性転換手術は正しいか
―Is it right to do surgical sex reassignment ?

1.これまでの経過 
1969年に東京地裁で、三人の男性に性転換手術を行った産婦人科医に対して優生保護法違反で有罪の判決が下されて以来、三十年近く、性転換手術は、触れてはならない領域となっていた。その後やっと1996年になって、埼玉医科大学の倫理委員会で「『性転換治療の臨床的研究』に関する審議経過と答申」(1)が出された。またこれを受けて翌年、日本精神神経学界で「性同一性障害に関する答申と提言」が出され、初めてのガイドラインが作られた。これによって永らくタブーとされていた性転換手術が国内でも正当な医療行為として認められるようになったのである。さらにこれに基づいて、昨年(1998年10月)同医科大学で最初の性転換手術が行われた。これに至るおよそ三十年間、いわゆる「ニューハーフ」と呼ばれることのあるMTF(2)のトランスセクシャルを含めて、性転換手術を望む人は、闇であるいは海外に渡って手術を受けていたわけであるから、どういう「治療」が適当なのか、また、このような手術がどこまで行われてよいのか、公に議論する地盤が築かれたというだけでも、この答申は高く評価されるべきものである。(3)
以下本稿では、この答申を中心に、基本的にはその結論を支持する方向で、性転換手術が認められる根拠とその問題点について考えてみたい。

2.性同一性障害
埼玉医科大の答申では、本人の自認する性が身体上の性と一致しない「性同一性障害(gender identity disorder)」および、その一つである「性転換症( transsexualism )」を定義して、「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきり認知していながら、その反面で、人格的には自分が別の性に属していると確信している」状態とする。そしてこれに対して、1)精神療法、2)ホルモン療法、3)手術療法(性転換手術)、という三つの段階の治療を是認している。
この性同一性障害の特徴は、答申が引用している国際診断基準DSM−Wによると、「A.反対の性に対する強く、持続的な同一感。B.自分の性に対する持続的な不快感、またその性の役割についての不適切感。C.その障害のために臨床的に強い苦痛または社会的、職業的、または他の重要な場での機能に障害を起こしている」といった点にあるが、当人には、概して子ども時代から自分の本来の性は逆の性だという強い意識があり、日常生活に支障をきたすほどの身体的な違和感が存在している。
答申に際しての対象症例となりその後最初の性転換手術を受けたFTM(2)の患者は、二、三歳の頃から自分の性別(女)に違和感を覚え、女児服を嫌い、中学校の制服も「女装しているようで表を歩くのが恥ずかしい」と感じる。声変わりしない自分の高い声が嫌で、釜串を突っ込んで声帯を傷つけてハスキーな声を獲得する。自分は他の人とは違い、今の体は間違いでいつかはペニスが生えてくると信じていたのが、「大人になっても男の体にはならないんだと突きつけられて、初潮を死刑宣告のように感じた」と述べている。(4)同様の経験は他のFTMのトランスセクシャルにも多く見られる。
この性同一性障害と、同性愛との関係には、微妙な点があるが、概念的には両者ははっきり区別することが可能だ。性同一性障害の患者の場合、自分の性の意識(=性自認(5))ははっきりしており、体の方が間違っているという意識(=身体違和)があるのに対し、本来の同性愛者にはこうした身体違和がない、と考えられる。(6)「本来の」と言ったのは、実際には性同一性障害の場合でも、周囲から「同性愛」と見なされることは実際上かなりあるだろうからだ。本来の同性愛は、語の定義からして同性を愛するのであるから、性同一性障害のように自分が本当は異性であるのなら、もはや同性愛ではない。従って、後述するように、前者は自己のジェンダーの同一性に基づいて、自己のセックス(身体上の性)を否定するのに対し、後者は自己のセックスの同一性に基づいて、制度としてのジェンダー(あるいはセクシャリティ)を否定していることになる。

3.「性」概念の多義性
性同一性障害の原因は、医学的には必ずしも特定できていない。元来、「性」という言葉で理解されている現象が、生物学的・身体的な性(セックス)にとどまらず、文化的・社会的役割としての性(ジェンダー)、あるいは性的な欲望や行動(セクシャリティ)といった、後天的な要素を強く含む概念である。元々このセックスとジェンダーという区別を立てたのはフェミニストの思想家たちである。キリスト教文化圏で伝統的に言われてきたように、人間の本質が肉体にではなく精神にあるなら、身体上の性の差異によってその人の生活の仕方や社会的役割までもが決定されてしまうというのは矛盾である。現代のフェミニストの一人、上野千鶴子は、「ジェンダー」という用語の発生について、「「ジェンダー」はもともと性別を表わす文法用語だが、七十年代フェミニズムは、自然的とされ、したがって変えることのできないとされた性差を相対化するために、この用語をあえて持ち込んだ。今日、フェミニズムのなかでは「セックス」は「生物学的性別」、「ジェンダー」は「文化的社会的性別」を指す用語として定着している。」と述べる。(7)この区別は、上野が言うように、セックスがアプリオリに決定されているのに対して、ジェンダーは環境と学習によって身につくという点での区別である。しかしこのジェンダーという概念は、その発生上、主として生活様式や職業といった社会的な役割や制度に定位している。従って、これと並んで、あるいは(身体上の区別ではないという意味では)広義のジェンダーの一部として、性的欲望や行動を意味する「セクシャリティ」を区別する(恐らくフーコーの影響下にある)立場がある。(性転換症の場合、セックスとジェンダーの意識は明確でも、セクシャリティは混乱していることもある。伏見憲明が言うように(8)、性同一性障害と性的指向(セクシャリティ)は本来区別して考えるべきであろう。)
このようにトータルとしての性という概念が、多義的であり、生物学的、文化的、心理的な要因によって決定されるということを考えれば、その原因も単純に特定できないことは当然である。遺伝子上の変異に原因が求められることもあれば、母体内のホルモンのアンバランスや、幼児期における性意識の形成過程、あるいは性の社会的体制に原因が求められることもある。埼玉医科大の答申では、最近の脳科学の成果に基づいて、妊娠二十週頃に生ずる胎児の脳の男性化という現象が特に指摘されている。(9)確かに、身体が男性であるのに脳が男性化しない(また身体が女性なのに脳が男性化する)という現象はありうるし、またそうした脳と身体の不一致による性同一性障害が存在することも当然可能であろう。しかし、脳と身体の不一致という原因だけを性同一性障害の原因とすることは出来ないし、だから治療すべきだということにもならない。いま仮に、脳の性別がその人の性同一性を決定するとしよう。しかし、たとえ脳と身体の性別が違っていても、それによって本人に問題が生じていなければ、何も問題はないのである。また逆に、脳と身体の性別が同じだとしよう。しかし、本人が性同一性障害を持ち、苦しみを感じているのならば、それは解決すべき問題である。性同一性障害を単に脳の性と身体上の性の不一致と説明している文章も見られるが、これは問題を単純化しているだけでなく、性の身体的決定論を前提にした発想である。こうした傾向の中には、性転換症を病気として規定するために、目に見える、物理的(身体的)な原因を求めたいという心的傾向があることに注意するべきだろう。論理的に言っても、ガイドラインには脳の性別をチェックするという項目はないのだから、この理由で性転換治療が肯定されるというのではおかしいのである。

4.性の自己決定権
性転換手術という問題は、脳死状態の患者からの臓器移植や遺伝子操作の問題などと同じように、現代の医学技術の進歩がもたらした問題の一つである。古くから行われてきた去勢手術などとは全く違い、現代医学はホルモンの調整や外性器の形成を可能としており、生殖能力はともかくとして、表面的には身体上の性が選べるようになったとも言える。今回行われた手術は、かつては困難とされていた、女性の体を男性の体に作り変える作業であり、男性性器の形成手術をも行っている。しかし技術的に「可能である」ということが、現実にそれを「してもよい」と同義であるとは言えない以上、ここに倫理的な問題が発生している。バイオエシックスの他の問題と違うのは、これが性という境界線のファジーな領域で生じてきているという点である。例えば「脳死」や「安楽死」といった概念も国民的コンセンサスにおいて文化的環境に左右される点があるが、それ以上に、性の問題はその原因において文化的精神的な要因を多く含んでいる。
現代の医学が、インフォームド・コンセントの立場に立ち、患者の自己決定権を尊重するものであることは、すでに常識になっていると言ってもよい。とはいえ、性についても自己決定権が認められてよいのだろうか。安易に性転換手術を認めることは、生殖機能に影響を及ぼすものであるだけに、医学的には「侵襲」にあたる可能性があるし、人間性に反する事態が生じてこないとは言えない。もし何らかの外的圧力によって肉体の改造が試みられるなら、それは人間性に反する。また個人の自発的な意思だとしても、十分な根拠なくしてこうした手術が行われてもならない。(こうした点に関して、今回のガイドラインは十分に慎重である。)
しかし、性同一性障害の患者は、先に述べたように、場合によっては自殺を考えたり、日常生活を円滑に行い得ないほどの身体違和を抱いている場合が多い。こういう場合には、患者のQOL(生の質)を重視するなら、できる治療をしない方が人間性を無視しているということにならないだろうか。埼玉医科大学の山内俊雄教授は、こう語っている。「医療は人の苦しみを和らげるものですから、そこに身体的性とジェンダーが不一致の人がいて、両者を一致させることでその苦しみをやわらげてあげられるのであれば、(手術することも)いいのではないか、と」。(10)――これは治療に携わる当事者としての実際的な見方である。本人の解決できない苦しみを救うのが医療であるなら、他に可能な方法がないときに性転換手術を行っても倫理的な非難の対象とはならない。実際、例えば自分の目つきが悪いという理由で社会生活に支障をきたしていると思っている人が整形手術を受けるという場合よりも、手術の妥当性は客観的に決定可能である。(11)しかしここでは「性」の本質についての問いは、意図的に無視されている。つまり性に関する「同一性障害」と考えることによって、社会に対する適応障害の一つと考えられている。「性」は「人間性」にどういう関係を持つのか、考える必要はないのだろうか。

5.性の「異常」
性に関する理解に革命的な変化をもたらしたのは、フロイトである。フロイトは、今となっては余りにも古典的な、幼児性欲の発達過程やエディプス・コンプレックスの理論によって、性(セクシャリティ)の発達と抑圧の持つ意味を説明した。性的エネルギー(リビドー)は有性生殖をする生物に生得的な本能だろう。しかしフロイトによれば、リビドーがどういう形でその充当対象を見出すかは、経験(学習)によるところが大きい。これは言語能力と言語的環境の関係によく似ている。身体と本能がそのまま性的行動を決定するとは限らない。(12)人間という可塑的存在においては、身体と精神を決然と区別することは出来ないし、身体がそのまま精神を決定するのでもない。性の問題を、自然と文化、身体と精神(更にはまた、セックスとジェンダー)という単純な二元論に還元することはできない。
生殖を目的とする性だけが「正常」な性であり、それ以外の性は「変態」とみなす見方を、フーコーは、「性の装置」と呼んだ。(13)それは十八世紀の終わりから十九世紀にかけて生じた、国の「富」である人口を増加させるための、1)女性の身体のヒステリー化、2)子どもの性の教育化、および3)生殖行為の社会的管理という、個人の性行動を監視し支配し、さらにその欲望そのものを生み出す「権力」のシステムである。この権力は伝統的な「告白」という方法を応用した相互監視のシステムを手段として、何が正常であり何が異常であるかを内側から決定する力として働き、そこからの逸脱を内面において監視する。フーコーによれば、これと同時に、4)こうしたシステムから逸脱する「倒錯」した「病的」現象を扱う「精神医学」が誕生したという。歴史的経緯についての考証はともかく、事柄そのものとしてフーコーの言うことは正しい。性的「倒錯」は、先天的に「異常」なのではなく、むしろ社会的に「異常」なものとして創り出されているのであるから、その存在は単純に排除されるべきものではない。むしろそれを「治療」しなくてはならないという「正常」な思考の方が、全てを画一化し自己の根拠を疑わない素朴さのゆえに、倫理的には、より問題にされるべきである。

6.ジェンダーとしての身体
「性同一性障害」の場合には、身体上の性(セックス)が問題になるわけだが、この場合の身体とは、生殖能力を意味するのではなく、外形や胸や性器という、シンボルとしての身体を意味するとひとまず考えられる。従ってこれは、実際は、ジェンダーとしての身体である。(生物学的意味での性は精子と卵子の製造を根拠にしているのだから、セックスとしての性ではない。)人間以外の動植物では性転換する種も決してまれではない。(14)しかしその場合に転換する「性」とは生殖能力である。人間という種においても、科学の発達によって、例えば遺伝子操作やクローン技術の応用によって、将来、精子や卵子を作るという生殖能力を含めた性転換ができるようになることが無いとは断言できないが、現在のところ、「性転換」手術といっても、それは、外見的な、性別の判別の基準になる外形を変えるに過ぎない。そこからこれは性転換手術というより、大掛りな整形手術に過ぎないという批判的な見方も出てくる。しかし本当にそうだろうか。
性転換手術で問題になっているのは、本来はセックスとしての身体である。しかし患者の苦しみを生んでいるのは、むしろ、ジェンダーとしての身体ではなかろうか。身体(特に性器)は性のシンボルである。通常は差異化された身体というシンボルを中心に、三歳以前の幼児期に性意識が形成され、性的同一性が確立される。ラカンの鏡像段階の理論によると、幼児は運動神経系の未発達のせいで、ある時期まで、ばらばらな身体のイメージしか持ち得ないが、生後六ヶ月から十六ヶ月のいわゆる前エディプス期において、目に見える私の身体の像が私の同一性を形成するシンボルとして働き、鏡に映った自己の像を見ることによって、さらに母によってそれが「私」だと承認されることによって、幼児は初めて「私」の統一的なイメージを持てるようになる、と言う。(15)一般的に言って、他者のまなざしを介して、私の自己理解は成立する。性に関する同一性も、やはりシンボルとしての身体に基づいて、他者のまなざしを自己のものとして取り込むことによって、成立するのであろう。「性」の同一性は「自己」や「理性」の同一性と等根源的である。
他者からの承認によって自己の同一性を確証するのが人間の特徴であるなら、性に関しても、この承認の不在は自己の存在の根本に関わる。これは精神療法によって解決できる場合もあるだろう。性同一障害自体が悪いことではないと納得することによって苦痛が軽減されたり、自分の意識を周りの状況に合わせたりすることができれば一応問題は解決されたと言える。性同一性障害の場合は、しかし、既に述べたように、自分が本当は男/女であるという性の意識が明確であり、自分の精神の方を肉体に適合させることは本人にとって自己欺瞞に等しいと感じられる場合が多い。人間の性の自己理解が、フロイトが言うように、性のシンボルとしての性器に根ざしているなら、性器の形成はジェンダーの同一性で苦しんでいる人にとって大きな意味を持つ。少なくとも他者のまなざしと自分の意識のギャップは埋められる。先に触れたように、生殖能力によって人間の性を規定しようとする傾向は、フーコーの言う「性の装置」の一環であろう。「正常な」男女の場合でも、精子や卵子を作る能力がないからといって男性や女性でないとは言えない。生殖能力の転換が出来なくても、性転換手術は当人の「性」を回復する手段として有効である。この点で性転換手術は単なる整形手術とは違う。
しかしこの場合には、「性の自己決定権」が認められているわけではない。なぜなら当人にとって自分の性別はアプリオリに決定されており、自己決定など出来ないからである。その「性」が身体の性ではないだけのことである。むしろ、この意味での性は自分の意志で決定できないから手術が必要なのである。ここで改めて確認すべき論点は、まず、身体的「性」だけで一義的に「性」を決定することはできないという大前提であり、次に、本人の意思という意味での自己決定権を重視するという立場である。

7.バイオエシックスを超えて
性同一性障害で悩む人には、自己の性同一性が、身体の性と、さらには周囲の見る性と、一致しないという、長い間にわたる意識がある。その苦しみは、特に思春期以後、体が自分の認識とは違うものに変わっていくということによって、さらに周囲の目がこれを強制することによって、強化される。自分の体が苦しみの原因であるなら、それは取り除くことが出来るし、取り除いてもよい。少なくともそれによって不条理な苦しみを減らすことが出来るのなら、倫理に反する事ではない。美容整形手術であっても同じである。他人が禁じる権利はない。繰り返せば、外面的権利としては、性同一性障害で苦しんでいる当人がどちらの性を選ぶかが問題になる場合には、性に関する自己決定権は認められるべきである。しかしここで重要なのは「本人にとって」という視点である。本来、その当人にとっては、自分の性が選べるようなものであってはならない。ボーダーレス化する社会では、自分が男か女か決められないという境界線上の問題症例はますます増えていくだろう。性自認が明確ではないという境界線上の症例の場合に「自己決定権」を主張して手術を要求するようなことはあってはならない。(16)個人の倫理としては、苦しみを取り除くという消極的・否定的な意味で以外に、性の自己決定権を主張するということはあるべきではないだろう。
倫理的行為のレヴェルには、少なくとも二種類がある。一つは、ある行為がどこまで許されるかという、法に準ずる社会的枠組みに基づく行為である。もう一つは、私は何をするべきかという、個人の規範意識に基づく行為である。後者は自己と他者との関係性のうちで生ずる個人の問題であるから、前者の倫理に関係しているが、それに還元することは出来ない。個人の主体的判断が存在しないなら、本来の倫理的問題は存在しない。個人的な価値観を含めて、価値の多元性を確保する事が重要である。いずれにしろ、「生」の倫理であるはずのバイオエシックスが扱うのは、前者だけである。しかし今問題にしているのはむしろ後者の方である。
自己決定権が前提にしているのは近代の個人主義である。その個人とは、カント的な自律する個人であり、内的信念に基づいて理性的に行動しその全責任を負うマックス・ウェーバー的主体である。そこでは個人の倫理がそのまま社会の倫理である。しかし現代ではそうではない。まず、近代的個人は絶対ではない。全ての「存在」の原因を私が負うことは出来ない。性同一性障害の場合を含めて、自分の深い悩みが自分の責任ではないという事実を納得することによって、救われる人は多い。次に、個人の格率は社会の道徳的法則とそのまま一致しない。犯罪ではなくても道徳に反する行為があるように、倫理的に禁止されてはいなくとも善くない行為もある。その判断は個人の倫理である。
個人にとって最も大切なものは自己である。私にとって私という存在は絶対的なものであり、交換不可能な唯一の存在である。そこに人権とか人間性という観念は根を持っている。既に述べたように、身体やホルモンに異常がなく、「脳の性別」にも問題がないとしても、本人が性同一性障害を持ち、苦しみを感じているのならば、それは解決すべき問題である。一方、私がもっと美しくなりたくて美容整形手術を受けるのであれば、それは禁止されてはいないとしても、自己の肉体を手段化しており、その際、私の自発性は、外面的美しさを重視する社会の価値観により多く支配されている。そのような他者のまなざしに吸収され同化するのではなく、自分の存在にこだわること、それが個人の倫理である。自己の倫理の根拠をなすのは内発的欲望である。しかしそこには他者の欲望が侵入している。安易に社会の価値観に自己を支配させないこと、それが、自己を騙さないこと、自己に対して誠実であること、である。それはまた現代社会でますます進行していくに違いない価値の一元化に抗することでもある。そして出来る限り多くの人に、出来る限り多くの自己実現を可能にする社会、言い換えれば、出来る限り多くの共可能性(ライプニッツ)を実現する社会が、目指されるべき理想の社会であるなら、自己決定権は、性に関しても、認められるべき個人の当然の権利である。


(1) 埼玉医科大の「『性転換治療の臨床的研究』に関する審議経過と答申」(平成8年7月)は、同大学のホームページ(http://www.saitama-med.ac.jp/hinfo/douitu.html)から引用した。またこの答申が踏み台にしている、The Harry Benjamin International Gender Dysphoria Associationによる The Standards of Care for Gender Identity Disorders,1979,19904,19985 に関しても、同協会のホームページ(http://www.tc.umn.edu/nlhome/m201/colem001/hbigda/)を参照した。
(2) MTFは、Male To Female(男から女へ)のTranssexual(性転換症(の人))を意味する。この逆が、FTM (Female To Male)、つまり女から男へのTranssexualである。
(3) 近年わが国でも増えてきたバイオエシックスの概説書などでは、当然のことながら、性転換の問題は触れられていない。
(4) 『週刊朝日』1998年10月30日号 152頁以下。
また他のFTMの代表的な例として、アメリカで性転換手術を受けた著者による
虎井まさ衛『女から男になったワタシ』青弓社1996年(および 虎井まさ衛・宇佐美恵子『ある性転換者の記録』青弓社1997年)がある。またその他に、
松尾寿子『トランスジェンダリズム 性別の彼岸』世織書房(1997年)にもいくつかの事例が具体的に述べられている。
(5) 「性自認」は答申でも述べているように「性同一性( sexual identity)」の訳。(後で述べるsexとgenderの区別から言うと、むしろgender identity と言うべきだろう。)
(6) 伏見憲明「性はどこまでわかっているのか」『世界』1997年5月号(岩波書店)274−276頁。また、
伏見憲明『<性>のミステリー』講談社現代新書(1997年)第3章。
もちろん問題は、それらの中間領域があり、線引きが難しいという点にある。例えば、川添恵子『性の誤解 性転換―男の体を持った女』恒友出版(1997年)が取材している中国人留学生は、五歳の頃から女性になりたいという願望をもち、女装してゲイバーで働き、「女性になって芸人になりたい」と言うが、性転換療法(ホルモン注射)の途中で再び「男になりたい」と思うことになる。
(7) 上野千鶴子「性差の政治学」岩波講座現代社会学11『ジェンダーの社会学』1995年 岩波書店
(8) 伏見憲明 上記『世界』論文 上掲個所
(9) 埼玉医科大学の倫理委員会による答申の結論は、「生物学的性(sex)と自己の性に対する意識(gender)が一致しない、いわゆる性別違和(gender dysphoria)という現象が存在すること、またその不一致に悩む人々がいることは確かであり、その原因として、単に心理・社会学的要因のみならず、胎生期、幼小児期の生物学的要因の関与する可能性が指摘されている状況において、それらの人々をその悩みから解放するために医学が手助けをすることは医療の立場からは正当なことといえる。」(強調は引用者)となっており、「単に心理・社会学的要因」だけでは決定的でないというニュアンスが感じられる。
(10) 伏見憲明 上記『世界』論文 285頁
(11) こうしたケースでは、本当の原因を他にすり替えている場合が多いので、手術という物理的方策が何の解決にもならないことがある。とはいえ、それで本人の心理状態が改善され、よい結果がでることも多いようである。いずれにしても原因は非常に主観的である。
(12) 山極寿一「同性愛はなぜあるか」(『父という余分なもの』新書館(1997)所収)によると、ゴリラにおいてかなり本格的な同性愛の現象が観察されることがあるという。「文化」のあるところ、性行動と生殖行為は必ずしも一致しない。
(13) Michel Foucault, Histoire de la sexualité, 1, La volonté de savoir,1976, Éditions Gallimard, 1976. pp.137ff. ミシェル・フーコー『性の歴史T 知への意志』渡辺守章訳 1986年 新潮社。ここでフーコーが語っているのは「セクシャリティ(邦訳では「性的欲望」)」の歴史である。
(14) 長谷川真理子『オスとメス=性の不思議』第2章 講談社現代新書1993年
(15) Jacque Lacan, Le stade du miroir comme formateur de la fonction du Je, in :Écrits, 1966, Éditions du Seuil, pp.93ff.
(16) 加藤尚武『脳死・クローン・遺伝子治療』(PHP研究所1999年)では、「同性愛者が性転換手術を要求する場合、それを認めるべきかどうかという問題が起こる」(77頁)と述べ、その結論は出していないが、本稿の論旨からすれば、既に述べたように、(異性愛者である同性の相手を死ぬほど好きになって、そのために自分が性転換するという、悲恋の主人公のような場合以外は)同性愛者の性転換という概念自体が自己矛盾している上に、性転換は生殖能力を傷つけるという点で普通の美容整形と同一のレヴェルで論じられない問題なのだから、性同一障害の苦しみの救済という目的以外で、性転換手術が行われることは肯定できない。

『東京文化短期大学紀要』第十七号(2000)


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