妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百九十七話:乳拓
 
 
 
 
 
 澄み渡った青空の下、邪悪な男が邪悪な髪を揺らしながら歩いていた。
 但し、人間界に於いては邪悪の象徴のようなこの男も、ここ魔界では目立つところかあっさりと風景にとけ込んでしまう。ここでは、その程度で存在感など得る事は出来ないのだ。
 時折、低級妖魔が頭上を通り過ぎていくが、餌に値しないと映るのか襲ってくる事はない。
 シンジの指示の元、女神館の少女達が霊力鍛錬にまずは魔界での徘徊を命じられているが、未だ満足に歩ける者はほとんど居ないのが実情だ。その魔界を我が物顔で歩く黒瓜堂だが、それがこの男の能力と無関係なのは言うまでもない。
 昼間も一切の陽光を受け付けぬ漆黒の森へ入る寸前、その歩みが止まった。
 背後の頭上で妖魔とは違う羽ばたきの音がしたのだ。
「ご無沙汰しております黒瓜堂殿」
 音もなく舞い降りた中国服の娘が恭しく一礼する。
 魔界の女王モリガンの妹、秀蘭であった。シビウの妹の人形娘とは、互いに滅ぼし合わずにいられない仇敵同士だが、それぞれ敵の姉からは可愛がられている妙な関係でもある。
「だいぶ行儀がよくなりましたね。前回はたしか襲撃された気がしましたが」
「そ、それは…あの女と一緒におられたからで決して黒瓜堂殿には…」
「まあいいでしょう。戸山町の貴公子からいい物をもらって機嫌がいいようです。で、今日はどうしました?」
「我が姉モリガンが、是非お会いしたいと私を迎えに寄越しました。黒瓜堂殿…お立ち寄り下さいますか?」
 現時点では、とくに魔界の女王からクレームをつけられる覚えはない。無論、女神館の管理人と違って男女の関係でもないし、わざわざ秀蘭を迎えによこすなど珍奇なことだ。
 何か企んでいますね、と言いかけて、秀蘭の中国服がいつもと違う事に気づいた。モリガンほど妖艶な肢体ではないが、決して貧弱な身体ではない。成熟した少女のそれは持っているのに、今日は明らかに幼く見える。
 施された化粧と一回り小さな服と――ぎゅっと押さえ込まれた乳房だと、黒瓜堂は見抜いた。明らかに、外見が幼女に映るよう装っている。
(ロリ仕様で私に差し向けるとはけしからん、実にけしからん話だ)
「秀蘭」
「はい?」
「君は、普段はノーブラだと美貌の院長から聞いた事があるのですが」
「こ、これは姉上が黒瓜堂殿を口説き落とすために無理矢理っ…あ」
 一瞬首筋まで赤くなり俯いた秀蘭を見て、やはりモリガンの技だったかと、
「いいですよ、そこまでたっての招待ならば、行かないとコウモリに夜襲をかけられそうだ」
「おそれいります」
 秀蘭の指が動くと、何処からわいたのか忽ち大量のコウモリが飛来し、寄り集まったそれが即席で菱形の座布団を作り上げた。
「黒瓜堂殿、お乗り下さい」
 弾力、強度共に不安だらけの乗り物だが、黒瓜堂が気にする様子もなく乗り込むと、コウモリ達は邪悪な男をあっさりと受け止めた。
「私は後から参ります」
 会った時と同様、恭しく一礼して見送った秀蘭だが、俯いたその顔にやや邪な笑みが浮かんでいた事に、無論黒瓜堂は気づかない。
 コウモリ達が城内まで飛翔していくと、既にモリガンが待っていた。使い魔の動向を知る事など容易いのだろう。
「下っ端が屋敷を爆破したんですって?」
 機嫌の良さが表情に出ていたが、第一声がこれである。
「…下っ端でもないし屋敷でもない。爆破は一部合っているが」
「あら、そうなの?じゃあ、適当な情報をもたらした役立たずの娘にはお仕置きしないとならないわね」
 役立たず、とは無論秀蘭である。
「…下っ端による屋敷爆破で構わんよ。で、妹まで使いに出して私に何の用です?」
「あなたにはいつもお世話になってるから、たまにはお礼しようと思ったのよ。一晩で元に戻してあげるわ」
「それはそれは」
 シンジとは違い、礼を言われるような世話をした記憶はない。
「魔界の女王の折角の好意だ、有り難く受け取っておきます。ではこれで」
「あっ、ま、待ちなさいよっ」
 さっさと身を翻そうとした黒瓜堂を見て、モリガンが慌てて呼び止めた。
「何か?」
「別にお礼なんていらないから、これにサインだけしてちょうだい」
 その眼前に差し出されたのは、何やら記された羊皮紙であった。
「碇シンジレンタル契約書?」
「そ、シンジのレンタル書類。一晩でお店の回復と、それから魔界石も一箱つけるわ。人間界では、多分10億円位にはなると思うんだけどどう?」
「……」
 黒瓜堂の表情の邪悪な色がひときわ濃くなった。
 
 
 
 
 
 折角なのはの代わりに留守番をしてやったユーノ・スクライアがなのはの必殺技で――無論手加減はしている――吹っ飛ばされる少し前、黒瓜堂は高町なのはを送ってなのはの世界にいた。
 なのはの能力は、シンジでさえ驚嘆した程で、住人達の誰もが不慣れな魔界であっさりと飛び回っている。普通に歩く、というのは訓練に於いては初歩中の初歩で、それが出来なければ話にならないが、自由に動けるようになれば魔法を使うなのはにとって、能力を上げるのにこれほど適した場所はない。元から持っている魔力は魔界の空気で更に高められ、何よりどんな攻撃魔法を使おうがどこからもクレームが来ないのだ。
 魔界の女王からクレームがついた時は、愛人を生け贄にすれば済む話である。
 黒瓜堂が見ても、最初の時と比べれば格段に能力が上がっており、今のなのはならば、フェイトも容易く凌駕してのけよう。ジュエルシードの回収、と言う当初の目的より能力アップに眼目が置かれている気もするが、それはそれで邪悪な男には関わりのない事だ。
 それに、シンジのPV作成とジュエルシードの収集を兼ねて、前回この世界へ来たとき、どさくさに紛れて一つをちょろまかし、現在レビアに命じて解析中なので、なのはにあまり本腰を入れて回収されると、総数の合わない事が発覚して厄介な事態になりかねない。
 前回出てきた時空管理局は、何らかの形でジュエルシードに関わっていようと、シンジと黒瓜堂の意見は一致していたのだ。
「魔界へ入ると、なのは嬢が少し大人に見える。のびのびしてますね」
 なのはがふふっと笑い、
「きっと、環境がいいからですよ。あそこって、なんか力が湧いてくる気がするんです」
 住人達の進まぬ順応ぶりを知るシンジが聞いたら、ため息をついて慨嘆するに違いない。それにしても、魔界を環境がいいとは並の少女が言える事ではない。
「将来が楽しみですよ。さて、お友達の身代わりがばれない内に、おうちへお送り――」
「黒瓜堂さん?」
 魔界へ放り込まれて能力を急上昇させるだけあって、なのはの適応能力は多方面で高い。この邪悪な男の危険な頭も見慣れてきたが、黒瓜堂の表情が微妙に動いたのに気付いた。
「なのは嬢、もう少し付き合ってもらってもいいですか」
「え?私は別にいいですけど…戻るんですか?」
 いえ、と首を振り、
「向こうを出る時飛行石を持参しました。なのは嬢、私に掴まってください」
 懐中から何やら取り出した物を少し強めに握った瞬間、なのはは思わず目を見張った――黒瓜堂の背中から翼が生えたのだ。
 無論、真っ黒い羽であった事は言うまでもないが、なのははそれが黒かった事に何故か安心している自分に気付いた。
 理由は分からない。
 事態が掴めぬままとりあえず黒瓜堂に掴まると、邪悪な翼をばっさばっさとはためかせ、黒瓜堂は低空を飛び始め、十分ほどで二人は海に出た。
「さてと、なのは嬢。目下会得している攻撃魔法で、一番強いものを撃って下さい――私に向けて」
「分かりました…え!?」
 常識の範囲に収まらない人だ、との認識は持っていたが、さすがにこれは想像していなかった。
 そもそも、急に予定を変更した挙げ句自分に向かって撃てとは、一体どういうことなのか。
 世界が違ってとうとう暴走したのかとも思ったが、よく考えれば元来が暴走しているような存在である。あまり表情を変える事のない男で、今も表情に別段の変化はない。
 ただ、後からよくも撃ってくれたと呪詛を向けるような性格でもあるまいし、酔っているようにも見えず、躊躇いながらも黒瓜堂に向かってレイジングハートを構えたのだが、
「あ、やっぱりいいです」
「え?」
「別の方法で実証できそうですよ」
 その言葉が終わらぬ内に、なのははぶるっと身震いした。なのはでさえも感じ取れる程の凄まじい気が後方から押し寄せてきたのだ。
「待っていたぞウニ男」
 戦闘服に身を包んで周囲を威圧する気をまとい、空中から見下ろしているのはシグナムであった。
「黒瓜堂さんあの女の人は確か…?」
「一見強そうな格好をしてますが、完全に見かけ倒しのマグナムさんです。この間、シンジ君に一撃でボコられたんですよ」
「あ、そうなんですか」
 シンジのPVで見たことはあるが、無論なのはと面識は全くない。ただ、黒瓜堂の台詞からして自分を敵にしているのではなさそうだと、少し安堵した。全く見知らぬ相手と張り合うのはフェイトだけで十分だ。
 黒瓜堂の言葉にシグナムの眉がすうっとつり上がり――すぐ元に戻った。何とか自分を制御したらしい。
「マグナムではない、シグナムだ。先般名乗ったはずだが」
「一撃でやられた事のインパクトが強すぎてね、そっちの記憶が混同していたようだ。で、そのシグナムさんが私に何の用かな?」
「先だっての借りを返しにきた。あの少年が来るかと思っていたが、黒幕の貴公でも構わん」
「なのは嬢、私は黒幕だそうですよ」
 振り向いた黒瓜堂が、うんざりした口調でなのはに言った。
(黒瓜堂さん、口元が笑ってますけど)
 ただ、口調と表情の不一致はともかく、ここにシンジがいない以上、黒瓜堂にもしもの事があったら女神館に行けなくなる。
「黒瓜堂さん、ここは私が…」
 気乗りしないながらも前に出ようとしたなのはを、黒瓜堂は軽く制した。
「実証する、と言ったでしょう。いいから、そこで見物していて下さい。もし私が殺られたら、戻ってシンジ君に伝えて下さい。喪主は彼に任せますから」
 内容と到底似合わぬ口調で告げると、黒瓜堂は背中から何やら取り出した。
 竹刀だ。
 既にシグナムは抜刀して構えており、真剣に竹刀とは、余程相手を侮っているのか――或いは気が触れたかのいずれかだ。
 素人臭漂う構えに、シグナムは僅かに口元を歪め、なのはの喉がごくっと鳴った。黒瓜堂は、見た目と雰囲気は邪悪なのだが、強さはちっとも感じられない。
「――参る」
 刀身に凄まじい魔力を乗せ、シグナムが一気に降下してくる。あの刀に魔力を乗せれば、それこそどんなものでも切れそうだ。
 そう、サトイモ科の夏緑多年草植物から作られた食物以外は。
 黒瓜堂は相変わらず隙だらけの姿勢で身構えており、そこに死の匂いを孕んだ風と共にシグナムがみるみる内に肉薄し、なのはが思わず息を呑んだ次の瞬間、あっと言う声がふたつ、上がった。
「『!?』」
 黒瓜堂のものではなく、シグナムとなのはの声だ。柔な竹刀諸共、黒瓜堂の身体を一刀両断する筈の長剣――レヴァンティンは黒瓜堂の身体をすり抜け、さすがのシグナムもバランスを崩して砂浜へ突っ込んだ。
 起きたことを理解できず、呆然と振り向いたシグナムの表情が硬直する。
 にやあ。
 そんな表現がまさしく適当であろう表情で、竹刀を振りかざした黒瓜堂が迫っていたのだ。
 二十分後、得意とする魔法は完全に沈黙し、魔力を乗せた愛剣も悉く宙を切り、起きている事態を全く把握出来ぬまま、魔法騎士シグナムは竹刀でぽかすかと好きなように攻撃され、とうとう砂浜に昏倒した。
 装備もそこかしこが敗れ、白い肌を見せて倒れているシグナムを、黒瓜堂が邪悪な表情で見下ろしているところへ、これも事態を把握できないなのはがそっと歩み寄った。
「あ、あの黒瓜堂さん…か、勝ったんですか?」
「勝ったと言いますか、効果が実証されただけです」
「効果?」
 竹刀の先で、半分見えているシグナムの白い乳房をつつき、なのはがかーっと赤くなる。
「寝てますね」
 確認のようだ。
「要するに、防衛モードを切り替えたんです。今の私に、魔力を帯びた攻撃は一切効きません。だからさっき、私を撃って下さいと言ったのですよ。その代わり、純粋な物理攻撃は危険な位に効き目があります。この娘(こ)が、純粋に剣の力だけで攻撃してきたら――」
 首を落とされ、自分の首を小脇に抱えながら逃げ回っていたでしょうね、と言いかけて止めた。
 冗談でもないが、相手はまだ年端もいかぬ美少女なのだ。
「さてと、今後もう襲ってこないように乳拓をとりますが、なのは嬢も要りますか?」
「…それなんですか」
 答えを聞く前から強烈に嫌な予感がしており、それは的中した。
「乳に墨を塗り、紙に押しつけるんです。要は魚拓のおっぱい版で、これを見せられれば二度と攻撃してこないでしょう?」
「わ、私は遠慮しますっ。っていうか黒瓜堂さん、もう勝ったのにこれ以上やっつける事ないじゃないですか。お、おっぱいの型を取るなんて…いくらなんでも可哀想です」
「なのは嬢、この娘が魔法騎士だったから防げた、とさっき言いませんでしたか?」
「あぅ…」
 強さで圧倒した訳ではないのだ、と言われれば、なのはにはそれ以上は言えなかった。
「お手伝いして下さい、とはいいませんよ。お子様には十年位早い刺激ですからね」
「く…くっ!」
 手加減したとはいえ、ユーノが理不尽な攻撃魔法をくらった原因が、危険なウニ頭にあった事を、可哀想な被害者は勿論知らなかった。
 
 
 
 遠くに雀の声を聞きながら、リツコはうっすらと目を開けた。顔を横に向けるとシンジの姿はもうなく、いつも通りソファに座って書類に目を通していた。
 リツコが理事長に任命されてから、月毎の収支が赤字になった事はないが、シンジの視線はそこには無く、その興味は専ら、全体の成績や校内で教師達から上がってくる事案が対象だ。
 単に経営に関心がないのか、或いはリツコに任せておけば安心と思っているのかは不明だが、リツコは未だその問いを耳元で囁けずにいる。
 起き上がって裸身にガウンを羽織り、リツコはぺたぺたと裸足で歩いていった。
「おはよう」
 シンジの背後に回り、首に白い腕を巻き付けて甘い声で囁くと、背中で張りのある乳房がむにゅっと潰れる。
 以前はリツコの方が先に起きていたのだが、身体を重ねるようになってからは、いつもシンジが先に起きている。
「よく眠れた?」
「いつも通りぐっすりよ。いっぱいえっちして、肌の艶も良くなったでしょ?」
 ほら、とガウンの前をはだけ、シンジの頬に乳房を押しつけると、既に乳首は半分硬くなっていた。
「そっか、それはよかった」
「どうでもいい感が満ち溢れているように思えるのは、私の気のせいかしら?」
「……」
 リツコの乳から僅かに顔を離し、シンジが振り向いた。
「預かったMC(マネーカード)を無くす馬鹿も馬鹿だけど、紛失した事は言ってあったし、何時でも使用不能には出来なかったの?」
「出来たわよ」
 にこっと微笑ってリツコが頷いた。
「…えーと?」
 首を傾げたシンジを見てその笑みが更に深くなった。
「この学園を御前様に任されてから、金銭面で困った事は無いのよ。口座も金額も把握していたし、別にどうという事はないわ」
「でも金額はおよそ6億と言っていた。女理事長の気まぐれにしては、いくら何でも高すぎる。旦那からなにか手回しが?」
 両親が自分の行く末を任せ、飛行機内で監禁された時も救出を委任した位だから、リツコと何らかの関係があってもおかしくないが、黒瓜堂が口にした金額は常識を完全に逸脱していたし、それを平然と肯定するリツコもリツコだ。
 自分に関しての金銭感覚は疎いシンジだが、だからと言って浪費癖があるわけでもない。住人達には気にしていない、と告げたものの、浪費ってレベルじゃねーぞ、と指弾されるべき状況に自分が関わっている事は、シンジの心に微妙な灰色の影をつくっていたのだ。
「大人の裏事情よ、と言って納得する表情じゃないわね」
 ほんの少し真顔になったリツコが、シンジの頭を抱いて軽く撫でる。
 横顔に当たる乳房から、欲情の色は消えていた。
「シンジ君を繋いでおくためのカード、よ。黒瓜堂のオーナーから負債が回ってきた時、御前様に肩代わりを押しつける君じゃないもの」
「?」
 両頬に?マークを貼り付けたシンジが、何やら思案している間、リツコは何も言わなかった。
 三十秒近く経ってから漸く、
「つまりあの借金で俺を購入…痛っ」
 スパン!
「違うわよ、馬鹿ね」
「分かってる、言ってみただけ」
「今度言ったら腹上死させるわよ」
 痛打のお返しに、どう考えてもリっちゃんには無理、と言おうかと思ったのだが止めた。何となく、身の危険を感じたのだ。
「でも、お金を出してくれなくなったからもう用はない、なんて言ったらどこぞの悪の親玉に魔界で妖獣の餌にされると思うんだけど。それとも、悪の親分が俺をそういう風に仕立て上げた、と?」
「……」
 それがリツコの評価なら、シンジの人物評価能力は著しく劣っていた事になるのだが、シンジの言葉を聞いたリツコはうっすらと笑った。
 どこか、乾いた笑みであった。
「私はシンジ君の恋人になりたい訳じゃない。側にいて君の成長を眺めてるのが楽しいのよ。でも私は人間だから…シンジ君が私を抱いてもさして満足してないのも分かってるわ」
 リツコが言う通り、どれだけ身体を重ねても、シンジが心身共に満足する事はない。シンジが満足する――正確には反応を強いる――のは、妖艶な病院長のみだ。こればかりは素材の問題だから致し方ないのだが、リツコがそんな事を思っていたのかと、金色の髪をした幼馴染みの顔を見つめた。
「外れてはいないね」
 シンジはあっさりと頷いた。
 事実だし、何よりも女がそう言っているのだから、下手に否定する方が厄介な事になりかねない。
「でもね、あーあ今日も満足できなかったなやれやれ、と思いながらいつも帰ってる訳じゃない。何より、男の萌える所は体位とか、なかとか、そういう所ばかりじゃないのよ?ずっと気にしてたの?」
「女ってね、いつもしようのない事ばかり気に掛けて、心配しながら生きてる生き物なのよ。だから、黒瓜堂から連絡があった時、オーナーが好きに使っていいって言ったのよ。いざとなればシンジ君に延々返してもらうから、って。女の保険、よ。男と女はロジックじゃない、って分かってるから…」
「はた迷惑な話アル」
 細い眼をして悪さを企む中国人のように、シンジはひょいと肩をすくめた。いつでも停止出来るものを停止せず、しかもその債務をシンジに押しつける気だったとは、勝手に口座に振り込んだ挙げ句、暴利をつけて返済を貪る悪徳高利貸しも弟子入りを願うであろう極悪振りである。
 ただ、どんな体位や奉仕を強いても拒む事無く、それどころか全身を淫らに染めて応えてくる魔女医に開発されたシンジでは、人間の女がどう頑張っても太刀打ちするのは不可能だ。
 快楽の享受を制御できるようになって来たと、シンジ自身が分かっているだけにリツコの思いを下らないと一笑に付す事は出来なかった。リツコとの付き合いも決して短くはないのだ。
 がしかし。
 シンジがカードを無くした事に原因が有るとはいえ、黒瓜堂の主人が勝手に使うのは明らかに違法であり、その債務をシンジに負わせるのは無理がある。その気になれば数ヶ月も掛からずに稼げるだろうが、どういう口実で自分に押しつけるのかと考えた次の瞬間、脳裏で何かが点灯したような気がした。
 ぽむっ。
「どうしたの?」
 不意に手を打ったシンジに、リツコが怪訝なそうな視線を向けた。
「ううん、何でもない。全てが一本の糸で繋がって納得したの」
「糸?」
「そう――真っ黒い糸」
 未だ半裸のまま、六匹の狐につつまれたような顔をしているリツコを引き寄せ、
「ところでリっちゃん」
「な、何かしら?」
「さっき、起きたばかりなのに乳首勃ってなかった?」
「ーっ!」
 首筋まで染めたリツコが、シンジに引かれたかに見せて自分からふにゃふにゃと腕の中へ倒れ込んできた。
 
 
 
 シンジのレンタル最終日、黒瓜堂の主人は女神館までアスカを迎えに行った。普段は迎えに来ることもないが、管理人は貸し出され中なので様子が分からず、自分で見に来たのだ。
 モリガンとの約定は一昼夜だが、リツコが指をくわえて見ている事はあり得ないし、今日までは間違いなく不在だろう。
 様子はどうかとレニ辺りに訊く手はあるが、いくらなんでも無粋というものだ。
 が、来てみると両親を一応無傷で追い返された事もあってか、殊の外落ち込んではおらずとりあえずは悪の親玉も安堵した。
 フユノからは2億円が送られたが、無論これも黒瓜堂との間で話はついており、アスカがシンジに好意を持っているから、シンジが肩代わりしてもアスカも居辛かろうと、あくまでシンジのせいにして祖母が孫の不始末を補償する形にしたのだ。
 なお、シンジのところへ持って行った請求書自体に偽りはなく、当初は出費も計算していた黒瓜堂にとって、モリガンの申し出は完全に想定外であった。が、せっかくのお申し出を口外する事はあるまいと、有り難く二重計上する事にしたのだ。
 この辺が黒瓜堂の黒瓜堂たる所以である。
 シンジをレンタルして満足した魔界の女王により、既に店舗は完全に――と言うより新築並に修復されている。
 ここでアルバイトとして雇われるようになってから、人間の常識というものが通用しない事は少し分かっているつもりのアスカだったが、完全に度肝を抜かれ、無言のまま立ちつくした。
「オ、オーナー…こ、これって…」
 漸く言葉を絞り出したのは、数分も経ってからの事だ。
「きれいになったでしょう」
「は、はい…」
「さすがに、いい大工は器用な上に隅々まで目が行き届く。前よりきれいになりましたよ」
 魔界の大工は、とは言わなかった。アスカはまだ真相を知らない。どのみち破壊したのはアスカだが、現時点で一切合切を知る必要もあるまいと判断したのだ。
「ただ、外観は綺麗になりましたが、装置はあくまで以前の状態に戻っただけです」
「?」
「便利になった訳じゃ無いんですよ。ま、元々魔界から引いてるラインなので、そうそう便利な機械式にも出来ません。裏を返せば、君の操作次第でまた壊れるという事だ」
「!」
 ぎゅっと唇を噛んだアスカの表情がわずかに青ざめる。
「壊れた時に困るのは資金云々より環境への悪影響です。魔界の変な生き物がこっちへやってくる、位ならシンジ君に来てもらえば済む話ですが、空気が混ざり合うと能力を持たない一般人では身体が持ちませんからね。掃除前と掃除後の開閉弁に触れる時だけは慎重にやるように」
「分かりました」
「さて、私はちょっと出かけて来ます。帰りはシンジ君を呼び出しますか?」
「い、いえ、あの…出来ればオーナーに…すみません」
 やはり、何の気兼ねなくシンジを呼び出す心境ではないらしい。
 さもありなんと、アスカの肩を軽く叩き、
「いいでしょう、君が終わる前に戻るようにしますよ。何かあったら、私の携帯へ電話をするように」
「はいです」
 
  
 
「ヴィータ、シグナムの様子は…どうだった?」
 シグナムの仲間達が起き出して来た時、シグナムは浴場にいた。
 それから二時間が経ってもまだ出てこず、仲間の一人が見に行ったのだが、早朝に宙を舞う幽霊でも見たような表情で戻ってきた。
「それが…おっぱい洗ってた」
 自分でも事態を把握していない口調で言ったのは、ヴィータと呼ばれた少女である。
 外見は、なのはとそう変わらないように見えるが、これでも「闇の書」を守る騎士としてシグナムと変わらぬ実力は持ち合わせている。
「じゃ、身体洗ってたっていう事?」
 どこかのんびりした口調で訊ねたのはシャマル、これもヴィータやシグナム同様守護者だが、他の二人とは性格がかなり違う。
「風呂に入って、頭も洗わず延々と乳ばっかり洗うか?あたしだったらそんな事しないね。つーか、私のお乳が汚されちゃったってどういう意味だよあれは」
「……」
 それを聞いたシャマルの表情がわずかに引き締まる。
「先だって、シグナムが術式を間違えてこことは違う異世界に飛ばされた事は聞いているわ。あの時何かあったらしいけれど、もしその関係だとしたら…」
「?」
 シャマルの思考はヴィータには分からず、幼さの残る顔をちょこんと傾けている。
「あのシグナムがその辺で転んで、しかもおっぱいにだけ落ちない汚れがつくとは思えないわ。とにかくシグナムの話次第だけど――事と次第によってはその世界へ私たちも移行する必要があるわ」
「!」
 やっと話を理解したヴィータの表情が、一瞬で騎士のものへと切り替わった。
 
 
 
 達する事五回、最後はあられもない叫び声を上げて完全に脱力して突っ伏し、そのまま失神するように寝込んだリツコを置いてシンジはホテルを出た。
 学園へはシンジが自ら連絡した。
 朝っぱらから欲情して欠席する理事長も、たまにはいいだろう。何かあれば、フユノに押しつければ済む話だ。
「魔界の鉱泉に行ってくる」
 背伸びをしたところへ、
「かの場所の冷鉱泉は、欲情の満たされぬ身体にはよく効くらしいな。お供しようマスター」
 空中から聞こえた声に振り向くと、フェンリルが浮いていた。しかも美女の姿である。
「いつから覗いていた?」
「いつから、と言ってほしい?」
「やっぱりいい」
 じっと貼りつき、主の情事を観察などしないのは分かっている。覗かれたとすればシンジの心中だ。
「マスターには好奇心の欠如が問題だな。で、私を連れて行く?それとも置いてきぼりを?」
「野放しにすると危険だから目の届く範囲に置いておく」
 シンジの横へ音もなく降り立ったフェンリルが、シンジにきゅっと腕を絡ませた。「マスターにしては良いことを言う」
「おまえ、有りがたいか有りがたくないのかどっちだ」
 ふやけた身体をフェンリルに運ばれて戻ってくると、女神館の前に軽乗用車が停まっていた。
「旦那?」
 シンジに気付いたのか、ドアが開き邪悪なウニ頭がゆっくりと出てくる。
「お帰りなさいシンジ君」
 この時代には不似合いな煙管を持ち、ふーっと白煙を吹き出す。悪の塊みたいな男だが、喫煙という気の狂った趣味だけは持ち合わせていない。何より、シンジがニコチンを含んだ煙を好まないのだ。
「連絡くれればもっと早く戻ったのに」
「借り主の甘い時間を妨げると、末代まで恨まれる可能性があるのでね。返却されてくるのを待ってました」
「……」
 すう、と息を吸い込みゆっくりと深呼吸する。
 落ち着いた。
「参考までに訊きたいんだけど、あの負債をどうやって俺様に押しつけようと思っていたの?」
「碇フユノが、そんな理不尽な負債が孫に押しつけられるのを黙って見物している、と本気で思っているなら、君は御前をなめ過ぎだ」
「……」
「思い人未満で側に居たい、女の想いですよ。俺には関係ないからそんな金払うのはヤダヤダ、と地面に寝転がってじたばた暴れる君でもあるまい。もっとも――」
「もっとも?」
「君が地面に寝転がって、だだをこねる姿を一度位は見てみたいものですが」
「絶対やだ」
「それは残念」
(……)
 明らかに気にしていない口調で言うと、黒瓜堂はスーツの懐から小さな箱を取り出した。
「久しぶりに精製したので、シンジ君に差し上げますよ。前にあげた煙管はまだ持っていますね?」
 頷いて、シンジは箱を受け取った。
「持ってる。使うのは一年ぶり位じゃない?」
 当然だが、煙管に詰めるのはタバコではない。
「今の君にはあまり必要ないでしょう。或いは、娘達の誰かに何れ使う時がくるかもしれないから持っていなさい」
「前は…結構使ってたかな」
 シンジの双眸に、刹那懐旧の色が流れたがそれも一瞬のことで、
「煙管の為にわざわざ?」
「いえ、本題はこっち」
 鞄から巻かれた白布を取り出し、シンジの前で拡げた。
「……」
 二度、三度と瞬きする。
 一見すると魚拓だが、写っているのはどう見ても魚ではない。
「これってもしかして…」
「もしかしなくても乳拓です」
「…やっぱり。で、モリガン?シビウ?」
「何で私が、そんな危険を冒して、しかも君の愛人にアタックしなきゃならないんですか。これはシグナムですよ」
「!」
「なのは嬢を送っていったら待ち伏せしてましてね。一発かまして、保険に乳拓を取ってきました」
 それを聞いてシンジは乳拓をしげしげと眺め、
「今日は…保険日和らしい」
 と、呟いた。
「でも、どうして俺に連絡なしで?それこそすっ飛んでいったのに」
「女の生乳見たり触ったりしたい気分ですか?」
「当分は要らない…あ」
 くっくっ、と黒瓜堂が邪悪に笑った。
「多分そうじゃないかと思ったから、ですよシンジ君」
 
 
 
 
 
(つづく)

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