妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百九十四話:アスカ、10億(23億)の女(前)〜半万年に一度の大バーゲン〜
 
 
 
 
 
「あのさ、旦那…」
「何です?」
「この間言ってたあれってほんと?」
「あれ、とは?」
 悪の師匠とその弟子は、房総半島の山中にいた。
 正確には山の頂上で、微妙に明るい町並みを見下ろしているところだ。
 なお、時間は午前一時を回っている。
「えーとその…あっち行った時、俺が微量に成長したとかしないとか…」
「ああ、あの事ですか。その前に――」
 白いコートの懐中から、がさごそと取り出したのはワインの瓶とグラスであった。シンジに一つ渡して、手ずからトクトクと注ぐ。
「シンジ君が知ってるから知らないかは知りませんが、生まれてこの方お世辞と冗句とネタだけで生きてきました。さて、あれは本音だったでしょうか」
「…もしもし?」
 シンジにじっと眺められた悪の親玉は、不意にウケケケと笑った。奇怪極まりない笑いだが、この男の場合これ以外の笑いは決して似合わない。
 きっと――この男の専売特許となっている笑いなのだろう。
「ゲンドウとユイが――」
「!?」
 いきなり出てきた名前に、シンジの表情が一瞬で引き締まった。
「あの二人が?」
「気まぐれを起こして、明日私を冥府に連れ込んだ場合、君を預かった身として多少の貸しを作れる位にはなったかな」
「え?……あ」
 シンジが小首を傾げ、やがてその口が小さく開いた直後――チン、とグラスが鳴った。黒瓜堂が瓶を触れ合わせたのだ。
「微量に成長した私の友人に、乾杯」
「うん……ん?」
 ラベルを剥がしてキリキリと栓を抜いたから、一口も飲んでいなかった筈だ。そこからシンジのグラスに一杯注ぎ、九割方残っている筈のそれが、みるみる内に空になっていくのを微妙な表情で眺めていたシンジが、やがて自分もグラスを傾けた。
 巴里から帰って以来、体質が変わったのか酒は飲めるようになったがちっとも美味くないし、いくら飲んでも酔えない。
 悪酔いすらしない――出来ないのだ。
 唯一味が分かって酔えるのが、黒瓜堂が出してくるこのワインだ。
 詳しい理屈は分からないが、おそらく製造過程に魔界の物質が絡んでいるとシンジは見ている。
 黒瓜堂謹製。
 シンジのグラスが数度空になったところで、黒瓜堂は瓶を置いた――既に、合わせて三本を空けている。
「あの小娘の事は、勘弁しておやりなさい。私が許可します」
「小娘って、ロシアの茶坊主?」
「そう、それだ。件の一件以降、想い人につれなくされて寝込んでいると聞いたが」
「あんなのを想い人にした記憶はない。旦那の情報源は捏造が好きと見える」
「おや?」
 首を左右に傾げてから、得心したように頷いた。
「これは失礼、君の愛人だった」
「……」
 スイカ程もある大きさの火炎が三つ、夜空に吸い込まれていく。
 二度、三度とそっと深呼吸してから、
「で?」
 と、訊いた。
「私に小娘の敵意は通じない。弟子なら、師匠の防御力は知っておくものですよ」
「旦那の防御力が高いのは知っている。大抵の攻撃が通じない事も。でもマリアの――え?」
 言いかけたら、急に黒瓜堂がこちらを見た。
「つまり鉄面皮、と?」
「ち、違っ、そうじゃなくてその…鉄壁の精神防御壁(サイコバリア)ってやつ?」
「やはり鉄ですかそうですか」
「だから――!」
「まあいい。それで、彼女がなんです」
「だから、マリアの場合はしつこいっての。犬だって一度痛い目に遭えば覚えるというのに。一回五体不満足にでも――痛?」
 ぽかっ。
「物騒な事を言い給うな。君が言うと、シャレにならなくなる。と言うよりも、君もいい加減に理解した方がいい」
「何を?」
「彼女が私に向ける敵意のそれは――君への想いの表れだと。そして――」
 抗議しかけたシンジを制するように、
「しごくノーマルな人間であれば、君を私に近づけたがりはしない、と言う事もね。現状で、シンジ君は自ら望むと望まざるとにかかわらず、御前に何かがあれば碇財閥を双肩に背負う事になる。そうなった時、私との付き合いなど汚点にしかならないのですよ。君はいずれ、最も望まない道を行かねばならない」
「……」
「それを回避する方法はただ一つだけあるが、君の努力にはあまり関係ない話です。それよりも、あの娘の事ですが、使えない奴と思っているのに花組の隊長に任じたりはしないでしょう。私が微塵も気にしていない事を、君がいつまでも咎めぬと私は思っていますよ」
「むう…」
「さてと、今夜は毛をむしられた因幡の白ウサギが、月で怒りのきなこ餅をついている晩です。もう少し、飲みますか?」
「飲む」
 
 
 
「あの…シビウ先生に会いたいんだけど…」
「『!?』」
 レニが告げた途端、受付付近は一瞬にして静まりかえった。患者達にとっては最後の拠り所とも言うべき存在だが、その気まぐれさと悪魔と約定したと言われる腕前――何よりもその人外の美しさは、名前を口にすることすら憚られるというのに、とことことやって来た小娘は、いきなり院長を指定したのだ。
 が、そこにいた婦長は顔色を変えることもなく、
「院長は一時間前からお待ちです。そろそろ来られる頃だから、来たらすぐにお通しするようにとの仰せです」
「あ、はい…」
(やっぱり分かってたんだ…)
 微妙な表情で頷いたレニが、ホールの視線を一身に集めながら婦長の後に続く。いつも通り、何処をどう歩いたのか分からぬまま、いつしか見覚えのある院長室の前に着いていた。
「あの…」
「はい?」
「前に来た時と通った道が違うような気が…」
 ええ、と婦長は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「道案内が私ですから」
「?」
「レニさんが通る道では、私が迷ってしまうでしょう。さ、院長が中でお待ちです」
「あ、ありがとうございました」
 ちょこんと頭を下げてから、どうして取り次いでくれなかったのかと首を傾げた直後、扉は重たげな音を立ててゆっくりと左右に開いていった。
 確か前回来た時は、全自動式の扉がさっと開いたような気がする。
 気のせいかも知れない。
 扉は開いたが、そこに月光が差し込む院長室の明かりはなく、冥府の入り口を思わせるような漆黒の闇が広がっている。常人ならば、そこに立っているだけで全身を悪寒に覆われそうな闇だが、レニは目下女神館の住人達の中では最もシビウを知っている。
 躊躇うことなく足を踏み出し、数歩進んだ時、不意にそこは白い月光の差し込む院長室へと姿を変えた。
「少し、遅かったわね」
 婉然と笑ったシビウに何ら変わったところはなく、すらりと脚を組んだ姿勢で椅子に腰を下ろし、カルテらしきものに何やら書き込んでいるところだ。
「あの、僕がここへ来た用件も…」
「自分の身体は自分が一番よく分かる、というのは真っ赤な嘘。でも、勝手に推測するのも私の好むところではないわ。聞いてみたいのよ――君の口から直に、ね」
「あ、あう…」
 レニがここへ来た目的は、身体の変調を訴えるためではない。そう、シビウが何を植え付けたのかと訊きに来たのだ。
 アイリスとなのはを開発したレニだが、無論今までに経験はないし、大体少女の尻にいきなり指を突っ込んだのに、出血させる事もなく喘がせる事が出来るとはどう考えてもおかしい。
 シビウが絡んでいることは間違いないのだ。
 自分が告げるまでもなく、私の改造の一旦よ、と当然のように告げられると思っていたから、詳細に言わされる事など想像もしていなかったレニが、うっすらと赤くなって一部始終を告げるのを、シビウは満足げに見つめていた。
 どんな名医でも、病を治す事は出来ても再発を防ぐ事はできない。タバコの吸いすぎで肺ガンになるのは自業自得であり、そのまま鬼籍に入った方が世の中の為になるのは言うまでもないが、医者としては治療せざるをえない。
 が、完治した翌日からまたプカプカとタバコを吸うような輩を止める手だては、医者も持ち合わせていないのだ。その点に於いては、魔女医シビウとて例外ではない。
 レニの身体を通常に、いやそれ以上に仕上げはしたが、性格そのものを完全に変えうる事は出来ない。とっかかりは作ったとしても、それ以上の変化乃至は持続については本人の問題だ。以前のレニならば、顔色を変える事なく淡々と告げただろうし、それ以前に少女達が喧嘩しようがなにをしようが、我関せずと関わらなかったろう。
 そのレニが頬を赤くして報告する姿は、施工主としては至極満足のいくものだった、という事になる。
 報告を受けたシビウはひとつ頷き、
「ここへ」
 と手招きした。
 その先は、自分の膝の上である。
「で、でもあの…」
 受付で、シビウを指名した時の周囲の反応は、気にしないようにしてはいたが痛い程分かっている。躊躇うのも無理からぬ事だが、シビウはもう一度そこを指した。
 ――魔女医に二度、同じ事を言わせるものではない――
 躊躇いがちにレニが近づくと、シビウの手がすっと伸びて膝の上に抱き上げた。
「シ、シビウ先生…」
 レニの身体を撫で回している様子は妖しいが、手と表情は女のものではなく女医のそれだ。
 一通りぺたぺたと触ってから、シビウは頷いた。
「身体のラインに変化はないようね。食事の用意はシンジに?」
「はい、殆どは」
「食事は抜いていないようね。シンジはあれで、栄養価もなかなかに考えて作っていると聞いている。栄養摂取と消費のバランスも取れているようだし、体格に問題はないわ。精神面(こころ)の方も、穏やかな日々を過ごせていると君の表情に書いてある。施工主としては、満足のいくレベルね」
「あ、ありがとうございます…」
「それで、私が君に何をしたのか聞きに来た、という事でいいのかしら?」
「そ、そこまでは…あ、いえ、あのやっぱりそうです。僕は…あ、あんな事出来るはずがないし…」
 そうね、とレニの頬を美しい指先で軽くつついてから、
「君はまだ、自分の居場所がよく分かっていない、と言う事よ。あそこに預けられた娘達の中で、と言うよりも普通の人間の娘達の中では最もシンジに近い位置にいるのが、レニ・ミルヒシュトラーセ。それは即ち――」
 シビウが言葉を切った時、レニには分からなかったが、その時確かに室内の空気は変わった。白く冷たい月光の射し込む室内は、重く澱んだ闇が人の足下にまとわりつくようなそれへと、一瞬だが確かに変わったのだ。
「世界で三番目位に優秀な暗殺者のそばにいる、ということ」
(!?)
 シビウの表情も口調も変わらない。それなのにレニは、何故か背筋を冷たいなにかが走り抜けたような感覚に囚われた。何とか丹田に意識を集中させ、ゆっくりと深呼吸する。
 ふうーっと、息を吐き出したレニに、
「私が君の意識に植え付けたのは、人を殺す術よ」
 シビウのそれは会心の一撃に近い言葉であり、レニは目の前が急激に暗くなっていくのを感じた。
(ど、どうしてそんな……っ!)
 意識は自我の意識を放棄し、レニの意識は閉鎖へまっしぐらに向かっている。そのままなら、失神まで十秒と掛からなかったろう。
 薄れ行く意識の中、レニの脳裏に浮かんだのは――黒瓜堂の顔であった。危険なウニ頭のインパクトがレニの意識をとどめた、訳ではない。
 黒瓜堂はこう言ったのだ――だからシンジはレニを大事にするのだ、と。
 そしてシビウはこう告げた。
 人間の娘の中では、レニがシンジに最も近いのだと。
 その言葉が、陥ちようとするレニの意識を何とか踏みとどまらせた。
「陥ちるかと思ったけれど、よく保ったものね」
 耳元で囁くシビウの声を何故か遠くに感じながら、レニがゆっくりと頭を振る。
「すみません…もう大丈夫です…」
 さすがはレニ、と黒瓜堂がどこかで笑ったような気が、レニにはした。
 多分気のせいではなかったろう。
「医者から告知をされた位で失神されては、シンジの側にはおけぬというもの」
 シビウはぬけぬけと言ってから、
「とは言え、精神を大きく変えてはいないし、シンジを守るようにと潜在意識に植え付けてもいないわ。君が巻き込まれた時、シンジから防衛策の無為を責められても困るから――平たく言えばシンジに嫌われない為の予防、よ」
 どうやら、シビウの為に植え付けられたものらしい。
 怒りとか呆れるとかそんな事よりも、どう反応していいのか困っているレニに、
「ただし、言うまでもないけれど常時発動するようにはしていない。今回の事もそうだけれど、危急の時が迫ったと本能が判断した場合だけ、身体が反応して動くようにしてあるのよ」
「え…?」
「お嬢ちゃん達が取っ組み合いの喧嘩をしても、レニが管理責任を問われる事はさしてない。シンジは単純に怒るかもしれないが、黒瓜堂が一緒にいればむしろ二人を一緒にする事に同意したシンジを指弾する…と、これ位の事は君が判断できる。つまり、今回の事は危急の時と本能が判断したと言うよりは」
「い、言うよりは?」
「君の性的嗜好によるところが大きい」
「!」
 正規の発動ではない、と言われたレニだが、赤面する事も青ざめる事もなく、目をぱちくりさせている。
「…え?」
 どうやら、意味が分からなかったらしい。
「彼女達を責めてみたい、と思う心が君の中に僅かでもあった、という事よレニ」
「!?」
 間髪入れずレニが首筋まで真っ赤に染まった。
 理解したようだ。
「ぼ、ぼ、僕はそんな…そんな事っ!」
「では、私の植え付けたそれが誤作動を起こした、と?」
「!!」
 自らの性癖に非ず、と否定する事は即ちシビウの不手際という事になるのだ。
「君はシンジの従妹だから、嗜好に於いて似る部分があってもおかしくない。言い方を変えれば、年下に全く興味を示さないという部分で共通していれば、君やその友人の中でシンジの食指が動くのはほんの一人程度、ということになるのだけれど」
「あぅ…それはえーと…」
 興味の対象が年下に向く事がなく、それがシンジと共通したら困った事になる、とそれだけ聞けばまともそうにも聞こえるが、実際には単なる論点ずらしであり――そもそもアイリスもなのはも同性ではないか。
 がしかし。
「そ、それなら…い、いいです」
 少し経ってからレニは頷いた。脅迫、と言うよりはシビウの視線と口調に正常な思考を妨げられた、と言った方が正しい。
 美貌はいつも有利に働く、という例の一端である。
「それに、話を聞く限り君の状況判断は間違ってはいなかったと言えるわ。片方はシンジでさえも驚く程の高い魔力を秘めた娘、もう一方はその霊力の高さ故に親から疎まれた程の娘、その二人が掴み合いを続ければいずれどちらかが大けがを負った可能性もある。その意味では、手遅れにならずに済んだ正しい判断ともとれる。そうではなくて?」
 確かに、なのはの魔法とアイリスの念動力がぶつかり合うような事になってからでは、レニが一人で止める自信はない。なのはかアイリスが大けがでもしていれば、さすがの黒瓜堂とてかばい立ては出来まい。
「じゃあ…」
「ん?」
「その、シビウ先生が言っていた危急の時、と判断したっていう事ですか?」
「危険回避、とは少し違うけれど、君の本能が最悪の事態を想定し、尚かつそれを回避する為に選択した最善の手段、と言う事になるわね」
 まだ完全に納得した訳ではないが、動揺などとはおよそ縁遠い口調で淡々と言われると、その通りだったような気になってくる。
「分かりました…」
 レニが小さく頷いたのは、それから二十秒近く経ってからであった。
「それでお姉さま、本当のところはどちらなのですか?」
 コーヒーを持ってやって来た人形娘が訊ねたのは、どことなく憑かれたような雰囲気のレニが帰って行ってから、十分後の事である。
「状況判断からレニの身体が動いた、とただそれだけの事よ。それ以上でも以下でもないわ。力ずくで止めるには戦闘力が足りず、どちらかに肩入れして止めれば確実にこじれる。快感を以てする、というのが最も適した状況だったのよ。もっとも」
 シビウは婉然と笑って、
「従兄ほどの力量があれば、そこまで争わせずにもっとも早く何とかしたとは思うけれど」
「それであの…どうして性癖が一端と?」
「レニが狼狽えるのを見たかったのよ」
 シビウの答えは短く、これ以上にないほどにストレートであり、
「了解しました、お姉さま」
 つ、とドレスの端をつまんだ人形娘が、恭しく一礼した。
 
 
  
「週末だというのに、食事時にも帰ってこないで一晩遊び歩いてるなんて、シンジにしては珍しいわね」
 今日は学校が休みなので、朝から黒瓜堂の店へ行って掃除のバイトが入っているアスカだ。
 アルバイターとは言え、黒瓜堂に雇用された事で経済的危機は一応去った。無論、シンジの縁故なのは分かっているし、どう考えても仕事内容に不相応な給与な事もまた、アスカが一番知っていることだ。
 がしかし。
 これがそこらの一般家庭の浴槽掃除なら別なのだが、湯が魔界から直接引いている事を聞かされ、アスカ自身も魔界での修行をそれなりに経験し、並大抵の代物でない事は理解しているから、豪邸の家政婦が一般より高給取りなのと似たようなものだと、自分に言い聞かせている。豪華かどうかは別として、もし壊しでもした場合えらい金額がかかるのは間違いないのだから。
「ラッキーと言えばラッキーだとは思うけど…」
 どことなく微妙な表情で呟いたアスカだが、黒瓜堂に言わせれば、
「雇用主がどんな条件を出そうが雇用主の勝手というもの。嫌なら雇用に応じなければいいだけの話です」
 と、ウニ頭をゆらゆらと揺らしながら言うに違いない。
 そう、時給が500円だろうが5万円だろうが、その雇用条件に応じるかどうかは働く方が決めればいいのだ。
「さーて、じゃ今日も行きますか」
 ふわ、とアスカが小さく伸びをした時妙に低い、というよりドスの利いたようなエキゾースト音がアスカの耳を衝き、アスカの表情が少し動いた。
「あれは…シンジの?」
 音はシンジの車だが、その音は違う――シンジは女神館のそばでこんな音は出さない筈だ。首を傾げているところに滑り込んできた車を見て、アスカは納得した。
 運転席で危険に自己主張しているのは、見間違えようのないウニ頭であった。
「オーナー、おはようございます」
 頭を下げたアスカに、黒瓜堂は軽く手をあげて応えた。
「あの、昨日はずっとシンジと一緒に?」
「シンジ君がレベルアップしてくれて、私もご機嫌だったのでね。想い人を一晩借りましたよ」
「べ、別にそんなあたしは…あれ?」
 すう、と赤くなったアスカだが、黒瓜堂はさっさと背を向けてしまった。
 この場合、放置されるのは少々精神的打撃になる。
「着きましたよ、さっさと起きて」
 助手席にいるシンジを起こしているらしいが、シンジに起きる様子はない。
「私の秘技で起きんとは、まったくもってけしからん少年だな」
 ぶつくさ言いながら振り向き、
「アスカ、悪いが起こしてもらえるかな」
「あ、はい……え?」
「何かな」
「い、いえあの、今オーナーが秘技とかって言われたから…。オーナーでも起こせなかったのに、私なんかじゃ…」
「一つ覚えておくといい」
「え?」
「私の秘技は耳元での囁きではなく、バズーカ砲を使用した確実な起こし方です。甘い囁きを以て男を揺り起こすのは女の特権だ」
 秘技云々は適当だったらしいが、アスカは黒瓜堂の言葉を聞きながら、その語尾に刹那奇妙な何かが混ざったような気がした。
 或いは――気のせいだったのか。
「わ、分かりました」
 とまれ、言われるまま助手席側に回ると、シンジは静かに寝息を立てていた。
「シンジ…」
(シンジってこんな顔して眠るんだ…)
 アスカはシンジに色々な顔を見られて――失神・熟睡その他含む――いるのだが、シンジの寝顔を見るのはこれが初めてである。
 その唇はほんの少し開いていて――アスカの喉がごくっと鳴った。思わず吸い込まれそうになったのを、何とか踏みとどまったのだ。
(ま、まーったくエロな寝顔してるんだからっ!)
 シンジには無関係なのだが、確かに見ようによっては誘っているようにも取れる。その寝顔を、何やら顔を赤くして見つめているアスカを黒瓜堂が愉しげに眺めていた。
「シ、シンジ…お、起きなさいよ」
 小声で呟いたみたが、シンジの寝顔に変化はない。
「も、もー、このあたしが起こしてあげてるんだからね…さっさと起きなさいっ!」
「…ん、んんー…もにゃ?」
 少女みたいな声を出して、シンジがゆっくりと目を開けた。まじまじと見ていたアスカと正面から視線が合ってしまい、アスカが慌ててかさかさと視線を逸らす。
「お、おはよう…ず、随分熟睡してたのね」
 何時間前から眠っていたのか、黒瓜堂は一言もアスカに告げていないのだが、それはともかくシンジからは全く反応がない。
(あれ?)
 まだ起きないなら頬でも引っ張って、とアスカがそうっと視線を戻した瞬間――。
 
 きゅ。
 
「…ふぇ……えぅ!?」
 シンジの腕がにゅうと伸び、抱きしめられたと気づくまでに九秒、声が出るまでには十三秒が掛かっている。
(ちょ、ちょっと…あ、あたしを不意打ちが抱きしめて、いわゆるひとつのシンジってやつー!?)
 所々に重大な間違いがあるが、内心で叫んだだけで身体は反応していない。
 しかも、
「わざわざ起こしに来てくれたんだ?ありがと、アスカ」
 妙に甘い声で囁かれ、アスカの身体からふにゃふにゃと力が抜けていく。シンジに抱きしめられてしかも寄りかかっている姿は、他の娘達が見たら嫉妬の炎でミディアムくらいにはなりかねない。
 シンジの吐息が耳朶に掛かった時、アスカが気づいたのは、
(シンジの息って、ブルーベリーの匂いがする…)
 と言うことであった。
 つまり、少なくとも酔ってご機嫌になってはいない、と言うことになる。
(で、でもどうして…?)
 狼狽えたアスカが、機械的な音を立てて赤くなった顔をゆっくりと後ろに向けた。
「オ、オーナー、これって…」
 どう見ても楽しそうな観察者になりきっている黒瓜堂だが、この場で何とかしてくれそうなのはこの危険なウニ頭しかいない。
 か細い声で黒瓜堂を呼んでみたが、
「シンジ」
「はーい」
(え!?)
「50をフラットとして、機嫌の数値を0〜100で表した場合、君の現状はどうなっているね?」
「400」
 シンジの答えは即答で、しかも自分を抜きにして進む会話に首を傾げたアスカに、
「と言うこと」
「…え?」
「半万年に一度の大バーゲンだ――上機嫌の。アスカ、何かおねだりしてみるといい。例えそれが世界の半分でも、今のシンジ君なら叶えてくれますよ」
「え、えーと……ホントに?」
「本当に」
 勝手に請け合ったのは黒瓜堂であって、対象のシンジではない。が、こんな上機嫌の精に憑かれでもしたようなシンジの姿など、今日までただの一度も見たことが無かっただけに、或いは本当のような気もしてきた。
「あ、あのね…」
 おずおずとシンジの耳元に口を近づけ、
「その…キ、キ、キ…キスとか…っ」
 何度か詰まり、その後早口で告げた顔は真っ赤になっていた。
「三日三晩二人きり、というのも可能と思うがそんな事で良いのですか?」
「あ、あ、あたしはまだっ、け、経験なんて無いし…!?」
 思わず口走ってから、ハッとシンジを見ると、その表情に変化はなく穏やかな表情でアスカを見やっている。
 黒瓜堂は、と言うと、
「ウケケケ」
 といつもの通り邪悪に笑い、
「君がまだ未体験とは初耳で――」
「オ、オーナー!!」
「分かった分かった。古戦場じゃないんだから、そんな大音声を上げずとも聞こえますよ。さてと、ではシンジ君私はこれで」
「ん、旦那色々ありがと」
 黒瓜堂の姿が消えてから、
「あの…シンジ本当にいいの?あ、あまり気乗りしないなら無理にとか…んっ」
 す、と伸びた指がアスカの唇に触れる。
 細くて長く、そして温かい指であった。
「とある夜更け、浮かれた妖精達に私が取り付かれるのは半万年に一度きりのこと、と旦那も言っていた。気にする事はない」
「う、うん…それじゃ…」
 そっと目を閉じたアスカが、後ろで手を組んでシンジの前に立つ。立ち上がったシンジがその顔に手を掛け、くいと上を向かせた。
 ゆっくりと顔の近づいてくる気配に、後ろで握りしめた手に力が入る。
(ロ、ロマンの欠片もない気もするけど…で、でもあたしだって…)
 距離がゼロになり、ぎゅっと目を閉じた瞬間――
 ちう。
 右頬で音がした。
(え?頬だけ…ひゃ!?)
 左頬、続いて額に柔らかく口づけされ、思わずアスカの口から小さな声が漏れた直後、不意に唇が重なった。
「んむううー!?」
(不意打ちー!?)
 想定外の三箇所の後いきなり唇と来て、完全に裏をかかれたアスカの身体は、びっくりして硬直している。
 舌は入ってこなかった。
 唇だけが触れ合うそれが、アスカにはまるで数分にも感じられたのだが、実際には十秒も経っていなかった。す、と顔が離れ、髪が優しく撫でられた時、アスカの目から一筋の涙が落ちた。
 それが何の涙だったのか、アスカは自分でも分からなかった。
 目許にシンジの指先が触れたとき、アスカの意識は自我を取り戻した。
「な、なによ…泣いてなんていないんだからねっ」
 思わず手を振り払ってしまったが、シンジは怒ることもなく、
「分かっている。アスカの目許にテントウ虫が付いていた」
「……」
(な、なんか…微妙な題材ね)
「さて、と。今日はバイトでしょ、気をつけて行っておいで」
「う、うん…」
 キスの余韻など微塵も感じさせぬ風情で、じゃあねと軽く手を挙げてシンジが身を翻す。
(随分…素っ気ないっていうか…)
 顔を赤くしてもじもじされても、それはそれで落ち着かないのだが、ここまであっさりしていると、たった今の現象ですら疑わしくなる。
 白昼夢でも見たような気がして、アスカはふと自分の唇に触れた。
(シンジの感触がする…)
 
 数歩進んでから、シンジはふと立ち止まった。
 ボン!と音がしたのだが、振り向いてもとくに異常はない。
「気のせいか…?」
 僅かに小首を傾げて歩き出したが、それが気のせいでは無かった事と、そしてそれが何をもたらすかを知っていれば、すっ飛んではせ戻っていたに違いない。
 
 
  
 その日の夕刻、黒瓜堂は都内にいた。
 とある国の大使館に依頼された物を届け、法外な代価を受け取ってきた帰りで、喫茶店に入るといつものように店内の反応は分かれた。
 すなわち――ぎょっと目を見張り、慌ててカサカサと視線を逸らす者が大半と、最初から正面切っては見ないものの、ちらちらとながらぶしつけに眺めてくる者が少数。
 そんな視線など、全くと言っていいほど気にしない男だが、間もなくその携帯が鳴った。
 一件は、
「オーナー、ルリです。惣流・アスカ・ラングレーの両親はドイツを発ちました。行き先は日本です」
「分かった――ご丁寧に、この日ノ本へ屍を埋めに来るか」
 ルリからのもので、もう一件は、
「黒ちゃん?あちしよう!今暇〜?」
 ボン・クレーからであった。
「暇、かどうは微妙だが、何を聞いても過剰反応する状況ではない。何があった?」
「さっすが、黒ちゃん、あちしの恋人のことだけはあるわ〜」
 甲高い声を聞きながら、黒瓜堂は宙を眺めていた。ボン・クレーがこんな言い方をする時、その報告が吉報である事はありえないのだ。
 一転してドスの利いた声に変わり、
「オーナー、あの娘が風呂を壊しちゃったわよ。さっき爆発を起こしたところ。妙に浮かれてたから、やばいなとは思ったのよねえ」
「アスカに怪我は?」
「放心してるところを祐ちゃんが担ぎ出したから、小娘は無事よう。風呂はちょっと爆発炎上だけどねい」
「分かった、すぐに戻る」
 通話を終えた黒瓜堂は一言、
「想定外」
 と呟いた。
 その存在からして常識の範疇に収まらぬこの男でさえも、さすがに想像していなかったらしい。
 ウニ頭を揺らしながら、少し早足で出て行くその後ろ姿を店内から安堵したような視線が追った。
 ――黒瓜堂炎上――
 
 
 
 
 
(つづく)

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