サルトル
Jean-Paul Sartre ( 1905-1980 )
―人は自由であるように宣告されている。( l'homme est condamné à être libre.)


世間の常識
サルトルは、戦後、特に50/60年代に活躍した、フランスの哲学者であり作家。実存主義の代表者。
「実存は本質に先立つ」という言葉を知らない者は、昔はいなかった。

代表的著書には、『存在と無』(1943)を初めとする哲学書の他に、『嘔吐』(小説)や『聖ジュネ』(評伝)や多くの戯曲と評論がある。
清水義範の「猿取佐助」(サルトルの伝記を立川文庫(猿飛佐助)の文体で書いたパスティーシュ小説、『ビビンパ』に収録)を読んで、何処が面白いか解るくらいの知識は、世間の常識というものではなかろうか。
サルトルという人の存在について、平凡社『世界大百科』では、次のように言う。
 「なお、サルトルが第2次大戦後の日本に与えた影響はきわめて広く、また深い。哲学では竹内芳郎、文学では野間宏や大江健三郎などが、サルトルの思想を自分の仕事に生かした顕著な例として挙げられる。しかし、そうした著作家の場合よりもさらにいっそう注目されるのは、1960年代の終りごろまで多くの若者が、サルトルの作品や生き方に導かれながら物を考えたり、政治にコミットしたりするのを学んだことである。同時代の外国人が、このように長期間にわたって、日本の若者の熱い注目を浴びる〈指導的知識人〉として機能したのは、ほとんど稀有のことと言わねばならない。」(鈴木 道彦)
  1. 意識という存在―志向性
    意識は他の存在と並ぶ一つの存在ではない。意識は自己を超えた対象を志向する。
    「意識は常に何ものかについての意識である。」(=志向性)
    意識からの超越;世界と自我
  2. 即自存在と対自存在
    即自存在(être-en-soi)とは物の存在であり、対自存在(être-pour-soi)とは意識の存在である。
    「即自存在は、それが有るところのものである。」
    「対自存在は、それが有るところのものではなく、それが無いところのものである。」
  3. 想像力と無
    想像力は、現に「ある」ものを無化し、まだ「無い」ものを存在させる。
  4. 投企(projet)とアンガージュマン(engagement)
    被投(世界内に投げ込まれているという事実)―人間は先ず、身体=即自存在として、存在する。
    投企―状況と決断;自己の投げ込まれている世界を、肯定するのも否定するもの、自由である。
    「人間は人類全体に対して責任を負う。」
  5. 自由からの逃走
    「人間は自由であるように宣告されている。」―自由、不安、孤独
    「地獄とは他者である。」
    依存
    サディズムとマゾヒズム
  6. 五月革命と「主体の死」
    「サルトルはもう古い」という、不当な過小評価の由来
    (「五月革命」とは、1969年5月にフランスで起こった―実際には起こらなかった―社会主義革命をいう。これが象徴的な出来事となって、マルクス主義への信頼が崩れてゆくことになる。その20年後、1989年に東西ドイツが統一され、社会主義体制は終焉を迎えることになる。)

付録1
『実存主義とは何か』(伊吹武彦訳)より

実存主義者に二種類ある。第一のものはキリスト教信者であって、その中にカトリック教を信じるヤスパースやガブリエル・マルセルを入れることができよう。第二は無神論的実存主義者であって、その中にはハイデッガーやまたフランスの実存主義者、そして私自身を入れねばならぬ。この両者に共通なことは、「実存は本質に先立つ」と考えていることである。あるいはこれを、「主体性から出発せねばならぬ」と言い換えてもよかろう。このことを正確にはどう理解すべきであろうか。
たとえば書物とかペーパー・ナイフのような、造られたある一つの物体を考えてみよう。この場合、この物体は、一つの概念を頭に描いた職人によって造られたものである。職人はペーパー・ナイフの概念に頼り、またこの概念の一部をなす既存の製造技術―結局は一定の製造法―に頼った訳である。したがってペーパー・ナイフは、ある仕方で造られる物体であると同時に、一方では一定の用途を持っている。この物体が何に役立つかも知らずにペーパー・ナイフを造る人を考えることはできないのである。ゆえに、ペーパー・ナイフに関しては、本質―すなわちペーパー・ナイフを製造し、ペーパー・ナイフを定義しうるための製造や性質の全体―は、実存に先立つといえる。(中略)
私の代表する無神論的実存主義はいっそう論旨が一貫している。たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところの存在、何らかの概念によって定義されうる以前に実存している存在が一つある。その存在はすなわち人間、ハイデッガーのいう人間的現実(*)である、と無神論的実存主義は宣言するのである。実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、その後で定義されるものだということを意味するのである。実存主義者の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何ものでもないからである。人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間は自らが造ったところのものになるのである。このように人間の本質は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間は、自らそう考えるところのものであるのみならず、自ら望むところのものであり、実存して後に自ら考えるところのもの、実存への飛躍の後に自ら望むところのもの、であるにすぎない。人間は自らつくるところのもの以外の何物でもない。以上が実存主義の第一の原理なのである。(中略)
人間はまず、未来に向かって自らを投げるものであり、未来の中に自らを投企する(projet)ことを意識するものである。人間は腐蝕物やカリフラワーではなく、まず第一に、主体的に自らを生きる投企なのである。この投企に先立っては何ものも存在しない。何ものも明瞭な神意のなかに存在してはいない。人間は何よりも先に、自らかくあろうとした投企したところのものになるのである。自らかくあろうと意志したもの、ではない。というのは、我々がふつう意志といっているのは、意識的な決定であり、これは我々の大部分にとっては、自らが造ったところのものの後に来るからである。私はある党派に加入し、書物を書き、結婚することを意志しうる。しかし、それらは全て、いわゆる意志よりもいっそう根源的ないっそう自発的なある選択のあらわれに他ならないのである。しかし、もしはたして実存が本質に先立つものとすれば、人間は自らあるところのものに対して責任がある。(中略)
各人は自らを選ぶことによって、全人類を選択する。(中略)もし私が労働者であり、コミュニストになるよりもむしろキリスト教的シンジケートに加盟することを選び、この加盟によって、諦めが結局は人間にふさわしい解決であり、人間の王国は地上には存在しないことを示そうとすれば、私は単に私個人をアンガジェするのではない。私は万人のために諦めようとするのであり、したがって私の行動は人類全体をアンガジェしたことになる。もっと個人的なことであるが、もし私が結婚し、子供をつくることを望んだとしたら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりに基づくものであったとしても、私はそれによって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向にアンガジェするのである。こうして私は、私自身に対し、そして万人に対して責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶのである。
(中略)ドストエフスキーは、「もし神が存在しないとしたら、全てが許されるだろう」と書いたが、それこそ実存主義の出発点である。いかにも、もし神が存在しないなら全てが許される。したがって、人間は孤独である。なぜなら、人間はすがりつくべき可能性を自分の中にも自分の外にも見出し得ないからである。人間はまず逃げ口上をみつけることができない。もし果たして実存が本質に先立つものとすれば、ある与えられ固定された人間性を頼りに説明することは決してできないだろう。いいかえれば、決定論は存在しない。人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、我々は自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。こうして我々は、我々の背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上も持ってはいないのである。我々は逃げ口上もなく孤独である。このことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられているというのは、人間は自分自身を作ったのではないからであリ、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界の中に投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。

私どもが小説作品の中で、無気力な、弱い、卑劣な、いや時にはまったく悪辣な人間を描くのを人々が非難するのは、それらの人物が無気力で弱く卑劣であり、または悪人であるからだけではない。というのは、もし私どもがゾラのように、これらの人物は遺伝のせいで、周囲なり社会なりの作用によってこうなのだ、有機的なまたは心理的な決定論によってこうなのだと明言したとしたら、人々は安心して、「なるほど人間はそういうものだ。誰だってこれをどうしようもないのだ」というだろう。ところが実存主義者は卑劣漢を描くとき、「この卑劣漢は彼の卑劣さに対して責任がある」というのである。彼は卑劣な心臓、肺臓、脳髄を持っているから卑劣なのではない。彼は生理的構造からそうなるのではなく、彼の行為によって自分を卑劣漢に作り上げたからそうなのである。
もし人間が卑劣漢に生まれついているなら何も心配はいらない。それはどうしようもないことで、何をしようとも一生涯卑劣なのである。もし英雄に生まれついているなら、これもまた何も心配はいらぬ。一生涯英雄である。英雄のように飲み、英雄のように食うであろう。実存主義者が言うのは、卑劣漢は自分を卑劣漢にするのであり、英雄は自分を英雄にするのだということである。

出発点において、「われ思う、ゆえにわれあり」という真理以外の真理はありえない。これこそ、自分自身を捉える意識の絶対的真理である。
しかし我々がここに真理として到達する主体性は、厳密な個人的な主体性ではない。というのは我々は、コギトの中に自分自身だけをでなく、他者をも発見することを証明したからである。デカルトの哲学とは反対に、またカントの哲学とは反対に、我々は「われ思う」によって、他者の面前で我々自身を捉える。こうして、コギトによって直接におのれを捉える人間は、全ての他者をも発見する。しかも他者を自己の存在条件として発見するのである。彼は他人がそうと認めないかぎり(彼は機知に富むとか、意地が悪いとか、嫉妬ぶかいとか人が言うその意味で)自分が何ものでもありえないことを理解している。私に関してのある事実を握るためには、私は他者を通ってこなければならない。

しかし、ヒューマニズムには別の意味がある。それは結局こういうことを意味している。すなわち人間はたえず自分自身の外にあり、人間が人間を存在せしめるのは、自分自身を投企し、自分を自分の外に失うことによってである。また一面、人間が存在しうるのは超越的目的を追求することによってである。人間はこの乗り越えであり、この乗り越えに関連してのみ対象を捉えるのであるから、この乗り越えの真中、核心にある。人間的世界、人間的主体性の世界以外に世界はない。人間を形成するものとしての超越と、人間は彼自身の中に閉ざされているのではなく、人間的世界の中に常に現存しているという意味での主体性と、この二つのものの結合こそ、我々が実存主義的ヒューマニズムと呼ぶものなのである。

(*) realité humaine ;ドイツ語の "Dasein"(現存在)のフランス語訳.。ハイデガーは人間を「現存在」と呼ぶ。同じく「世界内存在」もハイデガーの用語であるが、これらの意味は、ハイデガーの原義とはかなり違う。詳しくはハイデガーの項を参照。(注;上村)


付録2
『嘔吐』(白井浩司訳)より

さて、いましがた、私は公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私の腰掛けていたベンチの真下の大地に、深くつき刺さっていた。それが根であるということももう思い出せなかった。言葉は消えうせ、言葉とともに事物の意味もその使用法も、また事物の表面に人間が記した微かな目じるしもみな消え去った。いくらか背を丸め、頭を低く垂れ、たったひとりで私は、その黒く節くれだった、生地そのままの塊と向かいあって動かなかった。その塊は私に恐怖を与えた。それから、私はあの啓示を得たのである。
それが一瞬私の息の根を止めた。最近まで、<存在する>とはなにを意味するかを、絶対に予感してはいなかった。私は、他の人びとと同じだった。晴着を着て海辺を散歩していた人びとと同様だった。私も彼らのように、「海は緑で<ある>、あの空の白い点は鴎(かもめ)で<ある>」と言っていた。しかし、それが存在していること、鴎が<存在する鴎>であること気づかなかった。ふだん、存在は隠れている。存在はそこに、私たちの周囲に、また私たちの内部にある。それは<私たち>である。存在について語らずにはなにひとつ言いえない。しかし結局、存在に手を触れることはできないのである。…
事物は装置のように見えた。事物を手にとると、それは道具の役目をした。私は事物の抵抗を予見していた。しかしすべてこうしたことは表面だけの出来事だった。もし存在とはなんであるかと問われたならば、私ははっきりと、それはなんでもない、まさしくそれは外部からやって来て、事物の上に、その性質をいっさい変えることなく付加される空虚な形式である、と答えただろう。ところが、それはこれだった。たちまちのうちにそれはそこに、きわめて明瞭にそこにあった。存在が急にヴェールをはがれたのである。それは、抽象的範疇に属する無害な様体を失った。存在とは、事物の捏粉(ねりこ)そのものであって、この木の根は存在の中で捏(こね)られていた。というか、あるいはむしろ、根も、公園の柵も、ベンチも、貧弱な芝生の芝草も、すべてが消えうせた。事物の多様性、その個性は単なる仮象、単なる漆にすぎなかった。その漆が溶けた。そして怪物じみた柔らかい無秩序の塊――裸の塊、恐ろしい淫猥(いんわい)な裸形の塊だけが残った。


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