空海
(弘法大師 774-835)


空海は、仏教の完成形態の一つである密教の思想を大成し、真言宗を興した。
「真言」というのは、「マントラ」のことで、『般若心経』の末尾に、
「その真言は、知恵の完成において次のように説かれた。
 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
 (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)」(中村・紀野訳)

とあるが、こうした短い呪文を指す。
(浄土宗の「南無阿弥陀仏」とか日蓮宗の「南無妙法蓮華経」という呪文も、意識を対象=真理に集中させる呼びかけの言葉として、マントラだ。)
「密教」とはそれ以前の仏教の形態、すなわち「顕教」に対する言葉で、
究極の真理は単なる言葉によってではなく実践によって得られるとする立場である。
(空海に至るまでの密教は、金剛頂系と大日経系という二つの系列があり、空海の直接の師である恵果においても両者は並列していた。
中国において同時に両部門の正当な後継者となった空海は、
物質界の原理である胎蔵(matrix)界と精神の原理である金剛(diamond)界を統合し(=金胎不二)、
密教の理論を完成した。それを可視的に表現したものが、マンダラである。)

空海はその主著『秘密曼荼羅十住心論』において、
真理により近づいていく、人間の心のあり方を、10の発展段階に区分して述べている。
1)異生羝羊心―本能と欲望の命ずるままに生きる動物的な心
2)愚童持斎心―人の生きるべき道(倫理)に目覚めた人間(儒教)
3)嬰童無畏心―この世を超えた永遠なるものへの憧れに目覚めた人間(道教・キリスト教・プラトン主義)
4)唯蘊無我心―(小乗仏教―無我説)
5)抜業因種心―(小乗仏教―因果の理論)
6)他縁大乗心―(大乗仏教―唯識)
7)覚心不生心―(大乗仏教―空観)
8)一道無為心―(大乗仏教―天台)
9)極無自性心―(大乗仏教―華厳)
10)秘密荘厳心―密教の立場(真言宗)

 問題は、空海が究極とした第十の秘密荘厳心だ。どうすれば、その境地に至ることができるのだろう。その方法は経を読んだり、勤行を重ねたりするといった顕教の方法ではなく、密教独自の瞑想法だと空海はいう。瞑想法は、空海密教の両輪となっている『大日経』と『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』のうち、主に『金剛頂経』が説いているもので、これこそが第十秘密荘厳心に入るための必須条件だというのである。
 『秘蔵宝鑰』下巻・秘密荘厳心の記述は、その大半が瞑想実践の勧めになっている。空海は、こう書く。
「そもそも瞑想の観想を実践する者は、よろしく、まめに三密の実践を行って、五相成身
(ごそうじょうじん)のむねをさとるべきである」
 五相成身とは、金剛界法で説かれる自分と仏を一体化させるための瞑想法で、心の五つの相を順次瞑想していく。ただ漠然と座って瞑想するのではない。ポイントは「三密の実践」にある。これこそが密教にのみ伝わり、密教でしかなしえない方法なのである。
 その具体的な実践法のアウトラインを、羽毛田義人氏の名著『空海密教』を参照しながら、紹介していこう。…
 羽毛田氏はこう説明している。
「密教の禅定
(ぜんじょう)法は、手で印契を結ぶこと、口に真言を唱えること、さらに心に神聖なイメージを思い浮かべる観想の三つの要素からなる。これらはそれぞれ如来の身体、言語、意識の活動、つまり三密を象徴的に表現する。この三密行を修することは、……『三密の加持』の状態を作り出す。つまり修行者の身体、言語、意識の活動、『三業』は三密に完全に摂入する」
 如来の身体・言語・意識の「三密」と、行者の身体・言語・意識の「三業」がひとつに結ばれた状態、それを密教では「加持」という。「加」とは、如来の側からやってくる慈悲、「持」とはそれを受けとる行者の信心をいう。この加と持がひとつになった状態が加持であり、如来と行者の身体・言語・意識が融合してひとつになるから、三密加持というのである。
 この三密加持を実践するために、行者は手に印を結び、口に真言を唱え、心には諸尊を象徴する種々のシンボルを思い浮かべていく。空海が密教の真理を描き出したものとして、終生こだわり続けた前記の「四曼荼羅」も、実はこの三密加持の具現化にほかならない。
 まず、諸尊の姿を具体的に描いた「大曼荼羅」は、三密のうちの如来の身体(身密)を表現している。諸尊が梵字の種子で描かれた「法曼荼羅(種子曼荼羅)」は如来の言語(口密)。諸尊のシンボルによって表現された「三昧耶曼荼羅」は如来の意識(意密)を視覚化したものであり、以上の三者を総合して、大日如来の活動の全体を表現したものが「羯摩曼荼羅」なのである。
 羽毛田氏の説明を続けよう。
「三密加持を成就し四種曼荼羅を体現するこの状態は『入我我入
(にゅうががにゅう)』と呼ばれる。禅定におけるこの瞑想の対象としての本尊が修行者の我に入り、また我も本尊に帰入することを示すこの語は、瑜伽(瞑想)の本質をよく表している」
 空海がはじめて日本に持ちこんだ儀軌類は、「舞台における台本と同様の役割」を果たしている。瞑想における演技者は、いうまでもなく行者だ。行者は、台本である儀軌に指示されたとおりに道場や法具などをしつらえ、定められたとおりに印を組み、真言を唱え、瞑想裏にさまざまなイメージを想起し、変容させていく。
「こうして大日如来の禅定の法悦を描く宇宙ドラマが始まる」
 役者が、やがては演技をしているということも忘れて舞台上の人格になりきっていくように、真言の行者も、次第に大日如来と重なりあっていく。
「いつしか自らがモノローグを演じているという意識すら失われ、修行者は『役』に成りきってしまう」……かくして、入我我入は達成されるのである。
 そのとき行者は、まさしく大日如来と融合し、第十秘密荘厳心のまっただなかにいる。否、いるという意識は、もはやない。それはただそのものとなって、そこにある。まさしく「即身成仏」しているのである。」
(藤巻一保「空海密教の思想」 夢枕獏編著『空海曼荼羅』所収)

「即身成仏」というのは、第一義においては、
悟って仏陀に成る(=成仏)には、(しばしば何世代もの)長い時間と多くの修行の過程が必要だ、という従来の通説に対して、
今、この身体において(=即身)、仏になることができる、という意味であるが、
第二義において、というより、こちらが本来の意義だろうと思われるが、
自分が今生きているこの身体に宇宙の生命が現われており、宇宙の真理が実現しているということ、
つまり誤解なくありのままの姿を見れば、自分の存在が真理そのものであることを顕在化できるということ、である。
その宇宙の真理を、密教では、「大日如来(Mahavairocana)」と呼ぶ。
「マハー(maha)」は「大きい」、「ヴァイローチャナ(vairocana)」は「光明遍照(光り輝き全てを照らす)」と訳されたり
「毘盧遮那(びるしゃな)とそのまま音訳されることもある(奈良の大仏さまの名前ですね)。
「大日如来(Mahavairocana)」とは、もはや全てを照らし出す宇宙の真理そのものであり、歴史上出現した仏陀は、その一つの現われということになる。
これは中期の大乗仏教、とりわけ華厳宗において現れて来た観念であり、禅宗においてさらに表面化することになる考え方である。


参考文献
宮坂宥勝監修 『空海コレクション』 1/2 (ちくま学芸文庫)
書き下し文と注と現代語訳で、空海の代表的な著作(3/4集には、空海の主著『秘密曼荼羅十住心論』)が収められている。
空海の原文(漢文は無理だとしても)を読む意志があれば、まず、この二冊を。
同じ筑摩書房から出ている『弘法大師 空海全集』(8巻)より、こちらの方がよい。

司馬遼太郎 『空海の風景』(中公文庫)
小説というよりは評伝もしくはエッセイだが、空海に関心があれば、一読を勧める。
夢枕獏 『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』(角川文庫)
長いし、8/9割はフィクションだが、いちおう主人公は空海だし、史実も踏まえているし、空海に興味が無くても楽しめるかも。

竹内信夫 『空海の思想』(ちくま新書)
良くも悪くも大学の講義(演習か)を聞くような印象で、最初に読むべき本ではない。テキスト・クリティークは興味深い。

→ウィキペディア 「空海」の項

→仏教の頁
→村の広場に戻る