雑記帳


台ヶ原宿へ酒を呑みに
使用期限が目前に迫った青春18きっぷの使い道を考えるうちに、山にこだわらず連れと遠出をすることにした。スケジュールが合わないので日帰りとし、そこそこ遠いところを考えるうちに何度か訪れてはいるものの最近は無沙汰な台ヶ原宿近辺に歩きに行くことにした。参考にしたのはJR東日本が駅で無料配布している2008年版「甲州古道ウォーキング 相模湖駅〜信濃境駅」というもののの最終ページにある”韮崎駅〜信濃境駅”だ。ガイドでは韮崎駅から下教来石行きバスで台ヶ原下バス停まで行き、ここから台ヶ原宿、教来石宿、蔦木宿と経て信濃境駅に出るように書かれている。
ガイドでは歩くだけなら4時間程度らしいが、日差しの強い中を舗装道ばかり延々と歩くことになりそうなので全行程踏破は最初から目的とせず、台ヶ原宿から徒歩2時間くらいの場所にあるサントリー白州蒸留所まで歩いてそこからバスかタクシーで小淵沢駅に出ることにした。最初の目的地である台ヶ原宿は旧甲州街道の宿場町。国道20号が宿場町の外側を通るおかげで昔日の面影を残す家並みが残り、町中を貫く通りが日本の道百選に名を連ねるまでになっている。ここには酒蔵の七賢があり、車の運転さえしなければ試飲を愉しめるのだが、何回か訪れたもののその都度車だったのでまるで飲めなかった。今回は公共交通機関で行くし、歩く時間も短い計画にしたし、これで気兼ねなく酒を口にできるというものである。


立川発甲府行きを終点で松本行きに乗り継ぎ、韮崎に着いたのは9時過ぎだった。20分程前に台ヶ原方面に向かうバスが出てしまっており、次は10時15分。別段急ぐ旅ではないので駅に併設のコーヒーショップで休憩したりして時間をつぶす。時刻通りに来たバスは10人ほどの客を乗せて駅前を出る。中高年の何人かはハイカーの格好をしているものの山を歩く風ではなく、街道歩きをする人たちなのかもしれない。韮崎市街地を抜けたところで車道の脇を列になって歩くハイカーの一団を目にもした。こちらも同様の風情で、同じく街道歩きが目的なのだろう。
車窓右手に七里岩の崖、左手に高度を落とした南アルプス北部の山を仰ぎ、左右に色づきだした田を眺め渡しながらバスに揺られていく。下車予定地はガイドの通り台ヶ原下のつもりだったが、その手前の花水坂という停留所で降りて歩き出した。さらにその手前の下三吹、上三吹という家並みがまた旧街道らしいもので好ましく、ついつい下車ボタンを押してしまったのだったが、花水坂は人家が途切れた外れで国道20号脇の停留所でしかない。下りるのをやめようかと思った矢先、車窓から「甲州街道古道入口」という表面のきれいな石標が目に入った。これで迷いが吹っ切れた。
甲州街道古道入口の石標
甲州街道古道入口の石標
甲州街道古道より日向山と雁河原を仰ぎ見る
甲州街道古道より日向山と雁河原を仰ぎ見る
バス停からやや戻り気味の場所から多少の草が茂る未舗装の道が始まる。傍らには導水路に澄んだ水が流れ心地よい。道ばたには中身が入った栗のイガが落ちており、天然物の栗には目がない連れが喜んでつまみ上げる。田圃の脇を行く道筋になると、左手には足下遙か下に尾白川が岩に砕けてしぶきをあげ、その上空には鞍掛山が残暑の空気に霞んでいる。歩くにつれ日向山の肩にある雁河原が真っ白な山肌を目立たせてくる。腹を赤くしたトンボが舞い飛び、湿度が低く快適な風が稲穂を揺らす。連れと二人、ひさびさの里歩きに嬉しくなりながら歩いていく。


未舗装の道は15分ほどで終わってしまい、生活道となった道を行く。さらに5分ほどで国道20号にぶつかって横切ればそこが台ヶ原宿だ。瓦を葺いた土塀や商家の名残らしき店構えの家があるがままにある。国道の裏なので車の往来が少なく静かだ。清春芸術村に通じる車道を渡り、右手に本陣跡、左手に脇本陣跡を過ぎると、酒蔵の七賢はすぐそこだ。
台ヶ原宿にて
台ヶ原宿にて
台ヶ原宿にて
建物中央部には軽自動車が通れるのではと思えるほど広い通路が通っている。土曜とはいえ午前中のせいか観光客はおらず余計に広さが際だつ。入口すぐ左手の座敷には屏風が立て回され、奥には古びた神棚が鴨居の上から見下ろしている。梁は当然のように太い。右手には何年も前に来たときと違って試飲コーナーがかなりきれいな、明るい作りになっている。床に鉄路のようなものが埋め込まれているのはトロッコのようなものを使っていた時代があったということだろうか。敷地の一角では仕込み水が湧き水のように迸り、農産物直売コーナーのようなところにカボチャが並んでいる。裏手にまで回り込んでみると、小さなワサビ畑の裏で飼い犬が横になって寝息を立てていた。
七賢の暖簾をくぐったところ
七賢の暖簾をくぐったところ
さて試飲だ。仕込んでいる酒が15mlないし60ml単位で飲めるようになっている。ただし有料で、15mlでは酒により30円から90円と差がある。きき酒表なるものが用意されており、「フルーティな薫り高いタイプ」「爽やかすっきりタイプ」などの大きな分類の下、酒ごとに「トロリとした爽やかさのある香り高いお酒」「香りがあり、爽やかさのあるお酒」などと説明が書かれている。連れと二人して15mlのものをいくつか飲み、連れは来日した知人へのお土産用に、自分は自宅用にと気に入ったのを購入した。
利き酒の始まり。グラスは15ml用。
利き酒の始まり。グラスは15ml用。
応対してくれた担当のかたによると、試飲コーナーがきれいになったのは5,6年前とのことだった。2月には蔵の公開が一週間ほどの期間で行われ、そのときしか飲めない酒も振る舞われるという。ぜひその機会に再訪したいと思う。


すでに午もまわり、酒蔵を訪れる客も増えてきた。空腹にもなったので二軒となりにある七賢経営のレストラン「臺罠(だいみん)」に向かう。外装も内装も洒落たものだ。一階は喫茶、二階は食事どころになっており、二階に上がってとろろ定食と野菜の天ぷらを頼む。最初にテーブルに置かれる水は瓶で出され、ラベルに「七賢の仕込み水」と書いてある。出された食事は食材と水がよいうえに味付けが上品でとても美味しい。台ヶ原宿には食事をする場所がここと喫茶店くらいしかないせいか、次々と客が来る。それでも落ち着いて食事ができるのは首都圏の店とは異なりテーブルがゆったりと配置されているせいだろう。
身体が重くなったところで店を出て、休憩かたがた和菓子屋の軒先を眺めたり、雑貨屋で手ぬぐいや和モノをリフォームした衣料などを冷やかしたりしていると時間はすぐに経ってしまう。再び真面目に歩き出す頃には時刻は1時になっていた。眠っているかのような家並みを眺めながら、やや登り勾配の車道を歩いていく。かつて三度ばかり泊まった宿の前では「今日泊まることができればよいのにね」と言い合いながら先に進む。
白州町の銘が残るマンホールの蓋
白州町の銘が残るマンホールの蓋
まっすぐ行くと国道20号に再合流する手前で、右手、白州小学校前を通る道に入る。こちらは台ヶ原宿以上に静かな家並みが続き、同じように昔ながらの塀や門構えを見ることができる。民家の庭にはイチジクが食べ頃の実を生らせ、公園のような空き地には一本の木があり、李のような実がまだ青いままたわわに生っている。
家並みを抜けると田圃地帯で、下り坂のてっぺんからは鞍掛山とその手前の低い山並みが逆光に霞む。しかし見晴らしがよいのはともかく日差しは暑い。舗装道の照り返しも暑い。そして日影がない。二人して暑い暑いと言いあう。かつての街道には、全行程ではないだろうが、木陰となる木々が植えられていたことだろう。夏の街道歩きはエンジン音がなくても忍耐が必要だ。
南アルプス北端前衛の山々
南アルプス北端前衛の山々
ぶどう畑
ぶどう畑にて
1時間ほどで前沢上という国道20号との交差点に着く。神宮川という川を渡るところだ。ここでガイドから離れ、国道20号をわたって神宮川右岸を上り気味に歩く。最初に出てくる右手への車道分岐に入れば、サントリー白州蒸留所に着くことになる。じつは酒蔵の七賢では土産の酒のほかに白州全体のガイドマップを30円で購入していたのだが、白州蒸留所の近くに藪内正幸美術館がある旨記載されていたのだった。その美術館は以前より行きたいと思っていてすっかり忘れていたものだ。いま歩いているルートは、蒸留所に着く前に美術館に着く。美術館だけ見て帰ってもよいと思っていた。
交差点から10分ほどで車道分岐に着いた。意外と登ってきていて眺めが高台からのものになっており、茅ヶ岳と金ヶ岳が中空に並んで浮かんでいる。小憩後、美術館が左手に現れることを想定して幅広で歩道まである広域農道を歩いていくのだが、花卉栽培らしき施設は目に入るものの、それらしき建物は出てこない。右手に開けるポイントがあり、西岳、網笠山、権現岳と峰頭を並べた八ヶ岳が虚空を大きく占めている。権現岳は山頂のガスが重そうだ。しかし公共交通機関を使用する日帰り旅行で八ヶ岳を眺める場所に来るとは、贅沢なものだ。
広域農道への分岐から茅ヶ岳(右)、金ヶ岳を遠望する
広域農道への分岐から茅ヶ岳(右)、金ヶ岳を遠望する
右手に折れて20分も経った頃だろうか、左手遠くに観光バスらしき車体が何台か停まっているのが目に入った。それほど集客するところなのかと訝りつつ近寄っていくと、そこは蒸留所なのだった。途中にあった交差点を左に行った先が美術館だったのだが、手にしたガイドマップからそれが読みとれないまま先に進んでしまっていた。二人とも今さら戻る気もせず、とにかく疲れていたので蒸留所に入園し、なかにあるレストランでコーヒーをいただいた。美術館へは車で来たときに行ってみよう。10月あたりがよいかな、と話し合った。


千客万来の蒸留所を辞し、JRの駅に出る方法を探った。蒸留所近くのバス停に行ってみると一時間半は来ない。別路線となる国道20号のバス停にも行ってみたが、こちらは2時間待ちだ。すぐ近くにコンビニエンスストアがあり、その前の駐車場でタクシーを呼ぶことにした。10分ほどで車が来た。
小淵沢駅は上諏訪の花火大会に行く客と、東京方面に帰る客とでかなり混んでいた。青春18きっぷ使用の我々は普通列車にしか乗れない。それでも都合よく入線してきたホリデービュー快速やまなし号は、小淵沢始発の新宿行きで、快速のため普通列車同様に乗ることができる。後部自由席車両に乗り込み、幸いに座席も確保できた。走り出してしばらくで寝てしまい、気づいたら甲府をだいぶ過ぎたところだった。眼が醒めてから、あらためて二人で再訪の計画を練った。次は台ヶ原宿に泊まって、行きそびれた美術館に行こうと。
2009/09/05 (2009/09/06記)

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