靖国論争に欠かせない4つの認識

同じ土台なき国との交際術とは

戦犯は「罪人」とはいえず

低俗な論争ほど不愉快なものはない。靖国論争の蒸し返しを防ぐために問題のポイントを整理しておこう。

まず第1点は、靖国神社に対する認識である。日本の神社を管理している神社本庁の名簿には靖国神社は見当たらない。国難に殉じた人々の慰霊の場として、靖国神社は一般の神社とは性格を異にしている。

神崎公明党代表は政治と宗教のかかわりを厳密に避けて、首相の参拝に反対しているのであろうが、靖国神社は宗教と直結しているわけではない。また、A級戦犯の分祀論は非常識で、神社の意思としていったん祀った霊を選り分けて外すことはありえまい。

第2は、戦犯に対する認識である。例えば木戸幸一内大臣が戦犯容疑の指定を受けたとき昭和天皇は、戦勝国から見れば戦犯であろうが「我が国とりては功労者なり」として夕食に招いた、と『木戸日記』にある。戦犯の「犯」の字が災いして罪人扱いにされているが、勝者が敗者を裁くのは裁判の形式として成り立たず、したがって戦犯はいわゆる罪人ではない。

ならばなぜ当時、堂々と主張しなかったのかということになるが、時代がそれを許さなかった。たとえば原子爆弾の被害者として死亡した有名な永井隆博士は、病床で原爆投下の不当を訴えて戦犯裁判の供述書として提出したが、取り上げられていない。戦犯法廷で原爆を持ち出すことは禁止されていたからだ。

戦勝国の報復裁判だと承知しながら戦犯たちは、その遺書に平和のために命を提供すると書き残して処刑されている。現に、戦犯の処刑後に平和助役が締結された。

平和条約とともに独立した日本では、昭和28年8月3日付で衆議院本会議で戦犯の赦免に関する決議を採択し、巣鴨プリズンに拘留されていた戦犯を日本の責任において全て釈放した。以後、この件には、日本の法律が適用されるのは当然で、日本国憲法には「不遡及、一事不再理」が明記されている。過去の戦犯裁判の内容を60年目に蒸し返すのは憲法違反だ。

第3は、A級戦犯に対する認識である。A級戦犯は平和に対する罪を問われたが、東京裁判の判事をつとめたインドのパール博士は、国家に交戦権がある以上、戦争は犯罪ではないと述べている。当時の国家に交戦権があったから、平和に対する罪を犯したといわれる理由はない。ましてまけた側にだけ戦犯が存在するのは納得いかない。

普選制度なき常任理事国

百歩譲って、あれを国際裁判として認めるとしても、刑期を全うした者は晴れて自由の身になるはずだ。たとえばA級戦犯として服役した重光葵外相が、刑期を終えて釈放後に日本初の代表として国連総会で演説したことなどは好例であろう。同じ理論を適用するなら、東条英機首相が60年目に蛇蝎のごとく扱われる理由はない。

第4に、中国という国に対する認識である。ともすれば私たちは国連常任理事国たる他の近代国家と同等に扱いがちだが、中国は普通選挙を一度も行ったことのない特殊な国家だ。しかも国定教科書にしたがって全土で画一的教育を行っている。およそ自由とかけ離れた大方針を掲げた国家と日本が論争の場を持つこと自体無理な設定である。

にほんはこれまで中国に3兆円のODA(政府開発援助)を供与し、2008年のオリンピックまで経済援助を続けていくことになっている。その見返りが反日かと糾弾するつもりはないが、中国は日本が援助を継続している相手国だという事実は明らかにしておきたい。

ついでながら他国の国旗を焼き、大使館を損傷し、高官の面談を一方的にキャンセルしたにもかかわらず、中国はこれまで一度も日本に謝罪していない。

中国追従は国益にならず

参考までに、1997年にインドを訪ねたエリザベス女王は、かつて虐殺津事件を起こした地で謝罪要求を掲げた民衆のデモに抑えられたが、彼女は慰霊碑に献花したあと、「歴史は書き直したくとも書き直せない、悲しみから学び喜びを築こう」と述べている。これが事実上の謝罪として受け入れられたのは共通の判断力を持つ国同士だったからだろう。

国益を考えて中国の言い分に従えという説がある。しかし、それが効果を生むには国家間に共通の土台がある場合に限られよう。

中国がリーダーを普通選挙で選ぶ国になるまで、せめて日本国内での靖国論争は打ち切りにし、首相の判断に任せてはどうか。

ノンフィクション作家 上坂冬子(かみさか ふゆこ)

2005.6.3 産経新聞より

HOME 戻る