妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百七十九話:日常、或いは二人きりの日(1)
 
 
 
 
 
「本当に双子になるとはね。もう名前は決めたのかい?」
「いえ、まだ性別は分かりませんから」
 一馬の位牌の前で、すっかり目立つようになってきた腹部を撫でながら、若菜はうっすらと微笑した。
 双子かも知れない、とシンジには言ったが、本当になるとは思っていなかった。医者に診せたところ、本当に双子だと分かったのだ。もう少しすれば性別も分かるとの事だったが、若菜は訊くつもりはなかった。例えどんな組み合わせであれ、正真正銘夫一馬との子供に代わりはないのだから。
 まださくらには教えていない。七夕の頃になればきっと帰ってくるから、その時に教えてびっくりさせようと企んでいるところだ。
 あなたを抱く気はない、と初対面の青年にいきなり言われた時は、驚くと同時に腹も立った。何故フユノがこんな少年を野放しにしているのかと、内心でほぼ真横までクビを傾げもしたのだが、今は分かる。
 放置ではなくて信任なのだ、と。
 事前に話は聞いていなかった、と桂は言った。
 事実だろう。
 それでも、シンジの奇怪な言葉を聞いた時、桂は怒るどころか頷いたのだ。或いは未亡人を侮辱する教育を受けてはいない青年だと、分かっていたのかも知れない。
 とまれ、幽冥境を異にして二度と会えぬと思っていた一馬と、一夜限りながらもう一度結ばれ、妊娠する事も出来た。
 ただ問題は――。
「お父さんはいつ亡くなったの?」
 と子供に聞かれた場合、何と答えればいいのかという事にある。とは言っても、生まれて即時に聞かれる訳はないから、数年の間に考えればいいと思っている。
 と言う事はつまり――さくらへの言い訳は考えていないのだ。
 
 
 
 
 
「シンジが…本当にそう言ったの?」
「うんっ」
「そう…」
 アイリスのお誕生日にアイリスをおにいちゃんにあげる、おませな娘が早朝の浴場でシンジに囁いたのは、それだったのだ。
 当然即時却下すると思ったが、シンジは構わないと言ったという。
(どうして…)
 後になってから、
「ネタをネタと分からない娘(こ)はつまらない」
 で済ませる気ではあるまい。第一、それで済む相手かどうか位、分からないシンジではない筈だ。
「レニ…怒ってるの?」
「別に、怒ってはいないよ。ただ、シンジがすぐにOKするとは思っていなかったから…」
「でも、レニも約束したんでしょ」
「な、何を?」
 湯の中で、おませな娘が顔を寄せて囁いた。
「おにいちゃんとえっちするって」
「し、してないよっ」
 レニはぶるぶると首を振った。
「僕は別に…」
 シンジがアイリスを選んだのなら、それはそれでいいと思う。シンジは自分の物じゃないのだから。ただ、シンジの思考を知るレニにとって些か奇妙な反応であったのは事実である。
「レニは約束してなかったの?でもいいじゃない、一緒にしよっ」
「え?」
「だってレニ、本当はしたいんでしょ?」
「し、したいってそんな…ぼ、僕は別に…」
 すうっと顔を赤らめて横を向いた途端、いきなりくすぐられた。
「もう、本当はしたいくせに素直じゃないんだからっ」
「や、止めてよアイリスっ、そ、そんな所触らないでっ」
「だーめ」
 シンジと寝るようになってから――文字通り一緒に寝るだけにもかかわらず、アイリスは急速に成熟してきた。しかも、それだけでは決して身に付かないはずの責め方までマスターしてきており、横腹と太股の付け根を同時にくすぐられたレニは抵抗する事もできず、好きなようにくすぐられてしまった。
 一通りレニで遊んでから、
「でもね…」
「な、何」
「本当は、いいよって言った訳じゃないの」
「え?」
「言ったんだけどね…問題はアイリスじゃなくて他にあるって言ってた」
(何だ、そうだったんだ)
 そう思った途端、
「レニ今ほっとしたでしょっ!」
 シンジと違って精神防壁はそんなに強くない――対能力者向けにそんなのを張れるシンジの方が変わっているのだが。
 余計な事を考えたばかりに、またもやとっ捕まって今度は全身をくすぐられる羽目になった。
 
 
「レニの顔が妙に赤かったんですが」
 首を捻りながら、門前を掃いているのは無論シンジだ。館内を毎日掃除するほど物好きではないが、門の周りだけはやはり気になる。
 だから午前中に掃除するようにしているのだが、その姿は実に様になっている。こういうのが生来から合っているのかも知れない。
 ぐるっと一周してから帰ってきた。
「あれ?」
 静まりかえっている館内に、どうやら全員いないらしいと気が付いた。無論一般生徒は勉学に励む時間だが、対象外も二人いるのだ。
「誰もいないからとっても静か。さて紅茶でも――」
 口にした途端、
「一人きりの空間を邪魔して悪かったわね」
「マリア!?」
 ぴょん、と数センチだけ器用に飛び上がったのは、人の気配を全く感じなかったからだ。別に芸ではない。
「…器用な事をするのね」
「人間も昔は両生類さ」
「カエルってこと?」
「ウーパールーパー」
「あれって両生類なの」
「多分。ところで桐島は?」
「空手の道場よ。そこでアルバイトしてるの」
「教える方?」
「掃除婦だと思う?」
 カンナがバケツとモップを持ってウロウロしている姿を想像してみた。
「微妙な所だ。マリアはしないの?」
 訊いた時、マリアの表情が少し暗いのに気付いた。
「その事で…シンジに話があるのよ」
「じゃ、こっち」
 良いバイト先を捜索中、と言うのではあるまい。そんな事を言った日には、シンジがいかなる回答を寄越すか位、分かり切っている事だ。
 先に立って歩き出したシンジは喫茶室に入った。食堂より狭いが、ホテルのラウンジ位の広さはあるし、お茶を飲むなら食堂より揃っている。
「紅茶にしよう」
 どうするかと思ったら、ソファに腰を下ろしてしまった。
「…私がいれるの?」
「他に誰が?」
「……」
 本来なら銃撃ものだが、生憎銃はないし、相談を持ちかけたのは自分だからと、仕方なくマリアはキッチンへ向かった。
 マリアが飲むのは決まっている。濃いめに入れたブラックだ。
「いれたわ」
「そこに置いてからここ座って」
 シンジが指したのは自分の横であった。
 言われるままマリアが座ると、
「そのまま倒れて」
 奇妙な事を言い出した。
「どっちに」
「こっち側」
 何を考えてるのかさっぱり分からないが、マリア的には分からない素振りを見せる方がしゃくに障る。
 こてんと倒れ込んでから気が付いた――膝枕だ。
「ちょ、ちょっと何考え…あっ」
 起きあがろうとした所を、柔らかくおさえられた。
「あ、そのまま動かないで」
 片手でマリアを束縛したまま、もう片方の手でカップに手を伸ばした。
 一口飲んで、
「おいし」
 頷いたシンジに、マリアの顔がすうと赤くなる。
(ど、どうして私が赤くなる!)
「どうしてって、それはほらマリアが感受性の数値高いから」
(!?)
「こ、声には出していないはずよ」
「スキンシップって知らない?特にこうやってると、感情を司る脳が触れてるから、考えが何となく伝わってくる。アイリスの域には遠いけどね」
 見えなかったがシンジはうっすらと笑った――ような気がした。
 どうしてかは分からない。
「バイト先検索中なら、マリアはそれ位相談してくるでしょ。なんか、表情が暗いのが気になったの」
 軽くマリアの髪に触れてから、シンジは再度カップに手を伸ばした。カップを空にすると、そのまま表を眺めている。
(あ…)
 いつの間にか手は外れていたが、マリアは何となく起きる気がしなかった。
 別にシンジから妙な気が漂っていた訳ではない。
 十分ほど、二人は動かなかった。
 端から見れば、彫刻用のカップルモデルに見えたかも知れない。
「もういいかな」
 シンジが口を開いた時、マリアは少し気分が楽になったのを知った。
「シンジにそんな特技があるなんて知らなかったわ」
「機密事項なんです。あ、コーヒー冷えた」
「平気よ。味は落ちてないわ」
 起きあがったマリアがカップに手を伸ばす。一気に傾けると、微妙に温度の下がった苦い液体が食堂を滑り落ちていく。
「思考までは読めてない。どしたの?」
「…見るのを忘れてたのよ」
「うん?」
 これ、と差し出されたのは通帳であった。マリアの名義になっている。
「低級霊でも取り憑いた?」
「そうじゃなくて、中を見て欲しいの」
「いいの?」
 うん、と軽く頷いた。
 最後の方までページに記帳されているのは見れば分かる。最初から見ていくような事はせず、いきなり最後のページを開いた。
「……」
 シンジが数度瞬きする。
 目を疑ったのだ。
「悪魔に魂でも売った?」
「生憎、私の魂はそんなに高くないわ。それに見るのはそこじゃないでしょ」
「何だ送金され…何じゃこりゃ」
 振込人は二人いた。
 いずれもシンジが知る名前であった。
「で…足していちおくえん」
「いちおくえん」
 シンジの呟きにマリアが鸚鵡返しに返す。
 と、不意にシンジがマリアの顔に手を伸ばした。
 むにっ。
「痛!?」
「夢じゃないみたい」
「…自分の顔でやってくれないかしら」
 左右まで引っ張って離すと、パチンと元に戻った。
「アーウチ!」
 
 
 
  
 
「片っ端から便が遅れているようですな」
「あの子が乗った便は常に正確に着きます。例え飛行機が世界の終焉に巻き込まれてもね」
 黒瓜堂の主人と豹太は、空港へ来ていた。
 しばらく香港へ行っていた店員を迎えに来たのだ。
「香港市警の春麗から、弓の裏工作はしてあると連絡はありましたが」
「絶対揉めるに25カノッサ」
「では、私は既に捕まっている方に35ポンド」
 美と危の組み合わせは、さっきから衆目を集めている。豹太へのそれは、文字通り美への憧憬だから問題ない。
 普通である。
 が、その横にいるウニ頭に視線が移ると、過激に変化するのだ。
 ただ、見られている方――危険物扱いされている方――は全く意に介しておらず、横の美青年もまた柳に風と放置中だ。
 この程度で反応するなら、最初から黒瓜堂の店員という看板など背負っていない。
「反対はしませんが、弓矢を携えて搭乗するというのは何とかなりませんか」
「彼女のチャームポイントを没収しろと?」
「オーナー、そこ使い方間違ってます」
「微妙に?」
「多分に」
「それは良くない」
 と、その時携帯が鳴った。
「今どこに?」
「三十メートル前方まで来ています」
 携帯から聞こえてきたのは、鈴を振るような声であった。
「それで――」
「予定通り?」
「予定通りです。グウィンが係員に捕まっています」
「山は」
「まだ十人にもなっていません。全員片づけますか」
 携帯を離し、
「パワーアップしてるぞ」
 豹太が、にっと笑った。
 猛毒を塗った刃のような笑みは、見慣れぬ者には危険すぎる。ぼうっと見とれていた若い女が二人、へなへなと頽れた。
 そちらには無論一瞥も向けず、
「あと3分」
「…とっとと止めに行きますよ」
 これだから――主人一人いつも危ない男でいる訳にはいかないのだ。
 勇将の下に弱卒云々はともかく、危険な店主の下に至極普通の店員が集まる訳はなかったのだ。
 現場に着いた時、既に人の山が出来ていた。屍山血河ではないが、失神しているのは全員武装した警備員達である。
「オーナー、只今帰りました」
「お帰り、ルリ」
 ちょこんと頭を下げた美少女はルリ・ホシノ、機械を操らせればレビアに匹敵する能力を持っているが、その出自はかつてレイがいた研究所であった。
 掘り出し物は、と罰当たりにも現場へ赴いた黒瓜堂が見つけて連れてきたのだ。
 ただし、ルリはレイを知っているがレイはルリを知らない。その違いは能力差から来ているらしい。
 不運にも黒瓜堂に発掘されてしまったルリだが、居並ぶ配下達の中では最も非力であった。
「任せる」
 可憐な美少女が引き渡されたのは――妖艶な暗殺者しりるであり、その結果ルリも今では立派な暗殺者になっている。
 ただし、今失神者の山を気付いたのはルリではない。
「グウィン、もうその辺にしておきなさい。それ以上山を作られると後始末が面倒だ」
「はーい」
 呼びかけられた少女が振り向いた。
 帽子に付いている小さなリンゴと背負っている強弓は、彼女のトレードマークだ。
 グウィン・フッド――シャーウッドの義賊と呼ばれたロビン・フッドの直系の子孫である。
 
 
 
 
 
「もう、マリアってば乱暴なんだから」
「なんか言った?」
「ううん、何にも」
 入金主は二人で、碇フユノと南郷さつきになっている。
「心当たりが…ある顔じゃないね」
「何もないわ」
 ふーん、としばらく景気よく並んだ0を眺めていたが、
「訊くのが手っ取り早い」
 携帯を取り出すと、どこかへかけ始めた。
 相手はすぐに出た。
「うちのマリアが変なお金に迷惑してる。さっさと引き取ってもらおう」
 これが第一声であった。
 どちらはか分からないが、フユノかさつきへ直接かけたのは間違いなく、こちらがシンジと分かってはいても――やはり怖い。
 いずれも、単に金や権力を持っただけの存在ではない事を既にマリアは知っている。
 自分であれば、口が裂けてもあんな言い方は出来まい。
 ふとある事に気付いた。
(今…うちのマリア…て?)
 俺の、とは言わなかったが聞きようによっては微妙な台詞である。
「引き取れと?お断りだね」
 老いてなお盛ん、を地で行く剣豪長官はあっさりと拒否した。
「何で」
「式の費用に決まってるじゃないか。あんたの花嫁に、レンタル衣装など着せるわけにはいかないからね」
「…ぬっ殺す」
「シ、シンジ!?」
 物騒な台詞にマリアの顔色がさっと変わった。
「あ、何?」
「い、今殺すとか何とか…」
「うん、まあそれはそれとしてその…」
「え?」
「話訊いてた?」
「いいえ、人の通話を訊く趣味はないわ」
「そうでした」
 マリアの頭を撫でてから、もう片方に掛ける。
 三回で出た。
(ヤバイ)
 何を言うか、決める前に掛けたのだ。
 先手を打たれた。
「さつきと相談して半分ずつにしたよ。式場が決まったらまた電話しておいで」
「まとめてヌッ殺す!」
 シンジのヒスなど滅多に見られない、と言うよりハレー彗星並に珍しい。
「あ、あの一体何が?」
 おそるおそるマリアが訊くと、
「マリアのせいだ」
 意味不明な答えが返ってきた。
「…え?」
「全部マリアが悪い。よってお仕置き」
 事態を掴めぬまま、あっという間に抱き寄せられてシンジの膝の上に乗せられた。
 慌てて抵抗しようとしたが、
「マリアがこんな胸してるから。こんなのはこ――え?」
 そんな間もなく、にゅうと手が胸に伸びてくる。
 手に伝わってきたのは、あまりにも生々しい感触であった。
 触られた方も触った方も硬直している。
 ニットセーターの下が、素肌なのは間違いない。
「こ、これはその、つ、着ける暇がなくて…」
「ノーブラとは思わなかった。ご免ね」
「別に…」
 ぎこちない雰囲気のまま、二人ともなんとなく気まずい。
 ドクトルシビウは、シンジに女を完全制圧する術を教え込んだ師ではあるが、こんな時の事は教えてくれていない。
 先にマリアが口を開いた。
 軽く咳払いして、
「それでその…さっきのは何だったの」
「さっきってあのお金?」
「ええ」
「マリアの衣装代だって」
「…私の何?」
「衣装代」
 ファンから何か贈られる事はあったが、マリアはすべて断ってきた。最後の舞台はシンジと会う前で、その頃のマリアに取って観客との接点はあくまで舞台のみでしかなかったのだ。
 それにしても、いきなり衣装代とは意味が分からない。
「舞台衣装なら持っているけれど…」
「マリアの舞台衣装代と聞いて、ヌッ殺すとか言うと思った?」
 思った、と言いかけたが止めた。結論は分かっているのに、わざわざ着火してみる事はない。
 ただ舞台衣装ならいざ知らず、そうでないのなら余り愉快ではない。服代など贈られる謂われはないのだ。
「普段の服が良くなかったのかしら…」
「NE」
「え?」
 乳房には当たっていないが、シンジの手はまだマリアの身体の前に回っている。
 その姿勢のままで、
「マリアの花嫁衣装だとさ。二人揃って打ち首にしてくれる」
「花嫁衣装!?どうして私の――」
 言いかけて気が付いた。
 自分の結婚なら、歯牙にも掛けないであろう二人であることを。
 二人に共通する事として真っ先に上がるのは――自分の身体を柔く抱いている青年だということを。
 マリアの顔が首筋まで瞬時に染まった。
「でで、でもっ、ど、どうしてそそ、そんなことをっ」
 声は完全に上ずっている。
「ネタです」
「どういう…意味?」
 シンジの声は既に普段の物に戻っている。
「俺が電話したから」
「?」
「マリアが電話しても、同じ事言うと思う?いくらあの二人でも、そこまで馬鹿じゃないよ。衣装じゃなくて、遅まきながら報酬でしょ」
「報酬ってあの時の?」
 無論、中国奥地に派遣した時の事だ。
「そゆ事」
「で、でも私は何もしていないし…足を引っ張っただけで」
「だから。前にも言ったでしょ、指揮官ってのは役に立たない兵士を前線に送るもんじゃない…あ、マリアがそうって意味じゃなくて」
「いいのよ」
 マリアの声はどこか遠くに聞こえた。
「本来ならば行くのはシンジだった――私が遠く及ばないのは分かって…あっ」
 唇から小さな声が漏れた時、その身体はきゅっと抱きしめられていた。
「能力がどうとか、そう言う事じゃないよ。そんな事言わないで」
「だけど――」
「もっとも、マリアも悪いんだけどね」
 はむっと耳朶を啄まれ、マリアの肩がびくっと震えた。
「弱いとか歯が立たないとかそれはいいんだけど、さっさと逃げろって言われてたのに逃げなかったでしょ」
「あ、あれは…」
「あれは?」
 シンジがすっと顔を寄せてきた。薄く染まって温かいマリアの頬と、気温に関係なくひんやりしているシンジの頬が触れ合う。
 お互いの心臓の鼓動すら聞こえそうな距離で、マリアが何とか絞り出したのは、
「な、何でもないわ…」
 と言う蚊の鳴くような声であった。
「そう?」
 それ以上の深追いはせず、
「それはそれとして、とりあえずもらっといて。その気になれば、一晩で使えるし」
「…一晩で?」
「そ、一晩で。試してみる?」
「絶対に嫌。私には向いてないよ。シンジは経験あるの?」
「内緒。で、もらってくれるのね」
「まだ決めた訳じゃ…」
 まだ二人の頬はくっついたままで、カンナとマユミ以外に見つかったらどうなるかなど、想像もしたくない光景だが、マリアにはとりあえず突如降って湧いた大金の方が重要であった。
 シンジやフユノにとっては、どうと言う事もない金額なのだろう。特にシンジは、一円でも一億円でも、必要がなければ価値は一緒であり、一般認識とはかなり異なる視点でもらっておけばとあっさり言ってるのに違いない。
「どうしても嫌なら無理強いはしないけど、お金が可哀想だし」
「どういう事?」
「あの老人共が変な所で江戸っ子だから。三方一両損は知ってるでしょ」
「うん」
「一旦手元を離れたんだから俺のじゃネーヨ!って譲らないから揉めたんだけど、あの二人も一緒。恐喝されたなら別だけど、自分達で決めた金額だし、マリアにそれだけの価値はあると見てるから。マリアだって、誰かにケーキとか焼いてあげた時、いらないって返されたら自分で食べたりしないでしょ」
「シンジは突き返すの?」
 言った途端、マリアの身体が固まった――例題としての言い方ではなかったのだ。
「べ、別にシンジにあげたりなんか絶対にしないけどっ、た、例えとしての話よっ」
「返しますよ」
 シンジはあっさりと言った。
「差出人不明の物を食べるほど、不用心じゃないよ。普通でしょ」
「そ、そうね」
「もっとも」
 もう一度頬をくっつけて、
「マリアちゃんが作ってくれるなら、全部食べるけど」
「た、例えだと言ってるでしょ、さっさと離れなさいっ」
 赤い顔のままで、おまけに振り払おうとはしないのだ。
「却下」
 きゅむっと抱きしめられると、マリアの身体からふにゃふにゃと力が抜けていく。
 しばらくその体勢で動かなかった二人だが、
「もらっといてやるって言っとくね」
「うん」
 頷いた声は、至極普通の乙女の物であった。
「それと、どうやら催促みたいだから。今気付いた」
 何かに気付いたように宙を見上げた。
「そうか、そう言う事か。分かった分かった」
「私には全然分からないんだけど」
「後で教える。ところでマリア、一つ訊いていい?」
「なに?」
「さっきブラ着けてなかったのって偶然?」
「どうしてそんな事訊くの」
 マリアの口調は変わらない。
「何となく。マリアって普段そう言う格好とかしないでしょ。いつも隙無いし」
「そうね…気になる?」
「べつに。大きくて柔らかい事は知ってるし」
 不法侵入した手が、ふわっと乳房を包み込んでもマリアは動かなかった。
「問題ないかしら?」
 穏やかな声で訊いた時、マリアの手はシンジの手に添えられていた。その刹那、シンジの脳裏を過ぎったのは、何故か導火線という単語であり、数秒と経たずしてシンジは自分の勘が鈍っていないと知る事になった。
「だ、大丈夫」
「ならもう確認する事は無いわね?――この世で」
 くるりと振り向いたマリアは確かに微笑っていた――致死性の猛毒を含んだ笑みで。
 
 
「厚さが…足りない?」
 帰ってきた娘達が、どう見ても厚さが足りないように見え、おまけに縛られたまま放置された管理人を見つけたのは、数時間後の事であった。
 
 
 
 
  
(つづく)
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