妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百九十八話:極道の極道によるデザイナーの為の取り立て
 
 
 
 
 
「ぱ、ぱんつ?アイリスのっ!?おにいちゃんっ!?」
 小娘の素っ頓狂な声を聞きながら、数学の教師は自分の意識からその光景を排除すべく全神経を集中させた。
 ここ東京学園は、年齢を問わず携帯電話を持つことは許可されている。
 無論、無条件では無く二つの条件が付されている。
 一つは保護者の許可が下りていること。そしてもう一つは、一定以上の成績を維持していることだ。
 とは言え、前者は当然の条件だし、後者もさして高レベルなことは要求されていないので大抵の生徒は持っている。
 ただし授業中に音を鳴らした場合――通話は論外――無条件で没収され、一定期間所持を禁止される。間違って掛けられるケースもあるから、電源を切れとの通達はないが当然マナーモードを指示される。
 授業中に緊急の用件が発生したならば保護者が学園へ直接連絡すべし、と規則で定められており、その為の回線も十分に用意されているので、保護者から緊急の用事で掛かる事もない。
 未だかつて、学園の回線がパンクする程の状況になった事は無く、入学式の時に学園のシステムで対応できないような時は、そもそも地域の状況が携帯すら繋がらない程に悪化したのみと、教諭から妙に自信ありげに説明される為、禁を破って連絡してくる保護者も携帯を鳴らす生徒もまずいなかったのだ。
 勿論、根拠の無い盲信では無く、邪悪な発注先が邪悪な自信を持って搬入してきたシステムである。
 
 黒瓜堂謹製。
 
 とまれ、このクラスで携帯を鳴らした者はなく、当然想定外の事態だったのが、鳴ったのがイリス・シャトーブリアンの携帯というのも予想外の音源であった。
 当のアイリスからして、電話が鳴る事など考えてもいなかったから、充電してそのままバッグに放り込んでおいたのだが、まさか鳴るとは、しかも相手が住まいの管理人からなどとは思ってもいなかったので、アワアワしながら電話に出たのだが、いきなり奇怪な台詞を吐かれ、冒頭に戻る。
 鳴らすことさえ禁止なのに、あまつさえ、
「は、はいアイリスです。おにいちゃん?」
 などと決して普段は使わないような甘い声で出た小娘に、女教師の眉がすうっと上がった瞬間、内線電話が鳴り響いた。
 校内放送では無く内線、それもこの音で鳴る時、発信源は一カ所しか無い。
 慌てて取ると、
「イリス・シャトーブリアンの電話は断じて妨げないように」
 名乗ることもこちらの反応を待つこともなく、一方的に通話は切れた。
 この学園に於いて、総理事長赤木リツコの命令は絶対である。そこに否応は許されない。
 命令であって諮問では無いのだ。
 
  
 事の起こりは、就学中の少女に猥褻な電話が掛かってきた少し前に遡る。
 悪の親玉が財をなした対価として、魔界の女王モリガン、東京学園総理事長赤木リツコ、と二人の美女に続けてレンタルされ、夜魔もいないのに住人達の服のボタンすら勃起した乳首に見えてしまい、これは重症だと館内を無人にしたシンジは、黒瓜堂の主人から渡された小箱を眺めていた。
 煙管とセットで使うものだが、シンジの悪の師匠を自認する男がただのタバコなど担いでくる訳も無く、霊体を精製したものだ。
 魔法・陰陽道・呪術、その他諸々の術に目覚め、一生を賭して開発に勤しんだ挙げ句、余人にはなし得ぬ術を見出した者は少なくないが、片手間で霊体研究に触手を伸ばし、精製し得た者をシンジは他に知らない。
 中身を取り出すことはせず、シンジは微動だにせぬまま箱を眺めていた。
 碇の系統に於いて、一族が知る限りただの一度も輩出されなかった能力――五精使い。
 未だその全てを行使出来ぬとは言え、五つまで持ち合わせた者は一人も居なかった。故に、それを持って生まれた少年も又、自らの力を受け入れる事は出来ず、全てに背を向けてヒキコモリと化すに至ったのだ。
「君が私を殺せるようになったら解放してあげますよ」
 そう言って邪悪に笑った怪しい男がもたらしたものは、金も地位も権力も何一つ役に立たない少年への処方箋であった。
「まったく…この分だと、成長するのに百年はかかりそうだ」
 ぼやきながらも、その表情にはどこか懐古の色が浮かんでいた。
「さてと、坊やは学習の時間だ」
 立ち上がった時、不意に玄関のベルが鳴った。
「はいはーい」
 軽い足取りで玄関に向かう。
 登録制にはしていないから、悪意・害意を持たなければ誰でも入ってくる事は出来る。アスカの両親は入り口で結界に阻まれたが、普通の客なら問題ない。
「いよう」
 玄関に立っていたのは、ここには差し支えないが社会的には問題のある人物――新鮮組総長近藤静也であった。
「おや珍しい。近藤さんどうしたの?」
「今日はカタギの用件でな。ちょっと良いか」
「どうぞ」
 静也がカタギと口にするときは昼間の稼業――下着会社の社員の方だ。ただし、服装が純白のスーツに漆黒のシャツなのでどう見ても堅気には見えない。
 とは言え、着たい時に自分の着たい服を着ることを許されない相手と言うことはシンジもよく分かっているから、いちいち突っ込みを入れたりはしない。
 本来なら、スーツに身を固めた護衛が数人は側を離れない身なのだ。
「お茶?コーヒー?ヘネシーもブランデーもないぞ」
 そいつらは仲間だ、とは言わず、
「お茶でいい。お前が入れてくれ」
「あい」
 勝手にソファに腰を下ろした静也はシンジの後ろ姿を眺めていた。
(今日はだいぶ機嫌が良いらしいな。珍しいこともあるもんだが、これなら良いだろう)
 シンジの顔を見に寄った訳では無い。
 方向性としてはとっちめに来たのだが、虫の居所が悪いと面倒だ。
「麦茶はまだ冷えてない。抹茶は点てるスキル持ちがいない。唯一の生き残りが烏龍茶だった。これで良い?」
「お前が作ってくれるなら何でもいいさ。いただくよ」
 静也の前に湯飲みを置き、反対側のソファに腰を下ろす。
「この間は助かったよ。礼を言うわ」
「こないだ…ああ」
 ぽむっと手を打ちシンジが頷いた。
「邪魔は野暮とは言え、総長を二人きりでデートさせるとは珍しい事もあるものだね」
「子分達なりに…気を遣ってくれてるんだよ。本来なら、二足のワラジをはいた総長なんざ噴飯ものさ」
 血筋・能力、いずれも申し分ない極道ながら、それを嫌って昼間は堅気の仕事に身を置いている友人のことを、シンジは悪く思っていない。
「それは、財閥というカタギから逃げ回っている俺への当てつけだな」
 からからと笑って、
「礼だけなら電話で済む。用はそっちじゃないでしょ?」
「ああ」
 湯飲みから一口呑み、
「前に、お前から女児用の下着を頼まれて手配した事があったろ。あの時、使用感を教えてくれと頼んだ筈だが、あれどうなってる?」
「……」
 右に。左に。
 ゆっくりとシンジの顔が傾き、元に戻ると同時に両手で耳を塞ぎ、口を縦長に開ける。
゛ウヒョオォォォ゛
 
 シンジの叫び。
 
「も、勿論忘れてないよ。ええ、勿論忘れてませんとも。ちょっと中座するね」
 カサカサと部屋を出ると、ポケットから携帯を取りだし怪しい手つきで電話を掛ける。ATMの前でこんな動作をしたら、確実に通報されるレベルだ。
「はい赤木です」
「ああ、もしもし俺俺。幼女の邪魔しないでね。じゃ」
 どんなに人の良い老人でも、こんな電話が掛かってきたら絶対に引っかからないだろう。
 一方的に告げて一方的に切ると、再度電話を掛ける。
「あ、アイリス?急に電話してごめん、今大丈夫?」
「うん」
「急で悪いんだけどアイリスのブラとパンツを――OUCH!」
 邪悪な依頼を最後まで続けることは出来なかった。
 後頭部を硬い何かが一撃したのだ。振り返ると、大型拳銃で自分の肩をぽんぽんと叩いている静也が立っていた。
「何処に電話してんだよ、てめーは。カタギに迷惑掛けるなといつも言ってるだろうが」
「あの、俺は別に筋モンじゃないし…」
「あ?」
「わかったよ、もう」
 また後でね、と言おうとした途端、シンジの手が固まった。
「おにいちゃん、そこにいるの誰?おにいちゃんに何したの?」
 伝わってきたのは、携帯を持ったままシンジの全身を硬直させる程の鬼気であり、
「大丈夫だよ、アイリス。心配いらないから」
 何とか声を出すまでに数秒かかった。
「ほんとに?本当に大丈夫?」
 どこか甘えたよう声で心配する少女の言葉を聞きながら、この娘が一族で初輩出の幽閉される程に高い超能力を持っていた事を思い出した。
(そういえばそういう娘だったわ)
「大丈夫だよ。俺は大丈夫だから、ちゃんと授業を受けておいで。良い子にしてたら、後で迎えに行ってあげるからね」
「はーい」
 ふう、と息を吐き出して電話を切ったシンジの後ろから、
「いよう」
 低いドスのきいた声がかかった。
 びくっ!
「やっぱり、綺麗さっぱり忘れてたんじゃねーか!」
「うん、まあその…そうとも言う。すみません」
「忘れたのはまあいい。大方そうだろうと思ってたよ。ただな、俺とお前じゃレベルは違うがアウトローだ。世間の真っ当なところから見りゃ爪弾きだ。あいつのせいで血の臭いはしないが、普通なら堅気でも分かる位に手は血で染まってる。しかもお前の後ろには特大のバック付きだ」
「……」
 シンジは黙って聞いていた。これが余人ならいざ知らず、自らも広域指定暴力団総長の看板を背負いながら、昼間に堅気の仕事をしている時はそれを完全に消している静也に言われては、返す言葉がなかったのだ。個人で言えば、フユノの後ろ盾なくともやっていけるが、それはあくまでも自分一人の生活であって、管理人業務にせよ東京学園の経営にせよ、霊能力がどれだけ高かろうと何も出来はしないのだ。
「お前の道をどうこう言う気はねぇし、俺だってそんなご大層な身分じゃねぇよ。けどよ――」
 す、と静也がサングラスを外した。
「いやでもバック背負った身で、一般人には迷惑掛けちゃだめだよな」
 サングラスに特殊な機能でも付いているのか、静也はこのサングラス一つで話し方までがらりと変わる。触れるものを全て断ちそうな雰囲気から、極道など微塵も感じさせない人なつっこい表情に変わり、シンジに微笑ってみせた。
「わかったよ、総長…痛い!」
 スパン!
「誰が総長だ!」
 おまえだおまえ、という言葉は音を伴わぬ内心だけの呟きにとどめておいた。
「じゃ、帰るよ。今日明日とは言わないけど、早めに頼むよ。今のデザインがちょっと詰まっていて、気分転換したいんだ。着用した生の声があれば、捗るしね」
「了解しました」
 玄関まで静也を送っていったシンジは、ソファに座ると暫く自分の湯飲みを眺めていた。
「重さが違う、か」
 呟いて再度携帯を取り出して掛けると、相手はすぐに出た。
「ああ、リッちゃん?さっきはごめんね無理言って」
「……」
(あれ?)
「無理、とは?」
 滅多に聞けない冷たい声が返ってきた。
「いや、ほら授業中に無理矢理電話しちゃったから…」
「で、反省したから御前様の後継者として帝王学を身につける気になったのかしら。そんな面白くもない男に身も心も任せた記憶はないわ」
(ええー!?)
 通話は一方的に切られ、またしてもシンジは携帯を手に立ち尽くすことになった。
「…何でよ」
 アイリスの反応は分かる。只でさえ、女の勘というのは妙なところで鋭いのに加えてアイリスの異能力なら容易く察知するだろう。
 がしかし。
 赤木リツコの反応は分からない。
 どう考えてもおかしい。体調とかストレスとか、女が変貌する理由は幾つもあるが、あんな反応をするリツコをシンジは見たことが無い。こちらの言い分すら全く聞かずに、一方的に言い切って一方的に切ったのだ。
「皮でも剥ぎに行くか」
 僅かに眉を上げたシンジが物騒な事を呟いた時、携帯が鳴った。
「はい碇で…ああ、大将。無沙汰してます…え?ええ…今日ですか?分かりました、お邪魔します」
 ここで教われば中華料理の基本は大抵身につきますよ、そう言って黒瓜堂の主人に紹介された店で、色々と教え込まれたのだが、ここしばらくは足を運んでいなかった。
 その店の主人が、たまには顔を出せと電話してきたのだ。
「皮剥はまた今度」
 リツコの事など忘れたかのように、一転して上機嫌な表情になり、足取りも軽く出ていった。
「ヒーホー」
 足が地についていない青年を、鴉達がギャァギャァと一斉に啼きながら見送った。
 店の名を猫飯店という。
 創業時から、店の前に大きな猫の置物がある店で、店員の構成には何の関係も無い。
 無論、娘を思う父の手により猫を憑かされた娘もいないし、何らかの液体を被ると猫と化す半妖の女も勤務してはいない。
 
 
 
「アイリス、じゃあね」
「うん、また明日」
 友人達に軽く手を振ったアイリスが歩き出した直後、滑るように車が近づいてきた。
 数メートルの距離まで近づくと、車は一人の男を吐きだした。
 帽子を目深にかぶった長身の男が、アイリスの背後に近づき肩を掴む。
「お嬢ちゃん送っていくよ」
「!」
 刹那、アイリスの手が動きかけたが、すぐに力は抜けた。
「はーい」
 抗うどころか、むしろ嬉々として男に手を引かれていく。
 車に押し込められたアイリスは、男が運転席へ乗り込むのをじっと見つめていた。
「さ、行くぞ」
「はいっ、おにいちゃん」
「ちっ」
「ちっ、じゃないでしょ!私がおにいちゃんのこと、分からないと思ったの?」
「ちゃんと変装したのに」
「……」
「ん?」
 ちょいちょい、とアイリスが手招きした。
「何?」
「ちょっとオイデ」
 顔を寄せると、頬をきゅっと掴まれ、そのまま左右にむにっと引っ張られた。
「ヒテテ…ヒタイってバ」
「そんな帽子とサングラスだけで、アイリスが分からないとでも思ったの?もぉ、私のこと馬鹿にしすぎ!」
 ぷうっと頬をふくらませたアイリスに、
「まあまあ、そうおこ――」
 言い終わらぬ内に、後方で銃声が鳴り響いた。
「『ん?』」
 二人が振り向くと、仁王立ちになり大型拳銃を構えている女教師の姿が映った。
「…おにいちゃん」
 一転して低い声になったアイリスが、ドアノブに手を掛けるのをシンジが制した。
「いいから」
 ご丁寧に帽子とサングラスを再装着し、ゆっくりと車から降りたところへ、
「手を頭の上にのせて膝をつけ!」
 鋭い声が飛んだ。
「ヘイ」
 攻撃どころか、抗う素振りを全く見せず、シンジは言われるままに従った。
 銃を構えたまま、女教師がゆっくりと近づいてきたところへ、
「人数が足りんと、赤木に言っておかねばならないね」
「!」
 サングラスを下に軽く下げ、振り向いたシンジと目が合った女教師の身体が一瞬で硬直する。
「もっ、もうしわ――」
「謝るな」
 他には殆ど聞こえないような低い声で、シンジが一喝した。登下校中で、既に辺りには人だかりが出来はじめているのだ。
「あなたの職務遂行は間違っていない。俺が立ち上がったらお尻を蹴飛ばせ」
「し、しかし…」
「これは命令だよ」
「は、はい」
 生徒達の登下校時、当番の教師は拳銃を携帯して校門で警備に当たる事になっているが、携帯から発砲の流れが唯一許可されるのは、生徒に危険が差し迫った時と、それに伴い自分に危機が迫った場合のみだ。
 裏を返せば、自分に危険が迫っただけでは発砲も、銃を取り出す事も許されない。生徒が危険に陥った場合の発砲は学園を挙げて擁護・隠蔽されるが、それ以外の理由による発砲は理由・結果を問わず厳罰が待っている。
 女教師の行動は原則に則ってはいるものの、創設者の内孫で、総理事長の赤木リツコよりも地位が上にあるシンジの顔を知らない教師はいない。ましてその尻を蹴飛ばせなどと、本人から命令と言われても、そう易々と応諾できるものではなかったが、断った場合の方が怖いと、やむなく従うことにした。
 頭を下げた後、尻を蹴飛ばされて這々の体で戻ってきたシンジを待っていたのは、全身から鬼気を漂わせたアイリスであった。
「おにいちゃん、止めても無駄だか――んむぅっ!?」
 激怒して外に出ようとした少女は慰留されることなく、代わりにその唇が塞がれた。
 突然の口づけに思わず身構えたものの、すぐに幼い肢体は脱力し、自ら口を開き舌の侵入を待った。歯茎を嬲る舌に小さな舌を絡め、切なげに身動ぎするアイリスの顔は、シンジの唇が離れた時には薄紅色に染まっていた。
「し、舌入れてちゅーしたって誤魔化されないんだからねっ」
 潤んだ瞳でシンジを睨むが、その顔から怒りの色は消えていた。
「帰るよ、シートベルト締めて」
「はあい」
 シートに身を預けたアイリスに、
「あの先生の取った行動自体は間違っていない。傍から見れば、アイリスは誘拐されたようにしか見えないからね。だから、俺があそこで素顔を晒して、あの人が生徒達の見守る中で謝るような事でもあれば、学園に於ける教師の権威は失墜する。この学園で、教師が教師足る為には、あそこはあれでいいんだ。アイリスなら――分かるね」
 アイリスに取ってシンジは絶対的に頼れる存在であり、どんな時でもシンジがいてくれれば大丈夫だと思っている。それだけに、まるでいじめられっ子のようにシンジがお尻を蹴られるなど、アイリスには我慢できなかったのだが、シンジは気にしていないどころか、わざわざそれを選んだかのようなことを言う。
 まだ納得はしていないが、シンジがそう言うのなら、何か考えているのだろうとアイリスは頷いた。
「うん、分かった」
「いい子だ。じゃ、帰りますよ。おやつに杏仁豆腐を作ってあるからね」
「うんっ」
 シンジの言葉にアイリスは、さっき触れられた時に甘い香りが漂った理由を知った。
「ねぇ、おにいちゃん」
「ん?」
「今夜…お泊まりしてもいい?」
 幼いながらも、もじもじと科を作って訊ねる仕草は立派に女のものであった。
 
 
 
 女神館に戻ったシンジは、リツコに電話を掛けた。
「はい、赤木」
 こちらの番号は分からないようにしてあるが、この番号に掛けられるものは数名しかいない。
「ああもしもし、面白くもない男です」
「あ、あの…」
 それ以上言わせず、
「さっき、教師に銃を向けられた」
「!」
 電話の向こうから硬直した気配が伝わってくる。
「アイリスを拉致したから銃は問題ない。ただあれでは人数が足りない。前後、或いは左右から囲んでおかないと反撃される可能性がある。携帯人数を増やしておくように」
「りょ、了解しました」
「用はそれだけ。じゃあね」
 電話を切りかけてから、
「ああ、そうだ」
 思い出したように、
「面白くもない男と関わると面白くない女になる。今後、そういう男(ヤツ)と私的な付き合いをしないように」
 まるで保護者のような物言いだが、対象は自分自身である。
 一方的に告げると、リツコの反応も待たずに電話を切ったところへ、ドアがノックされた。
「おにいちゃん、ぱんつとぶら持ってきたよ〜」
 奇怪な台詞に、シンジはどこか安堵したように頷いた。
「うん、入って」
「はーい」
 下着の山を抱えて入ってきたアイリスを見て、シンジの表情が緩んだ。
 
 
 
 
 
「今日こそ…必ずや屈辱を晴らしてくれる」
 低い声で呟いたシグナムの言葉には、並々ならぬ決意が漲っていた。剣の腕で劣っていたなら、まだあきらめもつく。
 だが、腕がどうこう以前に自分の愛剣は、あの邪悪な男に全く通じなかったのだ。どんなに凄まじい切れ味を持った剣でも、相手の身体がすり抜けてしまっては何も出来ない。
 しかも――。
「私の…ち、乳をよくもっ」
 美麗の女剣士が歯軋りしたのは思い出したからだ――かつて味わったことのない、最悪の屈辱を。
 意識を取り戻したシグナムが違和感を感じて下を見ると、乳房は丸見えになっており、しかも妙に黒く汚れていた。
 ふっ、とシグナムが冷笑したのは、乱れていたのが胸だけだったからだが、次の瞬間その表情は凍り付いた。
 どういう手を使ったのかは知らないが、敗れた女の身体に、それも失神している女をレイプでもしようとして未遂に終わったのだろうと思ったのだが、そこに置かれていた一葉の写真はシグナムに、冷酷な事実を突きつけた。
 何かで真っ黒に塗られた乳房、そしてその形がくっきりと残っている白布、釣りなどした事の無いシグナムは、魚拓という単語は知らなかったが、自分の乳房が布に転写された事は分かる。
 性的暴行ならいざ知らず、わざわざ証拠写真まで残して、悔しかったら取りに来いと挑発された以上、シグナムは命に替えても黒瓜堂なる男から布と写真一式は取り戻してくれると、悲壮な覚悟を決めていたのだ。
 がしかし。
 黒瓜堂の主人が、取り返しに来させる為の餌として、写真を残した訳ではない。なのはに語った通り、モードを変えた為に圧勝出来ただけで、剣の腕はそもそも比較になっておらず、これ以上絡まれるのも面倒だと――勿論悪の親玉としてのセオリー踏襲も兼ねて――乳拓を取ってわざわざ証拠を残したのだが、全くの逆効果であった。
 雪辱に燃え、剣を携えて飛翔するシグナムの目に、見覚えのある姿が映った。
(……)
 すう、とひとつ深呼吸して、音もなく地上に降り立つ。
「そこの娘、黒瓜堂の仲間だな」
(?)
 こんな所で、黒瓜堂の名前を聞くとは思わず、なのはが不思議そうな顔で振り向き、手を一つ、ぽんっと打った。
「あー、この間のパイ拓さんだ」
「パ…何?」
「パイ拓。おっぱいの魚拓バージョンです。黒瓜堂さんに負けて、パイ拓取られちゃった人ですよね」
「だ、誰が…」
 誰がパイ拓さんだ!と、叫びたくなる衝動を寸前で抑えた。この娘が黒瓜堂と知り合いなのは間違いないが、近所付き合いしているというほど、近くに拠点を持ってはいないようだ。
 あのウニ男ならいざ知らず、交戦したこともない少女に斬りかからぬ程の自制心はまだ残っていた。
 天を仰ぎ、ゆっくりと深呼吸する。
 落ち着いた。
「名を聞いておこう。名前を何という」
「…高町なのは」
「私の名前は知っているな」
 なのはは黙って頷いたが、その手に武器はなく全く無防備だ。そのなのはが、抜刀こそしていないものの、完全武装の自分を前にして全く臆する様子がない事にシグナムは気付いていた。
「私を前にして泰然自若とは大したものだ。一つ訊きたい事がある」
「黒瓜堂さんのおうちなら教えませんよ」
「…ほう」
「この間、黒瓜堂さんに負けておっぱいを採られちゃったじゃないですか。今度は服を脱がされて、裸に墨塗られて記念品にされちゃいますよ」
「私がまた負ける、と?そうなった時はそれで構わん、私とて身の処し方は弁えているつもりだ。裸を転写されるなど恥をさらす気は無い。気遣いには感謝するが、私はあれをなんとしても取り戻さねばならんのだ。この私の命に代えてもな」
「いやです」
 ぷい、となのははそっぽを向いた。
「勝てるかどうかも分からない人を連れて行って、私の目の前で裸にされるところなんて見たくないです。だいたい、向こうにはシンジさんもいるんです。本当に勝てるんですか」
「シンジ?あの奇妙な技を使う少年か。構わん、守護騎士の――」
 シグナムの言葉は途中で遮られた。
「高町なのは!」
 二対の視線が同時にある方角を向く。
 地上数メートルの高さに浮かんでいるのは、これも武装した少女であった。
 なのははひらひらと手を振った。
「あ、フェイトちゃんだ。フェイトちゃーん」
(?)
 腹立たしげに少女を見据えたシグナムだが、明らかに殺気すらまとっているフェイトと呼ばれた少女と、なのはの反応が対照的で呆気に取られていた。
「き、気安くその名を呼ぶなっ」
「だって、この間裸の見せっこしたじゃない。フェイトちゃん、可愛かったよ」
「くーっ!!」
 空中で武器を手に首筋まで赤くなるフェイトを見て、シグナムは朧気に事情を察した。
(負けた相手を裸にするのはあの男の教育なのか…)
 
 ヘキシュッ!
 同時刻、どこかで邪悪なくしゃみの音がした。
 
「フェイトちゃん、それで今日はどうしたの?一緒にお風呂入る?」
「だ、誰が入るか!高町なのは、あなたに最後の勝負を申し込みに来た。私の持っている全てのジュエル――」
「待ってもらおう」
 今度はフェイトの言葉が遮られた。
 無論、シグナムの仕業である。
「貴公らが同性愛の関係にあろうといっこうに構わん。好きなだけ高町なのはに可愛がられるがいい。だが、勝負となれば話は別だ。私が先に話していたのだ。私の用件が済んでからにしてもらおう」
「…お前は誰だ」
「人に名を問う時は、自ら名乗るものだぞ」
 くすっと笑ったなのはを、シグナムがちらっと睨む。
(シグナムさん、真似してる)
(笑うな!)
 なのはは、その場には居合わせなかったが、シグナムがシンジに同じ事を言われ、その直後に不可視の刃を受けた映像は見せられている。
「私はフェイト、フェイト・テスタロッサだ。私の任務を妨げるものは、誰であっても許さない」
「ほう」
 シグナムの口元にわずかな笑みが浮かぶ。
 それは危険な笑みであった。
「我が名はシグナム、この場は譲るわけにはいかない。任務などより大切な用事があるのだ」
(もー、黒瓜堂さんからパイ拓取り返すのも、私に勝ってジュエルシード取り戻すのも、どっちも無理だし両方ともどうだっていいじゃん)
 聞かれたら、二人から決闘を挑まれそうな台詞を、無邪気な表情のまま内心でなのはが呟いた。
「邪魔をするなら…倒す」
「私をか?いいだろう、勝った方が高町なのはを手に入れる。その方が分かりやすい」
(は?私を手に入れる〜?なんで女の人同士で私を取り合ってるの!?)
 フェイトは先だって、倒して散々に弄んだし、シグナムだって黒瓜堂に手も足も出ず惨敗したのを目の当たりにしている。どう見ても、手に入れるのは自分であって、自分の取り合いなどされたくない。
 自分が取るのはいいけれど、自分を取り合いされるのは嫌なのだ。
 この辺りに、なのはの微妙なS気質が表れている。
(うーん、二人ともやっつけちゃおうかな)
 ほんの少し、なのはの表情に危険な色が浮かんだ事に気づかず、フェイトと同じ高さまで浮上し抜刀したシグナムと、戦斧を構えたフェイトが、お互いへ向けて真っ直ぐに突っ込んでいく。
 だが、二人の一撃が相手に当たることもかわされる事も無かった。
 二人が激突する寸前、何故かバランスを崩したフェイトが、逆しまに地上へ落ちてきたのである。
「!フェイトちゃんっ!?」
 慌てて駆け寄ったなのはが、ぎりぎりのところでフェイトを受け止める。ほぼ体格の変わらない、しかも失神している少女を支えるなど、以前のなのはには到底出来なかったろうが、シンジを慨嘆させるほどの成長はそれを可能にさせていたのだ。
 数度呼びかけ、肩を揺するが全く反応が無い。なのはが、何の躊躇いも無く服の前をはだけると、薄い胸はわずかに生者の鼓動を伝えてきた。
 そこへ、さすがに武器を収めて降下してきたシグナムがやって着た。
「高町なのは」
「な、何」
「服をもっと開けてみろ」
「う、うん…」
 言われるまま、フェイトの服をはだけさせていくなのはの手が止まり、その表情が凍り付いた。
「そ、そんな…」
 すぐには気づかなかったが、そこにあったのは明らかに無数とも言える痣やミミズ腫れであり、それは転倒や普通の事故などでは決してつかぬものであった。
「なんで…なんでこんなっ!こんなことをっ!」
「おそらく雇い主だろう」
「…どういうこと」
「この娘は、さっき任務と言っていた。すなわち、誰かの命令で動いているということだ。どんな任務か知らんが、任務を遂行できなかった事で雇い主の怒りに触れた――そういうことだろう」
「…シグナムさん、手伝って」
「なに?」
「フェイトちゃんを運びます、すぐに手当しなきゃ」
「運ぶより、医療機関に任せた方が良かろう。素人の治療は却って悪化することもある」
 状況的にはシグナムの邪魔者が消えた形だが、放って置いて私の用件を、と言うほどシグナムは非情では無かった。
「病院じゃ駄目、魔力が関係してたら治せないから。黒瓜堂さんにお願いするんですっ。シグナムさん早くっ!」
 ついさっきまで、そこへの道を問い質そうとしていた事も忘れ、名前を聞いただけで背中に悪寒が走ったシグナムだが、腕の中に傷だらけの少女を抱きしめ、涙目で自分を見据えてくるなのはの視線にとうとう頷いた。
「分かった。この娘は私が背負う。君は向こうまでの道案内を頼む」
  
 
 
 
 
「おにいちゃん、あーん」
「あい」
 食卓で一人、浮くほどにご機嫌なアイリスだが、今日はシンジに食べさせている訳では無い。
 餌を待つ雛のように、口を開けて待っているのだ。
 相手のシンジはというと、怒りも嫌がりもせず、肉団子をアイリスの口元へ持って行くのだが、何を考えているのか、数回失敗している。頬に押しつけたり、直前で落としたりと、まるで心ここにあらずの様相である。
「もーっ、おにいちゃん変な事考えてるでしょ!」
 とうとうむくれてしまったアイリスだが、その耳元へシンジが口を寄せて何やら囁いた。
「やん、耳くすぐったい」
 もじもじしながらも頬をふくらませていたが、徐々に表情が戻っていく。
「じゃ、そういう事で」
「はあい」
 すっかり機嫌も直ったようで、それ以上シンジにねだる事も無く一人で食べ始めたのだが、シンジはと言うと相変わらず魂が半分戻っていないように、食べる手を止めて宙の一点を眺めている。
 そんなシンジを見て、さくら達はそっと顔を見合わせたのだが、無論本人は気付かない。
 やがて食事が終わり、
「レニ、いい?」
「はい」
 レニと二人で片付けにかかったところで、
「今日は、わたくし達がやりますわ。碇さんはゆっくりなさって下さいな」
「達?」
 わらわらと四本の手が上がる。
「珍しい事もあるものだ。じゃ、お任せしようかな」
 視線を向けられ、レニが小さく頷く。
「では、頼みましたよ」
「『はーい』」「了解ですわ」「任せるデス」
 手を挙げたのは、アスカ・織姫・さくら・すみれ、という珍しい組み合わせであった。
 部屋に戻ったシンジは、机に向かうとまたも宙を見上げていた。
 リツコの反応が、どうしても解せなかったのである。
 正確にはその背後関係が気になった、というのが正しい。
 邪悪な教唆があったのかと思ったのだが、目下は迂回して嫌がらせされる覚えがない。尤も、黒瓜堂のやる事ですんなり納得できた、或いは行動を予測できたケースなど数えた方が早いくらいなので、こちらに身に覚えがない、というのはあまり意味が無い。
 問題は、
「試されてるとしたら――厄介だな」
 ただの嫌がらせならまだしも、何かを量る目的の場合、選択肢によっては色々なものが上下する事になる。
 それでも、これがいつもの日常ならばシンジもさほど気にしなかったかもしれないが、静也にくらった膺懲の一撃が心中に発達した胆石のように引っかかっている。
「どーしたものかしら」
 やや重い声で呟いた時、内線が鳴った。
「ん?」
 立ち上がって取る。
「はい碇」
「わたくしですわ。ちょっとお話がありますの、食堂へいらしていただけませんか?」
「ん、分かった」
 すみれからの呼び出しを快諾すると、扉の前でひとつ首を傾げてから出て行った。
 一階へ降りると、食堂ではなく居間ですみれが待っていた。
 しかも、四人いる。
 後片付けに名乗り出た娘達が全員、それも並んで膝に手を置いて座っているのを見た瞬間、シンジは背中でアメリカシロヒトリが一斉に日本舞踊を始めたような悪寒に襲われた。
「どしたの?」
「『ごめんなさいっ』」
 揃って頭を下げた娘達を見て、シンジは一つため息をついた。
「やっぱりだ。これはもう間違いない」
 携帯を取りだしてリダイヤルする。
 数度、呼び出し音が鳴ってから出た。
「あ、オーナー、不肖の弟子でございます」
「?」
 自分たちの話も聞かず電話を、しかも黒瓜堂の主人に掛けだしたシンジに、娘達は呆気に取られていたが、
「お金貸して。うん、多分…十本位、利子は俺の解体でお願い」
「『はぁ!?』」
 突如、シンジの口から出た奇怪な台詞に、少女達の口がぽかんと開いた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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