スピノザ
Baruch de Spinoza (1632-77)
―「神即自然」の汎神論


スピノザの『倫理学(ethica)』から断片的に引用しても、意味不明でしょうから、シュヴェーグラーの『西洋哲学史』から、スピノザ哲学の簡潔な解説を引用しておきます(訳は少し変えました)。因みに、通常「実体」とは、アリストテレスによって、「本当に存在するもの」、「主語となって述語とならないもの」と定義された、他のいろいろな性質(偶然的性質=「属性」「偶有性」)を担う基体を意味します。(具体的には、個体や本質存在(essence)や神を指します。)デカルトは、実体を「その存在のために他のものを必要としないもの」と定義しました。そういう自立的存在という意味で「実体」を厳密に理解するなら、神だけが唯一の実体だ、ということになります。(デカルトは、神の次に、精神と物質という二つの実体を認めました。)

 「スピノザの体系は三つの根本概念に基づいていて、その理解から他のすべてが数学的必然性をもって帰結されるようになっている。
実体(substantia)、属性(attributus)、および様態(modus)の概念がそれである。

A 実体。「実体とはその存在のため他のものを必要としないものである」、というデカルトの実体概念からスピノザは出発する。スピノザによれば、しかし、実体の概念をこのように考えるとき、実体はただ一つしか存在することができない。自分自身によってのみ存在するものは、必然的に無限であり、他のものによって制約されたり制限されたりしていない。多くの無限というものは存在し得ない(もし存在すれば、全く区別されないであろう)。したがって、デカルトがまだ想定していたような、多くの実体ということは必然的に矛盾である。ただ一つの実体、しかも一つの絶対的に無限の実体しかありえない。この実体をスピノザは神と呼んでいる。
 彼はまた、世界のうちに神という実体そのものの偶有性以外のものを見る人々を嘲笑している。世界とは、神の意志の自由な産物ではなくて、その本性に従って無限である創造的な神の本質そのもの流出である。彼にとって神とは万物の実体であって、それ以外のものではないのである。神のみが存在するという命題と、万物の実体は一つであるという命題とは、彼にとっては同じ命題なのである。
 ところで実体とは本来なにか。その積極的な本質は何か。この問にスピノザの立場からは直接に答えることは極めて難しい。その理由は、…スピノザによれば全ての規定は否定であり、あらゆる規定は存在の欠如、相対的な非存在を示すものだからである。だから特定の肯定的な本質規定を提示すれば、存在は有限化されるほかないであろう。…そこで、実体に関する肯定的な立言として残るのは、ただ実体の自分自身への絶対的関係を表現するものだけである。この意味でスピノザは実体について、それは自己原因である、すなわちその本質は自分のうちに存在を含んでいる、と言っている。…以上を総括すると次のようになる。あらゆる限定と否定を排除する、一つの無限の実体のみが存在し、それは神と呼ばれ、すべての有限な存在を貫く一つの存在である。

B 属性。デカルトは無限の実体、すなわち神、のほかに、神によって創造された二つの派生的実体、精神(思考)と物体(広がり)とを想定していた。この二つのもの、すなわち思考と広がりとは、スピノザにおいても、その下にあらゆる現実が包摂される二つの根本形式である。しかし、彼によれば、それらは実体ではなくて、実体の属性である。
 これら属性と無限の実体との関係がどうであるのかは、難しい問題である。実体の本質はこの二つ属性に尽きることはできない。二つの属性に尽きるものであったら、実体は規定され限定されたものとなって、それは無限の実体という概念に矛盾する。したがって、もしこの二つ属性が実体の客観的本質のすべてでないとすれば、それらは、それ自身では無限である実体が、すべてを思考と広がりとに分かつ悟性の主観的認識に現れる規定であるより他はない。そしてこれがスピノザの考えである。彼によれば属性とは、「悟性が実体についてその本質を構成していると認めるもの」である。二つの属性はしたがって、実体の本質が知覚する悟性に対してのみ、このような一定の仕方で現れる規定である。実体そのものはこのような一定の存在の仕方に尽きるものではないから、それらはただ悟性(これは実体の様態にすぎない)に対してのみ、実体の本質を表現するものとして現れるにすぎない。悟性がこの二つの属性の下でのみ実体を見るということは、実体そのものとは無関係である。実体そのものは無限に多くの特性を持っている。すなわち制限でない限りあらゆる可能な属性がそのうちに想定される。右の二属性を実体に帰するのは人間の悟性にすぎず、しかもその人間の悟性が理解しうる諸属性のうちこの二つのみが真に肯定的であるから、言い換えれば実在性を持っているから、この二つだけを実体に帰するのである。
 したがって、神すなわち実体は、悟性がこれを思考という属性の下に考察する限り思考であり、広がりという属性の下に考察する限り広がりである。一口に言えば、この二つの属性は経験的に採用された規定であって、実体の本質を尽くすのではない。実体はそれらの背後に絶対的に無限なものとして立っているのである。…

C 様態。 個物は、思考という属性のもとに考察すれば観念であり、広がりという属性のもとで見れば物体であるが、スピノザはこれを偶有性の概念、彼の言葉を用いれば「様態」の概念によって捉えている。様態とはしたがって、実体という普遍的存在が特殊化する個別的な存在様態である。様態は、たえず消滅して少しも恒存しない形態として、その実体への関係は、海に立つさざ波の海の水への関係に似ている。有限なものはそれ自身のうちに独立の存在を持たない。…

D 実践哲学。 スピノザの実践哲学の特徴を簡単に述べよう。その諸原則はスピノザの形而上学の根本観念から必然的に生まれてくる。第一に生じるのは、人々が「意思の自由」と呼んでいるものの否定である。というのは、人間は様態の一つに過ぎないから、人間もその他の様態と同じく、制約する原因の果てしない系列のうちに立っており、従って人間に自由意志を帰することはできないからである。…人間が自分を自由と思い込むのは、自分の行いを知ってはいるが、それを決定する原因を知らないからに過ぎない。
 同じように、人が普通「善い」とか「悪い」とかいう言葉を結びつけている諸観念は、誤謬に基づいている…。善や悪は事物そのもののうちにある現実的なものではなく、我々が事物を互いに比較して作る相対的な概念に過ぎない。我々は…ある個物がこの概念に反すると、それはその本質にかなっていず、不完全であると考える。しかし何事も神の意志に反しては起こらないのだから、悪や罪は相対的なものであって、積極的なものではないのである。それは単なる否定や欠如に過ぎず、我々の表象においてのみ何ものかであるように見えるに過ぎない。
 では(真の意味での)善悪とは何か。善とは我々に有用なものであり、悪とは我々に善に与ることを妨げるものである。有用とは、我々の存在性を増すもの、我々の存在を維持し高めるものである。しかし我々の真の存在は認識であり、認識は我々の精神の本質である。認識のみが我々を自由にするもの、すなわち、外界の事物が我々を妨害しようとする影響力に抵抗し、理性的に我々の存在を維持し促進する法則に従って行動し、全ての事物に対して我々の本性にふさわしい態度をとる、原動力と力を我々に与えるものである。従って認識に役立つもののみが有益である。最高の認識は神の認識であり、精神の最高の徳は、神を認識しかつ愛することである。神を認識することから精神の最高の歓喜、最高の幸福が生じる。それは我々に万物の永遠の必然性の思想のうちに平安を見出させ、我々をあらゆる不和と不満から、我々の存在の有限性との空しい戦いから解放する。」
(シュヴェーグラー『西洋哲学史』(谷川徹三・松村一人訳)岩波文庫 より)


参考文献
スピノザの著作は、その殆どの翻訳が、岩波文庫で出ていますが、品切れも多く、いつでも本屋(またはAmazon)で買えるという訳でもないようです。
いきなり、定義や公理から始まる『エチカ』では厳しいでしょうから、スピノザに興味がある人が先ず読むべきものは、
神・人間及び人間の幸福に関する短論文』(畠山尚志訳)
でしょう。その次に、
『エチカ』
『国家論』
ということになると思います。


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