黒滝山鷹巣岩黒滝山

西上州にある黒滝山(くろたきさん)だが、その名を冠したピークはない。これはこのあたりの山域を総称しての呼称である。中心に存在する不動寺のまわりには岩壁・岩峰が屹立し、そこまで車道が通じているので山歩きをする人ばかりでなく一般の観光客もよく訪れている。この寺はいわゆる地域のカルチャー教室にも似た活動の拠点ともなっていて、前向きな雰囲気と親しみが感じられる。今回は南から稜線に上がり、奇景の九十九谷を眺めつつ鷹巣岩・観音岩と頂を踏んでスリリングな馬の背を歩き、不動寺に出て車道をバス停に下っていくコースとした。短いながらも変化のある、とても楽しい山だった。


南牧川を離れて車道を上がり、大屋山への道から離れて右に行くと、朝日を浴びて白く輝く岩峰が見えてくる。これが黒滝山鷹巣岩で、その下に広がる山村はまだ山の影のなかにある。そんな家々の合間を縫って付けられた山道に入り、植林のなかを抜け、登れば楽しそうなスラブを見上げて稜線に出れば、すぐ近くが鷹巣岩の頂なのだった。
絶壁の上なので見下ろせばすぐそこに家が並んでいる。その谷筋を挟んで向かい合う山並みは毛無岩から荒船山に続く稜線で、雑木林はすっかり冬枯れしているものの、ようやく高くなった日がまんべんなく光を当てているものだから、茶色の山肌はわりと暖かそうに見えた。鷹巣岩のピークは脇道に入るような場所のため訪れる人も少ないようで、狭いものの明るい山頂に腰を下ろして昼前の日差しをゆっくり楽しめる。
鷹巣岩から麓の集落を見下ろす
鷹巣岩から麓を見下ろす 右の山は「ひとぼし山」
鷹巣岩から観音岩に至る尾根筋の左手下には「九十九谷」がひっそりと隠れている。垂直に落ちた岩壁から折れそうに薄い岩襞が縦に何枚も出て、岩の灰色と影の黒とで憂鬱なコントラストを成している。まるで椎茸のヒダのようだ。似たような地形で土のものなら四国は徳島で「土柱」というものを見たことがあるが、おそらく成因は同じようなものだろう。岩肌は手がかり足がかりに乏しそうで、ボルトのあともほとんど見られず、クライマーに登られていないルートもかなり多いと思える。
黒滝山域の最高点である観音岩に立つと正面に鹿岳(かなだけ)四ツ又山が並んで大きい。その左手わりと近くには、ぎざぎざの妙義山の稜線が左右に広がっている。振り返ると山々のなかに小ぶりだが端正な三角錐のペアが浮かび上がっている。碧岩(みどりいわ)と大岩だ。
観音岩から鹿岳(左)と四ツ又山
観音岩から鹿岳(左)と四ツ又山
観音岩から大岩・碧岩
観音岩より大岩・碧岩(より尖っているほうが碧岩)
中央奧は茂来山、右は広小屋山、手前は大屋山の稜線
 
岩の基部で昼食休憩していると後から高年の団体がやってきた。かなりハイになっている。やかましい団体だなぁと思いつつ食事を済ませ、山頂を後にした。ここから黒滝山不動寺まではすぐだが、途中の「馬の背」という場所は看板に偽りありで馬の背のようには幅広でなく、”蟻の刃渡り”と言うべき狭隘な岩稜歩きである。短いとはいえ垂直の岩壁は梯子がかかっていなければどうなるものかと思えるし、左右が切り立った幅一メートル前後の稜線を数十メートルに渡って歩くところは、岩に埋め込まれるように設置された手摺りがなければ間違いなく何人かは落ちるだろう。手摺りや梯子なしでこの山道をたどっていたころは文字通り命がけだったのに違いない。さきほどの高年者たちの団体はここを通ってきた直後だったわけで、興奮していたのも無理ないことだろう。
危険な岩稜歩きから解放されると、不動寺は拍子抜けするほどすぐだった。黄色い作務衣を来た娘さんがひとりで受付を切り盛りし、その合間をぬって冷やかしだけのハイカーにあいさつしてくれる。ここは予約すれば宿泊もできるし、中華風の精進料理というべき普茶料理を食べることもできる(ただし四人前で、とのことだ)。今回は境内を歩き回り、周囲の絶壁にかかる紅葉の名残を賞するだけである。
鹿岳を背景に不動寺(下中央)
「馬の背」から鹿岳を背に不動寺(下中)
寺に来る人も山に登る人も車で来て寺の駐車場に停めている。歩いて下るのはわたしくらいのものだ。車道の傾斜が緩むと、谷が広がり、のどかな山村が現れる。車の通りは少なくはないが、ここもまた歩いて苦痛ではない。昨日通った鹿岳の麓の車道に合わさり、そのまま南牧川の畔に出る。もう一時間強ほど車道歩きをしていて足裏が疲れもしているし、今日は帰宅するのでこのままバスに乗って下仁田の駅に出てもいいのだが、時刻表を見ると待ち合わせが一時間半もある。それならばと川縁の静かなほうを歩いていくことにした。


眺めがよく辺りに民家がないところで荷を下ろし、山頂から下ってきて初めて休憩をとった。宿でもらった蜜柑をむいて食べる。甘くておししい。再び歩き出すとすぐ、一輪車に白菜を積んでやってくる品のよさそうな高齢の女性に出会った。こんにちは、と挨拶を交わす。「今日はどちらの山に行かれたのですか?」「黒滝山に行ってきました」「おやおや、わたしも黒滝山に行っていたのですよ」。
お話を伺うと、このかたは地域の文化的な活動をさかんにされていらっしゃるようで、「お寺で新しい竹の柵をごらんになったでしょう?あれは不動寺で催されている俳句の会でこしらえたものなんですよ。わたしもその会に入ってまして、ときおり名のある方にいらしていただいてお話を伺ったりもしているんです」。弾む話の中で訊かれた。「南牧村の山はお好きですか」。「ええ、好きです。また何度も来ます」。
にっこりと笑顔でおわかれし、ほんの少し歩くと後ろから車が徐行してきて横に並び、空いている窓から「乗りませんかー」の合唱が。覗き込むと、若い女性が運転する隣に小さな子供が二人。さきほど高齢の婦人と立ち話をしているあいだ、すこし離れたところで停まって待っていてくれた車だった。たぶん一輪車を押していた女性と話をして、わたしが駅まで長い距離を歩くことを聞き、乗せていってくれる気になったのだろう。
ありがたく乗り込むと後部座席にはおばあさんがふたり。これから町中に出て、その先の日帰り温泉施設まで行くという。「下仁田まで歩くつもりだって聞いたけど、あたしも前は家からよく歩いて行ったねぇ」「なにあんた、そんな距離を歩いたんかい」「そりゃ運動になるからねぇ」「家ってどちらにあるんですか」「お兄さんが(この車に)乗った辺りだよ」。そりゃたしかに距離がある。南牧村のおばあちゃんたちはみな元気だねぇ。
西上州、いや南牧村は、山もよければ人もよい。懐かしさと安らぎをもらいに、また来よう。
2001/11/25

回想の目次に戻る ホームページに戻る


Author:i.inoue
All Rights Reserved by i.inoue