妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百八十九話:邪悪 IN 巴里――癒えぬ傷跡(中)
 
 
 
 
 
「どういう…どういう事なのだあれはっ!」
 顔を紅潮させ、握りしめた拳を振るわせているグリシーヌを、黒瓜堂は黙って眺めていた。
 今二人は、墓地に来ている。そこでグリシーヌが眼にしたのは、全裸で墓石に身体を擦りつけ、あまつさえ白昼からあられもなく身悶えしている花火の姿であった。
 グリシーヌとて、結婚するまで処女であるべしなどと唱える程固くはないし、エリカと一緒に一郎に抱かれたりして、屋敷の者が見たら仰天しそうな事位はしてる。とは言え、それだってせいぜい浴場でのプレイ位で、いくら相手が一郎でも表で素肌など晒した事はない。
 まして――墓石に裸を擦りつけたり、などとは。
「グリシーヌ・ブルーメール、君にはあれが何に見えているのですか」
「…あなたと同じ物だ、黒瓜堂殿」
「いいや、違う」
 黒瓜堂は即座に否定した。
「君には、何も見えていない」
「な、なんだとっ!」
「まあいい、君の目が私と同じだけ開いているとしよう。であればあれが、白昼堂々裸になって墓石に身を擦りつけている、とは見えないはずです。もう一度訊きます。グリシーヌ嬢、あれが何に見えますか」
「……」
(何って…)
 どう見ても、墓石を相手に自慰真っ最中の花火の姿、にしか見えない。この危険なウニ頭には、あれが何に見えるというのか。
「…黒瓜堂殿、分かった降参する。あなたにはあれが何に見えるのか…教えてくれ」
 嫌がらせやはったりではないのだろう、とグリシーヌは思った。自分とどこが違うのか分からない――存在自体が異なる気もするが――が、黒瓜堂には違う物が見えているのだろうと。
「これを」
 懐中から取り出したのは、小型のサングラスであった。自分では着けていない。
「?」
 怪訝な表情でサングラスを掛けた途端、その表情が激しく揺れた。グリシーヌの顔がみるみる赤く染まっていくが、それはさっきまでの怒りではなく――羞恥であった。
 全裸で身をくねらせて甘い声を上げている花火は――これも全裸のフィリップに身体をまさぐられていたのである。
 引きちぎるようにサングラスを外したグリシーヌは、首筋まで赤く染めていた。
「こ、こっ、これはっ…これはどういう事なのだ黒瓜堂殿っ!?」
「どうって…簡単な事ですよ」
 同じ光景を見ていた筈なのに、黒瓜堂の主人には欲情どころか反応した素振りも全く無い。
「グリシーヌ嬢、大神君に抱かれてきなさい」
「な、なんだと!?」
「あの光景は君には、と言うより普通の人間には刺激が強すぎる。解説して差し上げてもよろしいが、その最中に身体の疼きが止まらなくなりますよ。すっきりしたら、戻っておいでなさい」
 何を言うかと思ったら、よりによって一郎に抱かれてこいと言う。これが余人だったら、間違いなくグリシーヌは殴っていただろう。が、その手が黒瓜堂に向けられる事はなかった。
 冷やかす訳でもグリシーヌの反応で楽しむ訳でもなく、まるで出来の悪い生徒に課題を出す教師みたいな口調で言われて、その手は動かなかったのだ。
「何故…何故私だけにそこまでしてくれるのだあなたは」
「話してあげますよ。君がただの少女でなければ、ね?」
「……」
 グリシーヌがどこかに携帯で電話をかけると、数分で黒塗りの車がすっ飛んできた。走り去る車を見ながら、
「君を治した時、シンジ君はまだ自らも完治状態ではなかった。そのシンジ君に癒される程の娘かどうか、見せてもらうとしよう」
 呟いた声は何故か冷ややかで――そしていつも通り危険なものであった。
 
 
 
「えーと…う、撃たれなかった?」
 黒瓜堂から話を聞かされて絶句したミサトが、一分近く経ってから何とか絞り出した言葉がそれであった。
「彼女はそんなに野蛮人じゃない。それに、私を撃っても死なないことくらい勘で分かったんでしょう――というのは冗談で、相手が本気なのか冗談なのか位、あの年頃になれば分かりますよ。それと、車に乗ってすぐ分かったはずですよ――どうしようもなく疼く身体でね。今頃は燃え燃えで、普段とは全く違う彼女を、大神君がどんな顔をして抱いているか見てみたいものですよ」
「そう言う趣味があったわけ?」
「ミサト嬢、霊に中てられた娘がどう変貌するのか、君も見てきた筈ですが」
「…ごめん」
 道を走る車から地面に視線を落とし、ミサトは謝った。
 今回のケースは少し特殊だが、霊に取り付かれた者が、時に無差別な殺人鬼に、そして時には思考を性欲のみに支配されて肢体さえも別人のようになり、昼夜を問わず性交に耽ったりする。だからこそ、淫らな霊に取り付かれた者から取り除く時には、決して一般人を入れてはならないのだ。
 巴里の花組は――本家の帝都組もそうだが、霊的な呪術に関しては実質素人である。そんな素人が色情霊に取り憑かれた娘を見ればどうなるか位、ミサトならすぐに分かった筈だ。
「まあ、後の事は彼らに決めてもらいましょう。一応彼らの仲間ですし、私の言う事を素直に聞いた所を見ると、グリシーヌ嬢もあの娘を見捨てる気は無いようですしね。私が唆したシンジ君に開発された帝都の花組と比して、どれだけ出来るか見物させてもらうとしましょう。ところで、シンジ君に電話はしてるんですか?」
「何か知らないけど、置いて行かれたってご機嫌斜めだったわよ。一緒に来るって約束してたの?」
「まさか」
 と、黒瓜堂は首を振った。
「シンジ君はピラニアの一件を思い出している。そして――巴里花組にはした金を出していい気になっているシャトーブリアン家当主夫妻の事を、塵芥程度にしか思っていない。しかも、資金援助してると知らない現状であれですからね。知ったらどうなる事か。そんなシンジ君を連れてきたら、えらい事になりますよ。ま、私の教唆が上手く行ってるおかげですが…痛!」
「誰も殺人鬼を作ってなんて頼んでないわよ」
 ミサトが、黒瓜堂の足を思い切り踏んだのだ。
「弟宮を思いやる姉君がそう言っていた、とシンジ君に電話で伝えておきましょう」
 かさかさと携帯電話を取り出した黒瓜堂に、ミサトは慌てて飛びついた。それが善であれ悪であれ――悪の方が圧倒的に多いが――やると言ったらやる奴は、一番厄介なのだ。
 
 
 
「ローザ、お前がこんな所に来ているとは思わなかったぞ」
「姉さんそれ私の台詞…私がいると思ってきたのでしょう?」
「う…ま、まあそれは小さな事だ。それよりも!」
 妹が大事でたまらない姉は、誤魔化すように声を上げた。
「あのウニ頭が、人の頼みを優しく聞くような男に見えたか?もう少しで押し倒される所だったではないか!」
 ラリー・シャイアン。かつて、対妖魔戦で指揮を執り、魔道省でもその名を知らぬ者はいないと言われるラリーだが、その折妹と共倒れになる所をガレーンに救われてからというもの、眼の中に入れても痛くない位に可愛がっている。
 但し――過保護という意見もあるのだが、そんな噂は絶対本人の耳には入らない。
「でも、最初から外していたみたいだし…」
 顔が近づいた時点から、その行き着く先に自分が無いのは分かっていた。大体――自分は黒瓜堂の主人の守備範囲ではない。
「それに、姉さんが頼んでもいつも駄目だから…」
 黒瓜堂は、大魔道士の弟子だった――ガレーンが、何を迷ったのかは不明だが。妖魔と戦った折は共闘した筈なのだが、顔を合わせるといつも喧嘩ばかりしてる。しかもローザは、黒瓜堂はともかく姉のラリーが黒瓜堂以外の人間に対して、こんな言い方をするのを見た事はない。
 どうしたら姉をあそこまでホットに出来るのかと、黒瓜堂の手腕が不思議な位だが、そんな二人だからラリーが下手に出る事は無く、当然のようにいつも交渉は決裂する。
「……」
 苦虫をまとめて三匹噛み潰したような顔をしていたラリーだが、やがて組んでいた腕を解いた。
「分かったよローザ」
「?」
「お前がそこまで言うのなら、私が奴に頼んでみる」
「あの…絶対無理だと思うんだけど…」
 話す前から奴に頼む、なんて言っていて上手くできる筈がない。
「分かった。や…いや黒瓜堂に頼んでみる。大丈夫、私が脅せば…いや頼めば嫌とは言うまい」
(姉さん…)
 確かに厚意は有り難いのだが、正直に言って不安の方がだいぶ強い。言葉の端々に危険な物が含まれている上に――相手は自他共に認める悪の求道者なのだ。脅すとか脅迫するとか強請るとか、その手のろくでもない単語なら黒瓜堂の方が遙かに通じていよう。
(大丈夫かな…)
 不安の色が顔に出たのか、
「ローザ、心配するな。私とて頼み方を知らぬ訳ではないのだ。それに、もしも何かを要求されたとしても私一人で済む」
「じゃ、姉さんにお願いするわ」
 うむ、とラリーが頷いた以上、重ねて念を押すのは無粋というものだ。一抹の不安を抱えながらもラリーに任せる気になったローザだったが…。
「私のローザを黒瓜堂の毒牙になど掛けてなるものか。ごねたりするようなら滅ぼしてくれる!」
 と、物騒な事を、背を向けて呟いていた事は知らなかった。もしもそれを聞いていれば、幽閉してでも行かせなかったろう。
 
 
 
 
 
「マリアにしては珍しい反応であった」
「……」
 シンジとマリアは、夜の街を歩いていた。一緒に出た訳ではなく、先に出ていたマリアを、ふわふわ飛んでいたシンジが見つけたのだ。
 化学反応でも思い出したような口調だが、それを聞いたマリアは唇の端で僅かに笑った――かに見えた。
「すみれと何かあったのか?別段そんな風でも無かったが」
「内緒、と言ったら怒る?」
「NE」
 シンジは首を振った。
「マリアちゃんが冷たい娘(こ)なのは分かってるし、そんな事は正直どうでもい…痛!」
 きゅむっとつま先が踏んづけられた。
「興味なかったら言わないくせに…ん?」
 見ると、野良犬に追われる猫を見ながら、何やら首を傾げている。
「事情を聞くと沼に片足突っ込みそうな気がする。それに、マリアは普段冷静だし、あんな突っかかるような言い方はしない。そんな事は俺が一番よく知ってる訳で」
「ば、ばか…」
 ふいっと顔を逸らしたが、横顔を見る限り満更でもないらしい。シンジの場合、時折予想もしない所から直球を投げてきたりする。しかも、本人は至って真面目だから手に負えない。
「そう?」
 切り返す事もなく、シンジはそのまま歩き出した。行き交う人も少ない時間だが、それだけ暗がりに潜む危険は多くなってくる。マリアは銃を持っているが、シンジは無論手ぶらである。ただし、まだ愛銃は返してもらっていないので、少々違う物がこめてあるが。
「親、というのは――」
「え?」
「結構勝手なものらしい。以前聞いた事があるが、家庭でのしつけをろくに出来ず学校に押しつけるくせに、学校で上手くやると今度は僻んで色々難癖を付けて来るんだって」
(お見通し、って訳ね…)
 まったくもう、とマリアは内心で呟いた。
 ただ、不快な感覚は殆ど無かった。思考を見通される事は、中国の奥地で慣れきってしまっていたから。
「少し…」
「ん?」
「シンジに妬いてたかな…」
 心を隠すようにヘッドロックを掛けられても、シンジは抗わなかった。こんな所で首を極められるなど、マリアと会ってから初めての経験である。
「……」
 マリアがシンジを離してから、
「でも、何のかんの言ってもマリアも面倒見のいい事だ」
「面倒見?」
「そう、面倒見」
 と、言われても分からない。
(……)
 五秒考えてから、マリアはそれ以上考えるのを止めた。自分の面倒を見てくれている、などと言う事ではあるまい。口惜しい話だが、依然としてシンジの思考形態は解読出来ていないのだ。
「考えるのを止めた、と言う顔をしているな?すみれの事だよ。自分には関係ないしどうでもいいと思っていたら、すみれが今になって変貌しようが豹変しようがどうでもいいでしょ。でもそうじゃなくて、色々気に掛けていたから、自分の時には高慢ちきで我が儘でどうしようもなく嫌な女だったくせに、と思うのさ」
「あ、あのねシンジ…」
「なに?」
「そ、そこまではいくら何でも思ってなかったんだけど…」
「俺は思ってたけど?」
「…え?」
「地位と権力と金塊。一人きりで人外の生物や猛獣に襲われた時、その中でどれを持っていれば助かる?しかも、自分でそれを手に入れたならまだしも、生まれついた時から持っていたそれを誇るなんて、厚顔にも程がある。最初に見た時、すみれはまさにそのものだった。最近はだいぶ治ってきたけど、俺が来る前はもっと良かったと言う事は無いだろ」
「でも、困る事ばかりでもないでしょう。確かにシンジは優秀だけど、経済的な安定は人の生活を大きく左右するわ。生活基盤を持たない孤児にでも生まれていたら、その経済力の大きさを実感するはずよ」
「じゃ、その対極に生まれた以上、思い通りになる金や権力を思い切り満喫して当然と言う事?」
「……」
 シンジの場合、物欲や顕示欲に関してはマリアでさえも理解できない程に薄い。確かに、経済的に困窮している家に生まれれば成長過程は変わったろうが、どうもシンジの場合にはそれが当て嵌まらないように思えてしまう。
「お金が無くてもそれはそれで」
 と飄々としている、それがシンジという男(ひと)であるような気がするのだ。
「ね?」
 何がね?なのかは分からないまま、マリアは頷いた。
 それが一番合っているようなそんな気が、マリアにはした。
「普段はつんとしているのにね」
「そうだね…ん?」
 すみれの事だと思って頷いたが、よく考えたらその話はもう終わっている。
「私の事かな」
「そう。他人は無関心な顔してるくせに実は結構面倒見がイ…イ、いやマリアちょっと待て、落ち着いて」
 抜く手も見せずに銃を引き抜いたマリアが、シンジの脇腹に銃口を押しつけたのだ。
「あれ?何でお前が銃を…ん?」
 ふとその違和感に気付いたシンジが、銃に手を伸ばす。
「水鉄砲…これは妖水か。マリアこれは」
「ミサトさんに頂いたのよ」
「姉貴に?そう…」
 何を思ったのか、
「ごめん、言い過ぎた」
 あっさりと引っ込めた。
(……)
 マリアとて本気で怒った訳ではないのだが、シンジがどうして翻意したのかが分からない。マリアが持っているのは水鉄砲だが、中に入っているのは無論ただの水ではない。聖水よりもなお魔のものには効く。それ以外、つまり対人相手でもある程度は効果のある代物だ。
 そんな物を浴びたくないから、と言う理由はシンジの場合有り得ない。無論ミサトの名前が出たからだろうが、それとてここまで反応する程の理由でもあるまい。
「時にマリア」
「何」
「ちょっと数日ここを空けようと思うので、留守は任せる。今度はそんなに掛からないから、後は頼んだよ」
「どこへ行くの」
「巴里」
 やっぱりそこか、とマリアは思った。ミサトの名前がどう効いたのか分からないが、何やら発動したらしい。
「何しに?」
 人生は基本的に七割位が陥穽で出来ている、と言う事を忘れていなければ、余計な事は言わなかったろう。
 が、シンジは忘れていた。
「息抜き」
 詳しく言う事もあるまいと短く言ったのだが、それが墓穴になった。
「いいわよ、行ってきても。数日と言わず、数ヶ月でも行ってくれば?」
「…マリア?」
「女神館の管理人が、そんなにシンジを圧迫しているとは思っても見なかったわ。シンジがそこまで窮屈に思っているのなら、私達に止める権利は無いわね。行ってらっしゃい」
 そう言うと、マリアはさっさと歩き出してしまった。
「……え?」
 周囲を見回し、数秒経ってからやっと事態に気付いたシンジが慌てて後を追う。
「ちょっとマリア落ち着け。何を急に…!?」
 肩を掴んだ手が振り払われたのだ。
「マリア…」
「あなたに取って私達は結局、息が詰まる原因にしかなっていなかったって事でしょう。もう止めないから行けばいいじゃない」
「だからちが――」
 まるで、振られた女にしがみつくみたいな格好になったシンジだが、不意にその表情が動いた。
「?」
 つられてマリアもシンジの視線の先を見た。そこにいたのは、電柱の陰で短刀と思しき物を腰だめにした男であり、男が見ている先には二人組の男女が仲むつまじく歩いている。
「シン…」
 言いかけた時、シンジの指が僅かに動いた。突如巻き起こった一陣の風が、男の腕を肘から断っていたのだ。短刀を持ったまま断たれた腕は、そのまま宙を舞ってカップルの前に落ちた。女性の方は反射的に口を押さえたが、白いスーツに身を包んだ男は、何も言わず軽く手を挙げた。間髪入れずに、銃を手にした男達が後方から走ってくる。
 明らかに、堅気の風情ではない。おそらくはやくざ者だろう。知り合いでもないのにシンジが助ける人種ではない筈だ。
「シンジの知り…あれ?」
 見るともうシンジはおらず、さっさと歩き出している。助けた挙げ句声も掛けないで立ち去り、しかも相手がやくざ者とは相当奇妙な行動だが、マリアは知らなかった。
 助けられたのが、広域指定暴力団「新鮮組」の総長近藤静也であり、シンジとは以前からの知り合いである事を。そしてその静也が、飛んで来たドスと腕を見て一目で状況を察知し、殺気立つ部下を一喝し、去っていくシンジの後ろ姿を見て、にっと笑った事など知る由もなかったのだ。
 マリアが追いつくと、シンジは不意に振り向いた。
「息抜き、と言わなかったら素直に行かせてくれた?」
「……」
 風を放ったせいか、強気に戻っている。だから、五精使いに精を使わせると厄介なのだ。
「あ、当たり前でしょう。シンジは私の恋人でもないし近親者でもない。用があって行くと言うのを止めるはずが無いわ」
「それは助かった」
「…は?」
 何を思ったのか、シンジがぽむっと手を打ったのだ。
「恋人で近親者でもないのに、猛烈に反対する小娘が何人かいるのは分かっている。マリアがそう言ってくれるのなら、マリアにおさえてもらおう。用があるのなら構わない、のだったな。息抜きは嘘でもないが、あっちにいる姉貴にちょっと会って話がしたくてな。それが目的だよ」
「…!」
 マリアの顔から、みるみる血の気が退いていく。シンジが我が儘を言い出して押し切られた、と言う事ならまだしも、マリアが理解して許可してくれたからなどと言われたら、自分の立場は文字通り四面楚歌になる。あの娘達が、どんな目で自分を見る事か。
「だ、だめっ!駄目よシンジ、絶対に行かせないわ。だっ、大体どうして私があなたを擁護しなくちゃならないのっ」
「別に擁護しなくてもいいって。ただ用があって行ったと告げて騒ぐ娘達をおさえてくれればいい」
「…同じ事でしょ!」
(ちっ、気付いたか)
 実を言えば、ここでマリアを丸め込めればそのまま発とうと思っていたシンジなのだ。ミサトの名を聞いた事で、旅の虫が騒ぎ出したらしい。
「じゃ、マリアも来る?一緒に行くか?」
「そ、それなら…って、そんな事出来る訳ないでしょう!」
 とっ捕まって頭をぐりぐりされたシンジだが、不意にマリアの動きが止まった。
(ん…げ!?)
 シンジが見たのは、目に涙を溜めているマリアであり、
「そんなに…そんなに私を孤立させたいのならそう言ってよ…。あなたを行かせて、皆が納得するとでも思っているの」
「もう少し…時間は掛かるか。分かった、今回は諦める」
 
 シンジ、野望頓挫す。
 
 ただし、時間が掛かると言ったのはマリアがさくら達を抑えられるようになるまで、と言う事ではない。
「説得は無理よ。だからシンジが手を打って行って。怪しい薬ならすぐ手にはいるでしょう?」
 位の事は言って欲しかったのだ。
 シンジだって、常に管理人としていられる訳ではないし、目下一番信頼出来るのはマリアなのだから。
 がしかし。
 普通の人間は、説得に際し怪しい薬と言う発想が自然に出てきたりはしない。やはり、悪の進化は順調に進んでいるらしかった。
 
 
  
 
 
 一方巴里では、グリシーヌと一郎が四時間以上経ってから戻ってきた。予定には五分程の遅れだったが、二人を見たエリカとコクリコが顔色を変えて立ち上がった。それも宜なるかな、一郎が完全に衰弱している一方で、グリシーヌは妖しい程に艶々しており、二人が何をしていたのかなどと訊くまでもない。
「グ、グリシーヌさん、こっ、これは一体どういう事ですかっ」「ずるいよグリシーヌ、一郎を独り占めしてそんなにしちゃうなんてっ!」
 だが、それを制したのは黒瓜堂であった。
「私が言ったんですよ、そうしなさいとね」
「『何でっ!?』」
「必要だったからですが?君らが同じ症状になっていれば、同じ事を告げていますよ。グリシーヌ嬢だけが特に弱いとも思えませんからね。別に、グリシーヌ嬢に大神一郎杯の肩入れをした訳ではありません」
「『大神一郎杯〜?』」
「ロンシャン競馬場、芝2400メートル。一等賞金は大神一郎。違うんですか?」
「『……』」
 黒瓜堂の言葉に、娘達がふにゃふにゃと赤くなる。
「さてグリシーヌ嬢、北大路花火の消息について報告を」
「『!?』」
 黒瓜堂の言葉に娘達の表情が一瞬で引き締まり、一郎でさえも枯れ果てた状態から少し戻ってきた。
「やっぱり知っていたのか。あいつを見ておかしくなったってところか?」
 黙っていたロベリアが、初めて口を挟んだ。
「ロベリア、君は此処に居るには勿体ないと言われた事はありませんか?」
「よく言われるよ」
 ニマッと笑い合った二人に、居合わせた者達の背に寒い物が走る。見慣れているから何とか耐性の付いているミサトが、
「い、意気投合したようで何よりね。グリシーヌ、説明して」
「わ、分かった…」
 とは言え、黒瓜堂に見せられた光景以上の事は伝えようもないのだが、あのどちからと言えば清楚な花火が白昼堂々、しかも墓石に裸身を擦り付けて居たというのは、聞いた者達にとっては大ショックであった。
 ただ、それがグリシーヌであったと言うのは、ある意味で幸運であったろう。これがもしエリカやロベリアであれば、グリシーヌが空気を読まずに噛み付いていたのはほぼ間違いないのだから。
「あ、あの黒瓜堂さん…」
 漸く口を開いたのはエリカであった。
「何です」
「その、どうして花火をそのままにして帰って来ちゃったんですか…。しかもグリシーヌさんに…そ、その大神さんと…」
「人に質問する時は、一つずつ訊いた方が主語がはっきりしていいですよ。特に、一つ一つが重い場合にはね。さて、最初の質問ですが、北大路花火嬢を拐かしたのは言うまでもなく常人ではありません。簡単に言えば、あなた達の出番という事です。それに、グリシーヌ嬢はもう淫気に中てられていましたし、私は見ての通り一般人ですから」
(絶対一般人じゃない!)
 ツッコミは綺麗に重なったが、口にする者はさすがにいなかった。
「もう一つのお訊ねですが、一言で言えば子供には強すぎる光景だった、と。もう少し詳しく言えば、君たち三人なら誰でも同じ結果になってましたよ。道の真ん中で自慰を始める友達を見たくはないでしょう」
「ふうん…」
 その言葉をどう取ったのかは分からないが、グリシーヌを含めれば四人の筈なのに、三人とは誰なのかと訊いては来なかった。
 なお、この場で一番立場が微妙なのはミサトである。黒瓜堂から話を聞いて既に花火の事は知っていたが、この男が何を考えているのかが分からない。助力を要請した場合、快諾するのか呵々大笑いするのか不透明なのだ。
「さて大神君」
「あ、はいっ」
「言うまでもない事ですが、今から探しに行ってももう居ないでしょう。花火嬢が浚われ、そして精神的には満足している状況にある事はお教えしました。偽者であっても、今彼女に取って側にいるのは婚約者なのです。この状況でどうするのかは、君たちで話し合って考えて下さい」
「『……』」
「ミサトさん、私はちょっと凱旋門を見物に行ってきますので、後はお願いします」
「あれ?まだ見た事無かったの?」
「いえ」
 黒瓜堂は微笑った――とても、楽しそうな笑みで。
「爆破ポイントを探してくるんです。そろそろ建て替えてもいい頃でしょう」
「『なっ!?』」
 皆の顔色が一瞬で変わったが、
「私が善の親玉、とでも思っていたんですか?」
 当然とでも言わんばかりにさっさと歩き出す黒瓜堂の後を、慌ててミサトが追った。
「大神!」
「は、はっ」
「後は任せる。小娘達と相談して、善後策を決めておけ」
「りょ、了解でありますっ!」
 が、凱旋門の爆破ポイントを探してくる、などと言われて冷静に花火の事など話し合える訳がない。
 巴里の象徴を爆破などさせてたまるかというグリシーヌと、仲間の事が優先だと言うエリカ・ロベリア組が対立し、挙げ句には理由がどうあれグリシーヌだけが一郎を独占したのは許せないと、明後日の方向に話が暴走してしまい――運良く会ったローザのおかげで何とか黒瓜堂を捕縛し、戻ってきたミサトが見たのは縛られたグリシーヌと、他の三人に吸い取られて枯渇寸前の危険域に達している一郎であった。
 無論、ロベリア達は依然として一郎に群がっており、四人とも汗と体液にまみれてべとべとになっていた。
「元気が良くてよろしい。子供はこうでないとね」
 少々不機嫌な黒瓜堂の声に、慌てて娘達が起きあがったが、服はもう放り投げられており、ぺたんと座り込んだ格好で胸と股間を隠す。無論、黒瓜堂の声が不機嫌なのは目の前の痴態とは関係なく、悪の目的が頓挫したからに他ならない。
「ロベリア嬢」
「な、何だ」
「気が済むまで搾り取ったら、さっさと方針を決めて私の所へ。のんびりしていると――」
「し、してると?」
「凱旋門が木っ端微塵になりますよ」
 物騒な事を平然と告げてから、
「彼女を浚った相手が手強いかどうかはともかく、彼女は今幸せ回路がフル稼働中です。取り返すという事は花火嬢を現実に――もう婚約者はいないのだと、現実を突きつける事になります」
「で、では黒瓜堂殿、あなたは花火を…花火を討てと言われるのかっ」
 漸く猿ぐつわの外れたグリシーヌが、急き込むように訊いた。
「それが君の限界ですか、グリシーヌ嬢。私は君たちの事をさして知らない。無論、君たちが互いを知るそれには遠く及ばない。が、世の中には想いに殉じる娘も決して少なくはないのですよ」
 黒瓜堂の脳裏には、妖樹の手先として造られながら、最後はシンジへの想いを選び散っていった娘の事があったのだろうか。黒瓜堂や夜香が手出ししていなければ、その命は確実に巴里で散っていたのだ。
 散る事は必定ではなく、被害を出さずに巨樹を始末し、シンジと共に帝都で暮らす事も出来た。それでも、二人きりで行く道を選んだサリュ――例えその先に永遠(とわ)の別れが待っていようとも。
「君たちの事は君たちが決める事です。私が口を出す事ではない。が、取り返せば万々歳でもない、と言う事だけは知っておいて下さい」
「『……』」
 身代金目当てで誘拐されたのなら取り返せば済む。
 だが、花火の想いが囚われているという事は、その心にまだ婚約者の事が残っているという事だ。何よりも、それが弱点であると敵に知られてしまった事になる。
 もし花火を取り戻した時、自分は幻影であっても幸せの中に居たかったと、もしもそう言われたら――この先自分達はこの巴里を守る者として、共にやっていく事が出来るのかどうか。
「一つ言っておきますが、別に君たちが悪い訳ではない。ただ、その精神(こころ)が隙のない状態にまで達していなかっただけの話です。誰も、自分を責める事はありません。それと、君たちに原因がある訳ではないので、私も出来る事はお手伝いしますよ。大したことは出来ませんけどね」
 だが、花組がどう手を尽くしても見つからなかった花火を、実にあっさりと見つけ出したのは黒瓜堂なのだ。無論一郎達は、文字通り世界でもトップラクスに入る情報網が、尽きぬ悔恨から生まれた事など知る由もない。
 情交の痕も生々しく座り込んでいた娘達だが、その裸になんの感慨も見せずに黒瓜堂が出て行った後、一瞬ながら小さく頭を下げた。
 
「意外だったわね」
「何です?」
「もっとこう、自分達で切り抜けられないのは駄目人間の証、位は言うかと思ったのに」
「ミサト嬢は、時々面白い事を言う」
 二人は、セーヌ川の河畔をてくてく歩いていた。とりあえず、凱旋門爆破の野望は諦めたらしいと知って、ミサトは心底安堵しているところだ。
「私が一切手を出さずとも、自力で何とか出来るレベルまでは行ってないでしょう。帝都の花組とは違うのですよ。あそこにはレニもいるし、マリア・タチバナもいる。一応シンジ君の意志は浸透しつつあります。でもここの娘達は違う。何よりも、シンジ君が付いていないのですよミサト嬢」
「ふうん、結構シンちゃんの事評価してくれてるんだ?」
「この私の弟子ですよ。立派に成長しつつあって何よりです」
「……」
 自分が悪の親玉である、と言う事を公言するのに何の禁忌も無いらしい。
「さてと、そろそろ戻りましょうか。もう、総意も決まった頃でしょうから。明日は色々と、長い日になりそうですよ」
「そうね…」
 戻った二人を待っていたのは、制服に着替えた隊員達であり、
「花火君の身柄もその心も取り戻すと…総意で決まりました。ついては黒瓜堂さんに――」
 皆まで言うな、と言うように手を挙げて制し、
「彼女は見つけて、動向を見張っておきます。今夜はゆっくりおやすみなさい。特に君は、観念して四人からたっぷり吸われておくように」
「い、いいんですかっ!?」
 目をきらきらさせて訊いたエリカに、黒瓜堂は鷹揚に頷いた。
「君らは働き蜂ですからね。栄養が必要でしょう?」
 忽ち一郎は、有無を言わさずに担がれてしまった。生け贄みたいになって出て行くその後ろ姿を見ながら、
「何考えてるのよ」
「花火嬢の心が戻らなくても、自分達が居るからと彼女たちが言えるように、ね」
「……」
 黒瓜堂の主人は、いつも通り怪しく笑った。
 
 
 
 
 
(つづく)

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