宇佐神宮の祭神・歴史

宇佐神宮(呼び名は一定しておらず、宇佐宮・八幡宮・八幡神宮・宇佐八幡宮・八幡宇佐宮などと呼ばれたときがありました。)は全国4万600社余りあると言われている八幡宮の総本宮です。約43万平方メートルの境内に、イチイガシ等の太古からの原生林が生い茂っており、その中に外宮や摂社、末社のほか神橋・呉橋・能楽殿・宝物館などの建築物があります。

 荘厳な南中楼門(勅使門)の後ろに檜皮葺き、白壁、朱塗り柱の本殿があり、外院と内院が切妻造りで前後に連なった「八幡造り」と呼ばれる珍しい建築様式となっています。
 ということで、外院は昼神様が仕事をするところで、内院は夜寝るところなんじゃ。なかなか良くできているじゃろ。今建っている本殿は、江戸時代の終わり頃(1855-61)に建てられた比較的新しい建物なんじやが、建て方とかが珍しいき国宝に指定されちょるんじゃ。



御祭神
  一之御殿に八幡大神 (はちまんおおかみ) 御名 誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇 725年鎮座
  二之御殿に比売大神(ひめおおかみ) 御名 三女神=多岐津姫命(たきつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たきりひめのみこと) 733年鎮座
  三之御殿に神功皇后(じんぐうこうごう) 御名 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと) 823年鎮座
  が祀られています。これらの神々をあわせて八幡三神とよんでいます。

  一之御殿の応神天皇は、古事記・日本書紀などに出てくる第15代の天皇で、大和朝廷の華やかな時代である4世紀後半に実在したと言われています。大阪府羽曳野市に仁徳陵につぐ日本で2番目に大きい応神陵があります。
  二之御殿の比売大神は地元の3人の姫神が一体化した神様で、日本書記によれば、神代の時代天孫降臨に先だって筑紫の宇佐島(宇佐神宮の奥宮のある大元山)に天下ったと伝えられています。地元びいきの考古学者は、三国志の中の魏志倭人伝に出てくる「女王卑弥呼」=「比売大神」であり、本殿のある小椋山(亀山)が卑弥呼の墓であるとして研究を重ねています。昭和16年の神宮改修の時、三之御殿の所から石棺が発見されたが、恐れ多くてまたそのまま埋め戻したという話があります。永遠の邪馬台国論争・・・楽しみが無くならなくて良かった。
  三之御殿の神功皇后は、応神天皇の母神で、朝鮮半島新羅に進軍したのち、筑紫国まで戻って応神天皇を出産したと伝えられています。
 なお、一之御殿の左方に脇侍の春日神社。その裏に二之御殿の脇侍の北辰神社。三之御殿の右方に脇侍の住吉神社が祭られています。

 宇佐神宮の所在地
 大分県宇佐市大字南宇佐字亀山2859番地

起 源
  八幡神がなぜ応神天皇なのか、神功皇后がなぜ100年もたってから祭られたのか等、宇佐神宮の起源については学会においても諸説がありますが、朝鮮半島から渡来した帰化人が崇拝していた神様と地元の人が信仰していた神様が融合したものと推測されています。鎌倉時代の終わり頃編さんされた八幡神及び宇佐宮についての史書に「八幡宇佐宮御託宣集」があります。神話と同じで歴史を紐解く材料にはなりづらい代物ですが、護巻三の中で「八流の幡と天下りて、我は日本の神と成れり」とあり、朝鮮半島で信仰されていた神が日本の神になったものと思われます。
  宇佐神宮の特異な点は、多くの神のお告げ、つまり「神託」(託宣)を出し、九州にありながら中央政界と密接な関係を持ったことにあります。特に国家的事業である「東大寺の大仏建立」にあたっては、「天の神、地の神を引き連れて、必ずや成功させる」「大仏に塗る金は日本国内から出るであろう」との神託を出し、金が東北から見つかったといつて朝廷に献上しました。
 ※中央で大仏を作っており、金や銅が足りなくて困っているようだ。今ここで国内に巡らした情報網と、大陸渡来の鋳造技術集団を使い少し加勢すると、中央に進出できるとの神職団の政治判断があったのかなあ!う・・ん?実は中央政権の事情により仕向けられ、八幡神が利用されたのかも知れない。
 また、769年 勅使 和気清麿 に国体を正す神託を賜った「弓削道鏡事件」でも有名です。
 このように中央政権との深い関わりを持ったことにより、九州一円に広大な荘園を持ち、権力と財力を手に入れた。国東半島の六郷満山文化の担い手は、宇佐神宮の権力、財力であったと伝えられています。

  神功皇后縁起(誉田八幡宮・重文)
 大神比義が宇佐馬城峯の麓で鍛冶する翁を訪ね、五穀を絶って祈願すると、翁は身を変じて二歳の童子となって現われ、「吾こそは八幡大菩薩なり」と言ったという。
 (注)託宣集では現れた場所は小倉山の麓の菱形池となり、3歳の童子になります。

    大分県立歴史博物館開館20周年記念特別展資料から
  東大寺八幡縁起ー転害門を通り東大寺境内へ行っていく八幡神一行ー
 奈良時代の天平勝宝元年(749)、宇佐八幡神は奈良の都にのぼり、完成なった東大寺の大仏を拝し、朝廷から破格の位と褒賞を授かった。その結果、八幡神は国家および仏教の守護神と位置づけられ、東大寺境内に手向山(たむけやま)八幡宮が創建された。

                大分県立歴史博物館開館20周年記念特別展資料から
「宇佐八幡宮御託宣集護巻三」

 託宣集(16巻)は、1290-1313年までの24年間をかけて、弥勒寺学僧の「神吽(じんうん)」により編纂された。資料によると神吽は大神氏の一族で大神比義の家系につらなる人物だそうだ。源平動乱が起こり平家に味方していた宇佐氏から邪魔者扱いにされた緒方惟栄(源氏に荷担)は、宇佐宮焼き討ち事件(1184年)を起こし、宇佐宮の重要書類も焼失した。緒方惟栄は豊後大神氏につながる人物で、逸散した関係書類の編纂をすることとなった神吽もまた大神氏の家系であり、皮肉な巡り合わせでもある。

 八幡神は豊前の宇佐の郡(こほり)菱形の大尾山で大神の比義が祈っていたら、天童が現れ言(のた)まわった。辛国(からくに=霧島山)の城に初めて八流の幡と天降りて、我は日本の神と成れり。我は釈迦菩薩の化身であり、衆生を救うために現れた。
 天孫降臨の地とされる神の聖域に、釈迦菩薩の化身である八幡神をむりやりに示現させたかった意図は・・・古事記も日本書紀もそうですが編纂者の保身や独善が入り込み、とてつもない物語を作っていきます。
八幡神が初めて天降ったといわれる霧島連山 最高峰韓国岳(からくにだけ)は鹿児島県霧島市、宮崎県えびの市の境界にあります。標高 1,700m うっすらと雪が積もっていた。(天孫降臨の地であると言われている天之逆鉾は高千穂峰にあります)


御分社の創立
  奈良時代の大仏完成により、国家および仏教の守護神と位置づけられた八幡神は、東大寺境内に手向山(たむけやま)八幡宮を創設した。また、平安初期の860年平安京を鎮護するため京都山城国男山の地に石清水(いわしみず)八幡宮が創設されました。その後1191年源氏が、鎌倉幕府の鎮護として石清水の御分霊を鎌倉に祀り「鶴岡八幡宮」とした。その後武勇の神様として急速に全国に広まりました。

神仏習合
  宇佐神宮は仏教との結びつきが強く、738年境内に神宮寺である「弥勒寺」を建立し、僧法蓮を別当とした。仏教と結びついた八幡神は、仏の姿となったり(僧形八幡神像)八幡大菩薩となつた。その後803年最澄(伝教大師)が渡海の安全を祈って宇佐に参詞、天台宗と結びついて山岳仏教が国東半島で花開いた。
もちろん我が家でも神様と仏様が仲良く同居しており、無意識に神様にも手を合わせてお参りしています。

参拝方法
  まず、一之御殿、次にまん中の二之御殿、次に三之御殿の順に参拝します。拍手は四拍手することになっており、2拝・4拍手・1拝・1揖(ゆう=ちょっとおじぎをすること)となります。(この参拝方法は他には出雲大社だけです)
  宇佐神宮の祈願祭は、上宮に向かって右隣にある「祈祷殿」で行われます。巫女さんが「浦安の舞」を奉納してくれ、本殿まえの申殿でお参りができます。願い事が良く成就するそうで、是非一度はこちらでお参りすることをお奨めします。(少し費用がかかりますが)
 また、平成15年には期間限定で、勅使門の中の庭にはいって見学(参拝)させてくれました。(拝観料は別途いただきます=神様も生活が・・・) また、中で参拝させてくれないかなあ。この時は都合が悪く参拝できなかった。 

交  通
  大分空港からは中津行き「空港特急バス」がありますが、レンタカーを借りた方が便利かな?
  JRでは、日豊本線宇佐駅下車、定期バスで10分程度(かなり便利がよく使えます)
  宇佐神宮から遠くないところに「県立歴史博物館」があります。宇佐神宮と国東半島の仏教文化の資料を中心に展示しています。博物館で基礎知識を仕入れてから宇佐・国東地域を回ることをお勧めします。(入館料 300円=博物館も生活が・・・)

土  産 
 宇佐神宮の土産はなんといっても「宇佐アメ」です。
 宇佐アメは宇佐神宮一之御殿の祭神「応神天皇」 の御乳アメとして使われたと伝えられています。原料は玄米または澱粉に大麦のモヤシをまぜてつくり、ほろ甘い味覚が特徴です。宇佐にお参りする人はだいたい買い求めます。以前は長四角の大きな飴だったため、気合いを込めて手のひらで割って食べていましたが、最近は小さく切った、コロコロとした飴にかわっています。でも、入れ歯、差し歯の人は十分気をつけて召し上がりください。(^_^;)

御輿発祥の地 宇佐
 
 御輿(しんよ=みこし)は神様が移動する際の乗り物ですが、御輿が歴史に登場するのは、749年が初めてです。聖武天皇が進めていた東大寺の大仏建立が完成間近となったので、この事業に多大な援助をした八幡神が東大寺に招かれました。この時宇佐宮の女禰宜である大神杜女(おおがのもりめ)が八幡神とともに紫色の輦輿(れんよ)に乗って都にむかいました。奈良時代の八幡神入京、その時、宇佐で神輿が誕生しました。毎年7月31日から8月2日の宇佐神宮神幸祭には、3基の神輿が境内を威勢良く練り歩きます。(神様も生活が・・・、平成14年から観光客(=お賽銭)の多い土・日中心に変更になっています。)
???
最近また元の7/31から8/2日に戻ってしまった。宮司騒動の影響なのか意味不明。