宇佐神宮の奥宮大元神社


 大元神社(おおもとじんじゃ)は宇佐神宮の奥宮で、宇佐市の御許山(おもとさん=標高647m)の9合目にあります。この御許山は「大元山」とも「馬城峰」とも称し、神代の昔三柱の比賣大神が降臨された神山で、山頂には御神体である三体の巨石があると言われています。しかし大元神社から上は禁足地であるため確認は出来ません。
宇佐神宮の奥宮として、樹齢数百年の杉などで鬱そうとしていましたが、平成3年9月27日の台風19号及び平成8年8月15日の台風12号の被害を受け昔の厳かな雰囲気が無くなりました。
 大元神社(宇佐神宮奥宮)の年に一度の例祭である春祭りは4月29日に開かれ、多くの参拝者で賑わいます。餅撒・直会があります。
参拝するには、大尾神社、及び途中の宇佐市上矢部からのコースと、6坊を支配していた正覚寺のあったところから登るコースがありますが、正覚寺コースは途中まで車でいけます。もう一つのとっておきのコースとして、JR日豊本線西屋敷駅の近所から登る林道がありまして、山上の駐車場から10〜15分程度で神社に到達します。しかし、最近走ることの少なくなった「田舎の砂利道」で、かなり急な登坂です。前輪駆動車であれば可能ですが、運転に自信のない方は四輪駆動車が必須です。・・・(^_^;)

宇佐に参るなら御許に参れ(R5.10.21大元神社参拝につき追加)

 大分県北部の田舎では、8月13日夜初盆の家で庭入りの行事を行い、供養盆踊りをします。その時の口説きの中で「宇佐に参るなら御許に参れ、御許元宮、元やしろ」と歌います。現在でも御許山は神聖な山として崇められています。
 大元神社は、宇佐神宮の第二殿に祀られている「比売大神」の原姿とされる三女神が御許山に降臨したとされ、山全体が御神体と言われています。大元神社には拝殿はありますが、本殿はありません。拝殿の奥に鳥居があります。
 なお、大元神社は宇佐神宮の「奥宮」であり「元宮」ではないので、「八幡神」は祀られていません。(盆踊りの口説きとは相違します)

 「万年青」と「御許山

 盆栽好きの方も多いと思われますが、昔から縁起のよい観葉植物として親しまれている「万年青(おもと)」。昭和の始めに発刊された日本初の近代的国語辞典「大言海(だいげんかい)」には「豊前の宇佐神宮の東50町(約5.5q)、御許山に良種を産す。因りて名とする」という記述があるとのこと。日本原産のユリ科の常緑多年草で、四季を通じて緑の葉が絶えることがなく、可憐な赤い実がなります。
「健康運」「金運」「子孫繁栄」「邪気払い」「リラックス効果」の風水効果があるそうで、「長寿」や「長命」「崇高な精神」など、命や精神にまつわる花言葉があることから、敬老の日の贈り物としても万年青はおすすめだそうです。金運、長寿...育ててみたくなった。

 「御許六坊」と「御許山騒動

 山中には坊跡や水の枯れない御霊水などがあります。当時「東の坊・西の坊・石垣坊・成就坊・谷の坊・椙洞院」という御許6坊があり、山岳仏教が栄えていましたましたが「御許騒動」により坊舎が焼かれたことと、神仏分離令により終わりを告げました。
 慶応4(1868)年1月14日の夜更け、60名ほどの勤王家たちは、日田の西国筋郡代役所の四日市出張陣屋(旧四日市高校跡)を襲い、大砲や弾薬などを奪い、陣屋に火を放った。その後、勤王の士たちは、御許山に登り、山上の僧坊に錦旗を立て本陣とした。
1月20日、長州藩の一隊が四日市(宇佐市)に進軍、直ちに御許山に進撃し、勤王家たちを破り、本陣の僧坊は焼け落ちた。隊員たちは、斬られたり逃げ落ちました。
大元神社に向かう御許古道の道筋に坊の基礎が残っており、隆盛を誇った山岳仏教の往事を偲ぶことができます。

 大元神社(おおもとじんじゃ)  (H21.03.17)  大元神社拝殿から奥の宮を拝む ここから上は禁足地(R05.10.21)
 延命水 旧社務所の上にあります。 (H21.03.17) 御神木の大銀杏の根元にある万年青(R05.10.21)
 大元神社登山口(正覚寺)から 神社まで30−40分かかります。 (H21.03.17)
 水の枯れない御霊水 大元神社から50メートルぐらいの所にあります。 (H21.03.17)
大元神社参道 (H21.03.17) 参道脇の板碑(いたび) (H21.03.17)
ご神体の山すそ
登山道沿いだが、人間の手が入っていない。(R05.10.21)
御許古道と杉の大木
 この古道は宇佐神宮の元宮である大尾神社まで続いていますが、現在はイノシシの専用道となっているそうです。(R05.10.21)
往時が偲ばれる坊跡の石垣 (R05.10.21)