雑記帳


寂寥感を楽しむ
一人で山を歩いていると、特にひと気のない山域では「自分一人しかいない」ということを鳥肌の立つほど感じることがある。暗くて先が見えない樹林帯よりは、明るく開けた場所で特に強い。里近くを感じさせるエンジン音が聞かれず、風がたてる木々の葉擦れの音も沢のせせらぎの音もなく、ただ空気が固まっているのが感じられるだけなら完璧だ。時が止まっているというのはこういう感覚を言うのだろう。遠くまで見通せる道筋に誰も歩いていないというのは、「この先の角を曲がれば誰かに出会える」といった意識下の期待が持てないということだ。未来を先まで見通せるというのは殺伐とした感じを抱かせる。


山道ではないが、かなり前に行った五月初旬の北海道は川原湯温泉近くでこんな経験をした。斜里岳登山に失敗して温泉近くの宿に戻った私は、手持ちぶさたもあってひとりで夕方ごろ近くの硫黄山(アトサヌプリ)前の自然観察路を散策しに出かけた。ひととおり歩いて往路を戻ろうとすると、散策路の途中から林道が脇に別れているのをみつける。道の方向は宿の方に向いているようだ。地図もないのに思いつきだけでその林道に入る。冬場の乾燥した土の道に、左右にはまだ冬枯れしたままの灰色の木々。林は夕暮れ近い光を浴びて薄墨色の影を作っているが、風が全くないので少しも動きがなく、しかも歩いても歩いても同じ光景が続く。

長い林道を行けども行けども、乾いた地面を踏みしめる自分の足音だけがいつまでも聞こえるだけだ。それ以外に音はない。鳥の鳴き声もない。空気はまるで林の中で固まっているようだ。暗くなってきたせいか、次第に遠近感が失われ、枝の影と枝と枝の合間の闇とが区別できなくなっている。先を見ても同じような冬枯れの木々の列がどこまでも左右に並んでいて、いつ終わるのかわからない。道の奧からは誰も来ない。時間の感覚がなくなっていて、どれだけ歩いたのかもわからない。頭の芯がしびれるようだ。戻った方がいいかもしれない。振り返ってみると、見えたのは進もうとしている方向と同じ光景だった。林道と左右の冬枯れした林が続いているだけ。自分が曲がった分岐はもう見えない。

これにはぞっとした。自分は終わりのない道に踏み込んでしまったのだろうか。このまま進んで大丈夫だろうか.....「前に逃げる」という形容がふさわしいようになおも歩き続けると、やっと別な林道への分岐が現れた。自分の心変わりを恐れて慌てて道を曲がる。すぐに硫黄山裏手の開けた道に出た。助かった。ここは昨日通った道だ。宿への帰り道はこれで安心だ。


「今日のこの山は自分だけの貸し切りだ」と喜べるときは、必ず「何かあっても誰も助けてくれない」という不安がつきまとう。「できれば自分一人だけの山であってほしい」という期待は、「誰か来ればいいのだが」というわがままな不満とそれとなくせめぎ合っている。こういう感覚を体験している単独行者は、自分が少々へそまがりであることを認めなくてはならないだろう。その筆頭が私になったとしても別段構わない。なぜならこのへそまがりの感覚も山の中であわせて楽しんでいるからだ。「つきあっていられない」と言われるのは重々承知の上で。
1998/12/04 記 

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