若合春侑の仕事・身邊雜記

2005年上半期


【最近、読んだ本+読んでいる本+買った本】
(「最近」というのは國學院大学卒業後、ここ2ヶ月)
『ペスト』(カミュ/新潮文庫)
『異邦人』(カミュ/新潮文庫)*再々読
『夢使い』(島田雅彦/講談社)*再々読
『悪について』(エーリッヒ・フロム/紀伊國屋書店)
『コーラン(上・中・下)』(井筒俊彦訳/岩波文庫)
『イスラームとコーラン』(牧野信也/講談社学術文庫)
『イスラームの日常世界』(片倉もとこ/岩波新書)
『「特攻」と遺族の戦後』(宮本雅史/角川書店)
『霊性の文学誌』(鎌田東二/作品社)
『罪と罰』(ドストエフスキー/ロシア文学全集1)*再読
『憎しみは愛よりも深し 実録16歳連続殺人事件(安土茂/河出文庫)
『世間様かくありき』(若合春侑/集英社)*ゲラ校正以来の再読
『からだとダイビング Q&A』(山見信夫/サンエイテイ)
『ASIA PACIFIC REEF GUIDE』(Helmut Debelius/IKAN)
『海洋生物ガイドブック』(益田 一/東海大学出版)
『海の危険生物ガイドブック』(山本典暎/阪急コミュニケーションズ)

【最近、定期講読を始めた雑誌】
『月刊 Diver』
(ダイバー株式会社)
『ねこのきもち』(ベネッセ)
『TIME』 
この他、
『婦人公論』『群像』『小説現代』『すばる』『潮』
『本の旅人』『新刊ニュース』『文藝ポスト』
をお送り戴いており、
有り難く拝読しています。

05/29(日)早朝、薫が借りて来たビデオを3本続けて観る。『ラストサムライ』『八月のクリスマス』『スターウォーズ ジュダイの復讐』

05/27(金)13:15日本橋。約2ヶ月ぶりにイケメンBの英会話。Bの新しい恋人の惚気話が大半だし、東京ガスに電話連絡をしてあげたり(不動産屋に電話してあげたこともある)相変わらずの公私混同にウンザリ。1時間2800円×2が勿体ないくらい中味の薄いレッスンだし。新しいアメリカ人先生と出会いたいのだけど・・・いい人いないかなぁ。

05/26(木)19:00角川K女史来宅

05/24(火)夕方、大泉芽衣子来宅。薫が大量の鳥の唐揚げを作ってくれた。前夜からの漬け込みは私だけど、私は揚げ物が苦手。大泉の誕生祝いパーティーなので、プレゼントをあれこれ用意したのだけど、赤ワインを飲んで泥酔した挙げ句、要らないというものまで無理矢理持たせてしまい、薫に「まるで大泉さんのお母さんみたいだった」といわれて少し反省。真夜中、3人で「風花」へ。1:30頃、島田せんせ登場。久々に話したものの泥酔していたので記憶は朧げ。「小説、早く書けよ!」と言われたのと、島田せんせの帰り際、せんせが無抵抗なのをいいことに痴女に成り上がって?両ほっぺにちゅーしたのはちゃんと覚えている(こんなことを書くと島田読者に殺されるか。否、“ただの太ったおばさん”のやったことなんでヤキモチ御無用)。いつからなのか島田せんせは爽やかで穏やかなおじさまになってらして、話していても眺めていても気持ちい〜ぃ感じ。朝の白い光を浴びながら帰宅。大泉、泊まる。

『無花果日誌』文庫化決定!
7月下旬発売予定・角川文庫

夏休み中に多くの中高生に読んで貰えたら嬉しいです。

05/08(日)14:00横浜:神奈川近代文学館『三島由紀夫ドラマティックヒストリー講座』島田雅彦「多面体・三島由紀夫」島田せんせを拝見するのは約2年ぶり。笑いのツボをおさえた話は相変わらず面白い。教授になられてから講義に慣れ馴染んでいらっしゃるみたいで話がさらに潤い滑らか(講座の内容については、一部、見解が違うところもあったけれど)。おじさまの雰囲気になられた島田せんせは若い頃とは違った魅力。帰宅後、せんせにメールを書いたら、短いながらもお返事くれた。筆不精を公言なさっているのに驚き!私も、小説、頑張らないとーと意をあらたにした。

05/05(木)16:00浅草「どぜう」を食らいに行く(『飯田屋』は雰囲気、値段、味、接客、すべて満足。昔、母が作ったどじょうの味噌汁とは比較にならない旨さだった)→吾妻橋のたもとで隅田川を眺める→浅草神社参詣→上野駅構内『Hard Rock Cafe』で酒→元家族、宮城へ帰る。


05/04(水)7:45新宿西口から日帰りバスツアーで、富士山を眺めつつ焼津へ→「まぐろトロ尽くし懐石」はどうってことなし→「筍の試食」は少な過ぎ→「メロンと苺の食べ放題」はかなり満足→「お茶の葉の天麩羅」は冷めていた→渋滞→22:00新宿着(初めて日帰りバスツアーなるものに参加。個人で行くより安いし、ドライバーやナビゲータの負担がなくて楽。でも、過密スケジュールで忙しかったかも)

05/03(火)16:004年ぶりに世田谷区下馬へ→三宿の交差点から池尻一丁目へ(倅@薫の母校池尻中学は新星中学と合併して三宿中学になっていた。10年前に2年間だけ借りていたアパート『ま・めぞん』は健在)→三宿通りは4年前と殆ど変わっていなかった→かつて住んでいたマンションも健在。相変わらずの古さだったけれど1Fのカフェ『FUNGO』は盛況(客は皆、格好つけてお茶してて、目付きが変。どうってことない街なのにね)→下馬通りとの交差点近くまで歩いて引き返し『FUNGO』でビールを飲む(この店で取材を受けたり、打ち合わせをしたことが幾度あったか。新聞記者や編集者の皆さんに御足労をお掛けしたのだなぁと感慨)→世田谷公園を散策→日時計のある丘へ登る→公園そばのフランス料理店で食事。
05/02(火)21:00元家族、宮城から上京。


04/24(日)14:00〜伝統文化鑑賞会『和歌の披講』(国立劇場・大劇場)國學院の祭式作法の授業で一緒だった某神社の玉の輿@嫁が誘ってくれた。「宮中歌会始」のステージ版で、三笠宮殿下妃殿下御臨席。勅撰和歌集「古今集」「新古今集」、今年の「歌会始」から選んだ数首を、例の語尾を延ばす詠み方で披講するというもの。以前、紀宮と噂になった坊城俊成氏がステージ映えのする若手でなかなか面白かった→玉の輿@嫁と有楽町に移動し、交通会館最上階の回るスカイラウンジへ。そこへ某神社の神職兼某神社の跡取と7月に結婚する玉の輿@娘が合流。3人で銀座の小料理屋へ。

<知人各位>
4/22、携帯電話を紛失しました。
機種変更をしましたので、番号は以前と同じですが、
アドレス帳を作り直さなければなりません。
若合の携帯電話番号を御存知の方、ぜひ電話をかけてください。
同様に携帯メールのほうもお願いします。
但し、旧電話機内の番号やアドレスなどのデータを悪用される可能性もあり、
万が一の場合はお詫びのしようもありません。

04/22(金)10:00医科歯科大→病状改善により、チャンバーでの治療終了!
04/20(水)10:00医科歯科大→チャンバー治療後、整形外科医に頚椎を診て戴いたところ、脊髄と脊髄の間にある椎間板に磨耗したような変形があるとのこと。手の痺れはそれが原因であるものの治療方法がないため、無理な姿勢をとったりするなどの刺激を与えなければ良いとのこと。

04/15(金)9:30東京医科歯科大『高気圧治療室』で治療を受ける。

04/14(木)14:00目白「私のクリニック」という名の医院で減圧症専門医の山見信夫先生の診察を受ける。ダイビング自体には問題はなく、勿論、飛行機搭乗時間も23時間半後だから誘因にならない。過剰ストレスと体力低下に因るのかどうか、それも不明、とのこと。減圧症の誘因は30項目もあるのですって。明白なのは、減圧症の重症と軽症のあいだ(中症?)ということ。

 減圧症に関するサイト:『安全潜水を考える会』
            『減圧症体験記・安全潜水情報』

悶々と痛みに耐えるばかりの日々でした。
もっと早く減圧症であることに気付けばよかったのに・・・。

04/06(水)具合は良くない。血液検査の結果は問題なしだったので、主治医が沈思した後、家から最も近い大病院の整形外科に紹介状を書いてくれた。しかし、どうも怪しい。減圧症の疑い有りだ。

04/05(火)薫、入学式。朝、「行って来るよー」と声を掛けられ、目を開けたらスーツ姿の薫が立っていた。午後1:30待ち合わせの新宿駅東口交番前に着いた途端、若いサラリーマンが駆け寄って来たので「ちがうー」と内心で拒絶したら、薫だった。定期券だの、大学で使う電子辞書だの、今日は薫のためにいっぱい金を使ってやろう、くらいの気分で「Gパン、買ってあげるよ」とか言っていたのに、結局、奴が家に持ち運んだのは『AQUOS22型』だった。これまでテレビを観るのは特定番組のみの私は、逆輸入テレビデオでも不自由ではなかったけれど、先日の『サッカー@バーレーン戦』で、あまりに見え難いので「この試合、勝ったら、買う」と酔っ払い宣言をしたのだった。試合の内容はどうあれ、とにかくも勝ったのだから、勝ちは勝ち。帰り、アルタ前バス停で大声で口喧嘩。周りも呆れていた。(因みに、薫は、はりきって大学へ行っています。「希望に満ち溢れた大学生活とは、このことだー」と宣うほどに。ふーん)

04/02(土)朝一番、近所の主治医へ。採血。夕方、角川K女史来宅。


03/30(水)夕方、近所の主治医へ。異常な肩凝りと左上腕部の痛みに加え、左指先が痺れる症状→精密検査。

03/28(月)國學院の友人(女性2名とその片方の彼氏)来宅。卒業、大学合格、新婚旅行実施、結婚式の日程決定など、おめでたいことばかりの祝宴となり、薫、調子にのって2本で9960円もする赤ワインを注文。電話一本で配達してくれる「カクヤス」は、毎度、重宝だし、やたら旨かったけど、がぶ飲みするには惜しいかも〜?

03/25(金)日本橋@英会話→國學院へ行き、卒業証書と神職階位証を戴いた後、生協、解約→食材を大量に買い込み、帰宅。

03/23(水)薫の大学入学手続きのため、銀行、郵便局、区役所支所へ。

03/22(火)21:00成田着→郵便受けから溢れそうな書簡の中に、薫への合格通知あり。薫、狂喜。浪人生活に終止符を打つことが出来て、めでたし。
03/21(月)午前中2本潜り、16:00過ぎ、本島へ移動。“いつものレストラン”で食事。(今回、私のFun diveは15本。二日酔いで3本キャンセルしてしまった)
03/20(日)大学の卒業式だけれど・・・欠席。
03/17(木)薫、ライセンス取得。私よりも水に慣れている薫は水中でかなり落ち着いており、Divingセンスも良いみたい。当然、いつの間にか体調が戻っていた様子。
03/15(火)朝9:00Fiji着→Beachcomber島へ。私は早速、Fun dive一本。薫はオープンウォーターコース申し込み。
03/14(月)顔面蒼白な薫を連れて出発〜仁川空港で買い物。

03/12(土)午後、薫と渋谷へ行き、ダイブ・コンピュータやFijiへのお土産などの買い物→居酒屋で食事をして帰る途中、渋谷駅の階段で國學院神道学科のイケメン陽ちゃんと出会す。卒業したら会えなくなるので、嬉しい偶然だった→深夜、薫、体調を崩す→翌13(日)薫、朝から吐き捲り、ネット検索で調べた救急病院へ→「ウィルス性急性胃炎」とのこと。「Fiji行きを断念したい」と宣う程に苦しむ薫と「無理してでも行けば治る」と楽観的な私。薫が出掛ける直前に何らかのトラブルを起こすのは昔からよくあることだ。

03/08(火)19:30有楽町。『DANNY THE DOG』試写会。主演Jet Liの舞台挨拶付き。暴力的アクションに目を見張るものはあるし、ヒューマニズムやら人間の傲慢さや卑劣さが描かれているものの、ピアノの選曲に、ちょっと不満。公開は初夏。

03/05(土)卒業可否の発表→卒業出来ました。卒業に必要な128単位より少し多い140単位。昨年度に比べてBの数が多いものの、卒論にAを戴いたのが嬉しかった。でも、岡田荘司教授の御慈悲というか、お人柄のお陰というか、サービスで戴いた気がしないでもない。面接で「これは全員に質問しているのだけど、自分の卒論の長所と短所を挙げてください」といわれ「長所は足で書いたことです(各地を取材して書いた、の意)。短所は論文になっていないことです」とお答えしたら、岡田教授も「そうそう、まるで紀行文だね」と笑ってくださった。ほんと、アタマの悪い文章で、恥ずかしいこと、このうえなし。でも、岡田教授は「やっぱり手書きはいいねぇ。最近、手書きの卒論は少ないし、論文にありがちな学術用語ばかりの文章ではなかったから、読みやすくて、一気に読みましたよ、久しぶりにワクワクしながら」と言ってくださった。そもそも最初から「どんな形でも構わないから、好きなように書いていいよ、小説仕立てでもいいし」と“論文にこだわらない許可”を戴いていたのでした。“読みやすさ”に関しては、それは、その、一応、作家ですし、小説でもそれを心掛けていますので、とは申し上げたりはしなかったけれど。その他、欠席が多かったにも拘らずAをくださった高城先生には申し訳なさと感謝でいっぱいです。先生方には後日、あらためてお礼状をお出しするつもりです。卒業にあたっての感慨としては、たった2年間なので呆気無くもあり、まだ何かが足りない気がするので、自分なりに勉強は続けます、というところ→18:30渋谷シネタワーで『THE BOURNE SUPREMACY』を観る(英会話のイケメンBが強く薦めるので)。迫力があって、まずまず面白かった。インド、ナポリ、ベルリン、モスクワ、ニューヨークが舞台になっていて、去年暮れにトランジットで訪れたモスクワの街に興味津々。やっぱりトランジット・ビザをとって街中に出ればよかった。ベルリンの街もかなり美しく、一度は訪れてみたいのだけど、海外旅行はすべてスキューバダイビングを第一目的にしているため、ベルリン訪問はいつになるやら見当もつかない。

03/01(火)〜03(木)渋谷の神社本庁(全国約8万の神社を総括する宗教法人)で中央実習→この実習が終了し、3/5に卒業が決定すると『明階検定正階』という階位の神職資格が得られます。どこかの神社で二年間働けば(神社で働くことを「奉職」といいます)明階という正階より上の階位の検定を受ける資格が得られますが、私には奉職先がない。得ようとする努力もしていないので、フリーの神主さんになるしかない訳です。しかし、その実践の場もないので、役に立たない資格を得ることになります。もともと“日本人の魂の根源”を知りたくて学んだので、國學院での勉強はすべて無駄にはならない、と確信しているけど。
 講義の一番最後に某講師が仰ったひとことに驚愕。「神社本庁創設の第一の目的は、天皇陛下をお護りすること」そうだったの・・・神道はやはり右翼だったのね・・・世の中の人々が言っていたのは本当だったのね・・・。がーん(←古い)!一般人が神社でお祓いを受けたり何らかの祈願をするシモジモの現実とは、どこかズレている気がしないでもないのだけど。國學院での授業では、天皇家に関する話はさほど多くなく、教授の個人的な思い入れなのだろう、という程度に捉え、神道=右翼ではない、と思い込んでいた自分の浅学ぶりに呆れる。・・・嗚呼!私自身は、左にも右にも翼がなく、地べたを這って生きておりますが。
 
取り敢えず『明階検定正階』(神社本庁が認定発行する神職資格)取得。禊も駆け足もなく肉体的にはハードではなかったけれど、禁煙がつらかった。飛行機に乗っているつもりで我慢したのだけど、いっそ、やめればいいのに、喫煙。


02/13(日)12:00宮城から元家族上京。家族原型三人揃って、るーを囲み、ささやかなお葬式→13:00移動火葬車『東京ペットチャオ』到着→14:00お骨拾い。『東京ペットチャオ』のおじさんは、穏やかな慈愛を秘めた好い感じの方だった。こんな格安で、一応仏教だけれど、ちっとも宗教臭くなく、こんなに配慮に満ちている業者さんは他にないと思う。もしも、どなたかに御不幸があった場合は、お薦めします、という意味で、リンクを貼っておきます→三人で神田川沿いを散歩→生協で食材を買って、御葬式の後の、いわば法要じみた食事をとる(葬儀に関しては、明治政府の取り決め以来の風習である仏式しか知らないものだから)→宮城へ帰る元家族に在りし日の「麗しき:るー嬢」の写真を持たせた。一番つらいのは、3年半ふたりだけで一緒に暮らした元家族だよね、責めて、ごめんね、と思うのは、・・・だけど、半分だけだ。わかってるけど、わかるけど。
 るーは、死んでも美しかった。老衰なんかじゃなかった。もっと生きられるはずだった。死ななくていい時期に、死なせてしまった。ごめんね、ごめんね、と胸の内で呟くだけで涙が溢れて来る。抱き締めれば必ず温かったるーが、まるで氷粒を詰めたような冷たいぬいぐるみとなり、ずっしりと重くなった。でも、病気の苦痛から解放されて安堵したような表情は、どこか幼くて、かつて呼んでいた「麗しき:るー嬢」のままだった。本当に美しかった。こんな綺麗な肉体を、なきものにしてしまうなんて、勿体ない、と悔しくて、るーに申し訳なくて、それから、かつての愛くるしい声や仕草を思い出し、そして、どれほどに苦しくて寒かっただろうと、手放してしまったことを、悔んで、悔んで、謝っている。典型的ペットロス症候群と言えるけれど、喪失の後の痛みを痛みとして受け入れ感じていたい。

『長命ヶ丘の熊谷さん』をさがしています。

 1999年6月に、るーを譲ってくださった『仙台市泉区長命ヶ丘の熊谷さん』に、るーの逝去、というより、16年8ヶ月生きました、ということをお知らせしたくて仙台の電話帳に載っている限りのお宅に電話を掛けて問い合わせたのですが、該当がありませんでした。
 るーの年齢分に当たる過去の事なので、諦めるべきかもしれませんが、インターネットの可能性に賭けてお尋ねします。

『長命ヶ丘の熊谷さん』は、犬や猫を大事に育てる御家族として『動物愛護協会』から表彰されたことがあり、『亜紀さん』もしくは『亜希さん』というお孃さんがいらっしゃいました。2000年6月に私達が東京に来て暫くしてから、お孃さんがるーに会いに来てくれたことがありました。

 当時、私の名字は「大滝」で、仙台市青葉区片平在住。倅の薫は五歳で東北音楽学校幼稚科の年中でした。るーをもらいに行った時は、家族三人で伺いました。

 るーは『熊谷さん』のお宅では「あこや」と呼ばれていました。
早逝してしまった「ヘブンちゃん」というるーのおにいちゃん、真っ白くて大きな大きなるーのおばあちゃん、るーのおかあさん、その他、一戸建ての庭に大きな犬がいました。

『17年前に仙台市泉区長命ヶ丘に住んでいた熊谷さん』
御存知の方がいらっしゃいましたら、
どうか
若合にご連絡ください。お願いします。


02/12(土)8:30動物病院から「るー逝去」の電話。受験第一日目の薫の手前、冷静でいようとしても嗚咽を堪えらなかった私に電話の内容を尋ねた薫は、ひとしきり隠れるようにして泣き、「血の気も失せた」という表現そのものの蒼白な顔で第一志望学科の受験に出掛けた
(→落ちた。因みに薫は『駿大予備学校市ヶ谷校』に三年も通っていた。知る人ぞ知る『駿大市ヶ谷』は今年限りにして、かつての志望は捨てたらしい。それもいいと思う。わかんないけど。ちょっと勿体ないけど。いや、いいんだと思う、薫が決めたことだから)→花屋で、るーの好きなカスミ草にピンクのガーベラを添えた花束の他に、カスミ草と白い花で小さなブーケを作ってもらい、迎えに行った→小さなブーケは「るーが亡くなった場所に置いてください」とお医者さんに渡した→動かないるーを連れて帰る前に、うまく出て来ない声で「昨日の時点で、もう、手遅れだったんですよね」とお医者さんに尋ねたのは、るーの死の仕方なさを自分に言い聞かせるためだったのだけど、普段はのほほんとした表情のお医者さんが顔をきゅっとさせて「でも、出来る限りのことはしようと」と仰るので「そうですよね、そうですよね」と頷く他なかった。だって、たった一晩の、その朝だもの・・・。前夜からの様子をうかがって納得出来ても、無念さが消えないし・・・。目を真っ赤にさせて私と一緒に泣いてくれている看護婦さんにドアを開けてもらって病院を出る→るーとお花を納めた白い段ボール箱を抱えて泣きながら歩く。わずか3、4分の道のりなのに、しかも、たった3.34キロしかないはずなのに、るーが重くて腰が痛くなり、るーの魂の重さだと感じられた。重いよ、るーちゃん、かつては8キロ以上も太っていたんだよね、おっとりしていて臆病で丸まる肥って可愛かったけど、そのために腎臓を悪くさせてしまった、ねこの成人病というやつだ。私のせいだ、私に知識があればよかった→ふらふらよろよろしつつも、お通夜の段取りをし、インターネットで検索して火葬の予約を入れた→薫とふたり、お通夜。
 
仏式でも神式でもない、るーの好きなお花と、るーが飲みたくて仕方なかったお水と、るーの好きな御飯を供え、好い香りのするロウソクを灯すだけの形。お寿司屋だの酒屋だのの配達の後、動物病院から大きな花束が届いた。配達してくれたおじさんが優しい配慮を見せたのは『るーちゃんの御冥福をお祈りします。××動物病院』なんてカードが添えられていたから。でも、ほんと、優しい顔のおじさんだった。
「お通夜には、やっぱりお寿司だよね」と言って涙を堪える薫は「俺、何も出来なかった」と、やっぱり、泣いた。4歳11ヶ月から17歳11ヶ月まで、きょうだいとして育ったんだものね。幼稚園の絵日記にも、るーのこと、描いてたものね。るーのほうは「ばかたれ薫」って感じで、あんまり尊敬してなかったみたいだけど、夜は私と一緒に寝ても、やがて家族全員を巡回して、一度は必ず薫の布団に入って寝てたものね。

02/11(金)10:00るーを近所の動物病院へ連れていく→入院
02/10(木)最終一本前の新幹線で、るーを東京へ連れて帰る。
 
大宮に近付いた辺りだったか、るーが以前と同じ可愛らしい甘え声で「にゃー」と私を呼んでくれた。病気が重くなって、脳の中にも毒素が廻っていたであろう、るーは、苦しそうな呻き声は出すものの、なかなか甘え声が出せないでいたから、ほんわり、ふんわり、うれしかった。その晩も、るーは、ものすごい気概と気骨を体現した。具体的には書かないけれど、凄まじく格好よかった。
02/09(水)12:30六本木→14:30過ぎの新幹線で宮城へ。痛々しい姿でありながら、るーは気概と気骨で「自立」の様子を見せていた。私も年をとったら、るーに肖りたいと思った。

02/08(火)17:30卒論の面接。僅か15分の面接でしたが、緊張しつつも指導の岡田荘司教授のにこやかで慈しみに満ちたお顔に少し安堵。通常なら返却されるらしい卒論を岡田教授が「記念に貰っておくよ」と仰られ、不出来でお粗末なゴミに近い代物をお預けして好いものやら迷うものの、置いて来てしまいました→19:00銀座一丁目で實業之日本@武井氏に会う。久しぶりに超旨い焼き鳥屋「鳥清」へ。親父さんと内儀さんの他に息子さんも加わった「鳥清」は相変わらず旨かった。鳥レバーの刺し身は白子のよう。武井さんの高校時代の後輩O氏が合流。もう一件、美しい女性のいるお洒落で綺麗なバーへ。デビューして間もなく知り合った武井氏とは、これまで飲むばかりで、まともな仕事を一度もしていない・・・。いつかきっと恩返し(「恩」という字は「飯」あるいは「酒」の意なんだけど)します、武井さん。

02/03(木)15:00仙台着。路傍に残雪→『東京第一ホテル仙台』→佐伯さんの受賞作『鉄塔家族』の舞台である「鉄塔(テレビ塔)」を眺めるため、以前、住んでいた片平まで歩く。花壇へ下りて花屋がまだあったのを確認するも、一番丁に戻って花束を作ってもらう→駆け足で18:30名掛丁「大ばん」『佐伯一麦氏@大佛次郎賞受賞祝賀パーティー』→佐伯さんのお人柄や、河北新報の方々のお陰で、なごやかで、美味しくて、愉しいパーティーでした。12:00頃、佐伯さんがお帰りになった後、河北新報の3人と1:30まで酒のみ。無理に付き合わせてしまって申し訳なかったです。→04(金)11:00『As Time』へ。マスターが相変わらずの渋くて良い声で話し掛けてくださった→12:30塩竈へ。足腰がうまく機能しない、今年17歳になる黒猫の女の子@るーの衰弱状態に泣く。話し掛ければ返事をし、撫でればノドを鳴らして顎をあげるけれど、水も食べ物も受け付けないで炬燵に入って寝ている→実家へ行き、老母と会う→夕方、るーを病院へ連れていく。おそらく腎不全で手の施しようがないとのことだったけど、水分と栄養剤を注射してもらう→隠れ家的な料亭で夕食→新幹線、最終一本前で帰京。るーのことで頭がいっぱいになり、朝まで大泣き。翌日も、その後も、ずっと泣きっぱなし。どうしていいのか、わからない。るーは、もう生きようとする気力がないみたいだ。手放した当時の状況の仕方なさ、その後、安心しきって一年半も会っていなかったことへの後悔や様々な思いが込み上げて、やり切れない。「老衰」の一語で納得しようったって、無理だ。引き取って、最後を看取りたい、と思うのだけれど、果たして、るーにとって、それが良いのかどうか、わからない。黒い毛がごわごわになり、空っぽのお腹から酷い臭いを放っているものの、病院で小鳥や金魚を見せてあげれば目を見張る、るーは、童女そのもの。親父の死よりも、直接的に胸に来る。私の人生の中で一緒に寝た時間が一番長いのが、るーだもの。


『角川書店@文庫読み放題』
『無花果日誌』『蜉蝣』も収録されるそうです。
システムについては
『文庫読み放題』を御覧ください!


01/28(金)『近代神道史』卒業試験終了(再試験がなければ、の話だけど)
 
奇しくも沖縄からの靖国訴訟の判決日。世間では大物右翼の論客といわれる大原康男先生が試験の前に「朗報です」と判決について教えてくださった。大原先生の授業からは、昨年度の『関係法規』に始まって、敗戦によるアメリカからの圧力で歴史上の事実をも歪められた日本を知った。そういう意味で、今回のイラクでの選挙を拒否する人達の心理が理解出来る。それにしても、大原先生の授業(脱線して挟み込まれる与太話がまた面白い)を伺っていると、右翼だとか何派だとかはどうでも好い話だと分かるし、これまでの歴史的経緯をしっかりと知ることが出来た。國學院の授業全般にも言えることだけど、お陰で、戦後教育の中にあって自分独りでは解消出来なかった、日本古来の潜在的な精神、土俗的な風習、伝承文化との様々な矛盾や疑問が解けた。一方的なイメージや単純な思い込みで物事を熱く語ってはいけないし、神道=右翼と思い込む偏ったエネルギーをもって他人を侮辱したり罵倒してはいけませんよ、と自称左翼+東大卒+団塊世代@酔っ払いおっさんに言ってあげたいところだけど、私はそんな親切じゃないし。
 構内を行く大原先生に、少し離れた場所からお礼を言って御辞儀をしたら「これからおおいに活躍してください!」だったか、とてもグッと来ちゃうような言葉を戴いて、きゅん!となった気持ちのまま発した「はいっ!」の返事が自分でも驚く程のハイテンションで、すかさず「先生も、お元気でっ!」と叫んだ、それだけでも泣けて来そうだった。大原先生は、実はお洒落で、毎授業時のスーツとシャツとネクタイのコーディネートがとてもナイス。
 すっかり暗くなった構内を歩いていたら、たった二年間だったけど、良い大学だったなぁ、出会えて嬉しい先生がたくさんいてくださったなぁ、としみじみして涙が込み上げた。今日だって、昨年から学長になった安蘇谷教授と構内で擦れ違う時に「安蘇谷先生〜、こんにちはー」と声を掛けたら「おー!元気?あ、もう卒業か。これからも頑張ってよー」なんて返して戴いて。そんな会話の出来る大学だもの、國學院は。
 割引が可能なうちに、と生協へ行き、『折口信夫集』(日本近代文学大系・角川書店)『折口信夫』(近代浪漫派文庫・新学社)『古代感愛集 釋迢空 詩歌文学館・復刻版(近代文学館)『折口信夫の晩年』(岡野弘彦・中央公論社)『折口信夫論』(松浦寿輝・批評空間叢書/太田出版)の他、ビタミンCのど飴5個だの、チョコレートだの、チップスターだのを買う。一万円で僅かにお釣が来た。古本も売っているし、お菓子は安いし、大学生協は有り難い。三月末までに学校へ行く予定は三回。次は、今日、買わずに来た本居宣長と古典関係書を入手する予定。品揃えが如何にも國學院らしい生協の書籍。
01/27(木)『祝詞作文』試験→リタイヤ(今年度は、インド関係の授業のレポートもリタイヤしたので、今のところ、8単位も失ってしまった。卒業には影響がないものの、胸痛し)
01/25(火)『日本宗教史』『倫理学』レポート提出→『祭式行事作法』試験→
『神道思想史研究』授業の打ち上げ(西岡和彦先生+五名の男子とともに居酒屋へ。楽しかった〜〜!!西岡先生、素敵で、かっこいいし、頭脳の抽き出しをもっと開けさせて戴いて、もっともっと話を聞きたい、と思った。)    
01/24(月)『英語C』試験→リタイヤ(TOEIC試験対策の英語で、受けてもどうせ70点にならないしなぁ、と思って諦めてしまった。因みに前期は67点だったか、そんな程度だったし)
01/22(土)中央実習事前研修
01/21(金)
『神道関係書道』の最終日だったのに、朝までかかった『神社有職故実』のリポートで体調おもわしくないためリタイヤ→『神社有職故実』のレポートは提出
01/20(木)『祭祀学研究』試験
01/19(水)日本橋@英会話、『神社史』試験
01/16(日)夕方、倅同伴で角川K女史の行きつけの旨いもんじゃ焼き屋へ。そこの親父さんのキャラクターはスゴイ、面白い、でも、カロリーオーバーですから〜〜→K女史宅にお邪魔して、シャンパンだの林檎だのヨーグルトだのを戴く。K女史邸のゴージャスさに、倅は溜め息をつくばかりでした、なーんて書くと「やーめーてーよ」と言われそうだけど、だって、ほんとなんだもん。去年、引越したばかりの時より、立派なソファーのセットなんかが置かれていて、さらにゴージャスになってたし。K女史が海外に出たがらない気持ち、納得。出掛けるよりも自宅が癒しの空間になっているってことなのね。
01/11(火)締切30分前に卒論提出。
約20時間掛かって手書きした。必死の形相で書いている私の傍で「一枚書くのに、約二十分だね」と冷めた目で観察し、残り枚数と所要時間と締切時刻から「絶望かも・・・でも頑張って〜」なんて半端な励ましをしていた倅が、真夜中(午前三時頃だから未明ともいう)唐突に鮭茶漬け(塩引き&煎茶+粉砕したおかきをトッピング)を作ってくれた。どぅわぁぁ〜っ、ほぉあぁぁ〜っ、と大きな溜め息をつく程に美味しくて、疲れが吹き飛んだ。すげぇ〜いい倅だーっと思った。

01/02(日)だらだらと過ごしたお正月(内心では、卒論が気になり、少しも穏やかではなかったけれど)。夜、宮城へ帰る元家族を送って上野まで。

2004年12月26日に起きた
スマトラ沖地震による津波の被害報道を目にする度に
涙の禁じ得ない今です。というのも、
大きな波にのまれて破壊されてしまったのが、
11月に訪れた、
インドネシア・バリ島にそっくりな美しい風景だからです。
たくさんの人や町や、海の生き物を育む珊瑚も、
ごっそりと命を削られてしまった。
過酷な現実の前に、泣くこと以外、
何も出来ない自分の非力さも痛みを増幅させます。
何も出来ないでいる以上、
言葉を連ねるのが端なく感じられます。
卒論のこともありましたが、
身辺雑記に何も書けないでおりました。
今後、いつ、どんな形になるか分からないにしても
私に出来ることを模索します。


【2004年の仕事・下半期】


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