雑記帳


山の怪奇
「山で泊まるって、無人の山小屋に泊まることもあるんですか」と訊かれたことがある。あるよ、と答えると、「私にはとても....幽霊が怖くて泊まれないです」との返事。


確かに下界同様に山でも怪奇譚の話題は事欠かない。パターンとしては次のようなものがすぐ思い浮かぶ。
・山道で思い詰めたような単独行の登山者にすれ違う。気になって振り返ると、身を隠すようなところはないのに、登山者は視界から消えている。

・テントまたは無人の山小屋で寝ていたら、近づいてくる単数または複数の足音がして目の前で止まる(またはテント/山小屋のまわりを歩き続ける)。顔を出してみてもあたりには誰もいない。冬山の場合では、テント/山小屋のまわりに足跡もない。

・かなり山深い地点で夕暮れ時とかに渡渉を始めようというとき、対岸の暗い林の中をランプの明かりが近づいてくる。先に渡渉させようとして待っているとふとランプが消え、いつまでたっても沢岸に出てこない。先にこちらが渡渉してみると、山道は分岐しておらず、あのランプの主はいったいどこに行ったのかわからない。

・長い長い下山路を一人で辿っていると、先に人が歩いているのが見える。寂しさが解消されてほっとするが、いつまでたっても追いつかない。しかもこちらが休むと向こうも休む。こちらが歩き始めると向こうも歩き始める。ぞっとして下ばかり見て歩いていくと、人が近づいてくる。思わず顔を上げると普通の登山者で、曰く、「一本道のこの道を登ってきたが、誰にもすれ違っていない」。

・夕暮れを過ぎて無人と思えた山小屋に入ると、真っ暗な中に無言の一団が車座になって座っている。不気味な感じがするが疲れているので早々に寝てしまう。朝起きてみると、昨夜から自分以外の人がいた形跡がない。

・吹雪の稜線を小屋目指してパーティーが進む。最後尾を固めるリーダーが雪煙の合間に見えるパーティーの人数を数えてみると、.一人多い。単独行者が混じったのか、と思いながらそのまま小屋に着いてみると、その一人が消えている。

....ほかにもいろいろあるが、切りがないのでやめておこう。
こんな話題を出してきて幽霊でも信じているのかと言われそうなので、私はこの手の経験はしたことがないし、直接聞いたこともなく、メディアを通じて目や耳にする体験談そのものも怪奇譚としては信じていないことを断っておかなくてならない。少なくともいわゆる「かつて生きていた者の魂」としての幽霊は信じていない。信じていたら、無人小屋に一人で泊まるなんてとてもできないだろう。でも夜中の墓地を平気で歩けるかというと、それはまた別問題。


いわゆる「幽霊」現象というのは、山の中だろうと町中だろうと、もし存在するとしてもいわゆる「テープレコーディング現象」なのだろうと思う。つまり何らかのエネルギーがその場に記録され(いわゆる「地縛霊」の生成)、この記録の再生スイッチを入れることが出来る人が近づいたときに、直接人の心に働きかけるような形の「再生」が行われる、といった考えだ(だから「幽霊」は見えない人には見えない)。類似の説明がジョン&アン・スペンサー(金子浩 訳)「世界の謎と不思議百科」(扶桑社ノンフィクション文庫)にも見られる。

この考えで行くと、いわゆる「幽霊」はただ過去を繰り返しているだけの一種物理的な存在、ということになる。「浮遊霊」というものがあるにしても、この考え方の延長で説明が付けられるような気がしている。「幽霊」の「成仏」とは、要するに記録の「消去」ということになるのだろう。


いろいろ言ってきたが、実は山道を歩いていて一番怖いのは、北海道ならヒグマだろうが、たいがいはやはり生身の人間である。たとえ夜でも幽霊が出てくるより(悪意のある)人間が出てくる方を恐れる。一人で山を歩く機会が多い身としては、ひとけのない山道で人とすれ違う場合、けっこう緊張している自分に気付くときもある。こういうのは町中と変わらない。山道でデポしていたザックを荒らされたとか、登り口に停めておいた車の窓ガラスを割られて車上荒らしに遭ったとか、平気で高山植物を根こそぎ堀り取っていく人が増えているという話を聞くにつれ、こういう自分本位の人たちの存在こそ、理解しがたいという意味でまさに「怪奇」だと思う。
1998/10/28 記

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