妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百八十六話:艶夜の後始末
 
 
 
 
 
「あの方が出演…されるのですか?」
 本当はどうしようかと迷ったのだ。良人(おっと)のこんな厳しい表情など、見たのは実に久しぶりの事だ。
 遠慮がちに声を掛けた狭霧に、黒木は振り向きもせず、
「そんな事があると思うか。下らない事をいうものではない」
「ごめんなさい…」
 謝ったが、狭霧は少し複雑であった。謝った事ではなく、問題はその対象にある。
 帝劇で久しぶりに舞台公演があるという事で、そのパンフレットが一斉に配られた。黒木が見ていたのはその一種である。一種、というのは正規には出回っていないという事だ。
 何しろ、妙なフォントでこう記されていたのである。
「碇シンジ出演!!……か?」
 と。しかも、『碇シンジ出演!!』の部分だけが異様に大きく、その後の文字は極小サイズになっている。三文週刊誌や、低俗なゴシップ新聞がよく使う手だ。
 魔道省で、妙に浮ついた部下を問いつめて発見した代物である。これだけなら、ちょっとしたネタで済むかも知れないが、黒木の神経に触れたのは眺めの良い席が数倍もの値段で売られており、しかもその背後に黒木が決して好まない黒瓜堂が居るという事であった。
 シンジの教育を任された訳でも、その成長に口が出せる訳でもないが、黒瓜堂だけは別だ。
 あそこは文字通り悪の巣窟で、付き合っていてもシンジに取ってなんら良い事はない。しかも警察の手入れを受け付けず、取り囲んだ機動隊を全滅させた前科すら持っている。シンジとの絡みがなければ、とっくに叩き潰しているところだ。
「若が出演される事などあり得ない。それをこんな低俗な煽りをかけて、しかも高値で売りさばくなど言語道断だ。若がご存じなのか、それ次第では私にも考えがある」
 正直な所、どうしてそこまで?と言うのが狭霧の率直な感想であった。黒木と違い、狭霧は最近までシンジに対して、あまり良い感情を持っていなかった。本人云々、と言うより良人を取られたような気がしており、世間一般的にはそう言うのを嫉妬という。
 とまれ、黒木のように最初からシンジと合った訳ではないので、少し冷めた目で見ているのは事実だ。狭霧にすれば、シンジをネタにして金儲けなどすれば、碇財閥を敵に回す事など分かり切っている訳で――例えシンジが出てきて欲しくないと思っていても――わざわざ、空腹で気が立っている獅子の尾を踏むような真似などしないだろうと思っている。
 やるとすれば、後から事後承諾――承諾されなくとも構わない、位の関係にある者だけだろうし、狭霧の知る限り黒瓜堂の主人はそこに属している。だいたい黒木を巻き込んだ訳ではないし、そこまで気にする事もあるまい。と言うよりもむしろ、ムキになっているようにすら見えるのだ。
 狭霧があまり言えないのもそこにある。黒木のそれが――かつて自分がシンジを見る目に似ていたような気がしたから。
 
 
 
 
 
「少し、付き合わせすぎたかしら?」
 艶を取り戻した表情で、美貌の女医は婉然と笑った。夜に蹌踉とやって来たシンジを捕縛して、今までずっとベッドの中にいた。
「反省してる?」
 乳房をたぷたぷと弄びながら訊いたシンジに、シビウはそうねと頷いた。心と動作が一致していない典型的な例だ。
「別に疲れた訳じゃないけど、ちょっとテンションが微妙だったからね」
 精液を飲むと肌が綺麗になる、という説があるのだが、あれは嘘だ。精液自体に飲用効果があるのではなく、愛する人のを飲むという心理状態が、女性ホルモンにいい影響を与えたりして、結果時折綺麗になれたりする。
 ただし、何事にも例外というものは存在しており、その典型的な例がここにいる。避妊の単語など知らぬげに、昨夜から膣内へ射精される事六度、顔の色艶はシンジが来た時と明らかに変わってきている。シンジの精を吸い取っている訳ではあるまい。
 多分、体内に変換機能が付いているのだ。
「どんなに多人数の娘を相手にしても必ず最後は私の所に来てくれる、そう言うところは好きよ」
「誤解を招く言い方は良くないぞ。大体、まだ誰にも手を出してないのに」
「選り取り見取りなのにね」
「ほっといてくれ。じゃ、俺は帰る」
 立ち上がろうとした途端、腕が掴まれた。
「何?」
「面白い物を手に入れたのよ。見せて欲しい?」
「要らない」
「そう。じゃ、破棄しておくわ」
「……」
 中途半端なネタでない事は分かっている。このままシンジが出て行けば、言葉通り破棄して終わりだろう。その後根に持つ事もない。
 分かっているから、ちょっと癪に障るのだ。
「…見せて」
「そうねえ」
 顔に指を当てて、少し傾けた。
「じゃ、あと二回。余裕が無い訳じゃないでしょ?」
「まだ欲情が治まってなかったの?」
 シビウは何も言わず、腕を引いてシンジを引き寄せた。艶を帯びた赤い唇が、顔の寸前まで近づいてきて止まり、
「商談成立?」
 と訊いた。
 それから一時間後、シビウは突っ伏しているシンジの背を、満足げに眺めていた。元より吸い取る気などないが、最近すこしつれないのでお仕置きしてみたのだ――甘いお仕置きを。
「で、ネタって何?」
 突っ伏したままのシンジに、シビウは一枚の紙を取り出した。
「これよ」
 それを翳したシビウの表情が、ほんの少し苦い物になったように見えたのは気のせいか。
「うん?」
 にゅう、と手を伸ばして受け取ったシンジが表面に視線を走らせた。
「なんだ、今度うちの小娘達がやるぶた…!?」
 次の瞬間、がばと跳ね起きた。
 シビウにはこれが分かっていたのだ――自分が何をしても、まず跳ね起きたりなどしないくせに。
「何じゃこりゃ…何じゃこりゃあ!」
 珍しく大きな声を上げてからシビウを見た。
「何か?」
「…何でもない」
 明らかに失望した、と言う表情でシンジが顔を背ける。どうやら、何かのネタだったらしいがシビウの知識にそんな妙なものはない。今度お仕置きだと、脳内の閻魔帳に付けておく事にする。
「君が舞台に興味があったなんて、私には初耳だったけど?」
 無論、シンジが全く興味がないのは分かり切っている。シンジがどう返してくるか、予想するのが楽しいのだ。
「それはシビウが俺の事を知らないだけ」
(!?)
 シンジの答えは、完全に予想外のものであった。勿論、シビウもこのパンフレットが本物である事、そして黒幕が誰かは分かっている。その上でシンジの答えを三通り予想していたのだが、すべてが外れた。
(……)
「配役も知らず、衣装だけ着せられて舞台に放り出されても困る。ちょっと行く所が出来たから俺はこれで。じゃあね、シビウ」
「……」
 シビウは黙って手を挙げた。何とか、ボーダーラインは超えずに済みそうだ。もしもシンジが先生とか言っていたら、今日のオペは全部中止にしていたところだ。
 病院を出たシンジの足取りは、やや蹌踉としていた。
 ちょっと吸われ過ぎたかも知れない――色々と。
 ポケットから携帯を取りだして掛ける。
 相手はすぐに出た。
「はい黒瓜堂です」
「シンジです。オーナーにちょーっとお話が」
「今忙しいんだが」
「駄目。却下する」
「どうしても?」
「どうしても」
「分かりました。じゃ、今から行きますから待ってて下さい」
 どこにいますか、とも訊かずに電話は切れた。普通なら二度と掛かってこないクチだが、何せ相手が相手だけに、どう居場所を掴まれているかも分からない。
「店に掛けたから…一時間位掛かるな。一度家に帰るかな」
 呟いた時、後ろで派手なクラクションの音が聞こえた。
 なお、シンジは睡眠不足と疲労であまり機嫌が良くない。
「……」
 どこの低俗な珍走団かと、少し危険な雰囲気で振り向いた。
 けたたましい騒音を立てて走る屑共に、暴走族という名は勿体ないと、警視庁が珍走団のネーミングを採用したのはつい先日の事だ。
 振り向いたシンジの目が一瞬見開かれ、次の瞬間その口が小さく開いた。
「だ…旦那?」
 珍しく白い国産車に乗った黒瓜堂の主人が、窓から手を出してひらひらと振っている。シンジの表情に気付き、ウケケケと笑った。
 満足したらしい。
 車に乗り込んだシンジに、
「私の計算では、もう少し早く電話がくると思ってましたが。今まで院長と一緒に?」
「そ」
「おまけにオーナーと来た。吸われ過ぎたかね」
「…そ」
 別に否定してもしようがないし、否定するほどの事でもない。
「で、情報ルートは?」
「シビウから。あれマジなの?」
「勿論」
 悪の枢軸の親玉は、当然のように頷いた。
「君が知ってるか知らないか知らないが、既に良い席は秘かに数倍の値段で売りに出しているんです。暴動が起きたらどうするんですか」
「暴動?」
 一瞬首を傾げてから、
「まさか魔道省の連中に売ったのっ!?」
「変なキャラがプリントされて一ヶ月位洗っていないTシャツと、単に手入れが悪くてすり切れたジーンズの格好で来る連中の方が良かったですか?」
「…それは嫌。でもなんでそんな事を?」
 まだ信じられないような表情のシンジに、
「お久しぶり」
「え?」
「それ位しか、今回の舞台にウリは無いんですよ。しかも真宮寺嬢が主役と来ている。まあ配役はあまり関係ないんですが、事前予想では埋まる席が半数を少し超える位と出ています。うちで作ったシステムが帝劇で使われている以上、そんな程度の人数では困る。無論、私の商売が最優先される事は言うまでもありませんが」
「……」
 どこまで本気か分からないが、入る人数が増えると言うのは、出演する者達に取ってはいい刺激になるだろう。
 ただ問題は――。
「もう配役はとっくに決まっていて、練習も結構進んでる。で、俺を一体何処に出そうって考えてたの」
「どこに出る気だったんですか」
「…へ?」
「舞台という物に価値を認めておらず、無論経験もゼロの君が出て一体何になるのかと、今度小一時間お説教してあげます」
「今深読みするほど気力無いんだけど」
「仕方ありませんね」
 車を止めた黒瓜堂は、シンジの耳元に口を寄せて何やら囁いた。
「旦那…それってある意味極悪なんじゃ…」
「お褒めにあずかって光栄ですよ」
「うん、良い計画だから…じゃなくて!さくら達にばれたら、俺の寿命がその日で途切れちゃうよ」
「このことは、私と君しか知らない。了解?」
「りょ、了解」
「大体、この程度の事で想い人の寿命を途切れさせるような娘達でもあるまい。何人から想われてると想ってるんですか」
「ほっといて」
 ぷい、とシンジは横を向いた。数が多ければいいというものじゃないし、そもそもシンジは少数精鋭主義なのだ。
「まあいいでしょう。とにかく、パリの惨敗を以て君の経験値は大きく下落した。そろそろ経験値も増やしておかないと」
 黒瓜堂の科白に、シンジが視線を向けた。
「…評価も下落した?」
「非常に良い、からどちらでもない位だな」
「…そう」
「私からの評価など、気にする事はない。ただでさえ、私と付き合わせたくない人はいるんですから」
「そいつの五体を跡形もなく押しつぶしてから、旦那の評価を聞きに来るとしよう。ところでアスカはよくやってるの?」
「頑張ってますよ」
 即答だったが、シンジはそこに微妙な空間を感じ取った。行間を読む、とはこういう事を言うのかも知れない。
「でも?」
「取り立てて、何かしてもらってる訳じゃないのでね。彼女の仕事はあくまで風呂掃除。この時点で悪い評価だと、管理人も困るでしょう」
「うん」
「まあ、彼女の事はうちに任せておきなさい。それよりシンジ君、来ますよ」
「来る?」
 シンジがバックミラーを見た。どこかの連中に付けられたのかと思ったが、
「ドイツからですよ。仕送り停止は経済封鎖、それが効かないと分かれば、次は乗り込んできますよ」
「誰が?」
「親の仮面を被った屑共が」
 黒瓜堂の科白に、シンジはにっと笑った。
 アスカの両親が来るのは分かっている。だがシンジは聞きたかったのだ――即ち、悪の親玉からのゴーサインを。
「了解」
 ゆっくりと上がったシンジの顔は、表情を見る限り既に回復している――怪しい雰囲気が強くなっているのは気になるが。
 疲労の原因は、精神的な物が強かったらしい。
「女神館(おうち)までお送りしますよ」
「よろしく」
 十分後、車が女神館の前に滑り込んだ時、中から一人の少女が出てきた。
 レイだ。
 助手席のシンジに気付くと、ひらひらと手を振って近寄ってきた。
「シンちゃんおっかえり〜」
「ほほう」
 黒瓜堂がシンジを見る。
「その呼称は封印したと、前に君から聞いていましたが」
「とっくに封印済だよ。こら馬鹿綾波、誰がシンちゃんだ」
「ふうん?ボクにそんなつれない事言うんだ?」
 てくてくと運転席側に回り、
「ねえ黒瓜堂さん」
「何かな」
「これ、いくらで買ってくれる?」
 差し出したのはボイスレコーダーであった。
「今朝からね、妙に幸せそうな顔して寝込んでる娘が三人いて、ボクが留守番頼まれたんだけど、面白い寝言録音しちゃったんだ。これっていくらで売れ…あれ?」
 次の瞬間、レイの身体は空中にあった。無論、脱兎のような勢いで飛び出したシンジが抱きかかえたのだ。
「話聞こうかレイちゃん」
「え〜、どうしよっかなあ。碇君とボクとは所詮他人の関係だし〜」
「他人に気を遣うのも面倒な話です。うちでは高値で引き取らせてもらいますよ」
「旦那は黙ってて!」
 火にハイオクガソリンを注ぎたがる外野を一喝し、
「じゃ、俺はこれでっ」
 レイを小脇に抱えたまま、野良犬に追われた猫よろしく女神館に駆け込んだ。
 その後ろ姿を見送り、
「三人の寝言ですか。さて、昨夜は何をしていたのやら」
 あまり興味もなさそうに呟いて、アクセルを踏み込んだ。三人、と来れば面子は決まってくる。と言うよりも、それ以外の娘が混ざる事はあるまい。
 別に、今ここでレイから手に入れる必要はない――火種など、少しかき回せばいくらでも手に入るのだから。
 信号が赤になったのを見て、珍しくブレーキを踏んだ。普段なら突っ切る所だが、別に良心が目覚めた、等と言う事はなく、単に不慣れな車だから止めたに過ぎない。
 と、携帯が鳴った。
「見つけた?」
 これが第一声であり、
「二人は北米でミサト嬢達は巴里にいる?了解、豹太出国の手配を。明日の朝、一番の便で出立します」
 一応自信はあったのだが、シンジが万一駄々をこねたケースを考えて、ミサト達ご一行を探し出すように告げてきたのだ。無論、手がかりは何もない。
 少し手間取ったが、三十分ほどで見つけ出した。
 衛星を眼とする店員の事を考えれば、大体妥当な線だろう。
 
 
 
「もう…わたくしが寝ている時に全部剃ってしまわれるなんて…」
「さ、さくらおまんこくっつけ過ぎデース」
 ふう、とシンジは息を吐き出した。多少むにゃむにゃ言ってるが、内容ははっきりしており、聞き間違いではない。
 さくらのが入っていなかったのは、唯一の幸運だったろう。
「で、どういう事なのかしら?」
「どうって、三人を頼まれたけど暇だったからさ、ボクもうとうとしてたんだ。そしたら声が聞こえて慌てて起きたんだけど、三人とも眠っててね。あれっと思ったらすみれちゃんの唇が動いて、それはもうびっくりしちゃった。何せ、寝ている間に全部剃っちゃった、だもんねえ。やっぱりそれってあそ…」
「阿蘇?」
「う、ううん何でもない」
 さわっとレイの首筋を何かが撫でたのだ。それは、黒衣に身を包んだ骸骨の持つ大鎌の刃によく似ていた。
「で、でもさ」
「何」
「結局誰も抱いてないんでしょ?そんなにすみれちゃん達って魅力無いの?シビウ先生の方がいいって事?」
「別にレイには関係ない事だが。そもそも、そんな録音が知られたら三人からどういう目に遭わされるか理解してる?」
「ボクはシンちゃんとは違うよ。心の中を引き出して読んだ訳じゃないじゃない。寝てはいても、自分で言った事じゃない。すみれちゃんを脱がしてみても、普通にちゃんと生えてるの?」
「俺はそんな事しないよ。アイリスじゃないんだから。それに、住人達の処女卒業の為に雇われてる訳じゃない。片っ端から手を出してどうすんのさ」
「ふーん」
「…何よ」
「本はたまに読むんだけどさ、剃毛プレイってかなり仲が進んでからとか、それかご主人様と奴隷の関係の間柄でしかやってないみたいだけど?」
「あーもう、うるさい!」
 わしゃわしゃと髪を引っかき回し、
「で、俺にどうしろっていうのさ」
「どうしようかな…別にお金は要らないし。御前様が、一生掛かっても使えない位お金くれたの知ってるでしょ?元々、いっぱいお金使う生活とか好きじゃないしね」
「で?」
「碇君に一つだけお願いがあるの」
 真顔になったレイが、すっとボイスレコーダーを差し出した。
「セックスまでとは言わない…でも、アスカにもしてあげて」
「何を」
「何ってその…い、色々。も、勿論碇君に義務が無いのは知ってるけど、このままじゃアスカだけ置いてきぼりじゃんか。アスカだって普通の女の子なのに…そんなのひどいよっ」
「……」
 シンジがすぐに反応しなかったのは、言葉が見つからなかったからではなく、レイの目尻に涙があったからだ。レイがそこまでアスカの事を考えているとは、想像もしていなかった。
「レイが友人思いなのは分かった」
 軽くレイの頭を撫でてから、
「でも断るよ。それと、レイは勘違いしている所がある」
「ボクが?」
「アスカが、さくらやすみれと比して魅力がないとか、そんな事はない。能力と魅力は別物だし、何よりも惣流・アスカ・ラングレーは、黒瓜堂の旦那にアルバイトとして選ばれたんだ。つまり資質のある娘ってことさ」
「じゃ、じゃあ…」
「どうして何もしないかって?」
 こくっと頷いたレイに、
「すみれが此処を出て行くとか言った時に、皆に話したよね。一度決めた事なら、後押しはする。だけど俺が手を引く事はしないよって。アスカも同じ事――或いは妙に潔癖性なのかも知れない。何にしても、アスカを誑かしたりする気はないよ」
「誑かすってボクはそんな意味で言った訳じゃ…」
「レイの気持ちは分かる。でも、結婚まで男なんて本でしか知らない生娘で通すか、同じ処女でも初夜の晩に旦那を腰砕けにしちゃうような娘になってみるか、それは自分で決める事――別に俺がそう言う教育をしてる訳じゃなくて!」
「ほんとーに?」
「当たり前でしょ。それとレイ、もしもだけどアスカに知られたら、アスカのプライドは決して自分を許さないと思うよ。アスカとすみれって性格似てるしね」
「うー」
 腕を組んで唸っていたレイが、ぽんっと手を叩いた。
「あっ、そっか」
「ん?」
「ボクはアスカの事頼んだけど、やだって言ったよね。じゃ、これはボクが持っているね。早速黒瓜堂さんに電話して――」
「お金要らないって言わなかった?」
「言ったよ。でも黒瓜堂さんは多分ボクの事知ってるし、きっと何かイイモノ…をっ」
 にゅうと伸びたシンジの手から、レイは素早く避けた。
 手の中でぽんぽんと器用に弾ませていたが、やがて何を思ったのかシンジに返した。
「レイ?」
「ま、いいや今回は返してあげる。すみれちゃん達の寝顔、揃いも揃って幸せそうだったしね」
 不幸そうな寝顔を見た事あるのかと思ったが、そんな事は口にしない。
「それに、どうアタックするかは、確かにアスカが決める事だもんね。ところでさ」
「何?」
「その…ちゅーとかしてみない?」
「誰と」
「ボクと」
「ちょっとお口が淋しい?」
「ちょ、ちょっとだけ」
 刺激されたのは間違いない所だが、ストレートな選択は時として火中の栗と化す可能性がある。一旦そうなった場合、火傷を覚悟して拾いに行かなければならなくなる。
「じゃ、ちょっとしてみる?」
「う、うん」
 結構すばしっこく、危険回避能力も高いレイだが、時々鈍るらしい――少なくとも、この時点ではそうであった。もしもアンテナが作動していれば、シンジの目の光に気付いた筈だ。
 ただでさえレイに振り回されており、あまつさえつい先程まで、魔女医の床の中に滞在していたのだ。危険な物が溜まる要素は十分すぎる。
「じゃ、じゃあ…」
 初めてのそれに、レイが初々しくそっと唇を突き出すその姿は、まさしく飢えた猫の前で寝転がる丸々と太ったネズミであった。身体が固定され、初めてのキスでいきなり舌が差し込まれるまでに十秒と掛からなかった。
(だっ、誰も舌なんて…や、やだよぅっ…)
 じたばたと藻掻くがまったく身体は動かせず、しかも気持ち悪い感触が段々と快感に変わってきた。
 この管理人を開発したのはシビウ、魔女医シビウなのだ。
 五分後、やっと解放されたレイは、ふにゃふにゃと崩れ落ちた。もう、自分ではまともに立つ事も出来ない。
「シ、シンちゃんのえっち…ばかぁ…」
 呂律の回転もかなり落ちているレイの横に屈んだシンジが、
「ほほーう」
 レイのジーンズに手を掛けた。
「な、何っ」
「検査します。濡れてなかったら、今日から一ヶ月レイの奴隷になったげる。もしも濡れてたら――」
「い、いいよっ、べ、別に奴隷なんて欲しくないしっ」
「濡れてたら今日から三日間俺の奴隷ね。さーて、さくさく脱いで貰おうか」
「だ、駄目駄目っ、碇君のエッチ!」
 必死で前をおさえるも、既に力は殆ど入っていない。傍から見れば、通報される事間違いなしの光景だ。
「大丈夫。一瞬で終わるから」
 悪魔の指が瞬時にボタンを外した瞬間、とうとうレイの目から涙が落ちた。
「や、やだぁ…お、お願いボクが悪かったからお願い碇君…」
 脱がされるのが嫌、と言うより今日だけはどうしても見られたくなかったのだ。
 さすがにそこまでして無理押しする気は無かったシンジ、
「じゃ、認知する?」
 手は止めたが、あくまで邪悪な口調で訊いた。
「わ、分かったよもうっ!認めるよっ、か、感じたのは認めるっ、これでいいんでしょっ!」
 普通はそれを逆ギレと呼ぶのだが、ここの管理人はあまり枝葉末節を気にしないタイプと来ている。
「結構。少し追い込み過ぎたかな」
 立ち上がってレイに手を差し出した。
「……」
 手を引いて立ち上がらせたまではいいが、
「これで四人目、と。さて、日記に書いておかなくちゃ」
 イヒッと笑って歩き出そうとしたのだが、ふと妙な気配を感じて振り向いた。
 意識が飛ぶ寸前、シンジが最後に見たのはハンマーを持って仁王立ちになったレイの姿であった。
 
 
 
 ゆっくりと目を開けたシンジの視界へ、最初に飛び込んできたのは金髪であった。
(ああ、マリアだ…マリア!?)
 起きあがろうとしたが、後頭部がずきずきと痛む。
「おはよう。大丈夫?」
「何がどうなったの」
「後頭部にこぶを拵えて寝ていたから、私が担いできたのよ。フェンリルさんに余計な事でも言ったの?」
「…違う。ところで何か寝言言ってなかった?」
 シンジの言葉に、マリアはうっすらと笑った。
「いいえ。でも」
「で、でもっ?」
「可愛い寝顔だったわ。癒し系って感じね」
「…ずっと見てたの?」
「そ、そんな訳ないでしょっ、ちらっと見ただけよ」
 マリアの方が赤くなっている。どっちが見られた方だか分からない。
「ずっと付いててくれたんだ。ありがと」
「べ、別に…」
 顔を赤くしたマリアがぷいっと横を向いた。ずっとの部分を否定しない事で、前言とは矛盾しているのだが、本人は気付いているかどうか。
(それにしてもレイの奴…)
 自分が追い込みかけた事は棚に上げて、どうやって仕返ししてくれようかと、シンジが悪巧みを巡らせた時、
「さ、さっき…」
「ん?」
「御前様からお電話があったの」
「あの老人から?何か言ってた?」
「いえ。ただ目が覚めたら連絡して欲しいと」
「…分かった。電話持ってきてくれる」
「うん」
 マリアが持ってきた受話器を、シンジはしばらく眺めていた。
 邪魔だと思ったのか、
「ごめんなさい、私がいたら電話出来ないよね」
 出て行こうとするマリアの手をシンジが掴む。
「シンジ?」
「別に邪魔って事じゃないよ。そこにいて」
「う、うん…」
 通話ボタンを押してダイヤルする。相手は三回で出た。
「何の用?ああ…いや大丈夫。え…また?」
(あまり…いいお話じゃなかったみたいね)
 口調でも表情でも、すぐに分かる。どう聞いてもいい感じではない。
「ちょっと待て…」
 宙を見上げたシンジの視線は、少しきついものになっている。
「…ん?」
 シンジとマリアの視線が合った。
「一応承諾した。但し、相手次第じゃまだ気が変わるから」
 そう言うと一方的に電話を切り、
「マリアちゃん耳貸して」
 あまり表情が変わっていなかったから、或いは低確率ながら盗聴でも考えているのかと思い、言われるまま顔を寄せた次の瞬間、ちゅーっと頬に吸い付かれた。
「…!?」
 マリアにしては珍しく反応が遅れたのは、完全に予想範囲外だったせいだ。
「どーゆー事かしら」
 タコの吸盤みたいに吸い付かれたマリアの白い肌は、早くも鬱血してキスマークが出来上がっている。
「口直し」
「く、口直し?」
 その手が危険な形を作ったマリアをよそに、シンジはひょっこりと起きあがって時計を見た。
「あ、もうこんな時間。夕食のおかず買いに行かないとね。さ、今夜はマリアちゃんの好きな物作ってあげるから一緒に行こ?」
「え?」
 にこっと笑って手を差し出されたものだから、、振り上げた拳は行き場を無くしてしまった。
 ただ、そんなに不快な感じではない。
 マリアの顔をまじまじと眺めたシンジが、
「あ、ごめん痕付いちゃったね。治そうか?」
「別に…いいよ。その代わり、今度は私が顔中に付けてあげるから」
「かっ、顔中!?」
「……」
「……」
 珍しく、ピュアなのはシンジの方であった。マリアに吸われて、顔中に鬱血の痕を付けてウロウロしている自分の姿が脳裏に浮かんだのだ。下手人はともかく、それはさすがのシンジでも恥ずかしすぎる。
 一方自分で仕掛けた地雷を踏んだような顔のマリアだが、無論意味は承知していた。
 ただし、深い意味があった訳ではなく、空気から察してシンジならさらっと流してくれると思っていたのだ。がしかし、流すどころか顔を赤くしてこっちを見つめている。
(こ、こんな時に限って…シンジの馬鹿っ)
「た、蛸を張り付けて吸わせるって言ったのよ。ほ、ほらさっさと行くわよっ!」
 シンジの手を引っ張ってずんずんと歩き出していくマリア。
「蛸ってそんな…マリアちゃんマニアック…はう!?」
 部屋を出た所で潰れたような声がした。どうやら、深追い過ぎた管理人が踏まれたらしい。
 
 
 
 
 
(つづく)

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