採点講評(2008年度後期)

総評
成績は、全般的に前期より出来が悪く、不可の数も多かったように思います。
その理由は、恐らく、二つあります。
1)採点が前期より厳しめだった(と言うより、前期が甘すぎた)。
前期は最初に出来の悪いクラスの採点をしたので、基準が甘くなってしまったのに対し、
後期は割と出来のいいクラスの採点を最初にしたので、基準が辛くなってしまったという事情があります。
一度基準を決めると途中で変更は出来ないのです。
2)実際に答案の出来が悪かった。
これには、恐らく、学生諸君の生活態度が後期になって甘くなってきているという点があります。
特に一年生だと、前期はまだ緊張感があっても、後期になると自然と生活態度が弛んでくるものです。
「この程度でもいいだろう」という甘さが答案にも出ているように感じました。
内容の理解を問う問題では、何か書いておけば点がつくというものではありません。
あくまでも内容が分かっているかどうかを判定基準にしています。
「ステイクホルダー」とか書いていても、内容が理解できていなければ評価しない、ということです。
そういう感じの答案も結構目に付きました。

倫理学講評
「派遣切り」についてビジネス倫理の観点から論じなさい。
昨年の暮頃からニュースでも毎日のように取り上げられている話題です。
「会社の所有者である株主の利益を最重要視するストックホルダー理論の観点からは、不況対策としての派遣切りは当然のことである。
しかし他の利害関係者の利益も考慮するステイクホルダー理論からすると、派遣従業員を会社経営の単なる手段として扱っており、善くない。」
というのがもっとも多い一般的な回答でした。(いちおう、A評価。)
これと同じくらい多かったのは、ストックホルダー理論の方しか書いてない答案でしたが、
これはビジネス倫理の観点からはむしろ批判の対象となる理論なのですから、それだけでは片手落ちというものです。(評価としては、B。)
更には、派遣社員と言っても、これまで低賃金で働き会社の利益に貢献してきたのだから、会社の都合だけで一方的に解雇するのではなく、
「ワークシェアリング」など工夫して、派遣社員の首切りは避けるべきだ、と一歩突っ込んだ答案もありました。
この問題に関する回答としてはそれ位でも十分でしょう。
しかし考えてみると、ストックホルダー理論もステイクホルダー理論も、実際には当てはまらない極端な理論です。
派遣切りで話題になっている自動車業界のトヨタとか、我々が「会社」と呼んでいるものには、株主だけでなく経営者(社長や取締役以下、部長や課長などの管理職)も、また従業員も含まれています。経営者と従業員をあわせて「会社員」と呼ぶなら、会社員の利益を重視して経営してきたのがこれまでの「日本的経営」だったと言ってもよいでしょうし、今でも(株主ではなく)「会社」の利益が経営の最重要事項でしょう。
だとすれば、会社や会社員を守るために、この「百年に一度」とも言われる不況下で、アルバイト的な立場にある派遣を切るのは、倫理的に許される範囲のことだと言えるかも知れません。会社が倒産してしまえば、多くの関係者(=ステイクホルダー)に危害を及ぼすことになる訳ですから、ステイクホルダー理論の観点から見ても、(善いことではないにしても)必要悪として、派遣切りを肯定的に評価する見方もあるかと思います。
しかし、それでも、派遣切りが善いと言える訳ではないと思います。
今回のように世界的な不景気で大量の契約打ち切りが出たので、世間で問題視されているわけですが、
もともと企業は、コストも安く解雇も容易で使いやすいという理由で派遣社員を採用してきたのでしょうから、広い視点から見れば、
もとから、「使い捨て」しやすい人材として派遣を都合よく利用してきた会社の経営姿勢そのものに問題があった、ということではないでしょうか。
理想論に近くなりますが、ビジネス倫理の観点からは、平常から労働者を使い捨てにしない経営を目指すべきだったということです。

近所のノラ猫に餌付けをして、住人たちから訴えられた加藤九段の行為を、環境倫理の観点から論じなさい
これも去年の暮に裁判沙汰になって、多少話題になった事件です。
加藤九段というのは、将棋の、加藤一二三(ひふみ)、かつて「天才」と言われた、あのプロ棋士です。
「猫の糞や鳴声などで環境が悪くなるからダメ」という回答を密かに期待して(笑)出してみましたが、残念なことに、そうした答案は余り多くありませんでした。当然ですか(笑)。
環境倫理では、地球全体主義とか持続可能性とか、環境との関係から見た人間のあり方が問題になる訳で、
この場合には、もちろん、動物の生存権や人間中心主義の否定という論点がポイントになります。
人間の気ままな都合で飼い猫を捨て、あるいは保健所で一年間に何十万匹も薬殺してるんじゃニャイよ、ということです。
加藤九段が、どんなつもりで猫に餌やりをしているのかは判りませんけど、
そういう主張を背景にして見れば、加藤九段の方にも十分な言い分があるだろうということになります。
近所の住民の迷惑を顧みず餌やりを続ける加藤九段を非難する答案も、もちろんありました。
確かに、自然の動物に餌を与えるのは、生態系を壊してしまったり、当の動物に悪影響を与えたり、良くない点があります。
でも猫の場合は、もともと飼い主が捨てたりしたものが大半でしょうから、「餌やりは猫の自立を損なう」といったような論点は、当てはまらないように思います。
ですからこの場合の問題は、加藤九段と住人たちのとのコミュニケーション不全にあったと考えるべきでしょう。
地域住人を巻き込んだ「地域猫」といったやり方が、本来はベストなのでしょう。
ところで、「すべての命は平等」みたいな回答が時々あったのは気になりました。
毎日、肉を食べたり、ゴキブリを殺したりしていながら、「すべての命は尊い」とか言ってる人を、世間では「偽善者」と呼んでいるのですよ。
その代表的な論者ピーター・シンガーが菜食主義を貫いている(らしい)ことを思い出すまでもなく、
動物解放論というのは、口にするのに、勇気というか覚悟というか、主体的決断というようなものが要求される思想です。
(どんなものでも思想というのは、本来そうした性格を持つものなんですが。)

「不覚にも不勉強で留年の仕儀に至り、死にたい」と言っている友人の武士に
a)生命倫理
b)武士道
の観点から、適切なアドバイスを与えなさい。

過去問を少し変えて出してみました。
a)生命倫理
の観点から
自ら死を選ぶのは個人の権利か、という難しい問題はありますが(もちろん、そういうことを書いてもよい)、
「キリスト教では自殺を禁じている」とか悩んでいる本人(武士ですよ!)にアドバイスしても、余り意味があるとも思えませんし、
思い余って死を選ぶという人の場合、ストレスで本人が鬱状態に陥っており、健全な判断力がなくなっているようなケースが大半でしょうから、
「死にたいと思うなら仕方ないけど、奢るからこれから美味しいものでも食べて、一晩ぐっすり寝てから、また考えろよ。」
というのが、実際的には、こういう場合の最良のアドバイスではなかろうかと、個人的には思います。
b)武士道の観点から
「武士道」と言ってもいろいろありますが、『葉隠』的な「死の覚悟」が武士道だと考えれば、
『葉隠』では、「二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり(迷うような場合には死ぬ方を選べ)」と言っているのですから、
「さっさと死んでしまえ!」
というのが一つの回答です。
しかし、思うに、この友人が、そういう死の覚悟をした武士であるなら、もう既に死んでいるのではないでしょうか。
「死にたい」とか言っているということは、この友人には、死ぬ覚悟ができていないということです。
つまり、これまでそうしたハンパな生き方をしてきたから、留年なんてしてしまったのです。武士として失格です。
その意味でも死んだほうがいいかもしれません。
(普通は留年くらいで死ぬことはありませんが、この場合、相手が武士ですし、本人が死んで詫びるべきだと思っているということが重要です。)
しかし『葉隠』では、「一度も失敗したことのない人間は、かえって危なくて使い物にならない。」とも言っています。
「本来なら死ぬべきところだが、この失敗を生かして、自分が何をするべきなのか、もう一回よく考えて見ろ!」
というのが、常識的に見て、妥当なアドバイスかもしれません。

5カウント以内でなら反則が認められているプロレスというスポーツ
スポーツ倫理から出してみました。
出題意図が分かり難いですか?
「反則をしてもよい(=ルールを守らなくてもいい)というルール」って矛盾していませんか?
そもそもスポーツにおいて「反則」はしてはならないことです。
サッカーで手を使ったらもうサッカーじゃない(ラグビーとかアメリカン・フットボールです)し、
危険なプレーをしてもいいとなったら、選手が負傷してゲームにならなくなります。
スポーツにおけるルールは、そのスポーツが成り立つために必要な規則であって、
日常生活における法律のようなものです。
プロレスの場合でも凶器(例えば、木刀)を使った攻撃は、
それを認めてしまえば、それはもうプロレスというより、剣道とか喧嘩とかに近くなり、
プロレスというゲームそのものを壊すことになります。
ですから反則行為に対しては、サッカーでならペナルティキックとかレッドカードのように、厳しい罰則が課されます。
5カウント以内でとは言っても反則OKというのは矛盾してるんじゃないか、ということです。
プロレスはスポーツとしてどうなんだろうという日頃の疑問を問題にしてみた訳です。

という訳で、かねがね疑問に思っていたのですが、プロレスは、
要するにスポーツよりも、むしろエンターテイメントなんじゃないか、ということです。
リングは設置されていますが、場外乱闘もOKですし(ボクシングならリングから降りたら負けです)
「時間無制限一本勝負」みたいに時間さえ定まっていない場合もあり、
技も、パンチ、関節技、キックなど何でもアリで、他の格闘技では考えられないくらい自由です。
要するにこの何でもアリというのがプロレスの特徴だと思うのですが、
何でもアリというは、そもそもスポーツなのでしょうか?
(そもそも最終的に勝ちを争っているのかどうかさえ疑問です。)

だとしたらプロレスはスポーツの姿をしたエンターテイメントだと考える方が正しいのではないでしょうか?
だから敢えて反則行為も認めるということになっているのだと考えれば矛盾はありません。
「ルールで認められているのだから反則もフェアプレイだ。」という回答もあり、
「プロレスはスポーツではなくショーなのだから、
フェアプレイや勝利至上主義といった、通常のスポーツに関する議論は当て嵌まらない。」
という回答もありました。
後者は回答として成立していますが、
前者は「じゃあルールって何なの?」という点に触れないとダメだと思います。

事故の現場に遭遇して、負傷者を助けるべきか、写真を撮るべきか、悩んでいる
報道カメラマンに適切なアドバイスを与えなさい。

これは職業倫理の問題です。
職業上要求される倫理と日常生活で人として要求される倫理は必ずしも一致しません。矛盾する場合も少なくないでしょう。
授業でも話したと思いますが、矛盾がはっきりする分かりやすい例を出してみました。
この場合、事故の現場がどういう状況なのかによって答えは違ってくるはずです。
他に自分しかいない状況で、交通事故が起こってすぐ負傷者を助けて治療しないと危険だという場合と
他にも人がいる大きな事故の現場では、当然対応も違ってくるでしょう。
この設問では、本人が悩んでいるという点が重要です。助けが必要な状況だと考えられます。
一般的に言うと、矛盾した命令が課されている場合には、功利主義者は、<より一般的なルールに従って行動せよ>と言います。
20数年前、女優の松島トモコさんがアフリカでライオンに噛まれたとき、同行したカメラマンは写真を撮る余裕なんかなかったんじゃないでしょうか。
また、有名な写真家ケヴィン・カーターのケースでも(→ウィキペディア 「1994年、ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている『ハゲワシと少女』という写真でピューリッツァー賞を受賞。写真はスーダンの飢餓を訴えたものだったが、1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載されると同紙には絶賛と共に多くの批判が寄せられた。そのほとんどは「なぜ少女を助けなかったのか」というものであり(中略)。授賞式から約1ヶ月後、カーターはヨハネスブルグ郊外に停めた車の中に排気ガスを引きこみ自殺。)
実際には助けなければ危険という状況ではなかったし、もし少女が危険だったら助けただろうと言われています。
また一方で、戦争写真家のキャパは、負傷した兵士にカメラを向けたとき、「何を撮ってるんだ!」と非難されたりもしてます。
そういう覚悟がなかったら写真なんて撮れないはずのものです。
「二三枚写真を撮ったら助けに行け。」とか
「すぐ携帯で通報してから写真を撮れ。」
というような回答もよく目に付きましたが、それは結局、矛盾に向かい合うのを避けていませんか?
矛盾した状況でどちらを選ぶのか訊いているのですから、「うまく立ち回って両方やれ」では、回答としてはダメでしょう。
また、この設問には限りませんが、理由が分かるように書いてなければ、「助けろ!」とか結論だけ書いても、採点の対象にはなりません。


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