若合春侑の仕事・身邊雜記 2005年下半期
うちの玄関です(狭い)『ブログ』を始めてみました。
http://suwwakai.exblog.jp/01/03(火)07:55セブ→13:25成田
12/31(土)〜1/2(月)マクタン島で7ダイブ
12/30(金)14:25成田→18:45セブ12/12(月)7:10関空着(老母を含む宮城組を見送る→ロンジーという巻スカートと同色同素材のブラウス=ミャンマーの衣裳を身につけたまま帰って来たので、さすがに寒くてトイレで着替える)9:55関空発→11:05羽田着→12:45帰宅→まもなく宅急便が来て、笙野頼子さんの新刊『愛別外猫雑記』文庫版(河出文庫)が届けられた。笙野さんからの短いメッセージが添えてあり、ほんとうに感激。今年8月に私が『無花果日誌』文庫版をお送りしたお礼に加えて「いつも誠実で独自ですな。」なんて書いてくださって。「誠実」なんて言葉、これまで戴いたことがなかったけれど、わかってくださる方にはわかって戴けるのだなぁ、という素朴な喜びに浸ったのだった。笙野さんは今年6月にお会いした時に「若合さんは掛け替えのない人なのだから、小説、書きなさいよ」と励ましてくださった。この時も「掛け替えのない」という言葉がよく聞き取れず、ぽかんとしていたら「掛け替えることの出来ない人なんだからね」と繰り返し言ってくださって、ぽぉっとなってしまった。自分の胸に真直ぐに刺さるような褒め言葉には慣れていないので、やたらと嬉しかった。
12/11(日)国立博物館→ボジョーアウンサン市場→19:45ヤンゴン発→21:25バンコク着→23:59バンコク発(ミャンマーについての感想や感慨は、ここには書かず。二度と行くことはないだろうと思うにしても)
12/10(土)パガン王朝最初の釣鐘型仏塔シュェジーゴンパゴダ、インドのポッタガヤの大塔を真似たマハボディパゴダ、美しいアーナンダ寺院、ピタカタイ三蔵庫、タッビニュー寺院で日本人慰霊碑を前に平和慰霊法要→ミャンマー料理→考古学博物館→19:05ニャインウ−空港発→21:25ヤンゴン着→中華海鮮料理(トレーダースホテル)
今回のツアー団長@浄土宗雲上寺の住職に「仏教をきちんと知りたい」と相談したら「仏教大学の通信教育がいいよ。優秀な教授を知ってるから紹介する。ぜひ!」と勧められた。どうしよう、また大学生をやるのか・・・私?系統だてて論理的に学びたいと思うのだけれど、迷う。
12/09(金)アマラプダ僧院で高僧と面会後、1000人もの修行僧に昼食供養のお手伝いをする(顔のきれいな25歳の修行僧が声を掛けてくれたので、拙い英語で話す。きれいな目と肌をして、人間的にも美しいであろう青年だった。別れ際、ビデオを撮らせて戴いたら、何かメッセージを語ってくれた)僧院内で昼食→ウー・ペイン橋見物(体調が回復していない私はバスに残り、湖と橋とミャンマーの人々を眺めるのみ。因みに、ミャンマーのバスは日本のお下がりばかりで『非常口』などの日本語の他、ボディには『**観光』や『**市営バス』と書かれている)→サイガンの丘にある日本軍の戦没者慰霊碑パゴダ群で法要→17:15マンダレー発→17:45パガン着(ティリピィッサヤ サクラホテル=遺跡の村にあるコテージ式のホテルで、傍には緩やかな流れの川があり、かなりリラックス出来るホテルだった。経営者の妻が日本人で、その息子が支配人ということもあり、朝粥に梅干しがあった)
12/08(木)8:00ヤンゴン発→(ヘーホー経由)11:40マンダレー着→金箔を貼り過ぎたマハムニパゴダ→中華料理→前夜からの筋肉痛と胃痛(風邪とストレスが原因)が酷くなり、私一人ホテルで眠る。(マンダレーリゾートホテル)
12/07(水)6:00バンコク発→9:00ヤンゴン着→湿地に高床式の小屋を建てて住む貧しい農村を抜け、北カオラッパ新日本人墓地で平和慰霊法要→ミャンマー料理→チャウジー大涅槃仏を前にミャンマーの僧侶と合同平和祈願法要→シュエダゴン・パゴダ(インヤーレイクホテル)
12/06(火)10:00近所の主治医→12:00高田馬場の眼鏡屋で新しい眼鏡を受け取る→14:15羽田発→18:45関空発→22:55バンコク着(ラハガーデンホテル)12/05(月)夕方、高田馬場の眼科へ行き、コンタクトと眼鏡の処方箋をもらう。右目が乱視のためコンタクトでは近くが見えず。眼鏡屋へ行き、翌日昼まで厳守!で眼鏡を新調する。BIGBOXをうろついて買い物。
11/22(火)18:30〜赤坂見附駅。女性4人で『じゅんやさんを囲む会』。さすがカリスマ、寒い日本でもモテてます。赤坂の宮崎料理店→夜中の赤坂日枝神社に参拝して帰る。
11/21(月)20:30『風花』へ。ママ紀久子さんから電話でお誘いを戴いたので『花園神社・酉の市』へ。古井由吉先生を始め10名くらいで出発。初めての酉の市は、露店が迷路のようで吃驚。人の多さにも吃驚。社殿前の階段は人で埋め尽されており、古井先生の「こりゃだめだ、遥拝しようかぁー」の声に二礼二拍手一礼。小さな熊手でも、と思っていたのに買う暇なし。
11/12(土)倅、再びボストンへ。成田での見送りはガールフレンドで、親の入る隙なし→翌13日夜7時過ぎ(極寒のボストンは早朝5時)9月と同じホストマザー宅にお世話になる倅からネット電話「Skype」で前夜に到着したという知らせ。「寒い」と震えながら、私がスーツケースにしのばせた『サクマ式ドロップ』を舐めているのがわかり、ちょっと苦笑。
国際電話の料金を気にせずに話せる「Skype」は凄い!当初、本名のyukoで登録したら世界各地の見知らぬ男から電話が殺到したので、女性だとわからないハンドルネームにした。世界中、どいつもこいつも、というところでしょうか。11/08(火)16:00池袋。フィジーから帰国したカリスマインストラクター@じゅんやさんと待ち合わせ、倅と3人でダイビング器材店へ行き、その後、居酒屋→カラオケへ。185cm細身のじゅにやは日本で会っても相変わらずかっこよく、歌がやたらうまくて、話もまた面白い。都内に自分のダイビングショップを開く予定だそうな。じゅにやとあっちこっちの海に潜りに行ける!嬉しい。
11/01(火)13:00帰国〜老母&元家族、我が家へ立ち寄る。母が東京の私の家に来たのは初めて。母は「食う・寝る・仕事」以外には何もない部屋を見て安堵した様子で、早稲田大学正門と大隈講堂の外側を見学した後、宮城へ帰って行った。
元家族がパスポートや携帯電話などを入れたバッグを我が家に忘れていった。いつも携帯に出ないので『不携帯電話』と呼んでいるし「大事なものが入ってないから取りに戻らなかった」のは正解だけれど、倅がぽつんと「遺伝だね・・・怖い」だと。たぁー!!自分の間抜けを父親のせいにするなぁー!!おまえのパスポートを取り戻すのに、私がどれほどエキサイトしたか、目の前で見ただろー!!血圧300は超えてたよ、たぶん、死にそうだったもの。といいつつ、無事に行って帰って来たから、まぁ、赦す。それも、なんだかなぁ。
留守中、迷惑メールが180通以上も来ていた。このところスパムメールがどんどん殖えている。一旦、アドレスを捨てないといけないかしら、と考えるけれど、変えてもまた同じだろうと思うので、せっせと削除。うっかり大事なメールを削除しそう。
10/31(月)9:55ホノルル発。機内食があまりに不味かったので残したら、アジア系男性乗務員が「どうかなさいましたか?」と尋ねるので「酷い味!」と答えた。牛豚を食べない私が選んだ魚料理は、かつて自分が作って失敗した数々よりも百倍酷いし(往復分予約しておいた)母の日本食と比較しても明らかな手抜き。後で日本人女性乗務員が「今後の参考にさせて戴きたいので」とあらためて尋ねて来たので「臭いし、固いし、雑で、とても料理とは思えない」と答えたら、成田到着の30分くらい前に高級シャンパンをプレゼントしてくれた。アジア系男性乗務員が誤ってお盆に載せたシナモンケーキを私の手と服に落としたことへのお詫びもあったのだろうけど(それに関しては「大したことないから、大丈夫」と何度も言ったのに)素直に受け取った。食べ物のことで文句を言うのは後ろめたいけれど、本当に食えた代物じゃなかったんだもの。他の応対はとても良かったから少し気の毒に思えたし、元家族はその「臭くて固くて雑で料理とは思えない料理」を完食していたから、私の味覚がいけなかったのかなぁ。それにしても、飛行機はビジネス以上に限る。マッサージまで付いているシートは体を伸ばしてぐっすりと眠れるし、荷物は「PRIORITY」タグ付きで真っ先に受け取れるし、機内配布のグッズも気が利いているし。
10/30(日)三つ隣のホテル『シェラトン・モアナ・サーフライダー』まで浜辺を歩き、朝御飯→8:45〜リムジンでオアフ島一周観光へ。高級別荘地で売出し中の旧石原裕次郎別荘を見る。周辺の別荘に比べて貧相だった→
ハナウマ湾
→潮吹き岩→サンディーズ・ビーチ→マカプー・ビーチ→レイ作り(土産物屋)→ライエ・ポイント→タートルベイ・リゾート→サンセット・ビーチでプロサーファ−の大会を見る→
ウミガメ・ビーチ
→土産物屋で買い物→地元民が行く海を眺めるレストランへ。大雨。オアフ島の多様な天候の面白さを垣間見る→ハレイワ・タウン→ドール・プランテーションでパイナップルのアイスクリームを食べる→パール・ハーバー→モアナルア・ガーデンで♪この木なんの木 気になる木〜♪を倅と合唱する。私は主旋律で、倅がハモるのだ。この日のガイド@横浜育ちの日系Mikeさんによると「それを歌ったのは、僕が担当した中では、バスガイドさんのグループとあなたがただけです」とのこと。
帰りの車中から虹を見た。山の手前から出ており、虹のあちら側に山が透けて見事きれい→アラモアナ・ショッピングセンターで下車。倅と元家族は再び買い物へ。私と母は・・・。
実は、アラモアナのサロン&スパ『AVEDA』で「エレメンタル・ネイチャー・マッサージ」を申し込んだのだ、私ではなく老母の。若い女性を相手にしたお洒落なサロンの最高齢の客であろう母は、大きくて重い白いガウンに着替えた後、童女の顔をして係員に随いて行った。待つこと40分、うぶで小さな娘を大冒険に出した気分で心配する娘の私。でも、施術をしたらしい中年白人女性が私に終了の知らせとともに「She is so cute!」と笑ってウィンクしてくれた。迎えに行くと、大きな椅子に埋もれるように座った母は、足置きにちょこんと踵を載せて甘いハーブティーを飲んでおり、戸惑いを超えたはにかみと満足の表情。頭とパンツを穿いた部分以外の全身を様々なローションを塗ってマッサージしてもらったらしい。「典型的な日本の田舎のお婆ちゃん」の様相である上に、精神的にも地味で非活動的な昔気質の老婆そのもので、父が亡くなってから急に衰弱し、無表情をなかなか崩さなくなった母が、この旅行でやっと本来の笑顔を見せてくれた。アメリカ人のプロ根性を確認出来たし、なによりも母が元気になってくれて、よかった。言葉がうまく出来ないのも助かった。もしも相手が日本人なら必要以上に遜って余計な詫びごとを言ってしまっただろうし、下世話な配慮の社交辞令を聞くことになったろうから。
ホテル内日本料理店で夕餉→疲れた老母と眠ってしまった倅を部屋に残し、元家族と隣の『ロイヤル・ハワイアン・ホテル』の「マイタイ・バー」へ。『ロイヤル〜』の館内の素晴らしさ!今度はここにしよう、前世かなにか、前に誰かと来たような気になったので。
10/29(土)朝早く起きて、老母の念願、真珠湾へ。『パールハーバー資料館&アリゾナ号慰霊記念館』でアメリカ側の真珠湾攻撃に関する記録を見る。アリゾナ号のメモリアル・ホールは神聖な場所であるとアナウンスされており、実際、その通り、入った途端、全身に鳥肌がたち、くぁっと涙が込み上げた。戦没者のネームプレートを前にして破顔で写真を撮っている白人の若い女の子たちに違和感を抱きつつ、先進国の若い世代に戦争の悲劇を教えるのは難しいのだな、と寂しく思った。
メモリアル・ホールは撃沈されたアリゾナ号を跨ぐ形で建っており、船内には未だ約1000人もの乗組員が眠っているという。64年近く経った今も重油が浮く水面を見ていたら涙が止まらなくなった。その重油は亡くなった乗組員と遺族の涙の象徴であるという。私には、表情や文字や絵など見えるべきものの見えない具象、声にならない声、溶けた魂が水面に揺れて光っているように映って見えた。洟をすすり、涙を拭いていたら、私の左側に立ち、静かな表情で水面を見ていた黒人女性が「Are you okay?」と声を掛けてくれた。頷いて、その女性に向かって顔をあげたものの、すぐまた俯いてしまった。その人に顔を見せたのは自分が日本人であることを告げるためだった気がする。ごめんなさい、の気持ちと、この哀しみは世界中の誰にも共通し共有出来うる、という意思。その女性はそれ以上、話し掛けては来なかった。余談だけれど、翌日のガイドから聞いたところ、霊感の強い人がそのメモリアル・ホールへ入ると大勢の霊の泣き声に包まれ、とても長くはいられない、とのこと。今も泣いている、泣いて、訴えている、そういう場所であると・・・。その通りだ。
昼過ぎ、ホテル内の日本料理店で昼食。「箸でなければ食べない」という老母のため、レストラン選びも慎重にしなければならない。
午後、トロリーバスに乗ってアラモアナ・ショッピングセンターで乗り換え、ウォル・マートへ。母と私は待つばかり。買い物好きは女性が多いというのは嘘。元家族と倅はアメリカのスーパーマーケットを楽しんでいた。私の場合は、あちらこちらのスーパーマーケットを見て来たので、もう飽きちゃったってこともあるけれど、普段から人の多い場所が嫌いな母にはさぞかしウンザリだったろう。
ホテル近くに戻って中華レストランへ。がさつで大雑把な中国人給仕に呆れる。翌朝、私はお通じがよくなった。下剤を飲む必要がなくて良かったけれど、あの中華屋、どうも怪しい・・・、高級レストランなのに。反面、母の胃袋は私より健康で丈夫であることが分かって安心した。
10/28(金)スキューバ・ダイビングならぬスヌーバ・ダイビングであれば老母も出来るか、と一旦は申し込んだのに「どうしても海に入りたくない」と頑なに拒絶。「部屋で寝ていたい」という母に昼食、日本から持参した『婦人公論』2冊、困った時の対応策を書いたメモなどを用意して、三人でスキューバ・ダイビングへ。元家族はライセンスがないものの2本目はライセンス所有者とボート・ダイビングが出来るというデラックス体験コース。倅はオープン・ウォーターしか持っていないため、あまり深いところへは行けないから、私にとっては『減圧症状治療後の復帰プログラム<ステップ2、3>』と言っていいような、最大深度12〜10mのゆっくりとした優しいダイビングになった。実際には水深6mくらいから水面までの波がきつくて、ちっとも優しくなかったけれど。三人一緒に潜ったのは九年ぶり。今のところ減圧症状再発の徴候、全くなし。
2本目のガイドPaulは元海軍で横須賀にいたことがあり、奥さんが日本人なので日本語が達者。穴の中のタコを素手で捕まえて墨を吹かせたり、眠っている亀を引きずり出したり、やっちゃいけないことをやって楽しませようとするお茶目な白人で、ホテルまで送ってくれる車中、道沿いの観光ガイドまでしてくれて、その上、別れ際に電話番号を手書きした紙をくれた。すごく楽しいハンサムだった→ホテル近くのDFSやABCで買い物→ホテルでディナー。
10/27(木)8:00ハワイ着→専用リムジンで『シェラトン・ワイキキ』へ。一眠りするという老母を部屋に残し、滞在中のオプションを申し込んだ後、ハワイの銀行に口座を作る元家族に随行。口座開設に2時間も掛かったけれど、日本の銀行員と違って感じの良い個別対応だった→ディナークルーズ→タンタラスの丘で夜景を見る。ディナークルーズといい、タンタラスといい、観光客相手の写真屋がいかにもな商売上手で、それに乗る。
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10/27(木)ハワイに出掛ける日。いつまでも荷造りをしない倅を急かしていたら、お昼前になって「パスポートがない!」と顔面蒼白で言って来た。倅は前日、就学ビザをとるためにアメリカ大使館へ行っており、面接後の手続きでパスポートを手渡す際、ハワイへ行くことをすっかり忘れていたという。「一週間後に届きます」と告げられたビザはパスポートに貼付される訳で、つまり、申請=パスポートを納めるのは当たり前だったのだ。ハワイ行きの前日にビザ申請をすることに何だか嫌な予感はしていたけれど、私自身、その手の類いの経験がないので、手続き完了を単純に喜んでいたのだった。なんという愚鈍な母子だろう。飛行機の出発は20:35、通常なら18:30には空港カウンターに着いていなければならない。
ガーン!何やってんのよぉ!と私も蒼白になるものの、何が何でもパスポートを取り戻さなければ、と焦る。ところが、アメリカ大使館領事室の電話は有料でクレジットカード番号を入力しなければならない上、なかなか繋がらない。時間は刻々と過ぎて行く。
自分の迂闊さを認めざるを得ない倅は「ハワイへは行かない」とか「諦めるよ、留守番してる」とか気弱なことを言い出すが、諦めさせるもんかぁ!何を今さら!と頑張っちゃうのが、異常なまでに逆境に強い私。やっと領事室への電話が繋がったものの、倅のやり取りを聞いていて苛立ち、受話器を奪って苛烈なまでの情熱を爆発させつつ経緯の説明をしてパスポート返却のお願いをする→倅のパスポートは、ビザ申請における書類処理は終わっているので既に領事室にはなく、大使館内のメールルームもしくは赤坂郵便局にあるとわかる(ということは一週間も待たず2、3日で届くのだ。でも、その2、3日を待てる情況ではない)→赤坂郵便局、メールルームに電話をかける(それはもう躍起になって)→赤坂郵便局がアメリカ大使館へ集配に行く時間、集配車が郵便局に戻るおおよその時間を知る→16:00前には赤坂郵便局へ行って待機することにしたものの、集配した中に倅宛のものがなければ、完全にアウト。大使館員にメールルームで集配される予定の書類を一通残さず赤坂郵便局に渡して欲しいと強くお願いして、倅とふたり、ハワイ行きの準備をして赤坂郵便局へ。勿論、もしも届かなければ倅は留守番、という段取りと心積りをして。
こういう異常な情況の中、倅が「ビザ申請の時、パスポートを持って行かれても疑問に感じなかったんだよね、ハワイってさ、パスポートが要らないような気がして」とぬかすので「ハワイは日本の植民地じゃないし、沖縄でもないんだよ!」と怒る。ここのところ、倅の意識はハワイより遠いボストンのみにあったから、日頃の態度にも私は苛立っていたのだ。
青山一丁目駅に着いて一服していたら、間もなく倅の携帯に赤坂郵便局から「届きました」の連絡あり!!喜び勇んで受け取りに行く。
領事室の女性大使館員、メールルームのアメリカ人男性大使館員、赤坂郵便局の女性職員@田中さんを始め、牛込郵便局にも大迷惑をお掛けした末、倅のパスポートは無事、搭乗手続きに間に合う時間に入手。ほんとにお粗末かつ間抜けな奴で情けなくなる。
アメリカ大使館内メールルームにお礼の電話を掛けたら、日本語がイマイチ覚束ない男性大使館員が、私が名前を告げた途端「おぉ〜!あった?あった?そぉ〜、よかった、よかった〜」とフレンドリーな応対をしてくれて、大使館員になるくらいのエリートに随分な迷惑を掛けた申し訳なさと嬉しさが込み上げた。
18:30宮城から成田に到着していた元家族&母と合流→初めてのビジネスクラスということもあり「ラウンジに立ち寄って寛ぎながら出発を待つ」なんていうセレブな発想は欠片もなく、激動の午後を乗り越えた疲労感でぐったり→さすがビジネスクラス、シートも料理も応対も素晴らしい。10/20(木)10:00城ヶ崎海岸駅『減圧障害治療後のダイビング復帰プログラム』<ステップ1>(ダイビング後、一泊して帰京)
10/13(木)16:30目白のクリニック→18:00江戸川橋のクリニック。今年はかつてない程の病院通いで検査費も治療費もおそろしく沢山支払っている。深刻な病気ではないのだけれど、先生方が優しい上に会話が楽しくて、しかも、どの先生もお洒落でカッコイイものだから、長年の病院嫌いを返上してしまった。目白では減圧症治療専門医@カリスマ山見先生に(本当は小児科が御専門なんですって。今日、聞いた)『ダイビング復帰プログラム』へのOKの診断書を書いて戴いた。ここには書けないけれど診察室で爆笑してしまうくらい面白かった!江戸川橋のドクターはいつも懇切丁寧な説明をしてくださって、やっぱり話が面白い(前にドクターのほうから(私の発言は)「面白いっ!」と言って戴いたりして)。お医者さまって、こんなに楽しい人ばかりじゃないでしょうに、私は相当にラッキーなんだわ、と感慨。今度の恋人はお医者がいいなぁ、なんて阿呆なことまで書いてしまおう。良いお医者さまは顔まできれいだ。
渡航準備をする倅を黙って見ていられず、あれこれ口を挟んでしまう日々。
さまざまな手続きが終わったら、部屋=豚小屋の掃除をしていってくれ。10/09(日)14:00新宿:赤坂で会ったSちゃん+そのお姉さんと待ち合わせ、無料チケットで映画『四日間の奇蹟』を観る。死に際の意識について考えさせられた映画だった。山口県下関が舞台設定で、海の美しさにも感動→居酒屋へ行き、フィジー・ビーチコマー島の話で盛り上がる。来年2月は、海外初体験のSちゃんとフィジーに同行することになった。
【10月5日夕方に咲く朝顔】
今頃になって咲き乱れています。
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【二毛作のバジル】
百姓の遺伝子がベランダでの農耕もどきを促します。
10/01(土)夕方、渋谷で新しいウェットスーツのデザイン選びと採寸。家に籠ってばかりなのでかなり太ってしまった。恐らく現状がデブのピークだろうと思えるけれど「緩めにお願いします」と連発。これ以上デブを窮めてはならない。
倅の薫が(授業料が免除だということで)大学を休学して、
11月中旬にはボストンに戻り、バークリ−音楽院を目指すことになった。
いなくなると思えば、不便だし、ちょっと寂しい。
それに2DKの部屋を一人で使うには勿体ないし、家賃も惜しい。
とはいえ、引越すには気力体力まったくなし。
ルームシェアをしてくれる同居人を募集したいところけど他人と住むには狭い。
それにしても、そろそろ本気で仕事しないと・・・。09/25(日)倅がボストンから帰国
09/24(土)『産経新聞』【読書】「書店員のススメ」で福家書店銀座店・井餘田友香さんが『無花果日誌』を薦めてくださった。
http://www.sankei.co.jp/news/050924/boo009.htm09/18(日)『朝日新聞』【BOOK ポケットから】で「ブランドは、甘くも、恐ろしい」と題して辛酸なめ子さんが『無花果日誌』を取り上げてくださった。
http://book.asahi.com/pocket/TKY200509210140.html09/21(水)14:20渋谷シネマライズ『メゾン・ド・ヒミコ』
ボストン到着直後の電話と2通のメール以外、
素っ気なく連絡を断っていた薫から電話。
「自分の道」を確信したという。
今年入学した大学を辞めてでも学び突き進みたい、という意志。
当然ながら、応援するよ、かあさんは。
それでなくとも遠回りしたんだもの、今更ながらの停滞は不毛だよ。
ボストンでの出会いもまた有り難い偶然だったけれど、
それを自分に引き寄せたのは薫自身の魂に他ならない。
3歳から過酷な練習を重ねたヴァイオリンの道は、
日本のクラシック音楽界では(親の事情で)閉ざされたけれど、
薫が魂から奏でられる場所は必ずある、と私は信じていた。
かつて、どんなに貧乏に陥っても、薫の父さんは
ヴァイオリンを手放すことを良しとしなかった。
薫の精神の支柱であったけれども、私たちの希望でもあったんだ、
薫が中学一年で入手した200万のヴァイオリンは。
あの貧乏のさなか、売ればどんなにか助かるのに、
と眉を顰め、時に怒り狂って暴れたのは私だったけれど、
遅まきながら、もう親があなたの道を閉ざすことはないよ、
とか、こういう辺りのこと、小説に書けばいいのにねぇ、
せっかく親子共々面白い逆境を体験したのだから、さ。09/18(日)18:00〜赤坂日枝神社『仲秋管弦祭』。7月に日枝の神職と結婚した嫁@Cが招待状をくれたので。「山王太鼓」に始まり「管弦」「神楽舞」「舞楽」と続き、なかなか風情があって雅びな世界。ただ、社殿に向かって右奥に聳える外資系生保会社の高層ビルが野暮で邪魔!まったく日本古来の美を解していないんだなぁ。ビルの窓から森に囲まれた神社を眺め下ろして癒されているのだろうか、ビジネスマン諸君は。
鑑賞者は千名を超え、立ち見もいる大盛況ぶり。その鑑賞者の頭の後ろのずっと後ろに、見事な仲秋の月が晴れた夜空にほんわりと発光していた。恰も満月に奉納するかの如きお祭りで、心洗われる気分に浸る→神主嫁@Cと23才で舞いの名手@Sちゃんの3人で赤坂の居酒屋へ。
そこで話の流れから偶然にも、Sちゃんのお姉さんがフィジー@ビーチコマー島にいるカリスマインストラクター:イケメンJさんの大ファンで、既に3回も行っていることを知る。おお、ライバル現る!?とおののくも、Jさんは来月末、結婚のため退職して帰国するそうな。残念!でも、こころから、おめでとう、じゅにゃ!次のインストラクターもイケメンだといいのだけど(笑)。09/11(日)選挙、今回は絶対に行きます→行きました。近所の小学校の校庭に一年生が育てた大輪の朝顔が咲いており、早くも大粒の種をたくさんつけていた。肥料の違いだろうか、私のベランダの朝顔は夏中ずっと蔓を伸ばすばかりで、最近になって漸く花を開かせている。私の朝顔は去年と今年、『婦人公論』K女史から送って戴いた「谷中@朝顔市」のもの。種を収穫出来るといいのだけど。しっかり育てたつもりなんだけどなあ。今夏、かなりの回数でイタリアン料理に使って重宝したバジルは種を採取して蒔いたら、たくさんの芽を出し、二毛作という単語を思い出した程に育っている。
09/09(金)午前、薫を連れて宮城へ。親父の命日云々もあるけど、墓参りをしたかったから。
→仙石線「福田町」で下車し国道まで歩く(道を尋ねたおばさまが、さりげなく誘導してくださった)→なかなかタクシーが来ない。うーん、東京とは違うんだなぁ、皆、自家用車持ちの土地柄だもんね、と諦めかけていたら来た。
→母方の実家の墓地へ(古い記憶の、ものすごい些細な感覚に頼って運転手に指示したら正解だった。最近の記憶はダメでも古いのは大丈夫って、これって老境の人?)「こっちだよ、おー、来たな!」と喜ぶ気配に、とにかく引き寄せられる。同じ名字が並ぶ墓石の一つに吸い寄せた石の下にいる人は、江戸末期に生まれて明治初めの8月13日に23歳でコレラで死んだ栄五郎さん。なんだか、恋人に再会したみたいで気持ち良かった、嬉しかった、たぶん、栄五郎さんのほうが。
→93歳の祖母が入院している病院へ。祖母は仙台市営バスに乗車して、座らないウチに発車されて転び、腰を打ったらしい。一体、どういう運転手だ!と怒るのは誰しも同じ。ところが「転んだ自分が悪い、被害者になったほうが迂闊である」と繰り返して言う。祖母の美学を見た。祖母の直系の孫である私のいとこが仙台市の職員をやっており、あらゆる者の立場を把握した上で物申す。祖母は私の小説の読者でもある。でも、『蜉蝣』で、きついというか、私には胸刺さる感想が来て、ばあちゃんの顔、真正面から見られず。世間で、浮くほどの、そういうものを書いてしまうのは、やっぱり、いけなかったんだ、と恥ずかしくて「次は書いてるのか、小説、がんばってな」と言われても、目を見られなかった。ばあちゃんは、あれを読んで辛かったらしい。『世間様かくありき』の時は、すごく激賞してくれたけど。でも、ばあちゃんのバイタリティ、すごい!実家の母に「ばあちゃんは、女は75歳からだ!って言ってるよ」と励ましついでに言うと「あぁ、あの人は化け物だから」と諦観の発言をするので「おかあちゃんは化け物の娘でしょ!これから、でしょ!」と返す。絶句した後で、おかんは民謡の発表会のビデオを送って来る。いいなぁー、女が長生きするって・・・。
→次々待たせたままの福田町から乗ったタクシーで、塩竈@雲上寺、親父の墓へ。薫とふたり墓を前にして暫し寛ぐ。親父が自分で誂えた墓石その他は、なかなか金運ありそうな感じだし、親父の好きな茶系でちょっと上品で、好い感じ。気持ちのいい墓です。
→生理初日でトイレを要する私のために、雲上寺下の喫茶店へ。ああー、たいへん、おんなって、ほんとに、たいへん。ほーんと、たいへん。
→薫の父方の実家へ行き、仏壇にお線香を手向ける。薫のいとこの女の子と約17年ぶりに会ったりして。息子とは疾うの昔に離婚してるのに、元嫁を迎え入れてくれた元家族の両親に見送られ、夕方6時半過ぎ、やっと自分の実家へ。
→上の弟がまたもや料理を作ってくれて歓迎してくれた。弟の酒に付き合っているうちに最終新幹線、間に合わず、というか、飲むほうを選んだ。飲み過ぎ。
→元家族の部屋に泊めて貰う。
→翌日昼近く、元家族に「本塩釜」まで送って貰って帰京。予定外の外泊でスキンケアが何もない状態に化粧をして、へんな顔で帰る。09/05(月)18:00江戸川橋のクリニック→10月、慶應病院で精密検査。
08/24(水)18:00丸ビル36階『MONNA LISA』
8/23(火)ネットで見つけた製造直販元から欅の文机(121cm×60.5cm)と衝立が届く。角に金具のついたがっちりした文机は私の仙台箪笥に似ているし、欅の衝立は狭い執筆空間を拵えてくれそうで、籠って書くには丁度いい。パソコンといい調度といい、かつてない執筆環境が整ったはず。
←ここが私の籠り場です。文机の左端に置いてあるのは空気清浄器。画像右はかつての嫁入り道具の一部で、今じゃ父の形見のような仙台箪笥(この他に和箪笥と洋服箪笥もあるけれど狭い部屋に置けないので宮城の元家族に預かって貰っています)。下の画像は家具屋さんの商品見本。一般価格よりかなり安い上、端数を切って戴くサービスもしてもらい、たいへん良い買い物をしました。
08/22(月)18:00過ぎ、江戸川橋のクリニック。
08/16(火)宮城で地震。実家の安否を気遣うメールや電話を戴く。実家は地盤の固い丘の上にあるし頑丈な屋敷なので何の被害もありませんでした。しかし、新幹線不通。宮城に帰る元家族は翌日から仕事だというし、どうなるかと思いきや、浅草でどぜうを食して浅草神社に参詣した後の21時頃、新幹線再開。仙台に着いたのは深夜2時半だったらしいけど、無事でよかった。
08/15(月)新宿。どういう訳かノートパソコン購入。当然、私はMacintosh。一生、マカーでいるつもり。それにしても随分安くなったものだなぁ、Mac。これで旅先でも執筆出来る。本心は旅先ではネットに繋ぐのも嫌だけど。
08/13(土)夕方、宮城から元家族上京→新宿08/11(木)誕生日。夕方、角川K女史来宅。ベランダで栽培しているバジルを使って、シーフードサラダ+餃子の皮のミニピザ+スモーク鴨+茄子のスパゲティ−+煮込み手羽先つるむらさき添えで、イタリアンまがいの料理。
08/10(水)誕生日前夜。またひとつ年齢を重ねることに感慨なし。
08/06(土)『すばる・9月号』発売【特集:ネットと文学】随筆「インターネット越しの青空」掲載
08/01(月)15:00 『文悠・神楽坂店』にお伺いして『無花果日誌:文庫版』30冊に署名&落款を記させて戴きました。若合に会いに来てくださった女性がふたり。片方はケメさんのファンで、いつぞやのインタビューをきっかけに若合を知ったという神楽坂勤務の方で、もうひとりはもう何年も前から知っている飛鳥新社の編集者K嬢。終了後、渡邊店長が若合、角川K女史、飛鳥K嬢を美味しいケーキ屋さんに誘ってくださり、これまで関わった大作家のエピソードなどをお話くださった。いつも拙著を大事にしてくださって、その上、御馳走になり恐縮このうえなし→K女史、K嬢とカフェバーへ。夏の夕暮れに蝉の声を聞きながらビールを飲む、神楽坂ならではの風情が心地よし。
『無花果日誌』(角川文庫)
7月25日(月)発売。
渡辺保先生の解説は鳥肌がたつほど嬉しい内容で、
黄緑地に白抜き文字の帯文は、
角川K女史の才を戴いて、
桐子、17歳。
裸の自分と向き合い、
まっすぐ未来へ走り出す--。
表紙のデザインが単行本とは少しだけ変わっています。
装釘の谷口広樹先生の温かい愛情がたっぷり込められています。
460円というと、牛丼や珈琲やハンバーガーよりは高いけど、
栄養分を別のところで活かして戴けたらと思います。
可愛らしく生まれ変わった、
『ちっちゃい無花果日誌』
高校生に限らず、多くの世代に読んで戴きたいです。07/29(金)トーマス・マンの大長編『魔の山』(上・下)を読み始めました。序文から既に「私の欲しい答え」があり、表現のいちいちに膝を打つ。10年以上も前から本棚に入っていたのに、何故これまで読まなかったのか、と少し悔まれる。
07/23(土)韓流ドラマ「悲しき恋歌」放映中の大地震よりも更にショックな事件が起きた。エジプト・シナイ半島シャルム・エル・シェイクでの同時多発テロだ。一箇所は去年9月に宿泊していたホテルのすぐ隣で、おおよそどの辺りで爆発が起きたのか予想出来る。彼の地は減圧症に罹らなければすぐにでも再訪したい場所で、来年必ず伺うつもりでいたし、今書いている小説の舞台でもある。観光客も含め日本人の被害はなかったと報道されているものの、お世話になった『SINAI DIVE CLUB』スタッフの皆さんの心中は如何ばかりかと案じれば、なんとも遣り切れない。お見舞いメールを書こうにも言葉がうまく出て来ない。陳腐な言葉しか連ねられないとしても書くべきなのに、スマトラ沖大津波の後と同様、即座に行動に移せない自分を軽蔑するばかりだ。スマトラに関しては、暫く経ってからユニセフに私自身としては最高額の寄付金を振り込んだけれども、本心としては被災地へ伺って観光客の立場で僅かでも貢献したいとずっと思っている。しかし、未だ行動していない。
それとは別の意味で、今回のテロは作家として再起しようとしている私自身への間接的攻撃に等しい。世界中どこでテロに遭うか分からない現在、今書いているテーマの大幅な変更を余儀無くされた。筆が止まった。絶望だとは思っていないけれども。07/22(金)16:00江戸川橋のクリニックで血液検査の結果を聞く。悪玉コレステロールが多いことと相変わらずの貧血、それ以外は異常なし。女性ホルモンもたっぷりで、恋人がいなくなった現在なのに肉体的には女の現役を続けているらしい。いっそ妊娠して女最後の悪足掻きでもしたいくらいだ、なんて書けば、罰当たり・・・。
07/19(水)18:00新宿 倅のボストン行き手続きに同行(いつか私も留学したいので説明を聞いておこうかと・・・。いつかっていつか分からないけど)→東口交番前に倅が到着したのは18:45。待ち合わせの10分前から立っていた私は血圧が上がり捲って脳の血管が爆発寸前。「電車で2時間も寝てしまった、熟睡して携帯に気付かなかった」と言い訳しつつ何度も詫びる倅に「てめぇ、殺す気か?!」と凄むにしても体力なし。非常に疲れた。手続きを済ませてシェーキーズでピザを食べ、タクシーでそそくさと帰宅。
火曜9時は『海猿』。ドラマの中での減圧症と私の場合は、原因も症状も回復期間も違うけれど、おそろしや、減圧症。それにしても海上保安官のダイビング装具の簡素さには驚く。エアタンクやレギュレータ(=口に銜えて呼吸するもの)を装着させるジャケットで、普通は空気を入れて浮力を調整することが出来るBCDが、ただのチョッキ状態。ということは、彼らのBCDは<肺>そのものなのだ。凄い!07/18(火)『すばる9月号』特集「文学とインターネット」随筆脱稿→送信
07/15(金)『罪と罰』や〜〜〜っと読了。それにしても長かった。19年前に読んだ時より面白く感じられたけれども、冗長なロシア文学と関わるのは骨が折れる、というか、ある程度の根気が必要だ。並行して読んでいる『コーラン(上・中・下)』を読了するのはいつのことやら。翻訳の妙というべきか、キリスト教の聖書よりノリが良くて朗らかで元気があって面白いのだけど。
07/14(木)18:30ちょっとした不調のため江戸川橋のクリニックへ。
飯田橋の診療所に予約の電話を入れたら恰も診療拒否の如き対応(受付のおばさんが「予約でいっぱいなんですよ」というので「いつなら空いてるんですか?」と尋ねたら「あー、なにしろ予約でいっぱいだから」と宣う。半年先まで埋まってるって程じゃなかろうに・・・)、次に某所の医院に掛けたら「予約の場合は1050円掛かります」という。診察予約で金をとるなんて聞いたことがない。それでも「予約なしで伺います」と言ったものの腑に落ちず、一体どういう医院なのかとネット検索をしたら、患者から訴訟を起こされて、一度は敗けて控訴し、結局は医師が勝ったという判決文が載っていた(迂闊というか、せこいというか、守銭奴というか、患者本意で診ていない医師のお間抜けぶりが露呈された内容だった。でも、勝っちゃうんだね、すごいね、懲りてないね)。なんとなく行きたくなくなり、別の医院を探したら丁度良いクリニックがあった(木曜が休診日だったはずのクリニックの医師が倒れ、クリニックごと医師が代わっていて木曜でもOKだった)。優し気で親しみのもてる医師で、看護師も受付嬢も感じがよかったけれど、血圧を計ったら上201下105。遺伝とはいえ、怖い、高血圧。帰りは久しぶりに地蔵通り商店街を散策。只今、『紅海に沈むコンテナ』というタイトルで小説を書いています。
いつ脱稿出来るか見当もつきませんが。9月中旬に倅の薫をボストンへ国外追放する段取りと、10月下旬に田舎の老母をハワイへ連れて行く計画をたてる日々。
海外でのホームスティといえば、随分前に飲み屋で中森明夫氏が披露していた冗句を思い出す。とあるおばさんの台詞。「あぁ、うちの娘ねぇ、今、ニューヨークでね、本人がしたいっていうから、ホームレスに出してんのよー」(ホームしか合ってないっつーの!のツッコミ要)偶々耳に入ったこの台詞にお酒を吹き出しそうになった。思い出すと未だに笑ってしまう。
ハワイといえば9年半ぶり。満73歳の母は海外初体験で膝が弱い。どうなることやらと思うけど、田舎の屋敷で日中ひとりテレビを眺める毎日から少しは脱出させたいので、なるべく負担が掛からないようにビジネスクラスで行く予定。ビジネスクラスは私だって同行する倅+倅の父も初めてで、便乗体験のようなもの。チープなホテルで最終日にカップヌードルを啜ったかつての貧乏旅行のリベンジで、専用リムジンで送迎してもらって、シェラトンのオーシャンビューの部屋に泊まって、おいしいものをちゃんと食べて、ごく普通の観光もしようと思う。ダイビングが出来ないのは残念だけど。07/09(土)エジプト人のボーイフレンド帰国。見送りせず携帯で再会の約束をしたのみ。来年も紅海で潜りたいし。
07/08(金)13:00赤坂日枝神社・國學院同級生カップルの結婚式→披露宴で祝辞を述べるも、用意していた内容の半分も言えず→18:30二次会
07/02(土)18:00ウチで玉の輿@娘の独身最後の宴会。
06/27(月)『無花果日誌』文庫再校訂正箇所を連絡。解説は渡辺保先生になりました。
06/26(日)ビデオで韓国映画『Joint Security Aria』を観る。この他に借りて来たのは『シュリ』『Bourne Identity』
06/24(金)18:30俳優座劇場『(三浦佑之訳注『口語訳古事記』を語る)いま、よみがえる「古事記」その弐「出雲の神々の物語』
語り:名俳優の鈴木瑞穂さん、音楽:笙、篳篥、横笛の女性トリオ『青人草』、デザイン:浅葉克己さん、ほか。
花園神社で剪定のために切り落とされたという銀杏の丸太を置いたステージで、三浦佑之さんと元NHKアナウンサー平野次郎さんのトークの後、恰もギリシャ神話の語り手のような風格の鈴木瑞穂さん登場。神々しいと言って過言ではないような貫禄のある姿と風格のある声での澱みない朗読。普通の雅楽よりもテンポが速くてリズミカルな音楽。正味90分のステージが短く感じられるほど面白かった。
『三浦佑之訳注古事記』は私の人生におおいなる影響と変革を齎した。この本が「古事記ブーム」を巻き起こした頃、その当時『文學界』編集者だったN氏から頂戴して読み、その前に齧っていた『武田祐吉訳注古事記』とを比較した後で國學院大学へ入り、岩波文庫『倉野憲司校注古事記』を一行ずつ丁寧に解釈していく授業を受けたお陰で『古事記世界』を理解することが出来たのだ。
『三浦古事記』を書評などに取り上げさせて戴いた後に『古事記講義』を三浦さんから送って戴いたので、御挨拶をしたかったのだけど、三浦さんは御多忙で終演前に京都へ行かれてしまい、残念。第五回くらいまで会は続くらしいので、いつか必ずお目にかかれるでしょう。
偶然にも、21日の晩に主催と企画を担当なさった方々と『風花』で出会い、何故か朝までカラオケをしたこともあって、打ち上げの席にお邪魔することになった。鈴木瑞穂さんと真向かいの席だったのでお話をさせて戴いたり、日本人以上に和服を見事に着こなすイスラエルとフランスのハーフで日本人の夫をもつ外国人女性、箏曲の師範をやっているシカゴ出身のアメリカ人男性、昔『イカ天』で審査員をやっていたという中年ロックンローラーがいたり、面白い出会いのおまけ付き。会の渉外を担当なさった男性がキメ細やかな配慮をしてくださったりして、舞台はもとより打ち上げの宴席まで楽しかった。散会後、ひとりで『風花』へ。貴重なチケットを譲ってくださったママ紀久子さんに感謝。
茄子の花と実06/19(日)12:30さいたま市与野『前「すばる」編集長片柳治さん告別式』→14:00新宿「風花」『平岡篤頼先生を偲ぶ会』
片柳さんは55歳の若さでガンに倒れられてしまった。在職中は『世間様かくありき』『産婆コト始メ』『たをやめの木乃伊』を掲載して戴いただけでなく、エッセイなどを書かせて戴いた。若々しいデザインのシャツを清潔な感じで着こなす方だったので「おしゃれですねー」と言うと「そぉ?」と少し笑ってらした。独身と聞いていたけど、どの場所でも周囲に女性が何人もいるのが自然な印象の方だった。思い起こせば、5、6年前までの『すばる文学カフェ』の打ち上げの席に、元々「すばる」出身ではない他所者の私を迎え入れてくださったり、生まれて初めての随筆を書かせて戴いたり、『世間様かくありき』発行の際は「今月のひと」に取り上げてくださったり、窓口は現編集長の長谷川さんだったけれど、片柳さん、ありがとうございました、とお礼を申し上げたいから告別式に伺います。
平岡先生はお酒の席で2、3回御一緒させて戴いただけにしても、亡くなった私の父と同じ年生まれなこともあって親しくお話させて戴いた。手の指やお顔の肌が瑞々しく透明感があり、つい「先生、きれいー」と指を触ったりしても優しい目で笑ってくださった。知性と教養は、老いてなお人を美しくするのだなぁ、品格のある方は豊潤な慈愛をもって若い者に優しく接してくださるのだなぁ、としみじみと感慨に耽ってしまうような、そんな方でした。本当は、お通夜と告別式にも伺いたかったのだけど、早稲田出身じゃないし、先生の教え子じゃないし、それに、ここ2年も小説を発表していない身だから、業界関係者に「おまえごときが何しに来た」=《お悔やみ営業》と思われるのじゃないか、と遠慮してしまった・・・。でも「風花」で平岡先生と愉しくお喋りをしていたのを御存知のママ紀久子さんが迎え入れてくださったお陰で、主催の『早稲田文学』から御案内状を頂戴したから伺うことにした。こころから平岡先生を偲びたい。ほんとうにきれいなおじいちゃまだった。ウチの親父も、知的教養に満ちた或は学問をすることが許される環境に生まれ育っていたら、きっと平岡先生のように、ゆったりとやさしい人柄でいられたろうに、と思う。同じ昭和4年生まれでも、こうも違うのか、とうっとりしながら平岡先生をつくづく眺めさせて戴いた。平岡先生、私も年老いたら先生のように若いモンに優しくありたい、平岡先生に肖りたいと思います。06/13(月)13:00飯田橋・角川K女史に『無花果日誌』文庫ゲラをお渡しするついでにお昼を御馳走になる。
06/07(火)20:00角川K女史宅で、カリスマ美容師横山さんに髪を切ってもらう。実に1年半ぶりのカット。角川K女史&T女史とで小料理屋へ→ひとりで「風花」へ。平岡先生が「風花」で倒れられたことを知る。
06/03(金)日本橋@英会話の後、新宿で某神社@嫁と待ち合わせ『オペレッタ狸御殿』を観る。オダギリジョーが素敵。
【2005年の仕事・上半期】
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