サンフランシスコ条約
以下はサンフランシスコ条約関係の引用です。
参考までに掲載します。
1951 年 サンフランシスコ講和会議が開かれ,
サンフランシスコ平和条約を結ぶ。
日米安全保障条約を結ぶ。
連合国とくにアメリカは,日本を自由主義国側,西側につなぎとめておかねば
ならないと考えました。東西対立が激しさを増す時に,日本を立ち直らせて東
に対抗できる勢力にしたかったのです。しかも急いで。そこで講和会議をサン
フランシスコで開くことにして,日本が戦った連合国に参加を呼びかけました。
この会議に招かれなかった国,反対した国がありましたが,多くの国と戦争状
態を終える条約を結びました。これで連合国軍の占領が終わりました。
しかし,沖縄は日本から分離されてアメリカの支配のもとに置かれることにな
りました。
沖縄の人々はこのサンフランシスコ条約が発効した4 月28 日を忘れません。
戦争で損害をあたえた国に対する賠償のしかたも条約にふくまれていました。
3月例会報告
サンフランシスコ講和条約再考
Boris Slavinskii
(IMEMO / 東大社研)
日露(ソ)間に平和条約が存在しないのは、ソ連がサンフランシスコ講和会議に参加しながら講和条約に調印しなかったからで、日本がクリル、南サハリンを誰に対して放棄するのかが明記されない結果をもたらし、「北方領土問題」を生み出したことは、スターリン外交の大きな誤りだったという見方が今日ロシアの専門家の間で有力になっている。
周知のように、ヤルタ協定(1945年2月)では南サハリンの返還、東支(中東)鉄道の中ソ共同経営の復活など日露戦争でロシアが失ったものの回復と、クリル諸島のソ連への引き渡しが約束された。ルーズベルトは日本を速やかに降伏させるためにソ連参戦を急いだわけで、クリルに関する地理的認識も怪しかったといわれるが、このとき使われたと推定される地図は少なくともロシアのアルヒーフでは見つからなかった。
アメリカの政策変化はルーズベルトの死去、トルーマンの大統領昇格(4月)が転機であった。トルーマンは、ソ連によるポーランド、ハンガリー、ルーマニア占領・支配の現実に反発し、ソ連が対日参戦後に満州、朝鮮に居座るのではないかと疑念を持ち始めた。ドイツ降伏(5月)後のポツダム会談の時点(7月)で、アメリカは原爆実験に成功し、ソ連参戦なしに日本を降伏させられるという考えが強まった。しかし、ソ連軍はすでに極東へ移動中であり、トルーマンはスターリンの参戦用意を確認した(時期は軍事的にみて8月後半とされた)。
と同時に、アメリカは対日ポツダム宣言を事後通告の形でソ連に知らせ、中国には対ソ交渉を引き延ばして、ソ連の対日参戦を遅らせようと働きかけた。アメリカはまた、日本のソ連に対する和平調停依頼工作を傍受、解読しており、日本の指導者が天皇制護持に固執しており、その存続を認めれば早期降伏に応ずることもつかんでいた。こうしたアメリカの動きに不信を抱いたスターリンは、参戦を10日早めることを決めたのである(具体的には8月7日16時30分)。
さて、サンフランシスコ講和会議は、朝鮮戦争勃発(50年6月)により、日本を前線基地として利用したいアメリカが急いで準備したものである。アメリカは51年3月に講和条約第一次草案をソ連に手交したが、ソ連はカイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言の領土条項が曖昧にされ、日本軍国主義復活防止の保障に何ら言及していないと反発し、また中国を講和会議に招請するよう強く主張した。ダレスはクリルのソ連引き渡しを示唆しつつ、対日賠償問題を抱える国々(フィリピンなど)、日本非武装を求める国々(オーストラリアなど)を説得して講和会議参加をとりつけ、米英共同草案を作成した(7月)。
ソ連は、講和会議不参加が国際世論により、対日関係を正常化したくないものと受け取られるのを恐れ、ソ連案を採択させるべく会議に参加した(8月12日通告、講和会議は9月4日開催、中国、インド、ビルマ不参加)。このソ連案の詳細は省略するが(『独立新聞』93年10月20日参照)、日本は南サハリン、クリルに対するソ連の主権を承認することが明記されていた。実際には、ソ連代表団はスターリンの指示で、米英案の修正に方針転換した(中央委員会指示も前掲『独立新聞』)。51参加国でソ連に同調したのはポーランド、チェコスロヴァキアのみであり、修正案は議題にないと却下され、米英案が採択された(9月8日)。グロムイコは講和条約が新たな世界戦争の火種になるという警告の演説をするだけに終わった。
サンフランシスコ講和条約は、同時に締結された日米安保条約ともども、その後の東アジアにおける安全保障の枠組みとなったが、中露脅威論に立っており、冷戦終結後の今日ふさわしくない。また第25条によれば、ロシアは条約調印国でないので、例えば「(日本に二島返還して)二島は帰属させる」というような解決策はとれない。日露間の平和条約締結、領土問題解決は国際的な性格をもたざるを得ないのである。
(文責・富田武)