らないで来て相当に不満を抱く客もあるようだ。部屋におかれた思い出帳のなかにはそんな記録もいくつかある。これは単なる調査不足か想像力の欠如だろうから同情はしない。ビールやジュースはあるが山の水で冷やしている。冷房は盛夏でも窓さえ開ければ十分だ。テレビの音も明るすぎる光もなく、間が悪いことに泊まりあわせてしまった団体客が飲んで騒ぐのを別にすれば、山の宿らしくよいものである。


建物は滔々と流れる沢縁にわずかに拓かれた平地に建ち、十人は楽に入れる露天風呂がやや川上に造られている。浴槽は流れのすぐ隣なので沢が増水すれば近寄ることも難しいだろう。それだけに山の湯に入っているという気になる。源泉はかなりの熱さだそうだが別に引いた山の水を足されてよい湯加減になっており、谷底からの眺めとあいまって長居をするにちょうどよい。しばらく浸かって火照った身体を引き上げ、縁に腰掛けて山の風に冷ましてはまた浸かる。目の前の斜面には紅葉すればさぞ見事と思える木々の葉群。
上流には小さくも堰堤のようになった滝があって、ここがまだ山の中程なのだということがわかる。時期と時間帯があえば水中に魚影も見えるという。夕刻にはまだ間があるせいか、川面を眺めても動いているのは水ばかりだ。湯冷ましの合間に足先を伸ばして浸けてみれば、とても冷たい。見上げれば先ほどまで雨を降らしていた雲は切れ切れとなって青空ものぞく。つられてアブも飛来し、腕やら背中やら刺していく。これには参った。
湯ノ倉温泉脇に流れる迫川をさかのぼること約3キロで湯浜温泉というのがある。こちらもランプの宿だそうで、同じく栗駒五湯のひとつである。栗駒山山頂から湯浜温泉に出て、そこから山中を湯ノ倉温泉までたどるというコースが昔のガイドにはあるが、この文を書いている現在は途中が崩壊しているなどして歩けず、じっさいにたどってみると崖のようになったところを上り下りしたりと相当の難儀を強いられるらしい。途中でビバークしたひともあったと湯ノ倉温泉のご主人から聞いた。宿の予約時に湯浜コースを下ってくると聞いたら、湯浜温泉の近くを車道が通っているからそちらを歩いてくるようにと案内しているそうだが、従わないひとがたまにいるらしい。


宿から鉄道の駅に出るには一時間ほど歩いて温湯(ぬるゆ)というこれも一軒家の温泉まで出て、本数の少ないバスを待たなくてはならない。暑くならないうちにと朝の宿を早めに出て林道を辿り、停留所に着いてみたものの集落の店が開いているわけでもなく、温湯の日帰り入浴可能時刻までもかなりの間がある。手持ちぶさたなので荷物をおいて開けた谷間など歩いてみようかと車道をぶらついていると、山のほうから自家用車が一台下りてきて横に止まる。「どこまで行くんですか?」と聞かれる相手は昨夜部屋が隣り合わせになった壮年のご夫婦だった。
聞けば住まいが同じ町内だという。泊まりあわせた二組の住所が番地を除いてまったく同じだったのに宿のひとが驚いてこのご夫婦に話されたのだそうだ。こんなことは珍しい、と。お二人はこれから山形に向かい、花笠踊りを見物して明日帰京するという。方向としては鳴子温泉が寄ってもらうに最適の駅と思われたのでそこまで連れて行っていただいた。車内での会話も楽しく、よい山旅の締めくくりとなった。
2002/8/4-5 (2002/9/16 記)

なお、2008年の岩手・宮城内陸地震の際、湯ノ倉温泉の敷地は地震で生成された土砂ダム湖に沈み、建物は流されてしまった。

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