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【4/30(木)】
翌日、9amになるのを待って、村の観光名所をまわった。
利賀村がすごいのは、一つの成功の上にのうのうと寝そべってはいない点である。安直な二匹目のドジョウ狙いもしない。二匹目を釣るときには、さおを変えルアーを変え時機を待つだけの周到さがある。
瞑想の郷、飛翔の郷、河童の郷、そばの郷、郷土玩具美術館、西勝寺、樹齢数百年の古樹、整備された森林、キャンプ場、温泉等々。合掌文化村以外にこれだけのものを維持するのは、端から見ている以上に、経済的にも労力の面からも大変なことに違いない。
今回、特に見ておきたいと思っていたのは、このうちの瞑想の郷とそばの郷だった。
瞑想の郷にある瞑想の館には、ネパールの僧侶兼絵師の描いた曼陀羅があるという。しかもそれはそばのつなぐ縁だというのだ。
これこそが、今回の旅行の第二の目的「村おこしはいかにしてなされたのか」を学ぶのに格好のテキストとなる。
最初に瞑想の郷を訪れた。うねうねと続く山道を、人家がなくなるまで登ったところに、それはあった。
ひとけのない受付に恐る恐る声をかけると奥から意外なほど明瞭な返事があり、いそいそと隣の部屋に案内してくれた。そこで曼陀羅を描くに至った経緯を絵師本人が語った短いビデオ(by
電通)を見終わった頃に係の人が現れ、客は私一人だったにもかかわらず、非常に細やかで丁寧な説明を1時間近くしてくれた。
【眼力と才】
利賀村はそばで有名な土地である。
このことは、いいイメージとはいいがたい。そばは痩せた土地の象徴でもある。山深く谷間で細々と暮らす土地になるものは、米ではなく、そば。それが、どういうことなのかを考えると、過疎化が単なる交通の不便さを理由に進行したわけではないことが見えてくる。
過疎の進む村の将来を憂う村人は、定期的に「そば会」なるものを開いて、地元の交流の場を設けていた。共にそばを食い、酒を飲んで、肩肘張らずに話せる会である。その席で、村にそばの資料館を造ろうという話が持ち上がった。イメージを逆手にとったのだ。
そばで村おこしをしようと決めた利賀村は、すぐさま信州大学農学部の「そば博士」と呼ばれる人物にコンタクトをとる。突然のことで驚いたそば博士だが、乞われるがままに、そばのルーツについて語った。そばは中国西南部が原産であり、ヒマラヤの近くには赤い花の咲くそばがあるそうだ、と。
そばの花は、白い。それが普通だと思っていただけに、赤いそばの花の話に非常に興味を持った利賀村は、早速使節団を結成し、彼らをネパール王国ツクチェ村に送り込んだ。
ツクチェ村はニルギリをはじめとする数千メートル級の山々に囲まれた山村で、生計はそばと麦とで立てている。使節団は無事、村に着いたものの、時期が悪く赤い花を見ることは出来なかった。だが、そばがとりもつ縁で、ツクチェ村長と利賀村長は意気投合。友好村条約を結んだ(証文は手形!かっこよすぎる!)。
せっかく遠路はるばるやってきた使節団をねぎらおうと、村人が連れていったのが村の寺。そこで、使節団が見たのは、仏教の寺院の内側の壁に天井にとびっしりと描かれた極彩色の曼陀羅だった。あまりの美しさと素晴らしさに、彼らは一瞬にして心を奪われた。
かなわないと思うのはここからだ。利賀村でこの絵を再現してほしいと願い、交渉し、なんと描いた絵師本人を日本に招待してしまったのである。
文化的価値の高いものに遭遇して、これを自分達のものにしたい、或いは、自分の国の人々に見せたい、なくしたくないと願う気持ちは、悪名高き某博物館の例を見るまでもなく、世界的にみてもよくある話だ。
だが、作品そのものではなく、絵師本人を希うというのは、そもそもの発想からして斬新である。かつてのヨーロッパの偉大なるパトロン達のような巨万の富があるわけでもなく、また、京都の某寺の天井画のような特別の事情がある訳でもない小さな村が、日本でこそ無名の絵師を発掘し面倒な手続き一切をこなして、誰の力でもない自分達の力で文化的資産を手に入れたのである。
何度となく綿密な打ち合わせを行った結果、今ある展示の形が出来上がったという。当初、利賀村はそれほど大きい絵を想定していなかった。だが日本によばれた当時47才だった絵師は、非常に意欲的で、この機会だからこそ沢山描き込みたい、と願った。一枚の大きさが4m×4mという大きさになったのはそのせいだ。その絵の大きさと意味に合わせた展示館「瞑想の館」をと、利賀村は輪島の建築家に依頼した。
つくり手の意志が尊重された仕事は、評価という形で多くの人々に認められた。そして、利賀村は再度この絵師に依頼し、彼は以前の作品よりも淡い色合いの2つの曼陀羅を仕上げた。こちらも前回と同じ輪島の人が建物を設計している。最初にどんなものが来るのかがわかっているだけに、絵画と建物は溶けあい相乗効果を生み出し、一つの空間芸術となっている。
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