妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百八十七話:よくある事なので配慮を要求
 
 
 
 
 
 その晩の食堂は、所々殺伐とした雰囲気であった。
「はい、あーん」
(!?)
 普段シンジは、席を固定しない。レニの横の事が多いが、気分次第で移ったりする。
 別に風水で決めている訳ではない。
「山岸そこ俺」
 マユミを退去させ、陣取った所はマリアの横であった。
 と、そこまでは誰もさして気にしてはいなかった。
 がしかし。
 頂きます、と一斉に食べ出した直後、シンジがマリアの箸をおさえたのだ。
(え?)
 マリアは怪訝な顔でシンジを見たし、マユミも気付いたのだが、我関せずと食事に取りかかった。
 ふるふると首を振ったシンジが、魚の煮付けに箸を伸ばして切り分けていく。
(ちょっと…)
 何をする気かと思った直後、箸で取ったそれが口元に来たのだ。
 そして冒頭の台詞に戻る。
「なっ、何やってるのよ!」
 アスカもさくらも立ち上がりそうな気配だが、シンジは一瞥もくれずに、
「はいどうぞ?」
 更に口元へ近づけてくる。
(な、なんで急にこんな事を…っ)
 嫌ではないが、何もこんな全員揃っている場でする事はあるまい。
 首を振る予定だったが、唇は勝手に動いていた。
 上下に分かれたのである。
 そこへ鰈の肉がさしこまれ、口の中に魚肉を置いて箸は退散した。
「本当はあと一時間ぐらい要るかと思ったんだけど、どうかな」
「え、ええこれでも十分…あ、あのシンジ」
「何」
「も、もういいから。その、ちゃんと自分で食べられるから、ね?」
 お願いだから止めて、と視線を送ったがあっさりと無視された――シンジはその視線を受け流したのだ。
「食べて?」
 声は確かに甘い。
 既に数人から飛んでくる視線は、間違いなくトゲを含んでいる。
 だがマリアは、その声に強迫が含まれている事も気付いていた。おそらく、他の娘達は気付いていないだろう。
 マリアだから分かったのだ。
 カンナとマユミは、我関せずと食事に専念しており、切り込み隊長になりそうなアイリスとレニは、意外にも放置中だ。
 無論これには理由があり、今日はシンジの部屋にお泊まりの日なので、余計な事を言ってまだ札を貼られても困ると我慢しているのだ。特にレニは、以前進入禁止の牌を入り口に掲げられた事があり、その記憶は無論残っている。
 収まらないのがさくら達だが、それでも正面切って抗議出来ないのは、相手がマリアだからと言う事が一番大きい。
 何か問題でも?と切り返されたらどうしようもないのだ。
 ただ、そんな切り返しをする位なら、今日になっていきなり見せつけなくてもいいのだが、そこまでは考えが回らないのは仕方あるまい。
 おそらく何か裏があるのだろうと、割り切っていたマリアだが、やっぱり体中がちくちくと痛い。飛んでくる視線のせいなのは、言うまでもあるまい。
(ごめんねみんな)
 謝ってはいる一方で、食べさせてもらっているそれが、いつもより微妙に美味しいような気がしている自分がいるのも、また事実であった。
 嫌とは言わせぬ物があったが、決して無理に押し込んだりはしないし、マリアが飲み込んだ後ワンテンポ置いてから持ってくるので、食べさせられている感じはしない。
(何だかんだ言っても…あたしの事は分かってるのよね)
 呟いた途端、ふっと赤くなりそうな顔を慌てて横に振った。
 十分後、一部に取っては思い切り面白くなく、半数位はさっさと終わってと思っている食事が終わった。
 魚を食べ終わったところで、
「もういいわ」
 マリアが軽く手を挙げてシンジを制したのだ。
「ありがとう、ご馳走様」
 さっきとは違う口調に、シンジがおやっという表情でマリアを見た。
「私の咀嚼能力が気になってシンジ手ずから試してくれた、訳じゃないんでしょ?」
「『え?』」
 マリアの言葉に、さくら達の手が止まった――アスカとさくらは、魚に箸を突き立ててぐりぐりさせたまま、全然進んでいなかったのだ。
「頭のいい人って好き。実はマリアちゃんに折り入ってお願いが」
「多分そうじゃないかと思ったわ。で――」
 周囲を見回して、
「私とシンジの甘い時間を想像した娘(こ)は、まさかいないわよね」
 一転してマリアの声が低くなり、シンジをキッと睨んでいた娘達も、慌てて食べ始めた。
「とりあえずあれだ、何人かに逆さ吊りの刑が必要なのははっきりしたところで――」
 対象者の肩をびくっと震わせてから、
「マリア、デートしてくれない?」
(デ、デートですって?やっぱり!)
 ピッと眉の上がったさくらは置いといて、
「行き先は?」
 マリアは変わらぬ口調で訊いた。
「さあ…どうせ料亭だろうけどね。中身は大した事無いのに、料金だけ無茶苦茶高い店」
 そこへ、
「あ、あの碇さん…」
 口を挟んだのはすみれであった。
「なに?」
 普段と変わらぬ口調につい、
「そういう場所でしたら、わたくしがお供させて頂きますわ。マリアさんも、もちろんドレスはお似合いでしょうけれど、身体を締め付けるような和服は…」
 言いかけたすみれに、
「子供の出る幕じゃないから」
 口調は変わらぬまま、ばっさりと切り捨てた。
「…っ!」
 すみれが悔しそうに、きゅっと唇を噛んだ。
 それを見たマリアが、間髪入れずにシンジの足を踏んづける。
(余計な火種ばらまくなって言ってるのよ)
(すみれが出られるような場所じゃ…痛!)
 踏んづけて、そのままぐりぐりと踏みにじるマリア。
 シンジの方はスリッパを履いておらず、ダメージも倍増している。
「まあそのほら、すみれは絶対嫌がるの分かってるし。万が一いいって言っても、神崎重工から刺客送られそうだし」
「……」
「すみれが絶対嫌がるような格好で、私に来いって事なのね」
「早く言うとそうなる」
「遅く言っても同じよ。それで?」
 実を言うと、この時点まで他の娘達は今一つ付いてきていなかった。それは傍観していたマユミや、比較的冷静だったレニにしても同じであった。
 そして、次の台詞を聞いた時頂点に達する。
「舞台練習用のジャージあったよね?あれで来てくれないかな」
「『ジャージ!?』」
 綺麗にハモった声は、三つや四つではなかった。
「ちょ、ちょっとシンジあんた料亭にジャージって、分かって言ってるの!?」
 アスカが口火を切り、
「碇さん、それはいくら何でもひどいと思います…」
 さくらが続く。
「そうデース。だいたいデートにジャージなんてこれだからニッポンの男は…料亭って何?」
 織姫は、左右からひじ鉄を食らって轟沈した。
「別に強制はしてない。レニじゃないんだから」
「僕?」
「レニの物は俺の物。俺の物は俺の物。つまりレニは俺の物、と前から決まってるんだ」
(シンジ…)
 赤くなった娘が一人と、シンジの足を蹴飛ばした娘が数名。
「アーウチ!」
 足をさすっているシンジを眺めて、マリアはフッと笑った。
「いいよ、シンジ。行ってあげるわ」
「ほんとに?それは助かる」
「幾つか訊いていい?」
「何なりと」
「シンジはどういう格好で行くつもりなの?」
「サーファーが着るような水着とTシャツ」
「『え!?』」
「と思ったんだけど、それは露出が多いのでジーンズとTシャツ」
(……)
 ここに来て、怒ったり蹴ったりしていた娘達も、何か変だと気づき始めていた。シンジが来てから、まだそんなに日が経ってはいないのだが、シンジがだらしない格好をしていたのは見た事がない。
 マリアか、或いはそれ以上だろう。それに、幼少の頃から食事のマナーとか作法は教えられてきているはずだ。
 友人が料亭に呼ぶはずはないし、ある程度以上社会的に地位のある人物の可能性が高い。そんなところへマリアを伴うのはいいが、マリアはジャージでしかも自分はジーンズだという。
 どう考えても、
(嫌がらせよね…)
 ある意味当然だが、娘達の思考が一致した。
「だめよシンジ」
 お姉さまみたいな口調でマリアが制した。
「ん?」
「私はジャージでいいから、シンジは普通の服で行って。本来ならスーツでしょう?」
「マリアが黒のベビードールにネコミミ付けて、鈴付きの首輪してくれるならそれでも可。そうしてくれる?俺としては見てみたいけど」
「『そ、そんなの駄目ーっ!!』」
 マリアより先に外野が反応した。
「あちらがああ言ってるから止めておくわ。残念だったわね」
(くっ…)
 口出しした小娘は今度薫製にすると決意する事で自分を慰め、
「じゃ、ジャージでいい。で、他に訊きたい事って?」
「気乗りしないなら断ればいいと思うんだけど…」
 周囲を見ると、他の娘もこくこくと頷いている。
「なるほどね。他は?」
「ラストよ。あなたがそこまでする位嫌だけど、でも行かなきゃならない程、影響力を持ってる相手って誰なの」
 マリアの知る限り一人しかいない――彼女はあまり好きではないが――筈だが、違うと勘が告げている。
 シンジはすぐには答えず、
「ご馳走様。あとで帰ってから食べるから、取っといてね」
 立ち上がり、軽くマリアの頭を撫でた。
「色々迷惑掛けるね、マリア」
 出口に向かった足が扉の所で止まり、
「マリア」
「あ…何?」
「当日、行く前におまえの銃返しておくから。弾倉は一杯になってるよ」
「!?」
 その言葉を聞いた瞬間、マリアの表情が一瞬で引き締まった。発砲しても可、それも食事の席でとシンジは言っているのだ。
「……」
 察したらしいのは、最初から他人モードになっていたレイ一人で、他は誰も分かっていない。
「それと断れない相手って言ったね。正確に言えば、今度はきっちり始末しようかと思ってね。一応この国の総理、倉脇早善だよ」
 シンジの姿が消えた後、さっきまでの喧噪は何処へやら、食堂を沈黙が覆い尽くす。
 それは、あまりにも重苦しい物であった。
 自分達の慕う管理人が、一国の元首抹殺を口にしたのである。
 それを破ったのはカンナだったが、
「今度はって言ったよな。一回…逃がしたって事か?」
 シンプル且つ効果大の爆雷投下であった。
 
 
 
 
 
「キサマハダレダ!」
「失礼ねえ、あたしの顔を見忘れたの?」
 巴里はドゴール空港に降り立った黒瓜堂の主人を出迎えたのは、ミサトであった。無論連絡などしていないし、そもそもこの便でくる事など知らない筈だ。
「そんな事は分かってます。どうしてミサト嬢がここにいるのか、と訊いているんですが」
「理由は二つ」
 ミサトはほっそりした指をピッとあげて、
「まず一つ、あんたが来るって事は、あたしと瞳に用がある可能性が非常に高い事。二つめには単身で来るとお守り役がいないので、周囲から危険人物扱いされまくって、結果大暴れする可能性がある。こんな所でいいかしら?」
「君とは一度ゆっくりお話し合いの必要がありそうだ」
 とはいえ、ウニ頭が平になる訳もなく、機内からここまで文字通り周囲の視線を一身に集めていたのだ――普通とはかなり異なる意味合いで。
 ミサトがおらず、黒瓜堂が一人でウロウロしていたら、重武装した警備兵に一個小隊で包囲されていたかもしれない。
「ところで瞳嬢は?」
 車に乗り込んでから訊ねた黒瓜堂に、
「来てないわよ。あの子単純だから」
「ほう」
「掴んだんでしょ?あの馬鹿達の居場所」
「ええ」
 黒瓜堂は軽く頷いた。
「でもいいわ――探してもらったのに悪いけど」
 軽く手を挙げて、ミサトは微笑った。
「って言うか、あたし達の為に探したんじゃないように思うのは気のせい?」
「気のせいではなく。実質はシンジ君向けですよ。ただ、予想通り聞き分けが良かったのでね、こちらに持ってきました。君の性格は分かってるつもりです――無理矢理押しつけたりはしませんよ」
「助かるわ。二重の意味でね」
 バックミラー越しに振り向いたミサトに、黒瓜堂の表情が動いた。
「ミサト嬢が弱音を吐くとは珍しい。巴里のお人形さん達が壊滅した、と言う情報は受けていませんが」
「お人形さん達、か。随分評価が違うのね。それとも…うちの子達と実質は変わらないの?」
「続けて下さい」
「…北大路花火、知ってるわよね」
「ええ」
「前に結婚相手を式当日に喪って、結構立ち直ったかと思ったんだけどね。命日にお墓参り行ってから、様子がおかしくなったのよ」
「行方知れずになったのは何時ですか?」
「え!?」
 驚かしてやれ、と言うよりどちらかと言えば珍獣保護に近いミサトの出迎えだったのだが、まさか花火の仔細まで掴んでいるとは思わなかった。
「誰に…訊いたの?」
「ミサト嬢に」
「あたし!?」
「ミサト嬢の本体は碇だ。碇の血は、小娘一人扱い損ねた程度で、悪の親玉に相談を持ちかけるほど柔じゃない。そもそも、世界一周旅行でもないのにここへ滞在する期間が長すぎる。普通に考えれば一日、長くても三日程度でしょう。何が切っ掛けかは知りませんが、その娘が姿を消して、しかも魔の姿が見え隠れてしていると、そう言う事でしょう」
「餅は餅屋ってこと、か」
 それだけ聞けば褒め言葉だが、実際には――悪の事は悪が分かる、とそう言っているのだ。
 どっちだから分からない。
「残した物は幾らでもあるでしょう。うちのモンに言って探しますか?十分もあればみつかりますよ――生死を問わず、ね」
 すぐに答えは返ってこなかった。
 一分位経ってから、
「あたしがうんて言ったらどうする気だったの」
「最低ランクに確定。二度と上がってこない」
「…あんたいい死に方しないわよ」
「死ねる事を期待しましょう」
 妙な台詞を口にして、黒瓜堂は座席を倒した。 
 
 
 
 シンジの部屋の扉がノックされたのは、夜更けの事であった。
「着替えてきて」
 誰、とも訊かずに奇妙な答えが返ってきた。
「……」
 十分後、もう一度ノックされた。
「あいてるよ」
 扉が開いてマリアが姿を見せた。最初からマリアだと、分かっていたらしい。
「廊下に監視カメラを?」
 訊ねたマリアに、シンジはふっと笑った。
「思ってない事は訊かないの。さて、行くぞ」
 窓際で差し伸べられた手に、マリアは掴まった。着替えてと言ったのは防寒用で、遠くへ行く気ではあるまい。
 マリアの予想通りで、ひょいとマリアを抱きかかえたシンジは、ふわっと宙に浮き上がってさほど遠くない場所まで飛行した――近くの電波塔を選んだのだ。
「シンジがいいならいいんだけど…」
「なに?」
「どうしてこんな不安定な場所なの?」
 教会の屋根だったりホテルの屋上だったり――侵入の良し悪しは別として――足場は基本的に安定していた。
 が、ここは腰を下ろす事は出来ても足は宙にあるし、突風でも吹いたらどうするのかと、飛行技術を持たない身としては、心細い事この上ない。
「怖い?」
「…す、少しだけね」
 ちょっと迷ってからマリアは答えた。弱音を吐くみたいで嫌だったのだが、強がっても仕方ないと決めたのだ。
「じゃ、ここで」
「ひゃ!?」
 横に座っていたマリアを抱き上げたシンジが、そのまま自分の膝に乗せたのである。
 まるで、最初からそうする予定だったかのように。
「これなら落ちても安心でしょ」
 いい加減な所で安全宣言を出す企業社長が、問題を打ち切る時みたいな口調で言ってから、
「それで、俺に何を訊きに来たの?」
「総理大臣が何の用なのか分かってるんでしょう?」
「分かってますよ」
「断るだけじゃなくて始末したいほど、ろくでもない用件だったってこと?」
「用件自体は大したことじゃない。総理の皮をかぶったボンクラという事が判明した、それだけのことだよ」
「そう…」
 何を言ってきたのか、大体想像はつく。
 既に花組は前線から遠ざけられているが、身内が惨敗したのでまた花組を使おうと言ってきたのだろう。
 ただ、シンジが内容そのものを気にしていないように見えるのが気になった。
 マリアとしては、そちらを気にしてほしかったのだ――無論、他の住人達の為に。
「さっき始末するって言ってたけど、相手は国家元首よ。本気なの?」
「マリアはどう思う?」
「分からないから訊いているのよ。その辺のやくざ組織を壊滅させるのとは訳が違う。元首が暗殺されたとなれば、この国の鼎が問われるのよ」
「料亭に呼びつけた相手に四肢を落とされ、最後に首を落とされて木っ端微塵にされるのは、暗殺とは言いません。大体だな」
 マリアの下腹部に手を回して、きゅっと抱きしめてから、
「国家元首が暗殺されるのはよくある事。周辺諸国は配慮してくれないと」
「する訳無いでしょ。ただ一つ言っておくけどね」
「うん?」
 自分の下腹部へ伸びているシンジの手に、マリアは自分の手を軽く重ねた。
「シンジが代案を持っているなら国家元首でも…いえ、例え神であっても、滅ぼす事に反対はしないわ。だからこその指名だったんでしょう?」
 他の誰でもなく――フェンリルでもなく、シンジは自分を指名したのだ。普通に考えれば、人間よりも神の位置にあった者の方が、遙かに確実だろう。
「うん。でもちょっと…ごめん」
「?」
「さっきのマリアの言葉聞いて、ちょっと怖いのかと思った」
「そう…ん?それって置いていこうとか思ったって事?」
「じつ…アーウチ!」
 柔く重なった手が一転して、ぎゅっとつねってきた。しかも結構痛い。
「つまりシンジは私の事をそういう風に見ていたって事ね」
「だってマリアがいきなり本気なの?とか訊くから!」
「つまり私のせいにするんだ。シンジってそう言う男だったのね」
「ちょっと待て、異議あり!確かにマリアを指名したのは俺だけど、その直後に本気かとか訊いてくれば、やっぱり怖いのかと思うのが普通だろ。悪いのはマリアじゃないか」
「…ふん!」
(ムカッ!)
 一方的に悪者扱いされ、あまつさえ言うに事欠くと今度はそっぽを向かれ、さすがにシンジもムッとして反対側にぷいっとそっぽを向いた。
 がしかし。
 この連中、膝に乗せ、乗せられしている体勢なのだ。
 いつまでもそっぽを向き合っていられる訳もなく――そもそも、シンジのこんな子供じみた表情を見たら、本邸のメイド達は仰天するに違いない。
 他の者には決して見せぬ表情だ。
 結局、先に折れたのはシンジであった。
「ごめんマリア、俺がちょっと言いすぎた…かもしんない」
「……」
 普通なら第二ラウンドになってもおかしくない、そんな殺伐さを孕んだ台詞だが、マリアの方もある程度シンジの性格は分かってきているし、膝の上にいる事で受け身になっているのはマリアの方なのだ。
 何よりも、腹部の前で組まれて自分を支えている手は、未だ解かれてはいない。
「…私も少し言いすぎたわ、ごめん。でも…ちょっと哀しかったのよ」
「哀しい?」
「シンジに置いて行かれた時は、無力感が一番大きかったわ。私にもっと力があって、いえそうでなくても、シンジが認めていればきっと連れて行ってくれたんだろうって。火喰い鳥なんて呼ばれても、所詮は井の中の蛙に過ぎなかった。あなたに認めてもらう事は、私に取って目標なのよ」
 一気に言ってからふと気付いた。
 これではまるで――告白ではないか。
「もっ、勿論っ、れ、恋愛感情とかそんな事ではないのよ。私は純粋に――」
「分かってる…分かってるよマリア」
(……)
 分かってないじゃない、そう叫びたくなるのをおさえ、きゅっと唇を噛んだマリアは何も言わずにシンジの手に触れた。
 マリアは、戦士と言う部分でも、シンジが尊敬出来る対象だとは思っている。自分自身の強さ、と言う事もあるが、シンジを補う者達がいずれも家柄だとか、そんな取るに足りない事でシンジを評価していない事は分かっている。
 自分に足りない所を補う者が寄ってくるから最強なのであって、単独ではどれだけ強くても限界が来る。それは、マリアがよく分かっている事であった。
 だからシンジに近づきたい――シンジに認められるようになりたい、その思いは、女という事ではなく、純粋に強くありたいと思うマリアの生き方の表れでもある。
 無論、一人の異性としても、決して好ましからざる相手ではない。
 だがマリアは、シンジとの距離が近づけば近づくほど、そこにある見えざる壁に気が付いていた。シンジが一人で背負い込んでいるもの――おそらくは悔恨――多分、聞いてもマリアは理解出来ないだろう。
 これが他事なら、シンジが勝手に悩んでいるから馬鹿馬鹿しい、で片が付く。気が済むまで放っておけばいい。
 しかしそれは自分とシンジの間にあり、しかも原因が自分にあると分かっていながら、どうする事も出来ないだけにもどかしさは募る。
 壁に当たった時、仕方ないわねと避けるような生き方を、マリアはして来なかったのだ。
「一つ…訊いてもいい?」
 考えるだけ滅入ってきそうな気持ちを振り払うように、マリアはシンジに語りかけた。
「うん?」
「私に銃を渡すと言う事は、私が撃ってもいいってことなの?」
 訊いた途端、その身体は軽く後ろに引かれた。正確には、シンジが軽く抱きしめたのだ。
「女に銃口を引かせるほど、女神館の管理人は腰抜けじゃない。マリアに渡したのはそんな事じゃないよ」
「え…?」
 シンジの言葉は、マリアに取って軽い衝撃であった。てっきり、護衛の始末くらいは任されると思っていたし、マリアもそのつもりでいたのだ。
「この国の総理の寿命が縮まりかけている事と、マリアに返す事は全然関係ないよ。マリアちゃんってば張り切りすぎ」
 数度、軽くマリアの肩を揉んだシンジが、
「無論マリアには指一本触れさせないし、銃なんて触る暇もなく全員始末するよ。返すって言ったのはそう言う事じゃなくて、評価の表れだと思って?」
「評価?」
「碇シンジのお供の美少女が、牙を抜かれた火喰い鳥のままじゃ困るでしょ」
「び、美少女って言わなかった?お世辞が上手いんだから」
「マリアが可愛いのは事実でしょ?」
 シンジの場合、生粋の日本人のくせに、時々こういう台詞を臆面もなく言ってのける癖がある。
「そっ、そんな手には乗らないんだから…」
 そう言いながらも、マリアはシンジの肩に身を凭せかけ、身体を離そうとはしなかった。
 二人とも何も言わず、ただ宙を見上げている。
 そんな時間が数分続いた後、マリアが口を開いた。
「シンジから見て、今の私はどれ位のレベルにあるの?」
「二等兵から少尉になった位かな」
「ちょっと進歩したってところ?」
「そうだね。ただし」
「ただし?」
「今回マリアが一緒に行くのは、女神館管理人のお供としてじゃないからね」
「どういう意味?」
「帝国華撃団花組隊長マリア・タチバナとして行ってもらう。本当はそう言うことですよ」
「あ…」
 てっきりシンジのお付きだと思ったら、マリアの披露だと言う。
 問題は、披露してどうするのかという事だ。
「碇シンジはあくまでもバックアップ、花組はマリア隊長指揮の下、降魔退治も請け負うという形をはっきりさせておかないとね」
「うん…」
 今までだってシンジは隊長ではなかったし、自ら先頭に立ったりはしてこなかったのだが、隊員達の誰一人として、背後に不安を感じた事はない。
 暢気に戦況を眺めている管理人が、一番頼れる存在だと分かっているからだ。マリアが隊長になっても、シンジが自分達を見捨てたりはしないと分かってはいる。
 だが、シンジの言葉を聞いてマリアの心に浮かんだのは、一抹の寂寥であった。
 それに、自分が隊長になったからと言って、花組の戦闘能力が上がる訳ではない。総責任者を備えたと言うだけの、いわば形式上のものに近いのだ。だから実態は変わらない――筈――だが、シンジの言葉がどこか距離を置こうとしているように聞こえたのだ。
「戦闘能力とか、隊長に必要なのはそう言う物じゃないと俺は思ってる。そんなに難しく考える事はないよ」
「で、でも…」
「戦場で、総大将が先頭に立つなんて褒められた事じゃないでしょ?子分が、この親分に付いていって大丈夫と思うのはもっと違う所。それに今、メンバーの中でマリアがいいと、あの三人が同じ答えを出したんだから、もっと自信を持って大丈夫だよ」
 俺も、と言う単語は入っていなかった。
「ええ、そうね…」
 緩く頷いてから、
「シンジは、無関係になった訳じゃないわよね?」
「うん」
「もし自分がなるとしたら、どんな隊長像を思うの」
「微妙な質問だね」
 ふっと笑ったシンジが、マリアの腰に手を回し、よいしょと膝の上から下ろした。
 あっ、と思わず声が出掛かったが、声帯未満で止まってくれた。
 宙に浮いたシンジがマリアの前に立つ。一般人が見れば、さぞ奇妙な光景だろう。
 身体に手は触れぬまま、マリアの顔をじっと見た。
 暫し視線が絡み合った後、マリアが前に身体を倒し、シンジの胸によりかかった。シンジの視線が、そう言っているような気がしたのだ。
 不安定な事この上ないが、怖いとは思わなかった。
 倒れてきたマリアの身体を柔く受け止め、
「それは前へ、一歩進んでの倒れ方。その場へ留まって、乃至は後退しての倒れ方じゃない。マリアはずっと一匹狼で、皆で協力して何かをすることを重要と思ったことはない。でもそれは他の娘達も同じ。最初から団体突撃だったから、逆に力を合わせる事の本質を知らない。つまり、一人ではもうどうしようもない位の壁に突き当たった事はない」
(それは…あなたがいてくれたからでしょう)
「だからマリアが――」
 マリアの顔を両手で挟んで持ち上げた。
「自分に求められている隊長の役割が何か、とあれこれ迷ってるのは分かる。マリアは何事にも真面目だから。マリアが、迷ったり心弱くなったりして、ちょっと休んだり寄りかかる場所を求めて俺を探しているなら――俺は何処にでもいるよ」
「シンジ…」
 シンジの言葉に、マリアの目から一筋の涙が落ちた。
 
 ああそうだった…。自分の役目は後ろから見守ることだと、シンジはずっと言い続けてきたのではなかったか。
 余計な事など言わずとも、自分の胸中はちゃんと伝わっていたのだ。
 
「ありがとう…」
 マリアの顔はシンジの胸に押しつけられており、その声はくぐもって聞こえた。
 黙って頷いたシンジが、マリアの髪を軽く梳きあげた。
 
 
 
(ねえレニ)
(なに?アイリス)
 アイリスとレニが、シンジの部屋へお泊まりにやってきた時、もうシンジは戻ってきていた。
 ソファに腰掛けて、何やら熱心に本を読んでいた。
(おにいちゃん、ちょっとご機嫌良さそうに見えるだけど、おやすみのキスおねだりしてみようか?)
(だ、駄目だよアイリス。今日は一緒に寝ちゃ駄目って言われたらどうするの)
(大丈夫だよ、おにいちゃんの周りがそういう空気だもん)
(空気?)
 いつの間に空気を読めるようになったのかと、レニが言いかけた時にはもう、アイリスはぺたぺたとシンジのところへ歩み寄っていた。
「あのね、おにいちゃん」
「うん?」
「その…おやすみのキス、してもらってもいい?」
 普段シンジはしてくれない。いつもは、文字通りの素泊まりだ。しかもシンジの表情を読まないと、その宿すら出される事もある。
 レニは嫌な予感がしたのだが、この日はアイリスが正しかった。
「いいよ、ああもうこんな時間だね」
 膝の上に抱き上げられ、しかも唇にキスしてもらって赤くなっているアイリスに、
「あ、あの僕もっ」
 レニも慌ててシンジに歩み寄る。
 間もなく、いつも通りシンジを間にして二人は眠りについた。
 珍しくキスしてもらったのは嬉しかったが、
(なんか…食事の時よりずっと機嫌が良くなっていたような気がする)
 機嫌悪そうに見えた訳ではないが、確かにその時よりも機嫌の針は上向いていたような気がする。
(何か良い事あったのかな?)
 深く考える間もなく、二人とも睡魔の翼にくるまれていった。
 翌朝の寝顔を見る限りでは、普段より何割か増しで夢見は良かったらしい。
 
 
 
 
 
(つづく)

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