妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百七十八話:鱶脳…
 
 
 
 
 
「何をしてきた?」
「何でもない」
「妙な匂いがするようだが」
「気にしないで。尻尾握られて頭が重いんだ。おやすみ」
 フェンリルの身体に頭を埋めて、さっさと寝息を立て始めたシンジだが、尻尾とは無論マユミの事だ。
 別に交換条件を出されたりはしなかった。尤も、以前甘味責めにされてひどい目に遭った経験があるから、うかつな事を言うと徹底的に実行されるのは分かっている。
 ただこう言っただけだ。
「マリアさんとかアイリスやレニに言ったりはしません。じゃ、お休みなさい」
 と。
 どうして最初にマリアが出てくるのかと、全裸にサラシの格好で蒲焼きにして問いつめたかったが、どう考えても自分の方が分は悪い。忘れてあげますから、と何やら条件でも出してきた方が余程楽なのだが、それがないと言う事はつまり延々と引っ張られるという事だ。
 はーあ、と内心でため息をついてから、シンジは睡魔の誘拐に身を任せた。
 とりあえず忘れる事にしたのだ。
 
 
「……」
 一方こちらはマユミである。妙な場面に遭遇はしたが、さして驚きはしなかった。さくらがシンジを想っているのは知っているし、抱かれる事を喜びこそすれ拒む事などないと、分かっているからだ――そして、シンジが今のさくらを抱く事はあり得ない事もまた。
 これで普通の相手なら物品要求でもいいが、シンジの場合はそうもいかない。仮に銘刀でも要求した場合、部屋中を世界の銘刀百選で埋め尽くされる可能性がある。同じ事を繰り返すほどマユミも物好きではない。
「碇さんにはいずれお願いを聞いてもらう時がくるわ…きっと、私が命を賭したお願いを…」
 愛刀を見つめながら、マユミは小さな声で呟いた。
 それは古の時代に斬鬼護士として、己の剣に生死を賭した一族の末裔の本能が告げる直感であった。
 やがてマユミの予感は現実となるのだが、呟いた方はいざ知らず、対象となっている方は睡魔の世界へ連行されており、そんな事など知る由もなかった。
 
 
 翌朝、シンジを起こしに来たのはマユミであった。無論、普段は起こす係ではないし今日も何気にやってきたわけではない。
「織姫とさくらが?」
 睡魔の大群にとっ捕まって、そいやそいやとアジトまで連行されたシンジだが、寝起きはいいから、ドアをノックされた時点でこっちに世界に戻ってきている。
「起きたくないって言って、起きてこないんです。責任取って下さい」
(……)
 とりあえず、娘達を学校へ行かせてから、街で不良の大群を見つけて憂さ晴らしするぞと、内心で固く決意してから、
「今何時?」
「六時半です」
「ふうん?」
「さくらが駄々こねたから、織姫さんの部屋にも行ってみたんです。何となく同じじゃないかなって」
「将来は剣の道じゃなくて巫女さんの方があってると思うな」
 むくっと起きあがり、
「分かった。見に行っておこう。風邪引いたわけじゃないね?」
「多分ピンピンしてます」
「分かった」
 マユミが扉を閉めて去った後、
「ツッコミがほしい?それとも慰めを?」
 声は宙から聞こえた。勿論、枕の位置にフェンリルの姿はない。
「放置プレイを希望するよ。とりあえずほっといてちょうだい」
 軽く頭を振って立ち上がり、着替えてからバスタオルを引っかけて出て行った。浴場に着いたシンジの鼻が僅かに動いた。
 昨夜の気配は完全に消えている。
「ここは問題ない。残存思念も残っていないからアイリスもだいじょ――!?」
 不意にその身体が硬直した。
 背後を取られたのを知ったのだ。
「…いつ」
 声は幾分固い。
「おにいちゃんが気配を消しもしないで、えっちな事のもみ消しに来た時から」
 最も危険な少女の筈だが、内容とは裏腹に口調は笑っている。
「別にアイリス怒ったりしないよ。大丈夫、笑って吊したりもしないから。ちょっと目が覚めちゃっただけ」
「何しに来たの?」
「お風呂だってば。おにいちゃんを付けたりなんかしてないよ。それより、残存思念なんか呼び出せるのはアイリスだけだから、心配いらないよ」
 アイリスの声にゆっくりとシンジが振り向いた。
 そのシンジの顔を見た時、アイリスの顔が初めて少し強張った。
「おにいちゃん…私の事信用してないでしょ。怒ったりしないって言ってるのに」
「そこは信じてる。で、何を企んでるの?」
「べ、別に何にも考えてないよっ」
「そ。じゃ、交換条件とか考えてないわけね?」
「そ、それはその…ちょ、ちょっとだけ」
 パジャマ姿でバスタオルを持ってもじもじしているアイリスに、シンジの表情がふっと緩んだ。自分がここへ来たばかりの頃なら、甚大な被害を出していた可能性がある。
 それに比べれば大いなる進歩といえる――勝手に思考を読まれたが、回線を開きっぱなしにしていた方が悪いのだ、とシビウなら断言するに違いない。
「とりあえず聞いたげる。何して欲しいの?」
「ほんとに怒らない?」
「その予定です」
「あ、あのね…」
 顔を赤くしたアイリスが、ぺたぺたとやってきた。
「おにいちゃん耳貸して」
「ん」
 耳元で早口に囁かれた後、シンジは少しの間動かなかった。リアクションの無さに、アイリスの方が不安になったらしい。
「だ、駄目だよねやっぱり。ううんいいの、言ってみただけだからっ」
「それ自体は別に構わない」
「い、いいのっ?」
「そうしたいんでしょ?」
「う、うん」
「アイリスだって何時までも子供じゃないんだから。ただし、問題は他にある。アイリスには無い」
「おにいちゃん?」
 奇妙な答えに首を傾げたアイリスの頭を撫でて、シンジはそのまま出て行った。明確な答えは無かったけれど、とりあえずお仕置きされなかっただけ望みはあるかもしれないと、もそもそと服を脱ぎだしたアイリスだが、この美少女が知らない事がある。
 ロクでもない程の力を持って生まれながら、それを疎まれた事のないシンジにとっては、勝手に子供を作っておいてその能力に怯えて幽閉するような人間など、唾棄すべき以外の何物でもないと言う事を。
 そして――彼女の両親は、娘の能力を完全に受け入れた訳ではない、と言う事も。
 
 
 さくらの部屋にやってきたシンジは、ノックする事も無く押し入った。女性の部屋に入る時はノックを云々、という文章は、シンジの辞書にはない。そんな事は中世の騎士達にでも任せておけば良い事だ。
 尤も、マユミの部屋と違ってトラップがない普通の部屋だから、と言う事もある。山岸マユミの場合、文字通り矢が飛んできたりするのだから。
 反応はなかったが、ベッドの側に着いた時、
「み、見ないで下さいっ」
 妙な反応が返ってきた。むこうを向いたさくらはぎゅっと毛布に潜り込んでいる。
「自分で抜け出るか或いは俺が包装を剥がすか、どちらかになるわけだが」
「……」
 十数秒経ってからほんの少し――顔だけが出てきたが、まだこちらは向かない。
「何があった?身体に異常はなさそうだけど」
「……分が…自分が…あんなだなんて思わなかったんです…」
 それを聞いたシンジは、
「ふーん」
 と言っただけで、それ以上は反応しなかった。放っておいて聞き出す気らしい。
「あ、あたしその…ま、まだなのにあんなことを…」
 まだ、とは処女の事か。
「最近…だんだんふしだらになっていくみた――痛っ!?」
 ぽかっ。
 いきなり一撃が飛んでくるなど、まったく予想していなかったさくらが、反射的に起きあがった。
「な、何するんですかっ」
 キッと睨んだが、無論謝罪と賠償があるはずもない。
「とりあえずあれだ、一生山にこもって瞑想でもしてなさい。それが世の為さくらちゃんの為です」
「どういう意味ですか」
「聞いたとおり。そもそも、何時からそんなに我慢できる身体になった?」
「が、我慢?」
「不感症ならいざ知らず、男も知らない小娘が我慢できるほどおかしな弄り方はしてない。不感症じゃないんでしょ?」
「あ、当たり前ですっ」
「じゃ、イイじゃない」
「……」
 あっさりといなされて、ぷうっと頬をふくらませたさくらだが、その通りだけに何も言えない。分かってはいるのだ――自分が感じすぎるのではなくて、シンジの感じさせ方が上手なのだ、と。
 だからもやもやする。
 シンジはどこでそれを覚えた?
「それに世の中にはアナル専門のひともいるし」
「ア、アナル専門っ?」
「膣(まえ)じゃ感じないひと」
 それを聞いた途端、ぼっとさくらの顔が火を噴いたが、顔を振って追い払った。今の問題はそっちじゃない。
「そ、そう言う問題じゃなくてっ」
 不意にシンジが動いた。
 すっとさくらの耳元に口を寄せたのだ。
「織姫と股間合わせた状態でいっちゃった事?」
 反射的に一撃を加えようとして、何とか寸前で踏みとどまった。
 大きく息を吸ってゆっくりと吐き出す。
「碇さん、あの…」
「はい?」
「ぎゅって、して下さい」
 一瞬、シンジが怪訝な表情になったが、すぐに頷いた。
「分かった」
 シンジの手が、にゅうと伸びてさくらの首を絞めるのと、さくらの手が伸びて鷹徴の一撃を与えるのとがほぼ同時であった。
「…何をする」
「それはあたしの台詞ですっ。どうして首を絞めるんですかっ」
「だってぎゅっとして言ったから。絞めるんじゃなかったの?」
「…本気で言ってるんですか?」
「だってこっちってちょっと恥ずかしいんだもの」
 そう言いながらも、さくらの身体に回された腕が柔らかく抱きしめた。
(もう、ちゃんと最初からしてくれればいいのに)
 ちょっと不満は残ったが、口にはせずシンジの身体に身を寄せた。
「これでいいの?」
「もうちょっと、じっとしてて下さい」
「はい」
 これでは、ムードと言うより歯を削られる患者に近い。
 シンジに抱き寄せられながら、さくらは心の中で呟いた。
(碇さんごめんなさい、本当はあたし…嫉妬してたんです…でも分かってるから、自分が嫌になって…)
 無論、織姫にではない。
 五分ほど、二人は動かなかった。
 やがて離れたシンジが、さくらの顔を両手で挟み、
「も、大丈夫?」
「すみません、もう大丈夫です」
「そいつぁ良かった」
 ちう、とさくらの頬で小さな音がした。
「い、碇さん…」
 自分で抱いて下さいとは言ったが、こう言うのは恥ずかしいらしい。ぽうっと赤くなったさくらに、
「じゃ、さくらちゃんさっさと起きるんですよ」
 軽く頭を撫でて身を翻したが、ドアの寸前でその足が止まった。
「昨日さくらちゃんを担いできたのは俺です。でも、着替えさせる前に、山岸に奪還されました」
「はい?」
「つまりそれ着せたのは山岸なの」
「はあ…え!?」
 さくらの視線が自分の服装に行く――自分が着ているのはシンジのワイシャツであった。
 所有権は移動しているから、それは問題ない。
 しかし、着せたのはシンジだとばかり思っていたのだ。
「い、い…」
「いい日旅立?」
 訊いた途端、やり場のない感情は枕にこめられ、それは的確にシンジを直撃した。
「アーウチ!」
「碇さんの馬鹿ーっ!」
 あいつの辞書のトップは絶対『八つ当たり』に違いない、とぼやきながら織姫の部屋に向かったシンジだが、こちらは至極あっさりしていた。
「お尻で感じ過ぎちゃって、なんかぼんやりしてるの。治して」
「はん?」
「和菓子には?」
「お茶?」
「そう。じゃ、感じ過ぎちゃった身体には?」
「熱いキス、とか言ったら大聖堂の十字架から逆さに吊すからね。勿論素っ裸で」
 びくっ。
 先手を取られた織姫だが、あからさまに顔色を変えるような事はなく、
「じゃ、冷たいキス」
 んー、と唇を突き出した。
 あっさり逆転されたが、切り返しの出来る娘は嫌いじゃない。頬を両手で挟んで唇を重ねた。
 舌は入れない。
 織姫の唇の柔らかい感触が伝わってくる。
「これでいい?」
「もうちょっと」
 はむはむと、今度は逆にシンジの方が啄まれた。
「ん」
 シンジの唇を解放した織姫が、じっとシンジを見た。
「どしたの?」
「先にさくらの所へ行ってきたの?」
「匂いがす…ひててて」
 シンジの頬をむにぃっと引っ張り、
「そうじゃなくて!」
「分かってる」
「え?」
「言ってみただけ」
「…本当に?」
「マジ。昨日さくらと風呂行くところを見られたんでしょ」
「お節介なんだから」
 シンジの事ではあるまい。
「お節介じゃなくて見に来ただけ。つまり、碇さんがさくらだけにする筈はないから、織姫にも悪影響が出てるに違いない、と山岸が踏んだの。でも当たってたでしょ」
「じゃ、さくらも感じすぎて身体疼いてたですか?」
「NE」
 シンジは首を振った。
「メンタルでダメージがあったようです。何考えてるかは何となく見当ついたケド」
「メンタル?ダメージ?」
「そ。でも人の事気にするより起きなさい。もう、大丈夫でしょ」
「じゃ、起こして」
 艶めかしく手を差し伸べた織姫に、シンジは軽く頷いた。
「あいよ。抱き起こし一丁」
 この台詞で反応するのは住人達には――多分マリアでも難しいだろう。まして、織姫には無理な相談である。
 ひょこっと抱き上げられた織姫が、次の瞬間ぽいっと放り出されていた。
「さっさと起きんかー!」
「キャーッ!?」
 
 
 その日、朝食の席は微妙な空気が流れていた。
 シンジの横に座って妙に甘えているアイリスと、妙な視線を――敵意ではないが少しチクチクした視線を送っている織姫とさくら。原因がアイリスの存在にはないと分かるだけに尚更なのだが、シンジの方は柳に風と受け流している。
 ただし、時折箸が妙な所へ伸びるのを見ると、心はあまりここにないらしい。あっちの世界へ行っているようだ。
 そのシンジが帰って来たのは、十分ほど経ってからであった。
「はい、おにいちゃんあーんして」
 アイリスの差し出したウインナーをぱくっと食べてから、
「すみれ」
「何ですの?」
「今日も練習を?」
「勿論ですわよ。特に織姫には覚える事が山のようにあるんですから」
「そう」
 軽く頷くと、それ以上は何も言わなかった。
(碇さん?)
 内心で首を傾げたのは、すみれだけではない。織姫とさくらもだが、シンジはそっちを見ようとはしなかった。
 何やら考え込んでいたシンジが、
「素人が見ても分からん気もするけど、今日は見せてもらうとしよう。学校終わってからだね」
「ええ」
「分かった」
 会話はあるのだが会話ではなく、どこかちぐはぐな流れは食堂にいた全員が感じ取っていた――分かっていないのはシンジ一人である。
 少し澱んだ空気を断ち切るかのように、
「さ、あなた達もう用意しないと遅れるわよ。今日も学校でしょ」
 声を掛けたのはマリアであった。
 
 
「もうにん」
「あ、お早うございます」
 天に抗うウニ頭、黒瓜堂の主人が帝劇へ姿を見せた頃、時計の針は九時半を少し回っていた。
「オッズの方はどうですか?」
「競馬じゃないんですから。でも…」
 かすみの口調はあまり芳しくない。
「予想だと六割から七割です。やっぱり、一年以上のブランクは長いですから。織姫さんの追加だけじゃ、特ダネには難しいと思います」
「ライト」
 ウニ頭が頷いた。
「私の予想では、おそらく六割くらいでしょうな。何よりも、ブランクを払拭できる程の新ネタじゃないことが響いてます。しかしシンジ君に返さにゃなりませんから、彼女たちに取っては大問題です。ついでに私にも」
「どうしてで…あ、そうでした」
 聞き返しかけた椿だが、途中で気が付いた。今回の公演用に、新たな警備装置を黒瓜堂に発注したのだが、この男何を思ったか代金を収入と比例させたのだ。
 つまり、十割埋まれば最高金額になる。
「それで黒瓜堂さん、何かいいアイデアとかあるんですか?」
「由里嬢達の顔と胸とお尻を見に来る、と言う事もありますが、今日はそれで来たわけじゃありません」
「はあ」
 セクハラ率が250%にも達しそうな台詞だが、三人とも反応しない。そもそも、目の前にいる男が、そんな事を全く考えていない事くらい分かり切っている。
「一階席の、最も良い席を抑えて下さい。一般客へは一切販売しないように。それと、それ以外の席を三分の二まで値段を下げて」
「さ、下げちゃっていいんですか?」
「構いません。でもって、抑えた席の値段を三倍に」
「『さ、三倍っ?!』」
 彼女たちの声が上ずったのも当然だろう。全席が埋まる事すら目算が立っていないのに、そんなぼったくりバーのような事をしてどうするのか。
「変ですかそうですか」
 ふむ、と考えてから、
「じゃ、五倍にして下さい。即刻完売しますから」
「ご、五倍…」「か、完売ですか」
 呆気、と言うよりもはやちっともさっぱり全然事態の飲み込めない娘達だが、
「無問題」
 危険な男は、妙に力強く頷いた。
「ソースは?って顔ですね。知りたいですか?」
 こくこく。
 黒瓜堂の言うとおりにするのは簡単だが、万が一売れ残り、いや完全空席になどなった日には目も当てられなくなる。黒瓜堂の主人の指示、とそう言えばフユノは何も言わないだろうが、花組の娘達の借金返済は不可能になる。
 上着の中に手を突っ込んだ黒瓜堂の主人を見て、かすみは一瞬嫌な予感がした。
(これが中濃ソースです、とか言わないわよね…)
 この男なら大いにあり得るのだが、今回に限っては余計な心配だったらしい。
「まだ草稿ですが」
「パンフレットですか?」
 取り出したのは、今回の公演用に作られたパンフレットであった。自分達が原稿を作ったから間違いない。
 何の変哲もない広告をよく分からないまま眺めていた娘達の視線が、ある一点で停まった次の瞬間、三人揃って、あっと声を上げた。
「く、黒瓜堂さんこれは…」
「優勝決定戦で3――0のまま迎えた九回裏、二死からヒットが三本出て、フルカウント後の場外弾ってやつです」
「で、でもそんな事は…」
「実現不可能に思える、ですか?」
「え、ええ」
「この間、辞書を注文したんですよ」
「辞書?」
「ええ、国語辞典みたいなもんです。表紙には金箔が鏤めてある辞書なんですが」
 これを聞けばネタを分かる程度には、彼女たちは黒瓜堂を理解出来ている――望む望まないは別として。
「不可能の文字が無かったんですね」
「いや、ありました」
「え?」
「鱶脳(ふかのう)といいまして、値段がフカヒレのおよそ三十五倍以上する珍味中の珍味だそうです。白金のとある小さなアンティークショップでしか売っていないとありました。無論、珍味と言っても食用じゃなくて呪術系に使うんです」
「鱶に固形の脳があるんですか?」
「ある訳無いじゃないですか」
 ピク、と殺気を帯びた娘達を見てニマッと笑った。邪悪な心が満たされたらしい。
「冗談は置いといて、私が発案した以上実現させます。彼女たちには無理ですから。じゃ、これで」
 歩き出した足が止まった。
「そうそう、言い忘れてました。販売先ですが」
「決まってるんですか?」
「勿論。魔道省内限定で、ネットを通して販売して下さい。店頭販売なんかにしちゃ駄目ですよ」
「分かりました」
 
 
 その日の晩、稽古を見に来たシンジは、何も言わず黙って眺めていた。誰がミスをしようが誰が怒られようが、一切口を出さずに眺めている。
 却って不気味ではあったが、内輪だからと言う事もあったのかもしれない。舞台を監督する月形竜子は、この日はいなかったのだ。
 ほぼ最後まで見てから、
「お疲れ」
 と、それだけ言ってシンジは立ち上がった。
 寝る直前、織姫とさくらがシンジの部屋に呼び出された。
「何ですか?」
「初めてのおつかい。買ってくるのはこれね」
 渡された紙を読んでいく二人。
 半分ほど行ったところでその視線が止まり、ついで二人ともかーっと赤くなった。
「こ、こんなの…買うんですか」
「出来ないなら無理にとは言わないよ。二人にはまだ早いかもだし」
「こ、これ位大丈夫ですっ」
「そう、じゃあお気を付けて」
 おやすみ、と二人の眼前で扉は音もなく閉められた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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