妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百八十二話:ふいんき
 
 
 
 
 
 居室に戻ってきたリツコは、ややご機嫌であった。まだ喉の辺りをシンジの指にくすぐられているような気がする。
 抱かれた後は、いつも半日近くシンジの感触が体中に残っている。リツコがミスをするのは、その殆どがこの時だ。
 とはいえ、シンジと身体を重ねる回数自体が少ないから、そうそうある訳ではない。
 それに思い出すと疼いてくるから――しかも場所を問わず、だ――出来るだけ忘れるようにしている。
 ただし、それ以外は違う。シンジに触れられた箇所を指でなぞると、そこがほんのりと温かくなってくるのだ。
 理由の解析は、リツコの頭脳を以てしても不可能だが、一つ分かっている事は、シンジがそんな事など考えてはいないと言う事だ。住人達には癒し系にもなっている管理人だが、特技にそんな事は入っていない。
 しっとりとクリームを塗った指先で喉に触れる。ぼんやりと宙を見上げるリツコの視線は、とても穏やかな物であった。
 と、電話が鳴った。
「あら?」
 リツコの表情が動いたのは、掛かってきたのが直通だったからだ。何本かの回線が掛かってくる電話機だが、直接繋がるのは限られている。
「赤木です」
「花組が今度公演をやる訳だが」
 掛けてきたのは黒瓜堂の主人であった。
「ええ、知ってるわ」
「最初の公演はないから、二回目からだ。二回目から最終回まで、舞台が最も見える席を買っておくといい。先日、特等席を五倍の値段で売るよう劇場の彼女達に指示を出しました。どこがいいからは人によって違うから、明日辺りご自分で行ってご覧なさい。じゃ、そういう事で」
「……」
 リツコの台詞は、名を名乗る事だけであった。殆ど誘拐犯からの身代金受け渡しの連絡に近い。
 ただ、嫌がらせの電話をわざわざ掛けてくるような相手ではない。
 指先で机をとんとんと叩きながら、しばらく考えて込んでいたリツコだが、やがて受話器を手に取った。
「マヤ、悪いけど明日のスケジュール調整してくれないかしら。午前中に一時間位開けて欲しいのよ。ええ、悪いけどお願いね」
 
 
 
 
 
「きっと君は来ない〜」
 クリスマスイブ、見事に振られた浪人生みたいに歌の一節を口ずさみながら、シンジは窓際に立っている。
 三十分経ったら部屋に来て、とすみれに言ってあるが、時間内には絶対来ないと確信があった。もう十五分が経っているが、すみれは浴場から出てきていないとレニから連絡があったばかりだ。
 入ったのは五分前だと言うから、雀のように数分では出てこないだろう。おそらく肌が玉になるまで磨いているのだろうが、所詮は肌であって無理な話だ。
 そこへドアがノックされた。
「はーい」
 姿を見せたのは織姫とさくらであった。手には袋を持っている。
「待ってたよ、入って」
 袋を受け取ったシンジが、
「問題なく買えた?」
「え、ええ買えましたけど…」
「なに?」
「メモの最後にあった“いつものナニ”って何なんですか?しかも、お店の人も普通にくれましたし」
「指定した店に行ったんでしょ」
「ええ」
「じゃ、大丈夫」
 シンジはニマッと笑った。
「勿論、いつものナニっていう品物がある訳じゃない。分かる人にだけは分かる暗号だよ。原住民の秘薬をベースにした媚薬の一種」
「『媚薬?』」
「えっちな気分になるお薬です。それも激しくね」
 シンジの言葉に、二人揃ってかーっと赤くなった。
「ほ、ほんとに?」
「嘘は言わない」
「でで、でもっ、どうしてそんなのを?やっぱりその…気分が乗るように?」
 少し急き込んで訊いた織姫の頭を、シンジは軽く撫でた。
「違うよ。言ったでしょ――織姫とさくらにも手伝ってもらうって?」
「お買い物の事じゃなかったんですか?」
「NE」
 シンジの表情がちょっと邪悪化した。
「すみれ弄るのも手伝ってもらうから。何なら最初から見ててもいいよ。男には絶対効かないこれを、処女の娘に飲ませるとどうなるか」
 ふるふると首を振った。
「い、いえあたし達は待ってますから…い、碇さんが呼んで下さい」
「そう?」
 例え口ではどう言おうと、シンジが自分達を物みたいに扱わない事は分かっている。
 それに今回の件にしても、シンジが一言言えば片づく訳で、それを言わないというのはきっとまた甘い言葉を囁くに違いないと――非現実的な発想と分かってはいても――不安なのだ。
「あの、碇さん」
「ん?」
「寝て下さい」
「…は?」
 シンジの表情を見て受け取られ方に気付いたらしく、
「あ、あの、そうじゃなくてっ」
「なに?」
「その…横になってもらえませんか」
 織姫とさくらがぺたんと座り込む。内心で色々突っ込みを入れながらも、シンジが横になると、こっちですと膝の上を指した。
(……)
 ずりずりと這っていくと、二人の手が両側からシンジの顔をそっと挟んだ。
「どしたの?」
「その…あ、あんまり優しくしちゃいやデス」
「あっそ」
「『痛っ!?』」
 シンジの手がにゅうと伸びて、二人の頬をぎにゅっとつねったのだ。
「い、碇さん何するんですか!」
「だって優しくしないでって言うから。違った?」
「あ、あたし達にじゃないです!そうじゃなくて…す、すみれに…」
「すみれに?」
「だって碇さん優しいから、甘いキスとかしちゃってすみれが言う事聞いちゃいそうだし…」
「こらっ」
 ひょいとシンジが起きあがった。
「な、何ですか?」
「前にも言ったでしょ、無駄な投資は嫌いなの。すみれにあっさり言う事聞かれたら、せっかくさくらちゃん達に買ってきてもらったのが無駄になるじゃない。こんなイイモノを手に入れたのに、使わなかったら天罰が当たるってもんです。ところで、店で旦那に会わなかった?」
「黒瓜堂さんに?」
「そ。あそこの店、旦那の系列だから」
「『…ふえ?』」
 ワンテンポ置いての、二人の反応は顕著であった。みるみる内に青ざめ、死人みたいな顔色になった二人を見てシンジは首を傾げたが、本人達にとっては大問題である。
「ほ、本当ですかっ?」
「どして?」
「だって、こ、こんなの買ってるなんて知られたらっ」
「知られたら?」
 あくまでシンジの表情に変化はない。むしろ、狼狽える二人がさっぱり理解出来ない様に見える。
「女の子はそう言うのを買わない、そんなのははしたないとか何とか、そう言うのってちょっと古いと思うよ。それに色々良くないし」
「ど、どうしてですか…」
「女の子に性欲がないなら、子供が出来るケースは男にレイプされたか、或いは騙された場合だけって事になる。そもそも人間が誰でも持ってる三大欲求なん――」
 言い終わらぬうちに、妙な視線が来た。香水の匂いを振りまき、顔のあちこちに口紅の痕を付けた亭主が、帰宅して開口一番男ばかりの飲み会だったよと言った時、妻が見せる視線のそれだ。
「あの、何?」
「『べ〜つ〜に〜』
 怒っている感じではない。むしろ、拗ねていると言った方が近いだろう。
(むう)
 二秒考えて、ピンと来た。
(あ)
 脳裏に、ポンと手を打つハハーンの姿が浮かんだ。ハハーンとは、神話に出てくる妖精で、これが脳裏で手を打った場合名案が浮かぶと言われている。
 ただし、時々ろくでもない発想が浮かんだりもするが、そこはやはり悪戯好きの妖精であり、完答を期すべきではあるまい。
 二人を柔らかく引き寄せ、
「可愛いとは思ってるよ。でも、今はとりあえず降魔退治に頑張ってもらわないとね。管理人が可愛い住人に夢中で、本業そっちのけじゃ困るでしょう?」
 くすぐるような口調で囁いた途端、効果は覿面に現れた。
「ち、違いますっ。べ、べつにっ」「わ、私達の事なんてどうでもいいデスっ」
 かーっと赤くなって横を向いても、説得力は皆無だ。
「あ、そうなの?」
 こう言う時は深追いせず、放っておくに限る。
 十秒位だったろう、ちらっと二人がこちらを見た。 
「べ、別に私達の事見て欲しいなんて思ってないけど…」「い、碇さんがそう思ってくれるなら嬉しい…」
 シンジの両頬で、ちうと音がした。
 こんな時、女は妙に高い団結力を見せたりする。合図もしていないのに、まるで練習を幾度となく重ねたかのように、台詞はぴたりと繋がっている。
「あたし達は別に、聖女だなんてそんな事全然思ってません。そ、それに碇さん…あ、あたしの事知ってるじゃないですかっ」
 普通に聞けば、はあとしか応じようのない台詞だが、この二人になら通じる。
「ああ、あれね…モゴ」
 内幕をばらす気はなかったが、不意にさくらに飛びつかれた。横にいるのは一応恋敵なので、発覚するのを怖れたらしい。
 がしかし、どう見ても怪しい事この上なく、今度は織姫が二人をさっきの視線で見ている。
 二人で何か悪い事してるでしょ!とその視線は言っており、シンジはあっさり受け流したが、さくらは少々ばつが悪い。
 助けて、と送った電波を受信してくれたのかは分からないが、
「前に、さくらの母君から聞いた話だよ。大したことじゃない」
 時々墓穴も掘るが、隠蔽工作に掛けては一級の技術を持つシンジであり、もし結婚した場合、浮気しようが不倫しようが、まず尻尾を出す事はあるまい。
「そ、そうなのよ。あたしの…小さい頃の話だから」
 どう見ても、さくらの方が怪しい。
「で、さくらのそれがどうしたって?」
 これ以上放っておくと、勝手に尻尾を出す可能性があると、シンジが切り替えた。
「え?ああ、だからその、別にあたしがそう言う事を嫌いとかじゃくてただ…黒瓜堂さんに全部知られちゃうし…」
「織姫も?」
 少し考えてから、織姫は首を振った。
 微妙に変わったシンジの口調に、空気と雰囲気を読んだらしい。
「織姫の方が頭いいと見える。さくらは自惚れ強すぎ」
「ど、どうしてですかっ」
「どうして?」
 台所へ侵入して悪さを重ねた挙げ句、仰向けにされて殺虫剤を吹きかけられ、断末魔の苦悶を見せているゴキブリを見るような視線をさくらに向けた。
「総理大臣とか、超有名な俳優ならいざ知らず、どんな客が来て何を買おうと一々店員は覚えていない。そもそも、旦那がレジにいたならいざ知らず、そうでなければ旦那の耳にはいる事すらない。一度買いに行った程度で覚えられて、しかも色々言われるに違いないなんて不届き千万」
 えらい言われようだが、その横でほっとした顔をしている織姫に、
「織姫、ここおいで」
 指した先は自分の膝であった。
「はーい」
 ちょこんと乗ってきた織姫の喉元をくすぐる。集音器を近づければ、ゴロゴロと音がするに違いない。
「ところで織姫、どうして気が変わったの?」
「うん?」
 喉元を這う指先の感触に眼を細めながら、
「特に理由はないんだけど…ふいんき読んだの」
「そっか…ふいんき?」
「違うの?」
「ふいんき…」
 舌の上で転がしてから、
「ふいんきじゃなくて雰囲気だ。文字が入れ替わっとる。まあいい、この店をわざわざ指名して行かせたのは、少し別の理由がある」
 ふいんきならぬ雰囲気を読んだだけで、織姫とてシンジを理解した訳ではない。それに引き替え、すっかりしょんぼりしてしまったさくらを見て、さすがに可哀想と思ったのか少し口調を緩め、
「こういう店は男が、乃至はカップルが行くところと相場が決まっている。女一人、或いは女二人が行くなんてのは、カモがネギを抱えて特攻するのにも近いんだ」
「どうして?」
 膝の上の織姫が甘い声で訊いた。
「こっそり消失しやすいから。店の種類上、誰にも言わずに来る事が殆どだから、拉致られてどこぞに売られても足取りが掴めない。待ち受けだったら、楽して攫える所の上から三番以内に入ってる」
「『え…』」
「旦那の店ならそれはあり得ない。うちの子達が拉致でもされたら大変でしょ?」
「じゃ、じゃあ最初からそれを考えて?」
「まあ、ね」
「『碇さん…』」
 二人の手が左右からシンジの顔に伸びてきた。上場したシンジ株が、少し上がったらしい。それも本人の知らない所でだ。
「ところで二人に訊きたい事があるんだけど」
「『なあに?』」
 甘い声は一瞬で吹き飛んだ。
 シンジはこう言ったのだ。
「一人でする時って、鏡に映しながらしたりするの?」
 と。
「『……』」
 反応がなかったのは、無視していた訳ではない。意味が理解出来なかったのだ。
 三秒経って、二人の顔が同時に火を噴いた。
 理解したらしい。
「な、ななっ、何言ってるんですかー!」「い、碇さんのエッチ変態信じらんない!」
(イッテルンディスカー?)
 早口だとこう聞こえる。
 一つ勉強したと、妙な事に感心していたシンジだが、乙女達はそれどころではない。この分だと、首筋までどころかつま先まで真っ赤になっていてもおかしくないだろう。
 いくら片想いの想い人とは言え、セクハラ極まると同時に猛抗議しようとしたが、ふと妙な事に気付いた――シンジの表情に変化がないのだ。
 
 シンジの事だから、真顔でセクハラ位はしてのける筈だし、きっと二人にえっちな質問をしてお互いの反応を楽しむに違いない…でももし違ったら困るし…。
 
 二人が勝手に深読みしている間、問題児はと言うと彼女達の顔を眺めている。実験体を見る科学者の視線であった。
 最初にシンジが口を開いた。
「あるのかないのか、と訊いている。どっちでもいいよ。性癖批評じゃないんだから」
 しかし、そんな事を言われても、それならと答えられる話ではない。ただ、冷やかしとか、からかいではないのは分かった。
 ちらちらとお互いの顔を見ていたが、意を決したようにさくらが、シンジの耳元に口を寄せた。
(じ、自分のってあの…あ、あそこですよね…)
(マンコ以外にないでしょ)
 もう一回赤くなったさくらが、そっと首を振った。
(み、見ながらなんて無いです…)
「織姫は?」
「じ、自分のおまんこ見ながらなんて、するわけないデース!碇さんのえっち!」
(あ、逆ギレ)
 勿論声には出さず、よしよしと頭を撫でたシンジが怪しく笑った。
「い、碇さん?」
「じゃ、見ておくといい。他人(ひと)の、それも濡れた状態のなんて滅多に見る機会無いはずだから」
「ひ、人のってもしかして…」
 さくらが言いかけた時、シンジの携帯が鳴った。
「はい…ああ、分かった了解」
 電話を切ったシンジが、
「もうじきお客さんが来る。その時になったら呼ぶから、自分の部屋で待っていてくれる…ん?」
 見ると、何やらヒソヒソと囁きあっている。
「どしたの?」
「あ、いえ何でもないです」
「そ。じゃ、待っててね」
 はーい、と出て行きかけた二人だが、出口で足が止まった。
「あの、そんな事はないと思いますけど…」
「ん?」
「お、お互いに一人でするのを見せ合うとかじゃ…な、無いですよね?」
「誰がそんな事言うか!さっさと行かんかー!」
「『キャーッ!』」
「んまったくもう」
 二人を追い払ってから、袋の中の検分を始めたシンジ。一つ一つ眺めていき、最後に小瓶に入った怪しげな液体を眺めて、ニヤッと笑った。
 既に用途も知り尽くしているらしい。
 カサカサと飲み物の用意に取りかかり、グラスにジュースを注いだ所でドアがノックされた。
「入って」
「お邪魔しますわ」
 入ってきたすみれがナイトガウン姿だった事よりも、シンジが見ていたのは肌の色であった。
(やっぱり茹だってる)
 シンジは内心でうっすらと笑った。おそらく、何を着て行こうかと延々悩んでいたに違いない。肌をせっせと磨いていたなら、普通は上がってからするからだ。湯の中で身体を洗う風習は、日本にはない。
「あの…お待ちに――痛っ!?」
 ぽかっ。
「三十分と言ったのに、どうして五十分経ってから来るんだすみれって奴はよぅ!」
 無論本気で怒ってなどいないし、手にも殆ど力は入れていない。
「だ、だって…あ、汗の匂いがするままじゃ、行かれませんもの。折角、碇さんが呼んで下さったのに」
「ふーん。まあいい。で、その下は何?」
「どうしても、お見せしないといけません?」
「あ、別にいい。そこまでして見たいモンでもないから。じゃ、今氷を――」
 実に素っ気なく身を翻したシンジの袖が、くいっと引っ張られた。
「もう…わ、わたくしからは晒せないとご存じなのに…」
 意地悪ですわ、とちょっと恨めしげな視線でシンジを見る。この辺り、まだシンジと対等の駆け引きが出来るまでには至っていないすみれである。
「じゃ、脱いで…もとい、上だけ見せて」
 脱がせるのはまだ早い。と言うより、ブラだけ見れば大体想像はつく。
「少し、だけですわよ」
 脱がない事を前提なら、余りにも気合いの入った格好だが、すみれはガウンの胸元を少し左右に広げた。
 ノーブラであった。
 白い乳房がぷるっと揺れる。
「……」
 少し頬を染めたすみれだが、ふふっと笑った。乳自慢でない事は明らかだ。
(餌だな)
 ピンと来た。ガウンをはらりと落とした場合、淫毛がストレートに視界に飛び込むという事はあり得ない。
 数秒考えてから、
「黒のシルク」
 ビシッと指を立てた。
「正解ですわ。やはり、わたくしの事ならよく分かって下さるのね」
 嬉しそうに微笑んだすみれが、きゅっとシンジに抱き付いた。満足したらしい。
 無論、パンティの話である。分からなかった、乃至はわざと間違えてみた場合、どうする気だったのかちょっと気になったが、訊くのは止めた。
 この雰囲気ではとりあえず野暮というものだ。
「さ、そこにお座り」
 氷を持ってきたシンジが、グラスに放り込んだ。
「ジュースですの?」
「さっき月が隠れたのでね」
「碇さんは、月がお好きですのね」
「ん」
 シンジは軽く頷いた。これが麗香相手なら、もっと内容は変わっていたろうが、すみれにはまだ無理だ。
「それでその、どうしてわたくしを呼ばれたんですの?」
「この間、舞台の稽古を見たよ」
「あの…いかがでした?」
「さあ」
「え?」
「良いか悪いか、と言うのは分からない。前にも言ったけど、舞台には全く興味がないし、知識もないんだ。良し悪しってのは分からないよ」
「そ、そうですわよね」
 賞賛までは期待していなかったが、やや素っ気ない物であった。ただシンジの言う通りで、何も知らぬ立場から技量面について色々言われるのも、少々微妙な所である。
「マリアじゃなくてすみれを呼んでる」
「マリアさん?」
「そ。スミレの目から見て、全体の出来はどう?特に、さくらは主役(メイン)でしょう」
「まだまだ早いですけれど!」
「ふんふん」
「まだまだですわ」
「あら」
 早いけれどまあまあ、と普通の日本語ならこう来る筈だ。
「まだまだですかそうですか」
「所詮、今の力量以上の演技は出来ませんわ。それなのに、今の役を演じようとして無理するから、当然綻びが出てきますわ」
 全面否定はしていない。聞きようによっては、いずれは出来るようになると、暗に認めているとも取れる。
「織姫は?」
「論外ですわよ。ま、今回は足を引っ張りさえしなければ良しという所ですわね」
「じゃ――」
 シンジは一旦言葉を切った。肝心なのはこの後だ。
「新人二人のお守りで、すみれちゃんはお疲れ?」
「え…?」
 普段なら、そんな事はないと言下に否定したろう。神崎すみれの名に賭けても、簡単に疲労したなどとは言うまい。
 がしかし――シンジの視線に気付いた。包み込むように、自分を見つめるシンジの視線に。
 コホン、と小さく咳払いしたすみれが、すすっとシンジにすり寄った。
「そんな事はない、と言いたい所ですけれど、子供のお守りでやっぱり疲れてますわ。い、碇さんが…癒してくださいな」
 シンジが待っていたのは、まさにこれであった。
 いくらシンジでも、何もないところからすみれを弄り倒す事は出来ない。そんな事をしたら、出来の悪い二人組が逆恨みしてシンジに訴えたと、館内が険悪になるのは分かり切っている。
 ここまで見事に釣れるとは思っていなかったシンジだが、邪悪な笑みは内心にしまいこみ、
「そ。分かった」
 軽く頷いた。
「とりあえず、それ飲んじゃって。氷入ってるから、時間経つと薄まるし」
「いただきます」
 飲んだそれは、無論陥穽への第一歩だ。チアーズ、とグラスを触れ合わせてシンジも飲んだが、女性専用だから全く問題はない。
 万一グラスが入れ替わった場合を考えて、シンジのグラスにも混入しておいたのだ。
「フルーツジュースですわね。とても美味し…あら?」
 ふやっと、力の抜けたすみれがシンジに寄りかかる。
「何か…急に…眠…」
 弛緩した柔らかい肢体を腕に抱き留めた。風呂上がりで水分が足りない所へ、クリティカルヒットになったのだろう。
 或いは、あえて補給せぬまま来たものか。
 帯の結び目を解き、さっさとガウンを脱がせる。この格好で来た理由はさておき、羞じらいを見せながらはらりと脱ぐ予定だった筈で、すみれが見たら怒るに違いない。
 やはり下は黒のパンティであった。
 それもカサカサと脱がせてしまう。
「ノーブラと黒パンツで来たって知れるとさすがに、ね」
 すみれの事を慮ったかにも見えたが、管理人が部屋の隅から引っ張ってきたのは、三角木馬であった。無論、乗馬の練習用ではない。
「やっぱり子供に戻ってもらわないとね。まずは形から」
 邪悪な笑みを浮かべて呟き、シェービングクリームと剃刀を取り出す。
 電光を浴びて、剃刀の刃が怪しく光る。
「あ、そうだ観客呼ばないと」
 思い出したように携帯を手に取った。
 脱兎の如き勢いですっ飛んできた二人が、ぎょっと立ち竦んだのはそれから三分後の事であった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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