妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百八十話:三羽ガラスの悪巧み?
 
 
 
 
 
「誰が一番使えるか、とシンジに訊けば間違いなくマリアの名をあげるであろうよ。ならば、誰を隊長にするかは決まってくる」
「しかし、あの娘があっさり受けるかい?」
「デートの誘いではないからの。断るほど愚かではあるまい。尤も、その前にシンジが意味を理解するかどうかじゃ。儂はおそらく、出来ぬと読んでおるがの」
「どうして?」
 訪ねたさつきに、フユノはうっすらと笑った。
「決まっておる、マリアが絡んでいるからじゃ」
 シンジがワインを持ってきて以来、フユノは完全に戻った。一時の生気を失ったような、文字通りその辺の老人と化していた様子など微塵もない。
 眼下の町並みを見下ろしながら、
「後ろ盾がなく、その上マリアが今仕事をしている話は聞いておらぬ。自分の事ならいざ知らず、マリアにいきなり妙な金額を見せられたシンジが、即座に分かるとは思えぬよ。ただでさえ、シンジにとってマリアはアキレス腱になっておるからの」
 言ってみれば高評価の裏返し――だが、フユノは二人の関係がそれだけに留まらない事を見抜いていた。
 恋愛感情とかそんな単純な物ではなく、もっと深いところにあることを。
 即ち――シンジが自らの生き方を未だに肯定出来ていないと言う事を。
 
 
 
 
 
「碇さん大丈夫ですかっ」
「大丈夫です」
 揺り起こされたシンジは、むくっと起きあがってふるふると首を振った。意識をはっきりさせる為、と言うより首が胴体に繋がっているか確認する仕草に見える。
「い、一体何があったんですか」
「背後霊に襲われたの。さ、もう大丈夫だから」
 と言われて信じろという方に無理がある。
 しかしこの男、一度言わないと決めたら絶対に言わないと分かっているだけに、さくら達もそれ以上は聞けなかった。
 その後は特に変わった様子もなかったが、夕食時になってあやめとかえでが訪ねてきた。シンジが呼んだのだ。
「ラッシャイ。さて食事にしますよ」
 食事もいつも通りで、味にも変化はない。シチューに使ってあったクリームの量が、普段よりも少し多かった程度である。
 ただ、まだ身体の厚みは戻っておらず、マリアの横に座ったさくらが小声で訊いてみた。
「碇さんの身体が少し薄いような気がするんですけど、何かあったんですか?」
「どうして私に訊くの」
 小さな声ではあるが、知っているとしたらマリアしかいない訳で、既に娘達の耳目は二人に向いている。
「い、いえ何となくですけど…」
「そう。シンジの趣味は知らなかったのね」
「碇さんの趣味、ですか?」
「ええ、自縄自縛よ。身上書に書いてあるでしょ」
「自爆…」
 呟いたさくらに、
「その自爆じゃなくて、自分の縄で自分を縛る事よ」
「え?」
「どうしたの」
「マリアさん、碇さんが縛られていた事知ってるんですか?」
 それを聞いた刹那、しまったという表情がマリアの顔をかすめた。身体の厚みが足りない、とは言ったが縛られていたとは言ってない。
 大体、縛られていたシンジを発見してすぐにほどいたから、普通に考えればマリアが知っているはずはない。
(やっぱりマリアさんの仕業なんだ…)
 あっさりばれた。とはいえ、台詞から発覚したのみで、表情の変化には誰も気付かなかった所はさすがにマリアである。
 無様に表情を変える事はしない。
「住人である以上、管理人の生態は知っておかないとならないでしょう。危険人物なんだから」
 我ながら苦しい台詞だとは思ったが、自分の仕業だと認める訳にはいかない。
 そんな事になれば原因を訊かれるに決まっているのだ――間違っても口には出来ない理由である。
 一方渦中のシンジはと言うと、おにいちゃんあーん、とアイリスに食べさせられている所だが、こちらに注意が向いている様子はない。
「あの〜、よく分からないんですけど」
「その内分かるようになるわ。それに、シンジには訊かなかったの」
「訊いたんですけど誰かを庇ってるみたいで」
「誰かとは私の事?」
「べ、別にそう言う意味じゃ…」
 とそこへ、
「誰も庇ってなんぞおらんわ」
「碇さん?」
「まあ所謂大人の事情ってやつ。それよりレイ」
「なに?」
「霧吹きに水入れて持ってきて」
「いいよ」
 レイが持ってくると、
「掛けて」
 奇妙な事を言い出した。
「はん?」
 脳細胞が万単位で死亡したかと思ったが、シンジの言う事に整合性を求める方が間違っているというもので、言われるまま数度粒子を掛けてみた。
 戻った。
「ほら」
 何がほら、なのかさっぱり分からなかったが何となく厚みが戻ったような気がする。
(ワカメ!?)
 女神館(ここ)ではそんなに珍しい光景でもないが、部外者にとっては人外の出来事であり、藤枝姉妹が呆気に取られているのは言うまでもない。
(いつもこうなのかしら)
 シンジが聞いたら怒るかも知れないが、もっと絶対君主制みたいな感じかと思っていたのだ。
 レニに訊いてみようかと思った時、
「あのさ、シンジ」
 アスカが呼んだ。
「何?」
「強盗の自作自演プレイとかじゃないんでしょ?どーせ事情は話す気無いみたいだし、原因だけ一言で言ってくれない?」
「原因を?」
 んー、と考え込んでから、
「そうねえ、しいて言うならふわふ…もごっ!?」
 何を言おうとしたのか、本人は無論分かっているが、もう一人分かってるのがいた。
 マリアだ。
 ろくでもない管理人がろくでもない事を口走る前に、マリアの手から飛んだゆで卵の片割れがシンジの口内へ投擲されたのである。
「マリアさん!?」
 明らかな隠蔽工作に、全員の視線がマリアに向く。
「は、話しながら食べるのは…よ、良くないと思うの」
 説得力皆無とは、こう言うのを指すに違いない。
 おまけに僅かながらも動揺しているのは明らかである。
「おにいちゃん大丈夫っ?」
 慌ててアイリスが水の入ったコップを差し出したが、
「フゲホゴ、フガホグムング」
「た、食べてからで大丈夫だからおにいちゃん」
 こくこくと頷き、一口飲んだ水と一緒に嚥下した。
「大丈夫、問題ない。ちょっと詰まったけど」
 その視線がマリアに向き、
「マ〜リ〜ア〜」
「何かしら?」
 反攻の芽はしゅうしゅうと萎んだ。
「な、何でもない」
(絶対怪しすぎる)
 シンジを縛ったのはマリアらしい、と言うのはおそらく確定事項だが、抱き合っていたとかその手の事ではないからあまり強くも言えない。
 無論意識してではないが、マリアが少々無頓着にノーブラで出てきて、その胸をシンジがふにふにと揉んでいた事を知ったら、彼女たちはどんな反応をするだろうか。
 一つ咳払いして、
「話すと危険な悪寒がするから止めとく。それより皆に言っとく事あるの」
 面々を見回して、
「マリア」
「何?」
「マリア・タチバナ、本日を以て帝国華撃団隊長に任ずる」
 その声は既に戻っている。
「はい…え?」
 頷いてから怪訝な顔で聞き返した。意味が分からなかったのだ。
「復唱はどうした」
 シンジの声に慌てて立ち上がり、
「マ、マリアタチバナ、帝国華撃団花組隊長、謹んで承ります」
「それでいい」
 軽く頷いたが、頷かれた方を含めて周りは寝耳に水である。どうしてマリアが隊長になるというのか。
 そんな反応は無論分かっているシンジだが、今度はあやめを見た。
「現場の指揮はマリアに一任するけど、傍目八目の単語もある。後方支援はあやめに一任するからね」
「了解」
 とこちらは、これが目的だったらしいと気付いたから、あっさりと頷いた。
「管理人の役目は預けられた施設の管理。何か質問は?」
 ビシッと一斉に手が上がり掛けたが、
「推したのは俺じゃないからね」
 シンジの言葉にぴたっとその手が止まった。
 結局上がったのは、マリアのみであった。
「なに?」
「やっぱりあのお金…」
「そーゆー事。それ以外にあるとしても、そんな事したら襲われるの分かってるし」
「襲われるって…シンジに?」
「使い魔でも可」
「そ、そう…」
 たまりかねてアスカが口を挟んだ。
「ちょ、ちょっと二人だけで話進めてないで、あたし達にも分かるように説明してよ」
「はいはい」
 子機を取ったシンジがダイヤルした先は、南郷さつきの自室である。特定の数名以外は繋がる事さえない。
 すぐに出た。
「シンジちゃんかい」
「うん。マリアの隊長が決まったから」
 音声は拡声モードに変えてある。
「そうかい。御前には伝えたのかい?」
「面倒だからしてない。あんたからやっといて」
 魔道省長官南郷さつきに向かって、あんた呼ばわりして無事に済むのは天下広しといえども、碇シンジの名を持つ男一人である。
「分かった。伝えておくよ」
「それはそうと、マリアを隊長にしようとか言い出したのは誰?」
「私に決まっているじゃないか。やっぱり一度修行させる必要がありそうだね。今週中に私の所へ顔をお出し」
「何の修行?」
「訊きたいかい」
「嫌じゃ」
 勝手に電話を切ってから、
「分かった?」
「わ、分かったけど今の誰?」
「魔道省の長官さん」
「ちょ、長官?なんでそんな人がわざわざ言ってくるのよ」
「3馬鹿トリオ、もとい三羽トリオだから。赤木ナオコと碇フユノと南郷さつき、この三人が組んで悪巧みを。何だったら不服の申し立てでもしてみる?三人まとめて呼び出しても構わないし」
 ぶるぶるとアスカは首を振った。世の中には、一般人が決して足を踏み入れてはならないゾーンと言うものが存在するが、この三人が揃った場所など文字通り第一級危険地帯である。
「じゃ、いいね。ところでかえで」
「はい?」
 あやめを指名しなかったのは、おそらく、こっちの方が分かっていないと踏んだからだ。
「何でマリアか分かってる?」
「どうしてって…能力を買っての事でしょう」
「三十点。それなら誰でも分かる。それ以外には?」
「それ以外って…」
 思い当たる事が無い訳ではない。
 ただそれは、この場で口にして良い事ではなかった。何よりも、合っている確証はないのだ。
「そう言う理由じゃないよ」
「え!?」
(読まれた!?)
「顔に書いてあった。この分だと、まだ姉の代理は無理だな。姉さんの意見は?」
「かえでは私と違って普通の娘なんだから、過剰な期待はしないで。マリアが選ばれた理由は――あなたに一番近いから。そうでしょう?」
「正解」
 その言葉に反応した娘達に視線を向け、
「ただし、仲が良いとかそういう小学生みたいな理由じゃないからね」
「……」
 この時点で、その意味を正確に理解したのはレニ一人であった。
 マリアでさえも、理解出来ていない。
 
 
 翌日、アスカとシンジの姿は甲州街道にあった。無論、実地訓練である。
 シンジ自身も、免許取得後三年は経っていない。だから車に張ってある衝撃吸収用の結界はかなり強力で、ダンプが勢いよく突っ込んできても受け止めるだけのレベルにしてある。
 いざとなればシビウ病院に運び込めば済むのだが、非合法の依頼だから何を見返りに要求されるか分かったものじゃない。
 いや――ほぼ間違いなく分かっているのだが、シンジの方で応じたくないのだ。
 多分、四日間ほど朝から晩まで決して離れない事を要求されるだろう。
 一般男子から見ればけしからん話だが、違う意味で困る事もある。
 特上過ぎて、普通の娘に反応出来ないのだ。
 だからこそ、十人もの可愛い娘達に囲まれながら、普通に管理人業務をしていられるのだが、これまた一般人に聞かれたら怨詛の対象になる事は間違いない。
 その一人が横にいる。
「あのさ、シンジ」
「何?」
「マリアを隊長にって、それは分かったんだけど、シンジはどうするの?」
「アスカちゃんと一緒」
「ふーん…え?」
 不意に車がぶれた。
「な、何を言うのよ」
「そんな事よりちゃんとハンドル握ってて。そんなんじゃ免許センター行かせられないよ」
「ご、ごめん」
 体勢を立て直してから改めて、
「どういう事?」
 と訊いた。
「エヴァの方はマリアに任せれば問題ない。そっちはそれでいいんだけど、乗ってない君らとの戦力差がありすぎるでしょ。普通だったら館内で観戦モードの筈なのに、何で祖母様が君らをウロウロさせているのかって事」
「うん?」
 首を傾げると、綺麗なブルネットがふわっと揺れる。
「同じ轍は踏まない。いくら祖母様でも、繰り返しはするまい。と言う事は、何かの予感があるのかも知れない――わざわざ女神館の精鋭を巡回させるほどの理由がね」
「精鋭って…あたし達?」
「アスカや綾波に二重存在(ドッペルゲンガー)がいるとは聞いてないが」
「もっと素直に褒めなさいよ」
「褒めてない」
「え?」
「事実を言っただけ。役に立たないと判断してるならそう言うさ」
(そうか、こういう奴だったっけ)
 人を不快にさせる物言いはしない代わり、女心を満足させる気はないらしい。
 気を取り直して、
「で、シンジも一緒に来るって事?」
「どうかなあ…先に調べた方が良いような気はするんだけどね」
「何を?」
「分からない。うちらに何か関係ありそうな物。案外帝都の霊的防衛に使う結界だったりしてね。あ、そこ右曲がって」
「…行き止まりなんですけど」
「分かってる。バックして元の道に戻って」
 シンジがぼんやりしていて指示を間違えたのかと思ったのだが、
「バックはもう覚えたでしょ」
「まあ一応ね…ん?」
 つまんね、とそっぽを向いたシンジに気が付いた。
(何でよ!?)
 一撃を加えたくなったが、とりあえず自制して会話をもう一度反芻してみた。
(何だそう言う事か)
 流れるような動作で反対車線へ車を戻してから、
「シンジ耳貸して」
「二つしかないが」
「…どっちでもいいからちょっと寄せて」
 シンジの耳元で、
「後背位って書いてバックって読むのよね」
 妖しい声で囁いた。
「……」
 にゅうと伸びたシンジの手が、アスカの髪をくしゃくしゃとかき回す。
 一応満足したらしい。
 
 
 
 
 
「…シンジ君落ちたんですか?」
「落ちました」
 ルリとグウィンの反応を愉しむかのように、黒瓜堂の主人はウケケケと笑った。シンジの入試前に海外へ出ていた二人だから、シンジが大学を落ちた事など知らないし、そもそも落ちるという事が理解出来ないらしい。
「満点なのにわざわざ落とさなくても良かったのに」
「そんな事は御前に言って下さい。私が進言した訳じゃありませんよ。尤も、私の方もしばらく忙しくて連絡出来なかったんですよ。気が付いたら落ちてました」
「信じらんない。で、今何してるんですか」
「女神館というのがあってね、そこで管理人してます。正確には対降魔用の切り札としてね」
「女神館ってあの花組とかのですか」
「ええ」
 この二人、シンジとは結構仲が良い。恋愛感情は存在しないが文字通りの友人で、シンジの評価もかなり高いのだ。
「オーナー」
「何です?」
「パワーダウンした訳じゃ…ないですよね」
「してます。よく言えば当たりが柔らかくなった、と」
「正確に言えば?」
「ぬるぽ」
「ぬるぬる?」
「明日から三日間、日本語勉強してきなさい。店への復帰はそれからです」
「『はーい』」
 
 
 環状八号線へ入って用賀インターから3号線に入った車は、渋滞に捕まる事もなく軽快に走っていた。
 緊急時ではないから、壊すのも面倒なのでアスカにはほぼ制限速度で走るように言ってある。速度計は現在81キロを指しており、本来ならこの位が近隣住民にも丁度良いはずなのだが、邪魔だと言わんばかりに抜いていく車の大半は、速度超過の上にやかましい。
 善し悪しを別とすれば、ここはほぼ直線道路だし120キロで走っても別段どうという事はなさそうだが、やはり高架周辺に生息する住民達の事を考えると、この辺が限度なのだろう。
 もっとも、速度と書いて『意味無し』と読むように、守られる事とは全く別問題なのだが。
「要するに狭いんだ」
「何か言った?」
「ああ…いや、日本が狭いなって」
「また、海外(むこう)行きたくなった?」
 ふっと笑ったシンジが、手を伸ばしてアスカの喉元をくすぐった。
「ちょ、ちょっと止めなさいよ危ないでしょっ」
「行きたいって言ったら、行ってらっしゃいって送り出すの?」
「行かせるわけないじゃない。あんたはあたし達の大事な管理人なんだから」
「何をする?」
「そりゃもう、食事作ったり掃除したり洗濯したり負けた時の後始末とか…あ」
「…もういいお家帰る」
「あ、嘘よ冗談だってば。だいたいシンジを出国なんかさせたら…あたしが殺されるわよ」
「誰に?」
「さくらとかその他諸々。あんたあたしを殺す気?」
「お弔いはご立派にやってあげる。最初の数年間はちゃんと月一でお墓参りも…あ」
「……」
「……」
 間もなく車が路肩に止まり、ギエェとウシガエルが潰れた時のような声がした。
 
 
 それから三日後、アスカは免許センターでの試験にあっさりと合格し、本物の免許証を手に入れた。無論、裏でリツコの手が回った事は言うまでもないが、やった事は教習所でのそれと変わらず、授業料の高さがけしからんとシンジがごねただけの話である。
「内容は教えてないけど、ちゃんと受かったみたいね」
「おかげさまで」
 二人がいるのはリツコの私室だが、体勢は普段と異なっている。
 シンジがリツコの膝の上にいるのだ。リツコの希望である。
「シンジ君の頼みは叶えたわ。で、あなたは私に何をくれるのかしら?」
「夕食は山岸に任せてきた。だから今日は管理人は要らないらしい」
 じゃあ一晩中?と男なら思わず前を押さえそうな声でリツコが囁いたが、
「その予定」
 いつも通り反応は淡々としている。
(もう、つれないんだから)
 切ないため息を吐き出したが、とはいえ自分の膝の上にいるのはシンジなのだ。慌てる事はない、時間はたっぷりある。
 この日を数日前からずうっと待ってきたリツコだが、ふと妙な事に気が付いた。
 あまり感情を見せない相手なのは分かっているが、今日はどこかおかしい。淡泊と言うよりも、心ここにあらずの感じがある。
「シンジ君…何か考え事?」
「リッちゃんに頼みがあるの」
「何かしら」
「帝都とは元々帝都だった…色々な意味でね。今は魔都みたいになってるけど、他地域へそれが流出してない以上、前々から何らかの防御策は採っていたと思うんだ。明日の朝一番で調べてくれない?」
「いいわ。でも今日でなくてい…っ」
 不意に顔を向けたシンジが、リツコの耳朶をかぷっと噛んだ。
「今日は俺が使うから駄目」
 ひょいと降りたシンジが、セメント袋みたいにリツコを担ぎ上げる。
「さ、行きますよ」
 翌朝。
「…嘘つき…」
 もう精も根も尽き果てた感じで、ぐったりとベッドに突っ伏しているリツコを見下ろして、シンジが呟いた。
「朝になったら調べてって言ったのに、全くもう使えないんだから」
 内容と比べて優しげな口調で言ってから、
「えーと…十二回しかしてないのに」
 物騒な事を呟いた。
 なお、十二回とはリツコが達した回数であり、シンジの基準で言えば――まだ二回しかしてないのだ。
「しようがない、自分で何とかするか」
 シンジが立ち上がった時、
「私の…お尻がもう…だめぇ…」
 寝ているのは確定だが、鼻に掛かったような甘い声であった。
 
 
 それから二時間後、管理人がどこで何をしているかなど全く知らないアスカは、初めての出勤途上にあった。
 アクアラインを抜けて館山自動車道を北上していたアスカの耳が、サイレンの音を捉えた。
「事故かな?」
 呑気に呟いた直後、
「前のシビック停車しなさい」
 捕まる車も運が悪いわね、とバックミラーを見たアスカの表情が固まった。
 周囲には一台の車もおらず、一般車両はアスカの車しかない。
「うそでしょ…」
 すう、とアスカの顔から血の気が引いた。
 
 
 
 
  
(つづく)

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