キルケゴール
Søren Kierkegaard (1813-55)


キリスト教は「愛」の宗教であるといわれる。その「愛」とはもちろん「恋愛」とは違う。しかし全く違うものでもない。
恋する人の中に何か触れ難い神聖さのようなものが感じられないのであれば、「恋愛」とは何だろうか?
キルケゴールにとって恋愛は、ただ一人の絶対的な存在へ向かう絶対的な他者への関係として、ほとんど神への関係に等しい。
その意味で「恋愛」と「結婚」はキルケゴールにとって「宗教」である。
(そこにキルケゴールの滑稽さと崇高さがある。)

1)レギーネ事件

「不思議にもソクラテスは、一人の女性から学んできた、と常に語っている。おお、私もまた同じように言うことができる、私の最上のものを乙女に負うている、と。それを私は、彼女から学んだというよりは、彼女を通じて学んだ。」(『日記48年』―以下の日記の引用は主として、橋本淳編訳『セーレン・ケェルケゴールの日誌』第一巻 から)
「私が慰めとしているただ一つのことは、死の床にふして臨終(いまわ)の折に、生きている間は許されなかったこと、私を同じだけ幸せにも不幸ともしている愛を、告白できることである。」(『日記41年』)

婚約破棄の謎
「次の日、私は間違いを犯したと悟った。私は一人の懺悔者であったし、私の従前の経歴、私の憂愁、それでもう十分だった。」(『彼女に対する私の関係』(49))

a) 父の秘密
「小事を隠したような結婚なら幾らでもある。私はそうしたくなかった、その時には彼女は私の愛人となるだけである…。けれども私が説明しなければならないとすれば、恐ろしい事情を彼女に打ち明けねばならなかった、すなわち父との関係、父の憂愁、心の奥深くにわだかまる永遠の夜、私の罪過、私の欲情と放縦を。これは神の目からすればさほど恥ずべきものと見えなかもしれないが、なぜなら不安のために私は道を踏み外したのだから。」(『日記43年』)

b) 憂愁
「私には善くもありまた悪くもあるが何か訳の分からぬものがあって、ふだん私と馴染み現実に交わる何人をも耐え難くさせるような何かがある。確かに普通私が人前で見せる明るい装いと、それは全く異質のものである。けれどもそれは、根本にあって私が精神-世界の中で生きていることを痛感させるものであろう。私は一年間、彼女と婚約した、が、彼女は本当には私を少しも知らなかった。」(『日記49年』)

c) 神との関係
「私にとって滅びとなるのは、神的なものが結婚に関与してくるからである。」(『日記43年』)
「実に不思議なことだが、私が婚約してまだ初めの頃、しばしば話題とした事柄は、他人のために犠牲とさるべく意味づけられた人々が、何時の世にも存在したという事実についてである。」(『日記49年』)
「私には肉の中の棘と呼べるような懊悩があって、それを耐えねばならなかった。」(『日記54年』)
「もし私に信仰があったなら、レギーネの許にとどまっていたであろう。」(『日記43年』)

2)実存の弁証法-『あれか-これか』

a) 美的=感性的段階
全ての人間は退屈。退屈な人生の現実を楽しい人生に作り直していくのが審美家の課題。
就職より趣味、結婚より恋愛、ファンタスティクな自由、ドン・ファン;外的対象の美的享楽
『誘惑者の日記』;自分の内面を享受する天才的審美家

b) 倫理的段階
結婚生活と職業生活をまじめに選びとる、日常の人間的義務を真剣に営む倫理的立場

c) 宗教性A
「個別者は普遍的なものの中に自己の目的を持つ。彼の倫理的課題は、自己自身を常に普遍的なもののうちに実現し、自己の個別性を捨てて普遍的なものとなることである。」
単独者-何の普遍的な媒介もなしに、神の前にただ独り立つ
主体性が真理である

宗教性B
負い目の意識→罪の意識;主体性は虚偽である
二重の逆説;永遠な神の時間化と時間的な人間の永遠化

3)宗教の逆説-『畏れと慄き』

a) 信仰の父アブラハムの試練
「<苦しみ>はこの世との異質性を示す質的な表現である。…苦しみのないところでは永遠なものの意識もまた存在しない、そして永遠なものの意識があるところ、そこに苦しみもまた存在する。神が一人の人間を(この世に対し異質とさせて)永遠へと目ざませるのは<苦しみ>を通じてである。
 旧約聖書における事情はこうである。…神はアブラハムを試み、神の意志に従ってイサクを献げるよう求められる、が、その試みが終わると、アブラハムはイサクを得、この地上の生を再び喜ぶことになる。-だからアブラハムにしても永遠なものの意識が未だ明確でない、なぜなら、苦しみが最後まで持続しないからである。
 キリスト教は最後まで苦しみである-そこでこそ永遠なものの意識がある。」(『日記52年』)

b) 宗教的理念による美的理念の受け取り直し;エロスからアガペーへ-『愛のわざ』
「自分を愛するように汝の隣人を愛せよ」(マタイ22-39)
*「愛せよ」
愛は、自然的、人間的愛ではなく、神的な愛、神を媒介とする愛である。自然な愛は、その自然性を義務によって拘束される。しかしこの義務は、人間を永遠に独立なものとして解放する神の愛によって課されたものであるから、愛は自由な愛になる。
*「隣の人」
特定の人でない。どの人でもなく、同時に全ての人でもある。対象に支配されない愛、自分が選んだ対象に執着する自愛や偏愛の否定。
*「自分を愛するように」
深く愛する自己の否定は絶対的な自己否定になる。神の前で自己否定を徹底したものは、神との再結(re-ligio)を実現し、永遠の自己、真実の自己を神から受け取り直す事ができる。この愛は、愛する対象に奴隷的に屈従することも、相手を自分のものにし自分に従属させることも意味しない。自由な人格として他者を受け取り直す単独者どうしの交わりは、この「愛のわざ」によってのみ、成立する。

4)時代と教会の批判

a) 『コルサール』事件
ジャーナリズム;自分では何一つ責任を負おうとせず、常に大衆や世論の名の許で個人の主体性を押し殺してしまう。
「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、」(『現代の批判』)
「ドイツには恋する人たちのためのマニュアルさえある。」
具体的個人が消滅すると、マスコミが「人間平等」という名目の許に「水平化」の運動を推し進める。

b) 『キリスト教の修錬』
殉教者イエスの「追随者」;虚偽なこの世と戦い真理へと変革していく、真の信仰者
栄光者イエスの「賛美者」;教会の権威を賛嘆することによって身の安全と栄達を計る
 →国教会の堕落;信仰の権威と世俗の権力を混同する不信仰
信仰;神人イエスと同時的に生きること
現代=中間の時;キリストの生きた啓示の時と最後の審判の中間
 ここで見える神は、卑賤な貧しい下僕の姿をとって世に現れ、真理を実証するために迫害され、虚偽なる世間によって罪人として処刑された、殉教のイエスだけである。
善をなすからこそ罰せられたイエス、卑しい下僕の姿のイエスと同時的であることは、イエスの追随者となって、迫害されることを覚悟の上で、世間との単独の戦いに踏み出すことである。しかし、イエスと共に歩むことが価値があるという客観的な保障は、何処にもない。あるのは躓きのしるしだけである。
直接的伝達;神への奴隷的な従属
間接的伝達;躓きの可能性を中において人間を神から突き放すことによって自由な単独者として神と対面する
 ―キルケゴールの著作全体が間接的伝達の形式で書かれている。


付録
キルケゴールの手記『「彼女」に対するわたしの関係』(橋本淳訳)より

女王(レギーナ)よ、あなたは又しても私に、深い苦痛を再びくりかえすよう、命じられる。

<レギーネ・オルセン。―>わたしはレアーダム家で初めて彼女と出合った。その所で彼女と出合ったのは、わたしが彼女の家族を訪れるようになっていない、まだ初めの頃のことだった。
父が亡くなる以前からすでにわたしは、レギーネへと心を決めていた。父が死んだ。わたしは試験勉強にとりかかった。その間(かん)のわたしは、彼女の存在に自分を絶えずからませていた。

一八四〇年夏、わたしは大学神学部の最終試験を受けた。
その直後に彼女の家を訪れた。わたしはユラン旅行へと出たが、すでにその頃、彼女を惹きつけようと少しばかり試みたかと思う。<例えば、旅に出てわたしが留守となる間、彼女たちに本を貸してやり、一冊の書物の特定の箇所を読んでおくように指示するなどして。>
八月にわたしは帰ってきた。八月九日から九月にかけては、厳密に言うなら、わたしが彼女に近づいていった時期といえる。
九月八日、わたしは凡てに決着をつけたいと決心して、家を出た。彼女の家のすぐ前の通りで、わたしたちは出会った。彼女が言った、家には誰も居りません、と。わたしはこれが、まるでわたしに対する招きでもあるかのように、また自分の望み通りな状況と受け取るほど、すっかり大胆になっていた。わたしは一緒に家にあがった。居間では二人きりだった。彼女はどこか落ち着かなかった。わたしは、いつものようにピアノを少しばかり弾いてほしいと願った。彼女がピアノを弾く、けれどもそれが少しも役立とうとしない。突然、わたしは楽譜をとりあげ、それを激しい調子で閉じると、ピアノから投げ捨て、それから語る、ああ、音楽などどうでもよいのです。わたしが求めているのは、あなたです。この二年の間わたしは、いつもあなたを求めてきました、と。彼女は黙ったままだった。それ以上には何も、彼女の心を魅きつけるために振舞わなかった。むしろわたしは自分自身に対して、わたしの憂愁に対して、警戒すらした。それから彼女がスレーゲルとの関係を口にしたので、わたしは言った、その関係を括弧に入れておきなさい、なぜならわたしに第一の優先権があるのだから、と。彼女はまるで言葉を失ったかのようだった。とうとうわたしは出て行った。というのも誰かがやってきてわたしたち二人を見かけ、そのため彼女が動揺しないかと、本当に心配になったからである。わたしは直接、顧問官〔彼女の父親〕のところに行った。彼女に対してあまりにも強烈な印象を与えてしまったこと、それと共に何らかの形でわたしの訪問が誤解をよんで、場合によっては彼女の評判を傷つけることになりはしないかと、恐ろしいほど不安になったからである。
父親は承諾も拒絶もしなかった、けれども十分に好意的な様子であることがすぐにもわかった。わたしは彼女と話し合いたいと申し出た。それを、九月十日の午後に許された。わたしはただの一言も、彼女の心をつかむようなことを言わなかった―彼女は承諾してくれた。
このときから私は、彼女の家族全員との交わりを深めるように意を用いた。中でも彼女の父親に対して、自分の才能をあげて接した。彼に対してはいつも、ずい分と好感をもつことができた。
しかし自分の中では、次の日に、わたしは間違いを犯したと悟った。わたしは一人の懺悔者であったし、わたしの従前の経歴(vita ante acta)、わたしの憂愁、それでもう十分だった。
その頃わたしは、言葉でつくせぬほど苦しんだ。

もしわたしが懺悔者でなかったなら、わたしの従前の経歴がなかったなら、憂愁でなかったなら―彼女と一緒になるときは、これまで夢想だにしなかったほど、どんなにわたしを幸せとしただろうか。けれどもこのようなわたしであるがため、わたしは自分に向かってこう言わなければならなかった、お前は彼女と一緒で幸せとなるよりは、彼女のいない不幸の中でこそもっとも幸せになれる、と―本当に彼女はわたしの心をとらえていた、だから喜んで、心から喜んで、何でもしたかった。

しかしそこに神の抗議があった、とわたしは受け取った。結婚。わたしは随分と多くのことを彼女に黙っておかねばならず、全体を虚偽の上に構築せねばならなかった。
わたしは彼女に手紙を書き、彼女の指輪を送り返した。このときの手紙は、「心理学的な実験」の中にそのままの形で見出される。(注)それをわたしはわざと事実の通りにしておいた。そのことを誰にも語らなかった、一言も。まるでわたしは墓石さながらに沈黙したままでいる。もしも彼女がその書物を読むことにでもなれば、その時には手紙のことを、きっと思い起こしてくれるであろう。

(注)「どうしても起こらなければならないことを、何度も試みないためにも、こうします。事が起こってしまえば、必要な力が与えられるでしょう。だからこうします。これを書いている者のことを、すっかり忘れて下さい。たとえ他に何かが出来たとしても、一人の娘を幸せにすることだけは出来なかった男を許して下さい。
東洋では、絹の紐を送ることは、それを受け取る者の死刑を意味します。指輪を送ることは、この場合には、それを送った者の死刑を意味するでしょう。」(『人生行路の諸段階』より)


付録2
「わたしは今日キルケゴールの『士師の記』を手に入れた。予感していたとおり彼の場合は、根本的な相違があるにもかかわらず、わたしの場合と非常によく似ている。少なくとも彼は、この世界のおなじ側にいるのだ。友人ででもあるかのように、わたしの存在を裏書きしてくれている。」
カフカ『日記』より(引用は、辻(ひかる)編注『実存と人生』から)
『士師の記』は、キルケゴール『日記』のドイツ語訳のタイトル(もちろん『旧約聖書』の「士師記」のこと)
カフカは、ある女性と婚約した後一方的に婚約を破棄し、さらに同じ女性と再び婚約と婚約破棄を行い、さらにまた別の女性と婚約及び婚約破棄を繰り返したことでも有名だ。
キルケゴールの場合と、同じではないだろうが、上の言葉の前には、こう書かれている。
「わたしの結婚に対する賛否のすべてのとりまとめ。…
三 わたしはできるだけひとりでいなければならない。わたしがいままでやりとげたことは、ひとりでいることの成果であるにすぎない。
四 わたしは文学に関係のないことは、みんな憎んでいる。人と話をすることは(たとえそれが文学に関係する話でもだ)退屈だし、人を訪問することは退屈だし、家族の者たちの苦楽は、魂の奥底までも退屈だ。人と話をすると、わたしが考えているすべてのことから、重要さ、真剣さ、真実さが失われてしまう。
五 結びつき、つまり流れ出ることへの不安。そうなればもう決してひとりではいられない。
六 昔はとくにそうだったのだが、わたしは妹たちの前で、他の人たちの前にいるときとは、まったくの別人になることがよくあった。大胆で、裸のままで、力強くて、人をあっと言わせ、ものを書くとき以外にはないように、すっかり心をうばわれていたのだ。妻というものの仲だちで、だれかれとなくみんなの前で、ああなれたらいいのだが! だがそうなると、書くことからそれが取り去られてしまうのではないだろうか? それだけは困る、絶対に困るのだ!…」
「いっしょにいるという幸福を、罰するものとしての性交。できるだけ禁欲生活をすること、独身者よりも、もっと強い禁欲生活をすること、わたしにとってはそれが、結婚生活に耐えてゆく唯一の可能性だ。でも彼女のほうは?」


参考文献
キルケゴールについて知りたいという人に、私が勧めたいのは
和辻哲郎『ゼエレン・キェルケゴオル』
ですが、『和辻哲郎全集 第一巻』以外では手に入らないのが最大の難点です。


→村の広場に戻る