妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百九十五話:アスカ、10億(23億)の女(中)〜半万年に一度の大バーゲン〜
 
 
 
 
 
 女神館の住人達が、管理人の思考を推し量れないのはいつもの事で、さして珍しくもないのだが、同じ住人仲間に於いて――カンナがマリアの思考を理解できないのは、基本的にこの一点である。
 すなわち、何故この娘はああまで黒瓜堂を敵視するのか、と。
 明らかに窶れているマリアには悪いが、カンナは些か自業自得のような気がしている。先だってシンジに吹っ飛ばされたのは、マリアが黒瓜堂に向けた視線のせいだと分かっているし、その場にいたカンナには知っているが、黒瓜堂はマリアの事など何も言っていない。
「大将をわざと怒らせたい、とか?ま、まあそんな事ぁねえよなあ〜」
 館内に於いて、シンジは基本的に怒る事がない。吊したり剥いたりちょっと炙ったりはするが、怒りレベルに於いてはほぼ平常のままだ。自らの力を知っている故、感情に任せて発露させたりはしない、とも言えるが、そのシンジがああまでの反応を見せると知りながら、マリアの気分は一向に変わる気配が見えない。
「普通好きな人を怒らせるような事ってのは…いや、あたいがいう事じゃねえか」
 しかし、マリアは友人だし、シンジから怒るどころか、眼中にない扱いをされて食も細くなって寝込んでいるとあっては、いくら自業自得とは言え笑ってもいられない。
「どうすっかね、しっかし」
 呟いた時、不意にドアがノックされた。
「開いてるよ…ん?」
 ドアは開かず、入り口へ歩いていったカンナがノブに手を掛けた瞬間、ドアは向こうから開いた。
「た、大将…」
 シンジにしては珍しく、よっと軽く手などあげている。
(機嫌良いのかな?)
「寝てる?」
「う、うん…」
「分かった」
 肩を軽く叩かれ、
「じゃ、じゃあ…」
 頷いたカンナが扉を閉めて出て行った。
 室内を見回したシンジが、
「あ、あったあった」
 勝手に椅子を担いできてベッドの側に置き、勝手に腰掛ける。
 眺められていた事に気付いたのか、五分程でマリアはうっすらと目を開けた。シンジに気付き、起きあがろうとするマリアを制して、
「やあ、マリア」
 シンジはうっすらと笑った。
「シ、シンジ…」
「少し痩せたかな。具合はどう?」
「大丈夫、よ…」
 食事は用意するが声はまったく掛けず、まるで仏壇に供える食事を用意するように接していたのはシンジ本人である。
「それは良かった」
 機嫌が良い、それもかなりの上機嫌だとマリアは気付いた。こんなシンジを見るのは珍しいし、何よりも先日の一件以来、自分には声すら掛けなかったのだ。
 ただそれ以上は何も言わず、シンジはしばらく窓の外を眺めていた。
「マリア」
 シンジが呼んだのは、三分近くも経ってからであった。
「は、はい…」
「これがラストだよ。もう、黒瓜堂のオーナーに敵意を向けるのは止せ。これ以上聞き分けがないなら、俺も庇いきれなくなる。何がマリアをそうさせているのかは知らないが、旦那に何かされた訳じゃあるまい。少なくとも、うちの両親が息子を託し、碇財閥の総帥がその孫の救出を任せるような人なのは事実だ。何よりも、あそこの店員は自分達の旗印を侮られて、いつまでも笑っているような性格じゃあない。どの人を取っても――俺なんか到底及ばない相手だ。マリアが、想像もしたくない姿と化すのを…俺は見たくない」
「……」
 シンジの一番の心配は、そこにあった。黒瓜堂はあの性格だし、小娘の敵意など歯牙にも掛けまい。そんな事を気にしていたら、ウニ頭が廃るというものだ。
 だが店員達は違う。事情・理由はどうあれ、黒瓜堂を雇用主として認めているのだ。それを小娘風情に侮られたとあっては、その行き着く先は見えている。危険なウニ頭の気が変われば、その日の内にマリアは八つ裂きにされていよう。
「シンジが言うなら…そうします」
「それでいい」
 シンジは頷いた。
「オーナーには俺からお詫び…クシュッ!ヘクシュッ!ヘッキシュッ!」
 三回続けてくしゃみをしてから、
「…いや、旦那には俺から謝っておく」
 と言い直した。
 何やら、良からぬ物の存在を感じ取ったのである。
(もしかして…見張りが?)
 まず有り得ない事ではあるのだが、絶対にないと否定するのを拒むもう一人の自分がいる。
 何せ相手は、あの黒瓜堂なのだから。
「ま、まあ大丈夫でしょ」
「?」
 咳払いしたシンジが、
「さてと、起きられる?何か食べるなら作るよ」
「じゃあ…起きる」
 もぞもぞと起きあがろうとしたマリアの手を取り、ひょいと抱き起こしたシンジが、勢いで前のめりになったマリアを柔く抱きしめた。
(あっ…)
「じゃ、食堂で待ってるから着替えておいで」
「うん」
 頷いたマリアが、
「あの、シンジ…」
 遠慮がちに呼んだ。
「なに?」
「今日はその…ご機嫌なの?」
「そうね、まあバーゲンかな」
「バ、バーゲン?」
「上機嫌のバーゲン、ってやつだ。半万年に一度位の、ね」
 ひらひらと手を振って出て行くシンジを、マリアは信じられない物を見るような視線で見送った。
「し、信じられない…」
 マリアの呟きが、真っ白な壁に吸い込まれていく。
 
 
 
「アスカの様子は?」
 店へ戻った黒瓜堂が最初に訊いたのはそれであった。さすがに魔界から引いているパイプが吹っ飛んだだけあって、温泉は小型の爆弾でも爆発したような有様だが、県警とは相互不干渉の約定が出来ているし、近隣の住人はこの位で影響のある範囲には住んでいない。
 君子危うきに近寄らず、と言う名言を身を以て実践しているのだ。この場合の危うきが何を指すかなど、言うまでもない。
「それが…」
 申し訳なさそうに頭を下げたグヴィンに、黒瓜堂の表情がわずかに曇る。
「それで、命に別状は?」
「そ、それは大丈夫です。発砲の寸前で止めましたから」
 グヴィンの表情と、その手に巻かれている包帯を見れば大体の見当はつく。アスカが拳銃を奪って撃とうとしたのだ。
 但し――自分を。
 黒瓜堂のメンバーからすればどうと言う事もない光景だが、破壊工作、というものに縁のない普通の生活を送ったきたアスカから見れば、この有様は一大事であり、望外の待遇で雇われたアルバイト先での失態という事で、一時的に錯乱したのだろう。
「損害額の算出と、復旧までにかかる日数は?」
「概算ですが弾いてあります」
 ルリから受け取った紙を眺めて、黒瓜堂は一つ頷いた。
「困ったね」
「魔界からの引き込みですから、どうしてもその位の金額にはならざるを得ないんです」
「いや、そっちじゃなくて」
「オーナー?」
「私の業務上横領がばれる事になる。やれやれだ」
 バイトに温泉を破壊されると横領が発覚する、とはさすが通常の遥か斜め上を行く雇用主だと、ちょっと感心しかけたルリだが、はっと我に返り、
「オーナー、脈絡がよく分からないのですが」
「数日中に分かりますよ。ドイツから、鴨が葱を背負ってやってくるのでね」
 それを聞いて、ルリとグヴィンは顔を見合わせた。
 ドイツから日本に向かっているのはアスカの両親で、どうしてそれが鴨になったり横領発覚に繋がったりするのか。
 やっぱりこの男の思考は理解できない。
「それより豹太」
「はっ」
「中の被害状況は?」
「防火装置が作動したので、被害は浴場のみに留まっています。ただ、外へ溢れなかった分、内部での損傷が激しくなっていますが、戻られる事は可能です」
「分かりました。さて…」
 ウニ頭を揺らしながら何やら考えていたが、
「何となくしっくり来ないので、移しますよ。勝浦で良かろう。ところで私の愛人は?」
「多分移転を言い渡されるだろうと、もう向こうに行っておられます」
「…読まれたか。小癪な」
 内容と口調がさっぱり一致していない口調で言ってから、
「さて、帝都からの第一報が何と言ってくるか楽しみだ」
 
 
 
 その晩女神館の夕食は妙な雰囲気が漂っていた。四名ばかり、頬を染めた上に足元まで覚束ない娘達がいたのである。
 ある者は、ソフトながら頬から首筋にかけてあちこちにキスされ、またある者はきゅっと抱きしめられ、想像もしなかった愛撫ですっかり出来上がってしまっている。まだシンジのバーゲンの余波は続いており、そこへ帰ってきたものだから、今までどんな愛撫も実験動物に対するようなものでしか無かっただけに、免疫のない乙女達には衝撃が強すぎたらしい。
 ある娘は既に後ろの処女を喪い、別の娘は淫毛を全て剃られるというかなりマニアックなプレイを経験しているが、これでもまだ処女である。
 なお、アスカ抜きで食事は始まっており、誰一人気に掛けてもいないのだが、忘れ去られたのではなく、バイト先がバイト先だけに、時間は気まぐれなものになると分かっているのだ。アスカの運転経験はまだ少ないが、悪の親玉に預けておけば、とりあえず行方不明になる事はあるまい。
 人捜しなら、魔道省の総力を挙げたそれより遙かに上なのだ。
「あ、あのっ、い、い、碇さん…お、お醤油を取って…」
 上気の覚めやらぬ顔で頼み、手と手とが触れた途端もじもじと赤くなる。まるで初めて異性に接した小娘だが、この神崎すみれが住人達の中では唯一、淫毛を剃り落とされた身だと知ったら、祖父は冥府で赫怒するに違いない。
「すみれ、ちょっと落ち着いて。そんなにもじもじしてると、床に醤油ばらまいちゃうよ?」
(ふえ〜本当に機嫌いいんだねえ)
 アイリスとレニは静観している。今晩泊まりに行く、との約束を取り付けたからだが、これならもう少し何かおねだりしてもいい、というよりしないと損するような気がして何やら企んでいたのだが、そこへ電話が鳴った。
「シンジ、御前様からお電話よ」
「祖母様から?こんな時間に何かしら。異星人(エイリアン)の卵でも見つけたかな」
「それが…」
「え?」
「何か…緊急みたい」
「ほーい」
 マリアに耳打ちされた時点で、まだシンジは異変を感じ取っていなかった。緊張感の欠片もなく受話器を取ったシンジが、
「代わったよ。祖母様どしたの?」
(…シンジ?)
 既にフユノの元には本郷千鶴から緊急連絡が入っていた。ついさっき、半島有事の詳細を聞き、そのままシンジに電話してきたのだが、そのフユノも首を傾げるようなシンジの声であった。
(春霞の妖精が乗り移ったかの…っと、そんな場合ではなかったか)
「シンジ、よくお聞き。安房の国で大きな爆発事故があったと儂の元に報告が入ったよ。場所は、黒瓜堂の店じゃ」
「…旦那の?」
 すうっと低くなったシンジの声に、娘達の耳目が一斉に集まる。
「敷地に温泉があるのは知っていような」
「知ってる。魔界から引いてる――アスカ!?」
「中心部はそこじゃ」
 さすがに、シンジの顔から血の気が退いていく。温泉で爆発があったとなれば、十中八九原因はアスカだ。そして、魔界から引かれたそれが爆発した時、何をもたらすのかをシンジは知っていた。
「すぐ行きます。ヘリの用意を頼みます」
「行ってどうするのじゃ。おまえらしくもない焦燥よのう」
「…祖母様?」
「先に連絡をせねばなるまい。主人とは、ついさっき話をしたばかりか?」
「あ…」
 言われて気がついた。一回二回と深呼吸してから、
「落ち着いた。もう大丈夫」
「それでよい。後は、おまえの判断で行動せよ」
「了解」
 フユノの声は幾分硬かったが、よく考えれば黒瓜堂やアスカの身に何かあった場合、電話などせずにそのままヘリかセスナを寄越してくるだろう。少なくとも、事態はそこまで切迫していないと言うことだ。
 受話器を置いたシンジが、ふーっとひとつ息を大きく吐き出した。
「シンジ、御前様のお電話は…」
「旦那の店にある温泉で爆発があったらしい」
「『!?』」
 今度は娘達が血相を変えて立ち上がった。
「そ、それでっ!?」「アスカは…アスカは無事なんですかっ?」
「そこまで聞いてない。と言うか、持ち主を心配するのが先でしょうが。あそこはアスカの私有地じゃないんだぞ」
「そ、そうでしたわね…」
「黒瓜堂さんなら大丈夫でしょ。爆風に巻き込まれるほど間抜けでもお人好しでもないよ」
「『…えーとレニ?』」
 ここの所、レニの発言には妙に強気なものが目立つ。シンジでさえも躊躇うような台詞を、実にあっさりと言ってのけたりする。
 一体何を根拠に言えるのかと、シンジ共々怪訝に思っていたのだが、黒瓜堂の主人を前にしても変わらないから、密約が何かが存在するに違いない。
「それより、一応電話してみたら?アスカの管理人はシンジでしょう?」
「分かってる」
 小型核が直撃しても、
「髪の毛が焦げた。責任を取ってもらおう」
 と無傷のまま宣いそうな雰囲気の黒瓜堂だし、何よりもフユノがまだ幾分は落ち着いている事からして、ほぼ間違いなく無事だろうとは思ったが、さすがに携帯を取り出した手はほんの少しだけ震えていた。
 呼び出し音が二回鳴ると相手は出た。
「あの、シンジです…」
「そろそろ来る頃かと思ってました。情報源は御前から?」
「う、うん。それより旦那、アスカが…申し訳ない。えーとやんちゃ娘は…無事かしら?」
「君から預かった娘に傷を付けて返す程、うちのレベルは下がっていない」
「あ…ごめん」
「なーんてね」
「…もしもし?」
「などと大層なことを言える現状でもないですがね、一応無事ですよ。微妙に錯乱してましたが、今はもう落ち着いています」
 アスカが自分を撃とうとしたと聞かされ、シンジは唇を噛んだ。
(アスカ…)
 シンジが通常回線ではなく携帯で掛けたのは、他の娘達に聞かせない方がいい内容があったら困ると思ったからだが予感は的中した。
「まあ、モノがモノだけに、私に近い君とは違って、彼女のような一般人にはちと刺激の強い光景ですからね。彼女の方はこっちで何とかします。私がお送りして行きますよ。君のすることは分かっていますね」
「今回の事は俺の責任です。必ず全額――」
「違うっつーの」
「え?」
「誰もそんな事は言ってない。私がそちらに着いた時、ケーキとプリンを作っておいて下さい。いいですね」
「あ…り、了解…」
「いい管理人とは、まず住人達の精神衛生を最優先するものです。シンジ君なら、それが分かっている筈です」
「旦那…」
「それと、他の娘(こ)達を安心させてあげて下さい。アスカの事を心配しているでしょう。体の方にはかすり傷一つ付いていませんから」
「ウイース」
「ではこれで」
「色々と…感謝します」
「あ、ちょっと待った」
「え?」
 さっきまでは諭すような口調だったのだが、不意に邪悪なものへと変わった。
 正確に言えば――いつもの物に戻ったのだ。
「今日、不許可の呼称を口にしなかったかね?」
 びくうっ!!
 硬直しているシンジを置いて、通話は向こうから切られた。
「ぬう…やっぱり人外」
 遠い目で呟いたシンジに、
「碇さんっ、黒瓜堂さんは何てっ?」「アスカの容態はっ!?」「すぐ行くんでしょっ?」
 娘達の質問が殺到したが、
「いや、行かない。明日旦那が送ってきてくれるとの事だ。今はもう落ち着いているらしい。それに、駆けつけて手助けがいるような状況のまま、旦那が放って置くこともあるまい」
「そ、そうですか…それならいいけど…」
「うん。旦那はああいう人だし、もしアスカに何かあれば隠さずに教えてくれる。明日、俺がちょっと行ってくるから、君らは学校に行っておいで」
「『は、はい…』」
「桐島」
「お、おう」
「暇だろ?顔貸せ」
「今からどっか行くのかい?」
「…明日だよ」
「そ、そうだな。分かった、付き合うよ」
「うむ」
 いきなり飛び込んできたニュースに場の雰囲気は一転したが、それでもアスカは一応無事らしいと知り、娘達はやや安堵していた。普段、殆ど気を遣うことなく本質をそのまま告げる黒瓜堂の性格が、今回はプラスに作用したらしい。
「さて、君らはさっさと食べちゃって。後片付けがあ…あれ?綾波レイはどこ行った?」
「『え?』」
 言われてみると、皿にはまだ食事が載ったままでレイの姿だけがない。
「トイレかな?」
「なわけねーだろ!まったく失礼な連中なんだから」
 ぷりぷりしながら入ってきたレイは、手に携帯を持っていた。
「どこかに電話を?」
「じゃなくて。碇君さ、変だよ。ちょっと壊れたとかじゃない筈なのに、テレビもラジオもネットも、全然ニュースになってないんだよ。今見てきたんだ」
「ああ、それはそうでしょ」
「へ?」
 シンジは当然のように頷き、
「旦那の所へ、核でも撃ち込まれれば別だろうけど、爆発が起きた程度じゃニュースにはならないよ。普段からその辺は根回しが済んでいる。だから黒瓜堂、というんだ」
 業務内容が業務内容だから、とはさすがに言わなかったが、かつてあの店を記事にしようとした出版社は、一夜のうちにその首脳陣を全て変死で失い、記者は首から上を貪り食われた状態で見つかった事がある。
 確かそれ以降、マスメディアは地雷扱いしている筈だとシンジは記憶している。そもそも、押し寄せた警官隊を屍の山と変え、司直が手を伸ばす事すら叶わぬような場所など、三文週刊誌如きが記事にするなど烏滸がましいというものだ。芸能人の捏造されたネタを嬉々として報道している辺りがお似合いである。
 食事が終わり、
「今日は俺が片付けるから」
 珍しく自分から言い出したシンジを、レニがじっと見つめていた。
「シンジ…」
 コップをきゅっきゅと拭いているシンジを、レニが控え目に呼んだ。
「あ、レニどしたの」
「黒瓜堂さん…本当にアスカは無事だって言ったの?」
「言ってたよ。どうして?」
「シンジが何か引っかかってる事があるみたいだったから」
 ふ、とシンジは笑った。妙に満足げな笑みであった。
「なるほど、やはり従妹の目は誤魔化せないと見える」
「じゃ、じゃあっ…」
「違う。アスカが無事なのは本当の話。問題はそこじゃない。旦那は何も言ってなかったけど、魔界にその湯源がある温泉を破壊した場合、被害総額はいくら位になると思う?」
「あ…」
 シンジの口から出ないので気に留めていなかったが、アスカが破壊したであろうそれは、一軒家のシステムバスとは違うのだ。黒瓜堂は怒るまい、とレニは見ていたが、それと弁済は別問題である。まして、アスカはアルバイトであり壊したのはその勤務先なのだ。
「ど、どれ位…なの?」
「数十億」
「!?」
 それを聞き、レニの顔が一瞬にして青ざめる。黒瓜堂の場合、店舗からして豪奢とは無縁だが、仕掛けてある罠(トラップ)の方は費用を惜しげもなく投入してあるし、だいたい普通の店には、魔界に湯源を求めた温泉など存在しない。
 シンジが言うのならほぼ間違いないだろう。それにしても、途方もない金額である。
「まあ、金額自体はそんなに莫大なものでもない。俺の資財全てでも足りないが、まあ何とかなる。問題は…壊したのがアスカであってレニでない事にある」
「僕じゃない事?」
「レニは従妹だし、薄くとも血の繋がりがある。レニがやったのなら、俺が出しても何ら問題ないけどアスカならそうもいくまい。何より…アスカはそれを決して良しとはしない筈」
「うん…そうだね」
 シンジにとって、金は全てでないどころかさしたる意味を持っていない。そんな数字の羅列なら、いくら積み上げられたところで所詮は天下の回り物だし気にする事もないと――普通は考えない。
 そんな風に考えられるのは人外の存在か悪の権化、或いはシンジのように困った方面に達観してしまった若様位のものだ。
 一生どころか、七代掛かっても返せそうにない金額を立て替えられて、アスカがそれを気にせず生きられるとは思えない。シンジの場合、金銀財宝の資産は大した価値を認めていない為、今の資産は本来持っていてもおかしくないそれを遙かに下回っている。
 但し、シンジの実力なら魔道省へ持ち込まれる依頼だけで、そう時間を掛けずに稼ぎ出す事は出来る金額だ。無論、相手を選ばない事が前提条件であり、それは普段シンジが是としない事ではあるのだが。
 一方アスカはと言うと、残念ながらその能力も実績もない。余程の事でもなければ、文字通り七代目の子孫の辺りまでは返せまい。
「人身売買、とまでは行かないにしても、驕りに見られても嫌だしね。レニ、なんか良い案ない?」
「ぼ、僕っ!?」
 目を白黒させたレニに、
「冗談だよ。多分、旦那が何か考えてくれる。悪いが、今回は旦那に頼もう。アスカみたいな小娘を使った時点で、不測の事態を全く考えてなかったって事はないと思うんだ。いい感じで、悪知恵を働かせてくれそうな気がする」
(シンジそれ…褒めてるんだよね?)
 確証があった訳ではないが、シンジは黒瓜堂の思考を正しく読み取っていた。
 
 
 
「んっ、ん…」
 小さな声を洩らし、アスカがゆっくりと目を開ける。
「あたし…」
「お目覚め?」
「オ、オーナーっ!?」
 一瞬にしてその目が見開かれ、アスカは跳ね起きた。
「あ、あのっ、あ、あたしそのっ…」
 黒瓜堂は何も言わずに軽く手をあげてアスカを制し、
「少し刺激の強い光景から来た錯乱故、一度は許します。でも、次はない。うちの内規に、自裁して責任を取るとの条項はありません。いいですね」
「…ごめんなさい…」
 壊した事よりも、自分を撃とうとした事の方を叱られ、アスカの目から涙が溢れた。
「あたし…必ず一生掛かっても返しますから…」
「ふむ、良い心がけです」
 黒瓜堂は頷いてから、
「でもそれ、多分無理。不可能とは言わないけどね。ランク的にはSってやつです」
「そ、そんなに…かかっちゃうんですか…」
「だいたいこんなもんでした」
「え…!?」
 数字の書かれた紙を見たアスカが、刹那びくっと身体を強張らせ、そのままゆっくりと倒れ込んでいく。どうやら、刺激が強すぎたらしい。
「また失神したか。なかなかに無防備な事だ」
 ウニ頭を揺らして頷いたところへ、
「オーナー、普通の女の子にそんな数字見せたら失神しますよ。というか、わざとやったでしょ」
 顔を出した祐子に、
「あ、ばれた?万一失神しなかったら、正社員として雇用する気だったのだが残念です」
 芯から邪悪な男らしい。
「まったくもう…。それで、最終的な請求金額はどうされますか?」
「ああ、これをこうしてこうやって、更にこっちから回して結局こんな感じ。どうだろうか」
 どれどれと紙を覗き込み、
「良いんじゃないかしら」
「この辺は、おそらくシンジ君は知らん。多分、数日は赤木のお嬢ちゃんの所へ泊まりがけになるだろう。まあ、何時までも出来る事ではないからな。残念だが、この辺が潮時だ」
「そうね」
 お嬢ちゃんとは、いくら何でも赤木ナオコの方ではあるまい。
 だが、リツコとて十代の小娘ではないのだ。それをお嬢ちゃん扱いするとは、この男の実年齢は一体何歳なのか。
 なお今回の爆発騒ぎは、香港の緋鞘には伝わっていない。
 人外の存在が揃う黒瓜堂麾下の中でも、最も危険で、そして最も高い戦闘力を誇る緋の大天使に伝えれば、帝都が戦場と化す可能性があると主人が判断したのである。
 そしてそれは――正しい判断であった。
 
 
 
 パイプの扱いを誤り温泉の大半は吹っ飛んだが、元々外部に対しては対人戦闘を、また内部にあっても工作員やテロリストの襲撃は想定した造りになっており、温泉以外への被害はさしたる事もなく済んでいる。数十メートルも離れていない店舗と住居も、全くと言っていい程被害を受けていない。
 そんな黒瓜堂の店先で深夜、不意に地面が白く光り出した。光は半径数メートルの円状で、一般人が見れば仰天する事間違い無しの光景だが、あいにくここは一般の平穏な地域とは違う。
 やがて地面は、ゆっくりと何かを吐き出した。
 それは人の頭であり、程なくしてその全身が地面から現れ、大地へと立った。
「黒瓜堂さん、なのはが遊びに来ました…よ?」
 既に時計の針は夜の十一時を回っている。
「あれ…お風呂が燃えちゃってる?」
 左右を見回して呟いたのは、深夜徘徊する魔法少女高町なのはであった。 
 
 
 
 
 
(つづく)

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