ヘーゲル
G.W.F.Hegel (1770-1831)


『精神現象学』(1807)

『精神現象学』は、最も素朴な知のあり方から始めて、次々に、より一般的な知へと高まってゆく、知の形態を演繹する試みである。
最初に意識の対象として現れてくる知(例えば、「存在」「物」「法則」など)は、具体的に調べてみると、すべて関係性と作用のうちで成り立っているものであることが解る。その関係性とは、最も一般的に言えば、「他者に自己として関係する」という作用である。
これが「意識」や「自己意識」そして「精神」の基本構造なのである。

A)意識―「概念」の構造
「意識は<何か>についての意識である」という構造を持つ。これを「志向性」という。

  1. 感覚的確信;「今」「ここ」で「このもの」を「この私」が意識しているという直接的知
    しかし調べてみると、「この今」とは一般的な「今」であり、「この私」とは一般的な「私」である。
    「この今」でもあり一般的な「今」でもあるような具体的存在は、「物」である。
  2. 知覚;物
    しかしこれも調べてみると、「物」とは諸性質の集合体、引いては諸法則の集合体である。
  3. 悟性;法則
    (カントが言うように)自然の法則とは、対象として現れる自我(意識)に他ならない。

B)自己意識―主人と奴隷の弁証法

  1. 生命;欲望

    a) 欲望は外的対象へと向かう。例えば食欲は、その対象を食らい尽くす。それによって対象は消滅する。しかしそれと同時に、欲望も消滅する。
    自然の欲望(動物的欲望)は、「対象を否定することによって自己を否定する」ということの繰り返しである。
    (それは外から(=「私」の知らない所から)やって来る。私は欲望に「襲われる」。欲望が去ると、私は自己に帰る。これは欲望が動物的欲望だからである。)

    b) これに対して、人間的欲望は、持続する欲望である。「自分が相手から認められることを認める」という二重の構造を持つ。
    (「愛」とか「自尊心」等が、この典型である。他者からの承認を必要とする。このように、ヘーゲルの言う「自己意識」とは、本来は、他の「私」において「自己」を意識する「私」の意識を言う。)

  2. 相互承認;自由の闘争

    私の最も根源的な欲望は、私の力を実感すること、私の自由を実証することである。私は最も大切な私の生命さえも自由に支配できることを、他の自己意識に対して証明したい。
    (自分の信念や理想のために全てを捨てる覚悟のある人は、皆から一目置かれる。「君のためになら死んでもいい」と言う男は、女性の心を支配することが出来る。―本当か?違うような気がするが。)

    しかし、死は、私の存在の絶対的否定である。
    ここで 
    1)自由のためには死をも厭わない強い者(=戦士・貴族のタイプ)と、
    2)自分の生のためには自由をも捨てて厭わない軟弱者(=奴隷のタイプ)、という、
    二つの人間のタイプが現れる。

  3. 主と奴―労働

    a) 主人は、奴隷の労働を通じて、全てを支配する自由を享受する。
    奴隷は、主人の命令に隷属し、自分を捨てて、ただ労働する。

    b) しかし奴隷は、労働において、死を克服する。労働は全ての対象性を否定する力である。奴隷が労働によって創り出す物は、自分の精神の対象化でありその作品である。
    奴隷は、労働という否定の活動に没頭することによって、全ての他者性を否定する力であることを実証している。(死もまたこの他者性(絶対的他者)である。)
    これに対して、主人は、その生活を奴隷の労働に依存している。つまり、自分だけでは何も出来ず、むしろ奴隷に隷属している。そこに本当の自由はない。

    (こうして最初の思い込みは、その反対の真実へと逆転する。これを「弁証法」と言う。この個所の中心概念は「労働」である。労働は他者(対象)に関係する否定性である。それによって対象は「自己」のものとなる。ヘーゲルによれば、他者に自己として関係する、この否定性が人間の本質なのである。否定=死を取り込むことで初めて、私の自由は現実化する。)

「30分で解るドイツ哲学」では、こう説明しています。(枚数が少ないとはいえ、イマイチである。柿沼さんというのは、コーヒーのCMで、「ガツーン」と言っている人のこと。)

 ヘーゲルは、禁欲的なカントとは対照的に、森羅万象あらゆるものを哲学したが、その本領は、否定という関係性の分析にあった。私(=精神)は、まず身体(=物質)というその反対のものと一つのものとして働いている活動である。次に、私(=精神)は、他人(=他の私)と対立しながら労働によって世界を動かしている力である。労働は今ある世界を否定する力であるが、実は「私」の本質とは、ヘーゲルに言わせれば、この全てを否定する作用そのものなのである。
 この、反対のものが一つだというダイナミックな構造は「弁証法」と呼ばれる。「主体」ともヘーゲルは言う。「例えば、パソコンだよ、あれは明らかに素人を拒否してるね。絶対に俺がしたいことをやらせてくれないよ。すぐ止まっちゃう。あれを自分で使おうと思えば、「私」を捨てる。奴隷のように、パソコンさんの言うがまま、苦労するしかないよ。辛いよ。」ところが、半年後の今、柿沼さん(仮名)は、「かーんたんじゃねえか」と気分は健さんなのである。このように、敵同士だったパソコンさんと柿沼課長さんは、お互いが否定し合うことによって、新しい「パソコン課長」を生み出したのである。向かいの席の山下さんにも「お茶ください」とEメールを書くのは困りものだが、これが労働というものだ。
 ついでに、この、他の私でもある私(=我々)は、その絶対的な他者(=神)とも、同じではないが違うものでもない。この「同じ」と「違う」のどちらに力点を置くかによって、ヘーゲル学派はヘーゲル亡き後、右派と左派とに分裂してしまうのである。

 (最後の「私である我々、我々である私」(私=我々)を、ヘーゲルは「精神」と呼ぶ。その絶対的なあり方、つまり「絶対的精神」が、「芸術、宗教、学」である。「精神」の具体的な形態は、『法の哲学』に譲る。)

C)精神
1.理性
2.精神
3.宗教(芸術)
4.絶対知(学)


『法の哲学』(1821)

「理性的なものは現実的であり、
現実的なものは理性的である。」(『法の哲学』序文)
この文句は以前、滅茶苦茶に評判が悪かったが、「現実はすべて正しい」と言っている訳ではない。むしろ、現実において自己を実現する運動が「自由」の本質だ、と言っているのに近い。

序説;自由な意志の概念
「思考と意志の区別は、理論的な態度と実践的な態度の区別に他ならないが、これらは二つの別な能力だという訳ではない。意志は特殊な仕方での思考なのである。つまり、自己を現存在へと移し置くという仕方での思考、自己に現存在を与える衝動としての思考、なのである。
私が実践的であるとき、私は活動的である、つまり、私は自己を規定(=限定)する。自己を規定するというのは、一つの区別を立てることである。しかし、私が立てるこの区別は、また私のものでもある。諸規定は私に属しており、私が駆り立てられる目的も私に属している。たとえ私が諸規定と区別を解放しても(つまり、いわゆる「外界」に立てても)、それらはやはり私のものであり続けている。それらは、私が為したもの、私が造ったものであり、私の精神の痕跡を帯びている。」(§4 Zusatz)

1)自由な意志(普遍性)
「意志は、1)純粋な無規定性、つまり自我の自己内への純粋な反省(=反照)という要素を含む。ここでは、どんな制限も、自然や欲求や欲望や衝動によって直接に現存している内容も、あるいは何によってであろうと、与えられ規定されている内容も、解消している。これが、絶対的抽象あるいは普遍性という無制限な無限性、自己自身の純粋な思惟である。」(§5)

2)自己限定(特殊化)

「2)同様に、自我は、区別のない無規定性から、区別することへの、内容および対象として規定性を規定し措定することへの移行である。―この内容は、自然によって与えられたものでも、精神の概念によって生み出されたものでも構わない。自己自身を規定されたものとして措定することによって、自我は現存在一般へと歩み出すのである。―これが個別性、あるいは自我の特殊化という要素である。」(§6)

3)自己実現(自己復帰)

「3)意志は、これら二つの契機(=構成要素)の統一である。―つまり、自己内へ反省しこれによって普遍性へと連れ戻された特殊性、―個別性である。
自我は、自己自身へ関係する否定性である限り、自己を規定する。こうした自己自身への関係として、自我は自己の規定態に対して無関心であり、この規定態を自己のものであり、「観念的なもの」として知る。つまり、それによって縛られておらず、そこに自己を措定したから存在しているに過ぎない、単なる可能性として、知る。
これが意志の自由である。」(§7)

―ここは理論的に重要な個所なので引用したが、ここだけ読んで何を言っているのか解らなくても、蓋し当然である。
具体的に考えると、上のそれぞれは、
1)私は自由である。これから学校に行くのも、マンガ喫茶に行くのも、家で寝ているのも、私の自由である。
 (何もかも嫌だ、というのなら、この世に「否(ノン)」を言い、自殺するのも、私の究極の自由だ。)
2)私は、しかし、たまたま教師だから、うん、今日は雨だけど、ともかく学校に行って授業をしよう。
3)私が教師なのは、自分で決めたことだし、嫌なら止めてもいいんだし、好きでやっているんだから、私は本当は自由だ。だから今日は頑張ろう。
―ますます解らないという場合は、授業で聞いて下さい。

道徳と倫理
カント的道徳の立場においては、個人の意志の自由な決断が重視される。
しかし、それは形式的で、具体的内容を欠いている上に、現実の中で有効な結果をもたらすかどうか、疑わしい要素がある。
ヘーゲルは、カント的道徳性(Moralität)の立場を超える、倫理(Sittlichkeit)という立場を構想する。
それは、具体的には、
(a) 外的には、「家族、市民社会、国家」という共同体の中で、現実化され、
(b) 内的には、個人の内面を形作る「心術(Gesinnung)」として直接的なものとなった、
道徳性である。
1)家族;愛に基づく共同体
2)市民社会;欲望のシステムと人間形成(Bildung)
3)国家;知による自己認識

そのうち詳しく書きます。この内、家族については、昔書いた論文から、要旨だけ引用すると―

 ヘーゲルは「近代的」結婚の理念を提示している。それは「自由な個人の愛による結びつき」と定義できる。しかしこれは潜在的に矛盾を含む概念である。
 1)個人の自由(エゴイズム)と共同体
 個人が自立的な存在であることと共同体の一員であることは必ずしも両立しない。それは結婚(家族)の場合も同じである。ヘーゲルは家族を「実体」と考える。それは、個人が、「他者において自己を意識する」愛の相互承認の中で、自己の個別性を放棄し、それによってより拡大された自己として家族が成立するということ、そしてこの自己である互いへの献身的行為の中で、より高い自己の本質を実現しうる、ということを意味する。
 (自立した個人の自己中心的関係が家族ならば、そこには自己を超えるより高い理念は存在しない。女性の自立は、性別(セックス)に基づく役割分担(ジェンダー)を前提にする「近代的」家族の理念を解体するだろう。)
 2)愛という感情と結婚という制度
 愛が偶然的な感情である以上、結婚という持続的制度とうまく一致するとは限らない。結婚の基礎である愛は「倫理」的なものである。ヘーゲル的意味での「倫理」とは、時と共に形成される、個人の心術であり、習俗や制度である。従って「倫理的」愛とは、愛による行為、つまり自己の一部としての互いへの配慮、の中で形成陶冶される、精神的な愛である。
 恋愛という意味でのエゴイスティックな感情的な愛と、(愛)情という意味での陶冶された倫理的な愛は、必ずしも同じものではない。しかしキルケゴールとは違い、ヘーゲルは敢えてこれを区別しない。それは一つには、人間的愛が、感情とエゴイズムから切り離されるなら、愛は生命を欠いた空虚なものになってしまうからである。しかしまた一つには、エゴイスティックな愛が情熱によって、個人を結婚というシステムの中に駆り立てる。これが今度はその中で、エゴイスティックな愛を倫理的な愛へと高める働きをする、からである。そうした愛の錬金装置としてヘーゲルは結婚という制度を考えている。

―さすがに結論だけ読むと、解り難いような気がするが、どうか。「衝動の純化」ということを言っているのだが。つまり、個人の欲望は、「倫理」の共同性の中で精神的なものへと浄化される、ということだ。
これは、次の「社会」でも同じだ。例えば、会社員は、普通は会社で、チームの一員として活動する。自分の意思はチームの中で現実化し、チームの意志が私を動かす。そうした活動の中で、私は鍛えられる。この世の中は利益社会=競争社会だから、きびしい。私が自分の我儘に固執すれば、私の居場所はなくなる。でも私が自分のこだわりを捨てたら、これ以上の会社の発展もないかもしれない。
社会は戦いだ。社会は家族とは正反対だが、そこにはより高次の共同性がある。
その共同性が更に実現されるのは、国家においてである。―これは現代人には、解り難い考え方だ。―しかしより一般的なものほど、より真実なものだ、という考え方はある。自分だけの利益になることより、他の人の利益になるようなことの方が、客観的には正しい。つまり国や人類というレベルの方が、私個人や私の家族や会社より、より普遍的で、大事だ、という考え方はある。その普遍的なものとは、ヘーゲルの考えでは、世界の歴史であり、芸術や宗教や学といった「絶対的精神」である。


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