若合春侑の仕事・身邊雜記 2004年下半期 12/31(金)元家族=薫の父、宮城から上京。18:30リーガロイヤル・ホテル内レストランでフレンチ料理を食す。シャンパンから始まり、赤ワインを2本空けて食後酒まで飲み、3人で八万円(←元家族が払った)→カラオケ
12/24(金)11:00成田着。アエロフロートに関する悪い噂(荷物の紛失やスーツケース等の破損、遅延etc)が現実化されることは一切なく、機内食は今までの飛行機で一番美味しかった。成田で荷物を確保するまで気が抜けなかったにしても、インターネット掲示板からの情報はちっとも当てにならないと痛感→13:00薫が上野まで迎えに来てくれて、蕎麦屋へ。2人で6人前も食べた→17:00日本橋@英会話(イケメン講師Bに、頼まれていたスティック・デオドラント3本(日本+カイロ+モスクワの各免税店で買った)とエジプトの香水のお土産をあげた。イケメンが喜ぶ様子を見るのは気持ちがいい)
12/23(木)01:30カイロ発→06:35モスクワ着
この日、トランジット用ホテルを利用するアエロフロートの客は私ひとり。カイロから一緒だった壮年の御夫婦はトランジット・ビザをとって地下鉄でモスクワ市街へ。後で悔むことになるとは思わず、機内での短時間睡眠をものともしない御夫婦の元気の良さに感心しきり。
アエロフロートの都合で9時まで待たされ、それから約1時間待たされ、やっと「ソユーズ・ホテル」へ。車の中からとはいえ空港の外に出られたのは良かったけれど、ホテルでは改修工事をやっており、大騒音で眠れず。フロントに電話をかけて抗議するものの効果なし。呆れたホテルだった。こんなんだったら、眠くてもビザをとって市街に出れば良かった、と口惜しい思い。お陰で飛行機の中では爆睡。
ロシア人の印象は、といえば、足が超長い美人やハンサムがたくさんいて瞠目したけど、うーん、世の中の大変革を成長過程で経験した人達ばかりだから、目が暗くて愛想のない人が多いんだろうな、だけど、あと10年もしたら西側ナイズされた表情が増えるのだろうな、と思いました。モスクワは雪でした。水分の少ない、極寒の地らしい雪で♪雪の降る街を〜♪の風景そのもの。暗かった。19:20モスクワ発→成田
12/22(水)Hanyの30th Birthday。カイロ最大のスーパーマーケットへ。そこで買ったお弁当を持って、市街が一望出来る丘へ行き、夕陽が落ちるのを眺める。Hanyは、ここでも水煙草。野良猫に御飯をあげる。エジプトはやたらと野良猫がいる。みんな可愛い→アパートに戻って、写真を撮った→空港へ
12/21(火)サッカーラという村へ向かう途中、鳩料理を食す。赤ピラミッド、屈折ピラミッド、階段ピラミッドを観る。前日と同じシーフードレストランへ。
12/20(月)朝御飯の後、アレキサンドリアの街を一人で歩く(風邪の治らないHanyはホテルで寝ていた。エジプトの街を歩けば、相変わらず、通りすがりの車がクラクションを鳴らしたり、わざわざ停車したりして「乗ってかねーか」と喧しい。ほんと煩わしいったらありゃしない)→13:00チェックアウト→途中のドライブインでHanyは水煙草、私はトルココーヒー→カイロに戻り、香水屋でHanyの友達サッチャン(=中年男のエジプシャン)と合流→3人でシーフードレストランと水煙草屋へ。
12/19(日)カイロから車で3時間のアレキサンドリアへ→地中海を眺められるレストランで食事→要塞とか、お城とか、海岸線を車で移動して、夕方「プラザ・ホテル」へ(Hanyは4階、私は12階の部屋。エジプトでは結婚前の男女が同宿することは出来ない。アパートを借りる際も「婚約者」ということで強引に承諾させたらしい)。古いヨーロッパの香りが混じる港町アレキサンドリアなら住んでもいいかな。でも、海に向かって立つと太陽が背中にしか当たらないから、やっぱり対岸のヨーロッパへ行きたい、と思うようになるんだろうなぁ。
12/18(土)「お湯が出ること」「泥棒が入らないこと」が最低条件だったアパート。大きな湯沸かし器がものすごく古くて、お湯が出ない。頼んだ修理屋が来ないし、どうするのか、と案じたら、なんとHanyが工具や部品を買って来て、直した。すごい・・・。夜、カイロ最大の繁華街(銀座に似ている)へ行き、小綺麗なレストランで、モロヘイヤのスープや鰻料理(エジプトの鰻は太くて脂が乗っていて泥臭い。それを輪切りにしてトマトソースに絡める)などを食べる。Hanyは私のお土産(時計とか電子辞書とかビデオetc)を喜んでくれた。でも、風邪をひいて元気がなかった。ずっと働きづくめだったせいで(9月より痩せていた)溜まっていた疲れがどっと出たらしい。
12/17(金)13:00成田発モスクワ経由でカイロへ→3時間のトランジット中、ビア・カフェから『Maroon5』の曲が流れて来て、おー、ロシアでも聴けたかと感慨。
翌0:30カイロ着。モスクワから隣席になったエジプシャンのおねえさんといろいろ話す→飛行機から眺め下ろすカイロの夜景は、それはそれは美しい。光の粒の芸術と言ってもいいくらい。おねえさんも自慢していた。空港内でHanyの友人が、Hanyが手書きした(私と自分の名が書いてあった)紙を掲げて出迎えてくれて(エジプトの空港では客の出迎えのために観光業者が空港内に入ることが出来る)ビザの申請もパッパッとやってくれて、ようやく玄関でHanyと再会→Hanyが借りた車で貸アパートへ(2ベッドルーム+2リビングで広い。古いけど、たいそう立派なマンション)新しい英語の先生は、まだ一人に絞っていないけれど、
一人は近所のAmerican25歳。お父さんがEgyptianなので、
簡単なArabicも教えてもらっています。
もう一人もAmerican。元海軍+元モデルの超イケメン26歳。
日本語が達者なのがむかつくけど、
イケメンならではの傲慢ぶりが私にとっての活力になるかも。
どちらに決めるか未定。いずれ自然に決まるはず。
11/27(土)14:00〜16:00(13:40より受付開始)大東文化大学板橋校舎:多目的ホールでのシンポジウム『「正仮名遣ひ」を考える』に出席。司会をなさる高城弘一先生は國學院で神道関係書道を御教授くださっており、夏休み前にお誘いくださったのでした。
この日の朝、久しぶりに悪夢(何度も、何度も「もっと生きたい」と低い声で呻く痩せた老人が全身から凄まじい火花を散らしている→感電しない中年男に助け出された)で目が覚めて、眠り直したものの体調すこぶる悪く、人前で何かを話す思考力と集中力と体力と我慢強さが足りず、打ち合わせの時点で逃げ出したくなっていました、と書いたら、高城先生や筒井先生や大東文化大学の諸先生や聴講の皆様に無礼に当たるのですが、ほんと、逃げ出したかった。社会人としての気構えが欠落している現在の自分を、つくづく思い知りました。でも、假名遣ひの歴史を分かりやすく講義してくださった筒井先生に間の手の援護を戴いて、しどろもどろになりつつ、くだけた雰囲気を味方につけて、予定していた内容は何とか話し終えました。細やかな御配慮をくださった高城先生にはこうべを垂れるばかりです。筒井先生にも感謝しています。筒井先生と同じギャラを頂戴するのが後ろめたかったです。11/06(土)8:50帰国
11/05(金)21:40クタ→成田
11/04(木)16:00チャンディダサ→クタ
10/30(土)11:00出国→バリ島@チャンディダサ
大学祭や創立記念日で休講なので、再びエジプトへ行き、アレキサンドリアで「水没したクレオパトラが生きた街」に潜ってみたかったのだけれど、11月はラマダンでガイドのHANYがメッカへ行って不在。というわけで、何故か、バリ島で10ダイブすることに。エジプトでイスラム、今度はバリでヒンドゥー。昨年、『世界宗教史』の授業で学んだり、各宗教の本を読んでレポートを提出した年4回の宿題が、今となっては旅の好機を誂える。『バリ島@勘違い日本人観光客の画像』
10/16(土)〜17日(日)8:13伊勢へ。名古屋から近鉄のサロンカーに乗って宇治山田駅へ→外宮で12:00からの祭を見学(神嘗祭をはじめとする神宮の祭は、一般の神社のように神輿を担いでワッショイする訳ではなく、天皇の勅使を迎えて神前で厳かに行なう)→寿司屋『大喜』で伊勢湾のうまい刺身を食す→猿田彦神社(『倫理学』鎌田先生ゆかりの神社で、社殿の造りが独特)→神宮会館→内宮→おかげ横町→『神社史』島津先生と合流して夕食→夜の祭へ出発する前に島津先生からレクチャーをうける→22:00内宮の夜の祭(神宮の祭は夜10時と夜中の2時から行なうものが多い)参拝と見学を許された400名とともに内宮へ。松明を灯した中での祭は古代から継承した原始的なもので、たいへん幻想的→23:00神宮会館へ戻って島津先生やその生徒たちと酒盛り→17日、5:30に起きて内宮へ(1時間半しか寝ていなかったので眠りながら歩く)→レンタカーで瀧原宮へ。8月の台風でお社の屋根に木が倒れ、茅葺きが壊れて無惨な姿になっていた(レンタカーの後部座席でひたすら眠る)→『斎宮歴史博物館』(『祭祀学研究』で斎王に関する演習をおこなっているので展示内容が身近に感じられた。この日は「家庭の日」だとかで入場無料だった)→二見ヶ浦を経由して鳥羽へ→昼食→鳥羽湾内遊覧船に乗って島々の間を巡る→17:4?鳥羽駅→名古屋→東京→21:??帰宅
10/10(日)午後、大泉芽衣子来宅。大泉は沖縄を引き払って首都圏に帰って来た。
10/06(水)4月から英語を教えてくれていたKarlがアメリカへ帰ることになった。本職は社交ダンスのコーチ(ラスベガスではカリスマだったらしい)で、恋人を追って日本に来ていたので、その恋人が帰るといえば一緒に帰る。たった半年の滞在。寂しいような、そうでもないような(また新しい先生との出会いが得られるだろうし)。
09/27(月)後期授業開始
09/25(日)夕方、角川K女史、来訪。
09/24(金)午後、國學院@祭式の授業で一緒の女性2名、来訪。
09/23(木)18:00来客
09/22(水)15:30六本木@英会話の後、渋谷の薬局へ。消毒液と塗薬を変えたら効果てきめん。結局、外科へは行かず。09/20(月)13:00帰国。
足の痛みがちっとも治まらないので息子@薫に電話を掛けて上野まで迎えに来てもらう。アメ横で食事をして帰宅。往路14時間、復路11時間のエジプトの旅は何ともはや疲れたけれど、透明度抜群で魚の多い紅海ダイビングに充足。怪我をしたのがダイビングの後だったのが不幸中のさいわい。
09/19(日)カイロ(18:00発の飛行機)
この日も昼前からプールサイドで過ごす。
09/18(日)カイロ(同泊)
ホテルの周囲を散歩。ゴミばかりで汚いし、横断歩道がなくて3車線くらいの道を(車のパッシングやクラクションを浴びながら)命懸けでしか横断出来ないカイロの街に嫌気がさす。しかも、通りすがりの白タクがいちいち「乗ってかねーか?」とブーブー鳴らして喧しい。目付きが悪くて商売根性丸出しで街を汚して平気なエジプト人が嫌いになりそうだった。
ホテル傍のデパートにあるマクドナルドでチキンバーガーを買って、ホテルのプールサイドで食す。コーヒーには砂糖の袋が4つも付いて来た。農業国エジプトは砂糖黍がよくとれるので砂糖の消費量は凄まじいとHANYが言っていた。ケーキもやたらと甘い。当然、糖尿病が多いらしい。
午後もプールサイドで過ごす。八月に新宮の『佐藤春夫記念館』で買った(記念館で詩集を買う人はいないのか、もしくは管理が悪いのか、カビ臭い)『殉情詩集 我が一九二二年』を読んでいて、自然、涙が零れた。いいなぁ、佐藤春夫。谷崎贔屓で佐藤春夫の良さに気付くのが遅かった私。誰かの言葉で涙するなんて何年振りだろう。しかし、プールサイドの椅子に横たわる水着姿の日本人女が(46歳にしてワンピースではない←自慢かも)サングラスの脇から流れる涙を拭いながら本を読む様は、いかがわしいにも程がある。
夕方、ガイド事務所の日本語堪能な中年@ナッセルさんが部屋に来て夕食の打ち合わせ。ナッセルさんが部屋を出た後、HANYも来て、あれこれ話す。19:30ナッセルさんとナイル川@ディナー・クルーズへ。ベリーダンス他のショー、食事、なんてことなし。ナッセルさんに「あなたは日本人らしくない」と言われた。「日本人らしいって、どういうの?」と尋ねたら「ああいうのが日本人らしい日本人です」と指をさす。その先に“いかにも日本人らしい集団”がいた。で、日本人らしいって?説明は避けるけど、ナッセルさんは私を褒めてくれたらしい。最後の夜だからシャルム・イッシェーフで買ったワインを片付けようとディナーの前に一壜ひとりで飲んだため、ハイテンションでなんか可笑しい日本人中年女でしかなかったと思うけど。酒を飲んであちこちにぶつけたせいで足の怪我、痛み倍増。「まじ、いてー」「ちょー、いてぇ」という最新の日本語をナッセルさんに教えてあげた。
09/17(土)ルクソール→カイロ(エジプト考古学博物館→ピラミッド→スフィンクス→店全体がトイレ臭い@トイレもまた最悪なレストランで魚料理の昼食→パピルス屋→宝飾屋→香水屋/カイロ・ラムゼス・ヒルトン泊)
7:00発のカイロ行きに乗るため、4時起きして5時のピックアップ。さぁ出掛けよう、と台からスーツケースを下ろす際、どういう訳か左足の親指に当たってしまった。とてつもない激痛に、ひぇー、これはただごとじゃない、と唸りながらベッドに倒れ、暫し痛みを凌ぐ。足を見たら、爪と皮膚が離れて流血していた。やっとの思いで立ち上がり、ティッシュを挟んでスーツケースをドアの外に出し、うーうー唸りながらフロントへ。早朝のロビーには紳士がふたりいるものの、カウンターに人の気配なし。半泣きでホテルマンを呼び、包帯と絆創膏を持って来てもらう。消毒液と傷薬は日本から持参したものを使う。あまりに痛くて涙が溢れた。泣いている私を紳士やホテルマンなど5、6人が取り囲み、足を載せる椅子を持って来てくれたり、同情の言葉と眼差しを注いでくれたものの「そんなに痛い?たいした怪我じゃないんじゃない?」という嘲笑の気配も少し感じた。空港でバファリンを2錠飲むものの効果なし。白人のおじいさんに「その足、どうしたの?たいへんだねぇ」と声を掛けられる。飛行機に乗ったら気圧のせいか、脳天に響く痛みで朦朧とする。座席と壁の間に京都「十三や」で買った黄楊の櫛を挟んだらしい(後で気付いた。という訳で、私の櫛は、毎日、エジプト国内を飛んでいる)。
カイロでHANYの顔を見たら安堵した。この日は一日中、HANYとふたりで行動。安息日の金曜で、HANYが昼食の前に私を残してモスクへお祈りに行き、イスラム社会での庶民の在り方を垣間見る。スピーカーで町中に大音量のコーランを流したり、安息日だからといって誰もが祈りに出掛けるなんて日本には有り得ないもの(初日、ホテル内の銀行で両替しようとしたら、カウンターの中で係の中年男がお祈りをしていた。終わるまで5分ほど待つ。アッラーと自分だけの世界に埋没した様子で、恰も陶酔の如しだった)。
『カイロ・ラムゼス・ヒルトン』で案内された部屋!何故かスィートルームのリビング部分だけ。そこにはソファを広げたエキストラ・ベッドしかない。ポーター曰く「この部屋は日当たりと眺めがいいです。ほら、カイロタワーが見えるでしょう。下にはプールが見えます。それから、ピラミッド。あ、今日は見えませんね。でも、いい部屋でしょ。キッチンも付いています。ほぉらね、すごいでしょ」。スィートルームの寝室部分2つは他の客に宛てがっているのだ。世界に名立たる『ヒルトン・ホテル』がやることか?エキストラ・ベッドを触ってみれば、鉄枠むきだしでマットがぶかぶかゆるゆる。こんなベッドじゃ寝られない!と激怒!猛烈に怒って部屋替えさせたものの、足元を見られたか(確かに足は怪我しているが)、エジプト人の商人根性のえげつなさか、と怒り収まらず。ロビーで憤っていたら、私のために包帯を買いに行ってくれたHANYが戻って来た。HANYも一緒になって激怒。私よりもHANYの怒りのほうが凄かった。お陰で落ち着いた雰囲気の部屋になったけど、最初からここにチェックインさせなさいよ!という感じ。「おまえ、馬鹿!」と罵る最大最悪のエジプト語は「アンタ ホマール!」だと次の日、HANYが教えてくれた。宝飾屋でお土産をプレゼントしてくれたり、日本のタバコをあげたお返しにエジプトの『クレオパトラ』というタバコを持って来てくれたHANYは、私の部屋で暫く話してからの帰り際、フロントで抗議して「アンタ ホマール!!」と怒鳴ったらしい。この日の夕食はホテル内の中華料理。カイロの街は交通量が多く、深夜まで車のクラクションが鳴り響く。
09/16(金)シャルム・イッシェーフ→ルクソール(メナノムの巨像→王家の谷→ハトシェプスト葬祭殿→土産物屋→どこかのホテルでバイキング昼食→カルナック宮殿→ルクソール宮殿→HANYが喫茶店に連れて行ってくれて水タバコを奢ってくれた/ヒルトン・ルクソール泊)
ガイドの青年HANYは日本に来た経験がないのに日本語が流暢。遺跡の説明も細やかで、ギャグまでも日本ナイズされており、たいしたもんだ、と感心する。同行したのがダイビングで一緒だったKATO夫妻だったので、おのずとHANYと話す機会が多かったけど、暑いうえに砂と石ばかりの風景にげんなりし、すっかり疲れている私は説明に上の空。ぜんぜんやる気なし@だらけた日本人て感じ。機械化されていないルクソールの農村は昭和中期までの日本のそれを連想させた。この夜も夕食の前に寝てしまい、気付いたら真夜中。
09/15(水)シャルム・イッシェーフ(3ボートダイビング/同)
『WOOD HOUSE REEF』『JACKSON REEF FUN』『GORDON REEF』最後の一本、ゴードンリーフになんと野生のイルカ(Stenella longirostris common dolphinの若い男の子)が来ていた。すぐに行ってしまうのだろうと思ってたら、なんと1時間もダイバーと一緒に遊んでくれた。水深わずか10メートルの砂地で過ごす。イルカに触ったのは生まれて初めて。イルカが歌い、イルカが笑う。信じられない光景だった。人馴れしているものの、こういったことは滅多にないらしい。
夕食はダイブショップの美女@NATSUさんに連れられ、一緒に潜った日本人達とタクシーで野外レストランへ。
09/14(火)シャルム・イッシェーフ(3ボートダイビング/同)
『SHARK YOLANDA REEF』で座礁船が残した多数の便器を見た。でも、流れがきつくて死にそうだった。『LIGHT HOUSE』『RAS GAZURANI』で亀がソフトコーラル(珊瑚)を食べる様子を見た。この日は3本とも亀に遭遇。
さすがにヘトヘトで、夕食へ出掛ける前に眠ってしまい、気付いたら真夜中。
09/13(月)シャルム・イッシェーフ(3ボートダイビング/同)
ダイビングポイント=『RAS BOB』『RAS NASRANI』『FAR GARDEN』
ダイビングボート専用のマリーナの賑わいに吃驚。さほど広くない港に白い船がぎっしりと停泊しており、ヨーロピアンのダイバーとエジプシャンのスタッフがわーわーやってる。しかし、港の水さえも素晴らしい透明度。黄土色の崖に囲まれた海は潜ってみても素晴らしかった。昼食はボートの上で、夕食はホテル内のシーフード・レストランへ。海老のスープはやたらと美味しかったけど、ウェーターの腋臭とテンコ盛りの烏賊フライには参った。
09/12(日)カイロ→シャルム・イッシェーフ(1ビーチダイビング/フェイルズ・ヒルトン・ヴィレッジ泊)
ホテルにチェックイン後、ホテルの敷地内にある『SINAI DIVE CLUB』へ行き、早速、目の前のビーチでダイビング。約半年振りだったことと初めてのビーチダイブだったため、最初にフィンを履く時点で息があがってしまい、大焦り。深度がないため、うっかりすると砂を巻き上げてしまう中、最後に見たものは、砂地に数十個のブロックで象られた『FUCK YOU!』の文字。なんだこりゃ、ヨーロピアン御用達の高級リゾート地にあるまじき端なさ。
夕食の前にビーチ沿いを歩き、小さな店でお菓子と水、デューティーフリーでワインを2本買う。途中のガーデン・レストランから『MAROON5』の曲が流れて来て、おお、エジプトでも聴けたか、と少し感慨。ホテル内のイタリアン・レストランへ。
09/11(土)15:30出国(ノボテル・カイロ・エアポート泊)*時差−6時間『エジプト(紅海・ルクソール・カイロ)』の画像 エジプトへ旅立つ前に、
女子道社の宮本専務と下鴨のS先生から
お借りした資料をカラーコピーしたり、
下鴨の神職Kさんに自著をお送りしたり、
お礼状を書いたり、宿題の書道をやったり、
ふたりのK女史@編集者にお土産を発送したり、
洗濯を終えた白衣白袴にアイロンをかけたり、
水曜午後の六本木@英会話へ出掛けたり、
こまかないろいろに従事します。09/07(火)『群像10月号』書評「平行・並列で関わる、他者と自己」掲載
09/06(月)『潮10月号』書評『百年佳約』(村田喜代子著)掲載
08/28(土)〜09/03(金)神社実習:賀茂御祖神社(通称=下鴨神社)
最終日の午前10時から実習生のみで行なう『閉講奉告祭』があり、阿弥陀籤に因って私は「斎主」という、祭で最も重責のある役目についた。その練習は過酷で、前夜まで失敗を繰り返し、幾度もリタイヤを考えた。思考力と体力の限界に挑むに等しかったともいえる。私自身の採点は60点程度だけれど、恙無く終了出来て安堵。解散後、ひとりで『河合神社』に立ち寄ってから、糺の森近くのケーキ屋兼喫茶店でコーヒーを飲み、京都駅へ。19:10帰宅。下鴨神社でのことは、いずれ小説にします。
08/27(金)卒論:御神籤の取材で女子道社へ。神官である宮本専務がバス停まで迎えに来てくださった。二所山田神社にお詣りした後、創始者で祖父の宮本重胤氏の話をお聞きする。明治大正時代の御神籤自動授与機を見せて戴き、貴重な資料もお借りした。長々とお邪魔した後、森と川の傍にある丸太小屋風の喫茶店でコーヒーを御馳走になった上、バス停まで送って戴き、バスの発車まで見送ってくださったのには胸が熱くなった。(徳山泊)
08/26(木)朝7時の飛行機で山口宇部空港→新山口駅→湯田温泉駅→『中原中也記念館』でゆったりと過ごす→『瑠璃光寺+五重塔』→『山口県庁旧建物+藩庁門』→『サビエル記念教会』→『山口大神宮』(新山口泊)08/21(土)『潮』書評(村田喜代子著『百年佳約』19字×44行)送稿
08/19(木)朝9時、『南谷墓地』へ。中上健次の墓前に神宮の御神酒(白い壜)を捧げ、線香と煙草を手向けながら40分ほど過ごす。その思いも、いずれ何らかの形で文章化するでしょう→同じ『南谷墓地』の反対側の丘にのぼり、大逆事件の犠牲者:ドクトル大石こと大石誠之助の墓を捜し、線香を捧げる。このこともまた、いずれ文章化します→『熊野速玉大社』に参詣して、御神木:ナギの大木を撮影(「日本宗教史」夏休みの課題)→同じ敷地内の『佐藤春夫記念館』へ(目白台にあった邸を移築したもの)→タクシーで王子浜へ→中上の一学年下で子供の頃の中上をよく知っているという運転手お勧めの寿司店で昼食→名古屋経由で20:40帰宅
08/12(木)〜08/18(水)神社実習:神宮(通称=伊勢神宮)
18日、解散後、各駅停車で和歌山県新宮市へ。ホテルのロビーで新聞を見て、体操男子が団体優勝したことを知りました。オリンピックでの日本人の活躍は、俗世と連絡がとれないはずの『神宮道場』にも少しだけニュースが入りました。この『神宮道場』は、100年前に立てられた和洋折衷の館で、天井高く素晴らしい普請でした。神宮でのあれこれは、いずれ文章化します。行ってよかった、と心底から思える場所で、心身がすっきりしました。08/07(土)『群像9月号』随筆『今は「敢えて言挙げせず」』掲載
08/4(火)『群像10月号』書評(長嶋有著『パラレル』400字×3枚)送稿
07/21(水)引越。折柄の猛暑で、作業員の皆さん、水を浴びたかのような凄い汗。真夏の引越を後悔するものの、物件との出会いは縁なので致し方なし。3年間に蓄えた汚れとゴミを一掃。引越は大掃除の如し。思い切って思い出たっぷりの洋服をたくさん捨てた。それでいい、過去には戻らない、戻れない、捨てる勇気が必要だ。今度の部屋は、生まれて初めて畳のない住居で、下町風情の平面に建つ東南角部屋。同居人@21歳男子は、チビな私より背が高いし、力もあるし、お使いに行ってくれたりして、若さゆえの機動力があるので、とても重宝。同居人に関して、最も好いのは音楽の趣味が同じことと、私の作る料理を「うめえ、うめえ」と喜んで残さず平らげること。問題なのは、つい激論になること。傍から見たらしようもない母子でしかないのだけど。夥しい数で山積みされた段ボールを一週間かけて片付けた今(7/26)は、清々しく爽快な気分。心機一転、という言葉が相応しい感じ。それにしても生きるってゴミばかり溜め込むのね。引越は命の洗濯でもあるんだなぁ。
07/20(火)未明、『群像9月号』随筆『今は「敢えて言挙げせず」』送稿
07/19(月)神社実習事前研修会
07/17(土)前期授業終了(レポート提出2教科=800字+3000字以上)
07/11(日)たかが、と書いたら、國學院大學限定で必須の一般教養『神道と生活』島田潔教授に失礼に当たるのだけど、たった「800字」のレポートを書いただけで、物凄く興奮出来た。この「800字」は曲者で、指示されたテーマにしては短過ぎる。テーマに添った「400字程度」のエッセイを書いた経験のある私でも、かなりキツイ。19、20歳の若造達はどうするんだろう、と要らぬ心配さえしてしまう。
授業初日、「皆さんは、折角、貴重な青春時代というものを送っているのですから、授業に出なくても一向に構いません」と出席重視でない事を宣言なさった上、「長文を読むのは疲れるので、端的に纏めて提出してください。短ければ短い程、内容がよく分かります」と仰る島田潔教授の授業は、出席してみれば興味深い内容ばかりで、教授のヤサヤサした風貌や訥々とした語り口も魅力的。でも、初日の宣言を真に受けてサボりがち。
この単位を取らないと卒業出来ないので、今日はしっかり推敲を重ねた。昨年度と違って「A狙い」をしない(というか、出来るほどの体力がない)倦怠気味の私でも、書く時には張りきっちゃう。書ける!という情況が嬉しくて。
来春からは思いっきり書けるんだなあ、と胸踊らせる程に、書く作業への飢餓感が、今、ある。あぁ、でも、あと3000字以上の『インド』と『群像』随筆の締切迫る。大学のレポートと、仕事としての随筆の境を見失ってしまいそう。だからこそ、大学院へは進めない。小説を書きたい。書くべき材料が溜まり過ぎてパンクしそう。絶対、しないけど、今のところは、自己破裂、自己破綻。
(引越準備、まったく進まず。3年前の引越屋さんのリピーターなので格安だし、既に段ボールとガムテープは届いた。本の梱包が面倒かつ過酷な労働だ。職業の割には多くない(と思う)にしても。図書館嫌いで、たとえ下らないものでも、本を捨てられない性格は、引越に不利だ。図書館の本が嫌いなのは、汚いから。人の唾が染み付いているので、濡れタオルで指を拭きながらしか、ページを捲れない。でも古本はOK。買ってすぐにパラフィン紙で包むから。それでも、唾が気になる本はある。「ページを捲る時、指に唾をつけないでね」と切実に思う。だけど、古本には訴えようがないから、諦める。人の唾は、年月を経ても、嫌な臭いと、ぬめった感触を齎す。好きな人のなら平気なんだけどな(笑))
06/24(木)私のような<定住不適合者>が「急に」だとか「突如」なんて言葉を遣うのは可笑しいのだけど、7月中に引越すことになった。山手線の内側でなければ、伊豆半島もしくは海外のリゾート地しか住みたいと思う場所がないので、近所の不動産屋を覗く程度だから、当然、引越先も近所。所詮、人生、どこに住んでも仮住まい。次の部屋にも何年いるか分からない。
06/20(日)今年何度目かの地獄の如き鬱から、やうやう脱出した模様。過剰かつ過敏なまでの孤独感に苛まれていたら(人嫌いが酷くなり、電車に乗るのも嫌、という状態だったから当然なのだけど)、久しく声を聞かなかった方々から電話を戴いたり、メールを書けば超多忙な中でも返事をくださる人がちゃんといてくれたり、長電話につきあってくれる存在があって、人の御心の有り難さ。ぼちぼち小説モードの脳味噌(神経、感性)に戻れそう。このところ、演習や卒論のための調べものばかりだったし(それはいいのだけど)、払拭困難な気色悪い嫌な事が続いたので(嬉しい事もあったけど)、妙な疲労感で体が思うようにならず、時々学校を休まざるを得なかった。にも拘らず、ダイビングの出来る場所には行きたくて仕方ない。9月には大奮発して紅海へ行くというのに、待てない、待てない、待てない、そういう気分。全神経がリゾートを求めている。
連日、ベランダに十数羽の雀さんたち、御来訪。朝と昼と夕方、御飯を食べに来る。雀って可愛いなぁ、日本らしい小鳥だなぁ、と見ているだけなのだから、逃げなくていいのにな。お米を盗み食いして追い払われたり、捕まえられて舌を切られたり、食べられたりした負の遺伝子がそうさせるのだろうね、Fijiの小鳥は能天気だったもの。それにしても、何やらお喋りしながら一粒残さず平らげる食欲旺盛な様は、見ていて気持ちいい。「他にも行くべき所があって、お忙しいでしょうけど、ウチのベランダをねぐらにしてもいいのよ」と伝えたいくらいだ。安全と御飯は保障します、ずっといてもいいのよ、なんて(百間先生のように籠で囲って身近に置いておきたいとは全く思わないけど。写真で見る限り、百間先生の小鳥の籠は単身者用マンションのようだった)。いずれにしても、そのうちに引っ越してしまう人間を当てにしない、雀の洞察、正解。
「Queen」「Bob Marly」「Avril Lavigne」「MAROON5」のCDを聴き続ける日々。Freddie Marcuryにしても、Bob Marlyにしても、とかく天才は早死に。命と引き換えの才能は、ちっとも古くならない。おそるべき普遍性。Avril Lavigneは去年Fijiで毎日聴いていた「Complicated」が気に入っているから。「MAROON5」は米・西海岸をドライブしたくなる。
最も大変な調べものが一段落した達成感のせいか、小説なるものに触れる気力が戻って来て、何年か前に角川書店M氏から頂戴した『与謝野源氏(略字現代仮名遣い版)』を読み始めた。与謝野源氏の読み易さ、分かり易さは、漢文調で資料の参照が必要な谷崎源氏とは格段の差がある。谷崎よりも八歳ばかり年嵩なのに、たをやめ@晶子の源氏は、若く、瑞々しく、今どきの現代文そのもの。上記した天才の普遍性に絡めて言えば、『萬葉集』同様、普段遣いの言葉は如何様に変化しようが、命懸けの言葉は古くならないということだ。古典や天才が残した作品に触れれば触れるほど、安心して書いて行けそうな気がして来る。06/11(金)『文芸ポスト夏号』発売。【特集:時代を超えたフォーク・シンガー】ケメ(佐藤公彦氏)との対談掲載。
「水曜15:30〜」は<六本木E>
米国人Karlが「土曜は休みたい」というので、
7月中旬から週一回90分に変更。
【2004年の仕事・上半期】
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