私が単身赴任でウィーンに来ているお話はいたしましたが、ようやく主人が日程をやりくりして、日本からやってきました。日頃の罪滅ぼしに、好きな音楽をたっぷりという音楽三昧の日々をプレゼントしました。そして今回の特別寄稿となりました。どうぞお楽しみを。


その2「女神の奏でる天上の音楽」

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 ムジークフェラインで聴いた全部で8回のコンサートすべて、ベルリンフィルもウィーンフィルもブレンデルを加えた室内楽も、どのコンサートもすばらしい響きであった。そう、残響が何ともいえず豊かでそれでいてステージの演奏者の息づかいが直に伝わってくるのだ。ものの本によるとこのホールの残響は聴衆がいない場合では3秒を超えるという。これは現代のホールとしては別格と言っていいほど長い残響時間である。満席状態では2秒強になる。聴衆がホールの残響を吸収し適度な残響時間に調整している。最近のホールはそこいらへんをコンピュータを駆使して設計し、収客数の過多で残響時間が大きく変わらないようにしているそうだが、机の上で考えたとおりにはならないのが実状。ムジークフェラインの歴史にはかなわないと断言してもいいだろう。
 寄り道はさておき、ベルリンフィルのベートーベンチクルスの話に戻ろう。指揮者のクラウディオ・アバドとベルリンフィルは昨年、ベートーベン交響曲全集をCDで出した。その特徴はベーレンライターの新訂スコアを使った最初の録音というふれ込みで、愛好家の注目を集めていた。今回のチクルスも当然同じスコアでの演奏となるはずである。さらにピアノコンチェルトのソリストがすごい。出演順に並べると、アルヘリッチ、ピリシュ、キーシン、カショーリ、ポリーニと続く。クラシック愛好家なら誰でも知っている4人と、天才の誉の高い1979年、ミラノ生まれという若手ピアニスト、カショーリがわずか1週間の間にウィーンに集合するのである。日本では考えられない。例えCDを買い集めたとしても同じ内容の演奏を聴くことは不可能だ。そんな夢のような日々なのだ。
 アバドとベルリンフィルの組み合わせがいつでも聞けるのは今期限りだ。昨年来日したときのアバドはそれまでのふっくらした顔つきが消えておそろしくやせ細っていたよう見え、健康状態が心配だったが、どうやら元気を取り戻したようだ。(最近のインタビュー記事によると胃ガンで、胃の大半を切除したようだ。)そのアバドがベルリンフィルの前に颯爽と現れて、指揮棒を振り下ろしてくれた。

 スコアに関しては編者のJonathan Del Marによるノートが出版され、どこをどう変えたかが詳細に述べられてはいるが、それよりもアバドがこの数年来試みてきた「曲にふさわしい規模のオケ」という考えがどのような形で音になるかというのが今回の興味の対象だ。それというのも細かな表現の違いがスコアのせいなのか、指揮者の表現上の問題なのかを区別する能力を持ち合わせていないからなのだが、ともかくCDからはなかなか聞き取れないオケの編成の違いを目の当たりにできる絶好のチャンスなのだ。バイオリン4プルート(8人、そして第1第2があるから総計16人)、ビオラ3プルート(エロイカは4プルート)という今回の編成は、第1級の規模を誇るベルリンフィルとしては最小といってもよい編成だった。確かに音の切れといい、アバドが求めただろうスピード感といい申し分のないできだ。古楽器演奏グループの張りつめた、そしてどこか冷たい感触の音とは違い、「これぞベルリン」という音である。
 とはいうものの、チクルス最初の演目、交響曲1番については不満が残った。確かに様々なシチュエーションで耳にしているあのベルリンフィルの音でありはしたが、どうにもまとまりを欠いていたのだ。とりわけコントラバスの音が大きすぎる。全体のハーモニクスを下から支えるというにはうるさすぎたのだ。これは後日ウィーンフィルの音を聞いてわかったことなのだが、ウィーンフィルのコントラバスは上手に手抜きをする。いや、これは悪い意味で言っているのではなく、響きの中に自分の楽器の音をとけ込ませてしまうのである。元々ウィーンフィルのメンバーはそれぞれのパートトップの出す音色にあわせて各人が自分の音を上乗せするような演奏技法に長けている。だから何人いてもまるでひとりが演奏しているような音が出るわけだが、その演奏技法の究極ともいえるのがコントラバスの音なのだ。

 一方、ベルリンフィルは団員のすべてがソリストとしても超一流の腕を発揮できるエリート集団である。正確で寸分の狂いもない音を全員が出しきる。結局、ベルリンのシンフォニーホールのあの広大な音響空間で鍛えた演奏手法が、ここウィーンでは裏目に出てしまったのだろう。さしものベルリンフィルといえどもここウィーンの響きには即応できなかったとみえる。彼らの名誉のために付け加えるが、2曲目、アルヘリッチのピアノコンチェルト2番のあと、休憩を挟んで演奏された交響曲3番では見違えるほどの音に変化していた。さすがである。

 そして2日目。今日のソリストはポルトガル出身のピリシュ。曲は4番である。この人の指使いは、おそろしいほどの正確さで、まるでコンピュータ制御の自動組立機のような早さで音が飛び出してくる。アルヘリッチの澱みのないという表現とはまるで違う。楽譜に書かれた音符が100分の1秒と違わぬともいえるほどの正確さで次々に音になって飛び出してくるのだ。誰かが言っていたのだが、どうにも「しょう」のない、つかみ所のない音で、それでいておそろしくきれいな音であった。

 この演奏にはおまけが付いていた。なんとステージ脇の席に前日のソリストであるアルヘリッチが座って聞いていたのだ。普段は絶対に見られないウィーンならでは、ムジークフェラインならではの光景である。これは見ものであった。演奏スタイルが水と油いや炎といってもよいほどの違いがあるピリシュの演奏を彼女がどのように聴くのか、下世話な興味以上のものが彼女の表情から読みとれた。そして、突然、自分の表現とは違うと言いたげに、激しく髪を掻き上げ、オーケストラを指揮するかに首を振っていた。

 もっとも、彼女は翌日、キーシンの演奏にも現れた。そして、これはキーシンには大変気の毒なことに若い彼をがちがちに緊張させたようだ。案の定、出だしでつまずいてしまったのだ。そのときのアルヘリッチの表情は、そう、よく言うではありませんか「人の不幸は蜜の味」と。でも付け加えておこう。それは音楽表現としてどうだったかという芸術家としての本質的な問題を問う前に、楽譜の音符を正確になぞる能力が異常なほど高い若手演奏家に対する彼女なりの反応だったと解釈してもいいのではないかと思う。前日のピリシュの時とは明らかに違い、どちらかというと穏やかで、時としてそばにいる秘書と目を見合わせたり、後ろにいた自らの娘を振り返ったりと始終和やかな雰囲気であった。

.....つづく...... 

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