樽前山樽前国道より樽前山

北海道の玄関である千歳空港からバスに乗って広々とした空の下に出ると、正面遠くに隣り合ってゆったりと裾野を延ばす二つの山がある。左の山が樽前山(たるまえさん、たるまいさん)、その右が風不死岳(ふっぷしだけ)で、さらに右には支笏湖が隠れて広がっている。二山とも支笏カルデラ形成後に噴出した火山で、樽前山はもっとも若く、現在も噴煙を上げている。
千歳空港付近からでは見えないが、樽前国道や支笏湖畔からだと樽前山の平板な斜面の上にこの山を特徴づける溶岩ドームを仰ぎ見られる。幅広で平坦な岩塔が同じく平坦な頂上部から覗く姿は異様で、たとえ写真の上であっても一度見ると忘れられない。初めて北海道に足を踏み入れた旅の途上で支笏湖畔から実物を遠望し、以来ぜひ間近で見てみたいものだと思ったものだった。それからだいぶ経ち、連れと共に晩夏の北海道を訪ねる計画を立て、千歳空港から道内に入りレンタカーで支笏湖畔を経てニセコの宿に向かうとした際、ただ移動するだけではもったいないので二百名山にも選ばれているというこの山に立ち寄ってみることにしたのだった。


樽前山にはいくつか登路があるようだが、そのなかでも山頂北北東にある樽前山ヒュッテからのものは七合目からの登りで標高差は400メートルほど、北海道新聞社から発行されている『北海道夏山ガイド』では往復するなら登りが50分に下りが30分、難しいところもなく「道央で最も楽な山」と評価されている。渡道初日に連れと一緒に足慣らしをするには最適だろうと考え、このルートをとるものとした。
ところでやはり北海道は広い。借りた車で千歳市街地を抜け、支笏湖および樽前山に続く道道に入ると樹林の中を延々と行くばかりで、店どころか人家すらない。手持ちでは心許ないので飲料と食料を行路途中で調達しようと思っていたのだが、当てが外れたまま登山口に着いてしまった。淡い期待を抱いて樽前山ヒュッテの玄関先に立ってみると、入口には”飲料水なし”の看板が下がり、なかに入ってみると、どこの別荘かと思えるほど心地よさそうな居間があったが、けっきょく無人だった。
ヒュッテ前駐車場から見上げる樽前山
ヒュッテ前駐車場から見上げる樽前山
ヒュッテ前から山頂部を目指す登路に入ると、ほんの少しの登りで背後が開け、支笏湖を彼方に、その左手に風不死岳、右手には茫々と広がる樹海を見下ろす。砂礫に覆われた広い道にしたがって山腹を回り込むように上がっていけばすぐに木々が絶え、右手の山腹以外は視野を遮るものがなくなる。左手下方に目をやれば、樽前山の裾野が落ち込んでいって人の手の入らない樹林の原野に消えていっている。正面には最初は見えなかった太平洋まで目にはいるようになる。海岸部には苫小牧市街も遠望できる。ほんのわずかしか登っていないのにこれほどの眺望が得られるとは、なんともコストパフォーマンスのよい山歩きだ。
風不死岳と支笏湖
風不死岳と支笏湖、樹海
広々とした眺めを堪能しているうちに山頂部に着く。目の前には黒々とした溶岩ドームが立ちはだかり、足下の噴気孔から盛んに噴煙を上げている。荒涼とした眺めが広がるなか、本日は大気が不安定なのか、何一つ遮るものがないところを容赦なく強風が襲う。真っ直ぐ歩けないほどではないのだが、慣れていない連れがこわがるのでしかたなく先に下ってもらう。自分は一人、すぐ右手に高まる東山に向かう。最高点を持つ溶岩ドームが崩壊の危険を考慮して登山禁止となっているため、樽前山の頂上とされているところだ。なお、このときは火山活動のため火口原への立ち入りも禁止されており、噴気孔に近づくことはできなかった。
外輪山から中央火口丘の山腹越しの溶岩ドーム
外輪山から中央火口丘の山腹越しの溶岩ドーム
樽前山より風不死岳
樽前山より風不死岳
東山に登ると風不死岳が大きく見える。しかし相変わらず目立つのは溶岩ドームだ。形成は1909年のことで、この年の1月から噴火活動が多発していたそうだが、ドーム自体は4月17日夕刻から19日の夕刻にかけて、山頂が雲に覆われていたわずか48時間のあいだにできたのだそうだ。雲が晴れた山頂の上に幅450m、高さ130mもの巨大な突起物が出来ているのを見た当時の人々は相当驚いたことだろう。
山頂外輪山を歩いていくと、ドームに開いた深いV字型の亀裂を正面にするようになる。今にもあちこちが崩れ落ちそうな内部で動くのはゆらめき立ち上る噴煙だけ、まるで燈明の煙のようだ。何かが潜んでいるような気さえして、あの亀裂を越えて内部に入り込もうとすれば無事には帰って来られないのではとすら思える。生命の気配のない神殿、山上に実現したベックリンの『死の島』だ。本来なら芸術が自然を模倣するものだが、ここでは自然が前世紀初頭に亡くなったスイス人画家の画業を模倣したかのようだ。
東山北方からの溶岩ドーム
東山北方からの溶岩ドーム
ときおり左手のドームを眺めては幻想的な気分に浸り、右手の裾野とその先の原野を見下ろし、彼方の支笏湖を見晴るかしては雄大な気分に浸る。足下に続くのは日本庭園の散策路のような踏み跡だ。東山からこちら側のコースに人影は少ない。大概のひとは東山を往復して往路を下るのだろう。眺めがよく静かでじつに楽しい。
だが連れが待っているのでいつまでも遊び呆けてはいられない。山頂外輪山を一周しようと思っていたが時間がかかりそうでもあるし、風不死岳を結ぶコースの途中からヒュッテ前駐車場に戻るルートが早く戻れて、しかも歩いて心地よさそうなので、そちらをたどることにした。
支笏湖、写真中央に左右に走るルートが見える
支笏湖、写真中央に左右に走るルートがある
東山からの外輪山歩きと同様に、この下りも楽しいものだった。舌のように延びて冷えた溶岩の上を歩くと思えば、広大で見晴らしのよい裾野を行きもする。常に支笏湖を俯瞰し、あたりを見回せば夏の名残の草花と初秋の彩りの兆しが混在している。強風さえなければ連れも単調なヒュッテからの往復ではなく、この散策路めいた道のりを楽しめたはずと思うと残念だった。下ってきた山を見上げれば、溶岩ドームは徐々に外輪山の縁に隠れていき、ついには見えなくなった。樹林のなかに入って細い踏み跡をしばらく行けば、連れが待つ駐車場なのだった。
裾野を行く下山路から樽前山を仰ぐ
裾野を行く下山路から樽前山を仰ぐ
2006/8/31

回想の目次に戻る ホームページに戻る


Author:i.inoue
All Rights Reserved by i.inoue