雑記帳


「遭難」をめぐる雑感
道に迷いかけたり、足首をひねって捻挫したことはたびたびあるが、幸いにして今までのところ山の中で遭難したことはなく、大きな怪我をしたこともない。だからといって自分の山歩きが安全なものとは保証できない。「いままでのところ」大事に至っていないだけだからだ。
しかしこういう時期が続くと、人間、慢心してくるはずで、だからこそ自覚的積極的に「遭難」の記事を読んで戒めとしなくてはならない。遭難報告を読んでおけば遭難しないとは言わないが、危険回避の上で資するところはあると思っている。


山と渓谷社から出ている丸山直樹氏の『死者は還らず』という本を読んだ。副題に「山岳遭難の現実」とあり、ともすれば単なる「悲劇」として片付けられてしまう山の事故に対して「なぜそうなったのか」「そうならないためにはどうするべきだったのか」という基本視座から検証している。この視点からはどうしても追求しなくてはならないものがでてくる。責任の所在である。パーティーであればリーダーの責任、山岳会や学校の山岳部であれば山行を許可したものの責任、そして遭難したものの自己責任。
「死者にむち打つのはやめるべきだ」という観念から、死に至る失敗例=遭難の原因を明らかにしようとする試みは多くないらしい。「亡くなった方に落ち度があった」と言われれば、遺族の方々は平静ではいられないだろう。だから遭難報告が出されても、責任はうやむやにして死者への哀悼の意を表して終わっているものがほとんどだという。だがそれでは、亡くなった人は浮かばれないのではなかろうか。もし口がきけるものなら、「私のような失敗をしないために、あらかじめよく考えてほしい」と言いたいのではと思う。
だが、生きている人だけが的外れな中傷とかを聞かされる。自己保身のため、語ることの叶わない死者に責任を過大に負わせる人もいるかもしれない。事実を明らかにするというのは、想像以上にたいへんなことだろう。


ともあれ、「要するに遭難しなければいいのだ」というのは、間違った結論だと思う。
 1999/6/5 記

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