雑記帳


下諏訪の旧街道沿いを歩く
諏訪大社下社秋宮
2011年の夏、久しぶりに霧ヶ峰もいいかなと、旧和田峠に登って鷲ヶ峰、霧ヶ峰と歩くべく、泊まりがけで中信を訪れることにした。初日は下諏訪の町を歩いてみることにし、事前に観光協会のサイトに行って町歩きの地図を入手しておいた。ここは甲州街道と中山道が出会うかつての宿場町であり、諏訪大社下社をかかえ、温泉まで出るのだから、見るところ寄るところはいくらでもあるのだった。


駅前はよくある商店街で、突き当たりの広い道を右手に行くと正面が諏訪大社下社秋宮になる。徐々にゆるやかな登り勾配になっていく途中には古い町並みを感じさせる家もあり、鎌倉時代からの古道も横切る。いまでは黒塀の路地風情に見えるのがそれで、かつての流鏑馬の修練場まで続いていることから馬場(ばっば)道と呼ばれる。現代では、かなたから近づいてくるのは弓をつがえた騎乗武士、ではなく、髪をなびかせた自転車乗りの少女だったりする。
蕎麦屋奥に日本庭園の趣
蕎麦屋奥に日本庭園の趣
軒先の(趣味の)風鈴
立秋三日前
諏訪大社は7年に一度の御柱祭で有名な信濃國一ノ宮で、諏訪湖の南北に二社、四カ所に別れて建つ。下諏訪にあるのは下社で、駅に近い方が秋宮、遠い方が春宮と呼ばれる(上社は本宮と前宮とがあり、行政上は本宮が諏訪市、前宮が茅野市にある)。日本中にある分社の数は一万以上を数えるということで、いわば神社界の雄というところだ。
秋宮の境内に足を踏み入れると、正面の杉の木が鬱蒼とした雰囲気で神域を演出する。その背後に巨大な狛犬を配した神楽殿が建つ。さっそく写真に収めようと一眼レフのファインダーを覗く。これまた巨大な注連縄が目立つ建物は夏の暑さに霞んで文字通り絵のようだ。一枚撮ってカメラを下ろすと、なんということか、狛犬の後にあるのは本当にただの絵で、古建築はすっぽりと建造物修復の特殊なクロスに覆われている。掲げられている案内を見ると、「下社重要文化財修復」として平成21年9月から平成23年9月迄が修復期間にあたっている。なお春宮はすでに修復が終了している。
しかたないので神楽殿は置いておいて、その裏手にある拝殿の前に回る。片拝殿と呼ばれる渡り廊下のように見える建築物を左右に延ばした建物は重厚かつ華麗で長いこと見ていて飽きない。軒から下がる御簾に涼が感じられる。片拝殿の前には御柱が一本ずつ立ち、拝殿奥にまた一本ずつ、合計四本が立つ。木は樅の木で、枝打ちされた部分がごつごつと突き出しており、無骨とも猥雑ともとれる。諏訪大社は本殿のない神社で自然崇拝の名残を伝える神社だという。御柱を見上げていると御柱祭はfestivalではなくriteなのだとあらためて納得する。
下社秋宮拝殿
下社秋宮拝殿
御柱
秋宮一之御柱
簾が涼を呼ぶ
簾が涼を呼ぶ
売店に立ち寄り100円で大社の解説書を購入して読んでみる。いろいろ興味の惹かれることが書かれており、在庫があればぜひ入手して現地で目を通し、知見を新たにして境内を回ってみるのを勧める。たとえば大きさが日本一の狛犬は先の大戦中に供出の憂き目に合い、戦後に同じ作成者によって復元されたのだという。神国日本が神社の狛犬を徴発するとは皮肉なものだ。なお狛犬の作者は八ヶ岳美術館に多数の彫刻作品が収蔵されている清水多嘉示氏である。また、8月1日は早春に春宮に引っ越していた御霊代(みたましろ)を秋宮にお移しするという遷座祭があるという。なるほどそれで春宮、秋宮というのだな。今日は8月5日、おお、わずか4日前のことではないか。


秋宮の境内を出て右手へ、春宮に向かう。車がすれ違うと道路脇を歩いている人間すれすれに走るような古い車道だがじつはこれが甲州街道のフィナーレ近くで、「甲州道中中山道合流の地」碑が建つ三叉路が終点だ。直進すれば中山道の上り、左へ折れれば下りとなる。石碑の奥に湧く「綿の湯」に目をやる。飲泉所のようなところからさかんに吹き出す湯がバレーボールより少々小さめくらいの丸石をかるがると持ち上げ回転させている。
春宮へは直進する。すぐ先には下諏訪宿本陣跡の岩波家が門を開いており、夏草が彩る玄関前から建物内に入る。だいぶ取り壊されたりして建物自体に昔日の面影はほとんどなくなっているらしい。なにせ玄関自体が削り取られたように後退している。しかし庭園は中山道随一という評価に恥じず端正で美しい(すぐ隣の平凡な建物の壁が鑑賞上目障りだが、そちらに目をやらなければ問題ない)。下社秋宮近くとはいえ町中にあるとは思えない趣の庭で、夏の暑さを忘れさせてくれる。縁側に座り込み、呆けて眺める。木々に綿帽子をかぶせた雪景色もきっときれいだろう・・・。
本陣岩波家庭園
本陣岩波家庭園
部屋は畳が歪み、壁紙が剥がれ、寂びといえば聞こえがいいが、栄華が過去のものだということははっきりわかる。とはいえその栄華を伝えるものはなかなか面白い。本陣に泊まった公家が宿代の代わりに書いた文書(和歌?)などというのは体のいい踏み倒しだ。関札なる板は泊まっている大名の名を掲げたものだそうだが、つまりは格式をアピールするものだったのだろう。現代でも旅館の玄関先で"××様歓迎"とかを見るが、その元はきっとこれに違いない。とすると予約していけば大名扱いということか。
本陣を出て、さらに中山道を上る。右手に日帰り温泉の児湯を見送り、いったん坂を下る。十字路に出て正面の細い通りに入ると、そこは地元ガイドにあるとおり「旅籠風の街並みが残る宿場街」そのものだった。品のよい格子の張られた窓、張り出した手すりの二階、軒先に目隠しで張り出された簾。無料の足湯を提供する店もあれば、温泉銭湯もある。見上げれば宙に差し出された宿の看板さえ古めかしい。真夏の昼下がりだというのに暖かさを感じさせる光景だ。
宿場町の面影を伝える旅館街
宿場町の面影を伝える旅館街
その先は住宅街のような通りになる。広いもののうっかりしていると見過ごしてしまいそうなのが、右手脇に出てくる御作田神社だ。小振りの社だが、車道に面した石垣が驚くことに六角形である。素直に長方形の石を積まなかったところに往時の石工の誇りを感じる(ただの自己顕示欲かもしれないが)。境内に入ってみると左手に3畳ほどの田圃があり、青々とした稲が植わっている。これは神田だそうで、6月30日に田植えをして8月1日に刈り取るのだという。わずか1ヶ月で収穫する米ということで、下社七不思議の一つだそうだ。しかし見た限り穂が出てないのがたくさんあった。4日前に刈り取れるものがあったかどうかは不明だ。
御作田神社、六角形の石垣の上に神田の稲が透かし見える
作田神社
六角形の石垣の上に神田の稲が透かし見える
あいかわらず静かな旧街道を行くと、左手に昔の商家風の建物が品のよい黒さを見せている。伏見屋の看板が下がっており、木戸を潜ってみると確かに商家跡で、なかにいたボランティアの説明員のかたによれば住んでいた人が立ち退くにあたり下諏訪町が建物を譲り受けて補修し無料公開しているのだという。さきほどの本陣と異なり、見るべき庭などないが、なによりも畳がキレイで香りがすがすがしく、大黒柱も垂木も現在入手不可能な太さなのを眺めるだけで愉しい。開け放した屋内を涼しい風が吹き抜けていく。プライバシーの問題はあるが、日本家屋はまさに夏を過ごすにはよい構造をしているとつくづく思う。無料のお茶をいただきながら腰を下ろして一息つくにはちょうどよい場所だった。
中山道を春宮へと上る
中山道を春宮へと上る
山腹斜面にあたる高台を通っていた中山道は諏訪大社下社春宮近くになって急に下り出す。下り始めは遠くに諏訪湖の湖面を見渡す好展望地で、下社秋宮も遠望できる。夏雲も高い。下った先の突き当たりを右に折れると、その先に春宮が鎮座している。
春宮近くの坂の上から諏訪湖を遠望する
春宮近くの坂の上から諏訪湖方面を遠望する
右の山は守屋山
春宮は秋宮に比べて観光地色が薄い。とくに駐車場の有無が差を呼んでいるようだ。敷地もどちらかというと春宮のほうが狭い気がする。しかし同じ設計書をもとに違う宮大工に競わせて造営させたという建物は秋宮同様に見応えがある。神楽殿は修理が終わったためか覆いもなく公開されていたが、秋宮で見た覆い上の写真が重々しかったので、ここ春宮で見るものがどことなく簡素な造りに見えた。しかし秋宮で見られなかった実物の注連縄を目にできたのは収穫だった。
神楽殿の後に建つ拝殿は片拝殿とともに秋宮と同様の造りだったが、軒先を彩る金箔が秋宮より目立ち、軽やかな感じを受ける。御簾が下がっているのは秋宮と同じで、涼を呼ぶ演出は変わりない。四隅に立つ御柱の無骨さも同様だ。人の出入りが少ない分、落ち着いて見て回ることができる。どうも諏訪大社を見に来る人はどれか一社、おそらくは下諏訪であれば秋宮だけみて良しとするらしい。たしかに同じような建物であり配置なので二つの宮を見て回ることはないと思うのだろう。とはいえ立地の雰囲気など微妙なところは異なるので、見比べてみるのがよいのではと思う。
下社春宮神楽殿
下社春宮神楽殿
下社春宮拝殿の軒先の龍
下社春宮拝殿の軒先の龍
涼しげな簾
拝殿の簾
下社春宮拝殿
下社春宮拝殿
春宮の境内を出ようとすると、正面に伸びる車道の彼方真ん中に妙な建造物があるのが見える。先に入手した諏訪大社の解説書によると"太鼓橋"なるもので、そこから先は神域であり、どんな大名も駕籠や馬から下りたという。いまでは平気に車が脇を走る(まさか下りて押せとも言えなかろうが)。


境内から右手に細道をたどっても、車道を右に曲がっても、砥川という流れのほとりに出る。川遊びをする子供らの声がさかんに響く中、流れの中にある島を経由して対岸に渡り、上流へほんの少し歩く。近世までの日本の石仏は数あれど、奇抜さでは文字通り頭抜けた存在、万治の石仏がそこに佇んでいる。
自分の目で見るまでは道ばたにあるものと思っていた。街道から離れた場所にあるのは元々露出していた自然石に胴体部分を彫り、その上に頭を載せたからだろう。胴体は磨崖仏、頭は石仏、つまり二次元と三次元の混合で、目をそらすと全体像のイメージがあいまいで、自分のなかになかなか定着しない。実物を見る前に何度も写真を見て固定観念ができてしまっているのもあるのか、うまく自分の認識に収まらない。

万治の石仏
石仏にまして奇妙なのが先に到着していた家族連れの振る舞いだった。皆して神妙な面持ちで仏のまわりを黙々と回っている。小中学生の兄妹も真面目に回っている。そういう教団の宗徒なのかと思ったものだが、この石仏にはお参りの作法があり、川のほとり近くに立つ標識に書かれた内容の通りに実践しているだけなのだった。
家族連れが去って自分一人だけになり、同じようにやってみた。まず"正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる"。ついで"石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する"。最後に、"正面に戻り、「よろずおさめました」と唱えてから一礼する"。意外と奥行きのある石仏は三回も回ると心で唱える時間はだいぶある。雑念が入りそうなのをこらえて回りきるのは少々集中力が必要で、神妙な面持ちにもなろうというものである。なので最後の文言も心中でのみ唱えて口に出さないで来てしまった。ひょっとしたら願いは届かなかったかもしれない。


あいかわらずうまく意識におさまらない石仏の姿に後ろ髪を引かれつつ、もと来た道を戻る。"太鼓橋"の近くに出ると、暗渠にはなっているが今でも橋の下を流れが通っていることに気づく。その流れに沿って住宅街のなかの通りを歩いていく。先ほど立ち寄った商家跡の伏見屋の脇で中山道に戻り、宿場町風情の旅館街に出た。少し先の日帰り入浴施設で風呂に入るつもりだったが、歩きづめで腰を下ろすというのをしていなかったので、いったん旅館街の足湯で休憩することにした。
諏訪宿の佇まい。突き当たりを左に行けば中山道の上り、右に行けば甲州街道の上り。

鐵(かね)鉱泉旅館脇の足湯(温い)
脚を湯にひたして持参の扇子で扇ぎながら道行く人を眺める。平日の午後だからか観光客風情の人は少なく、タオルを入れた洗面器を抱えた地元のお年寄りらしきや旅館に出入りする業者が目につくくらいだ。法事でもあったのか、黒装束の家族親類が秋宮方面から三々五々やってくる。小学生くらいの女の子が足湯に浸かる自分を見て「いいなぁー」と言いながら去っていく。すでに3時をまわっているが、町中はまだ暑い。
日帰り入浴施設の一つ「児湯」の熱い湯で汗を流した後、甲州街道との出会いを直角に曲がって中山道を下っていく。古い面影を残す宿が建ち並び、そこここに水飲み場のようにして湯が出ている。下諏訪は井戸水というものがみな湯になってしまうらしい。出ているのは手を浸けると熱い。夏でも熱いのだから冬など相当熱く感じることだろう。

そこここで流れ出ている温泉(熱い)
この日は下界に泊まって、明日は霧ヶ峰を歩こうと思っていたが、家から帽子を持ってくるのを忘れていた。時計博物館である儀象堂の前で衣料品店が目に留まり、麦わら帽子でもないかと入ってみた。奥から出てきたお年寄りの店主に尋ねてみると、女性用のものしかない。値段を見ると800円なのでまぁよいかと買い求めることにする。
ふと見ると豆絞り柄の日本手ぬぐいが山積みされている。値段を訊くと安い。自分用に3本買ってしまう。店主の奥様も出てこられて、二人して帽子と手ぬぐいの包装に取り組んでいる。いや自分用なのでそのままでよいですと言っても、売り物をぞんざいに渡すわけにはいかないと包装してくれる(麦わら帽子は手持ちでよかったのだがポリエチレンの袋に入れてくれた。その後、帰京するまでに雨に降られたので、この袋を用意しておいてくれたことに感謝することになった)。よくあるコンビニの機械的対応とは大違いだ。お二人とも80歳を超えているそうで、「問屋さんと仲がいいので悪い品ははいってこないんですよ」と奥様が言われていた。


今回の下諏訪はほぼ中山道に沿って見て回った。この町は宿場町として栄えたのちは、精密機械の町としても栄え、参集した人々を相手に商業が発達した町でもある。次に訪れる折りには、今回立ち寄らなかった場所を歩き、下諏訪の違う貌も見てみたいものだ。そして最後に立ち寄った衣料品店に行って、また手ぬぐいを買って帰るだろうと思う。どこでも売っていそうな手ぬぐいだが、同じものでも買いたい店とそうでない店とがあるものだ。
2011/08/05 (2011/08/14記)

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