妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百七十五話:伝染ルンです
 
 
 
 
 
 碇フユノにはボディガードがついている。それも優秀なやつだ。
 それ位は知れ渡っているから、正面切って誘拐しようと言う愉快な連中は少ない。その行為がすなわち、自らの死刑執行令状に墨痕鮮やかにサインするのと同義だからだ。
 しかし、あきらめの悪い者はいつの世にもおり、本邸に妙な代物を送りつけてくる事は依然としてある――送付主が発覚次第、シンジの友人達が戯れる堀の中に放り込まれるのだが、体験した者しかそれは知らないからだ。
 無論、経験してなおそれを語り広める事の出来る者は存在しない。
 ここ最近は平穏な日々が続いていたが、そんな中で送りつけられたクール便であり、しかも梱包全体から妖気を放っているとあっては、本邸のメイド達が身構えるのも当然であった――こんな物を送ってくるまともな相手はいないから、送り主の名前など確認もしないのだ。
「若様っ!?」
 しかし中から出てきたのは荒縄で縛られ、しかも藁でくるまれた大切な主人であり、彼女たちの顔色もすうっと変わったのだが、むくっと起きあがったシンジが、
「薫子、ちょっと来い」
「はい?」
 普通の声で呼んだからちょっと安心したのだが、
 スパン!
「!?」
 いきなりハリセンが飛んできた。
「わ、若様?」
「よし、すっきりした」
 メイド達が呆気にとられる中、
「凍死するほど柔じゃあるまい。ま、大丈夫でしょ」
 もそもそともう一つの包みを解くと、中から出てきたのは先日シンジを攻撃した娘であった。アスカだけなら分かるが、なぜシンジまで送られてきたのかはさっぱり分からない。
「アスカ生きてる?」
「…生きてるわよ。もう、無茶苦茶寒かったんだから」
「ふんふん」
 その身体をペタペタと触ってから、
「凍傷はないな。ちゃんど鮮度は保ってある。しようがないから、今日は帰りますよ」
「帰るって…練習しないの?」
「そこまで元気にはしてくれてない…と思う」
 言ってしまった以上、元気だったら自分がトドメをと思ったが、さすがにそんな事は言えない。
「さ、乗って」
「え?」
 アスカの前に屈んだシンジが、背を差し出したのだ。
「暖房でも良いけどちょっと体温下がったから。さ、早くする」
「う、うん…」
 言われるまま背に乗ったが、昨日の事もあってメイド達からの視線はちょっと痛い。
 当然ながら、この娘はまだ認められていないのだ。シンジの肩に顔を埋めるようにしているアスカの尻に手を当てて、よいしょと持ち上げてから、
「今日は歩いておうち帰る。梱包材を始末しといて」
「分かりました。それで若様…クール便で送られる趣味でも出来たんですか?」
 とんでもない事を訊いたのは比奈だったが、シンジはふふっと笑った。
「送り主を確認する」
 それだけ言うとアスカを背にして、さっさと歩き出した。もう、後ろを振り返ろうともしない。
 若き主の姿が見えなくなってから、ひんやりした荷札に目をやると、送り主の欄には黒い瓜のマークが捺印されてある。
 無論、住所も名前もない。
 これで送ってくる運送会社も運送会社だが、抗いもせずに送られてくる主人も主人である。
 ただし、仕返しの『し』の字でも口にした場合、間違いなく殺人魚とディープキスさせられるのは分かっている。
 行き場のない感情をどうしたものかと、メイド達はそっと顔を見合わせた。
 
 
 
「あの少年をクール便で送ってきた?」
 黒瓜堂の言葉に、豹太の端正な表情に微妙な色が浮かんだ。
「しりるのせいでひどい目に遭ったんだが、シンジ君がアスカラングレーとデートに行く所だったんで、お裾分けしてきた」
「抵抗しなかったんですか?」
「ナイ」
 ウニ頭を揺らして否定し、
「抵抗したら中東行きの貨物便に乗せる予定だったが、当てが外れました」
 この男の場合、どこまでネタなのか分からない――多分、両方とも本心だろう。
「それでオーナー、解読は?」
「出来ました。しかし、あんな代物が図書館の隅で埃をかぶっていたかと思うとぞっとする。連中が見つけたら、歓喜のダンスを始めるに違いない」
「時の為政者達が必死になって隠したがる代物ですか」
「そう言う事。何せここ武蔵の国は幕府が開かれる前は、文字通り東夷の地だった。小田原評定発端の連中が、好きなように建造物も建てられたし、実験も出来た。尤も、そのほとんどが失敗でしたが」
「それに目を付けた連中がいた――」
「彼が釣り天井で失脚していなかったら」
「いなかったら?」
「大日本帝国が間違いなく世界の覇者になってますよ。そして、異端者達から恨みを買って同時にテロを起こされていたかもしれない」
 釣り天井で失脚したと言えば、史実に於いては本田正純だが、正体が本能寺へ突撃した明智日向守光秀とも言われる妖僧天海に比べれば、奸知に長けているとは言えない。
 そもそも、宇都宮城の事件は完全な捏造と言われており、発端は女の恨みにあるとされている。女の恨み程度をかわせない男が、希代の策士になどなれる筈がないのだ。
 ただ、そのほかに釣り天井と失脚の単語が結びつく者は、戦国辺りの歴史には見あたらない。別段豹太も妙な表情はしていないし、二人の間では話が通っているらしい。
 何について意見の一致を見たのか、そして一体何が、世にも危険なウニ頭を以てしても、ぞっとするなどと言わしめたと言うのか?
 
 
 リツコの一声でアスカは公休になっており、帰ってきてから二時間ほど湯に浸かったおかげですっかり身体は暖まった。
 がしかし。
 今アスカの足は地に着いていない――吊されているのだ。
 いきなり拉致されて縛られてクール便で本邸に送りつけられた、とここまでは悲劇のヒロインだったが、その後がいけない。
 どう見ても、酷い目に遭わされた乙女の表情ではなかったのだ。上から下から、そして斜めから見ても、緩んでいるようにしか見えない。
 怪しすぎる。
 絶対何か――アスカに取ってはイイ事で、自分達に取っては怪しからん事――あったに違いないと、目下白状させられているところだ。
「だから、あたしは何もしてないってば。さっさとおろしなさいよっ」
「じゃ、どうしてアスカの顔がだらしなく緩んでいるんですの。その訳を正直にお話しなさい。そうしたら下ろして差し上げますわ」
「緩んでないってば。すみれがそう見えるだけよ」
「却下」
 とりつく島もない。最初から信用されてないのだ。カンニング――最初から答えを知るすべはあるのだが、少々危険が伴うとこの場にはいない。つまりアイリスだ。
「仕方ありませんわね。織姫、楽しませてさしあげて」
「そうね。たっぷり可愛がってあげまーす」
 どこか危険な台詞だが、織姫が手にしているのは金属の棒である。無論先が尖っている訳ではないが、その先には羽毛が付いている。
 どう使うのかなど、言うまでもあるまい。
「ちょ、ちょっと織姫止めっ、ひゃうっ!」
 吊されていると言う事は脇の下ががら空きで、しかもアスカはノースリーブだ。手入れはしてあるから、産毛すら生えていない敏感な場所を羽毛でつうっと撫でられ、アスカはびくっと身をよじった。
「一度だけ訊いてあげる。アスカ、本当に何もなかったの?」
「な、無いってさっきから言ってるでしょ。あんた達こんな事して、後で覚えてなさいよっ」
「ふーん」
 腕を組んでアスカを見上げたさくらが、くるりと振り返った。
「織姫さん、GO」
 時々張り合ったりする娘達だが、こういう時の連帯感は強い。まして、目的は一つである。
 たちまち羽毛がアスカの全身をはい回り、アスカがあられもない声を上げて身悶えするのに、ほとんど時間は掛からなかった。
 それから二十分後。
 脇の下と乳房、それに太股の付け根を丹念にくすぐられたアスカは、もう声も出せぬほどぐったりしてぶら下がっていた。それでも、決して白状しない。
 見上げた根性だが、かくなる上はやはりアイリスかと、最終兵器の持ち出しを相談していた所へ、レニが入ってきた。
「…何をしている」
 話を聞いたレニは、開口一番こう言った。
「僕には関係ないけど、さっさと下ろす事を勧める。クール便で南極越冬隊の所にでも送られたくなければね」
「な、南極越冬隊っ?」
 どうして越冬隊が、いや南極なのか分からないが、吊す事に危険が伴うらしいのは分かった。
 でもなぜ?
「君らは一つ忘れてる。アスカは僕たちの仲間だけど、それ以前に別の身分がある」
「なに?」
「黒瓜堂のアルバイター」
 びくっ!
 それを聞いた途端、その場にいた娘達の背を、強烈な電流のような物が走り抜けた――パンドラの箱、そんな単語が脳裏をよぎる。
 そう言えばアスカは、黒瓜堂の主人がアルバイトとして雇用すると決まったのではなかったか。
 恐怖ではなく単に危険人物だという事なのだが、
「ウチのバイトが吊されたようだが何か…?と言われた場合、シンジが放置するとは思えない。とりあえず、首相官邸に送りつけられて不審物扱いされるのは間違いないと思うけど」
 淡々とした口調は、時として恐怖心を効果的に煽る。
 慌ててアスカが下ろされ、何度も達してしまってぐったりしているアスカが、
「あんた達…黒瓜堂さんに言いつけてやるから…覚えてなさいよ…」
 効果的な復讐手段を見つけたと得意げに――望まぬ快感に身悶えし過ぎて魔女の呪詛にしか聞こえないが――言ったアスカだが、
「つまり、そこまでアスカを庇う黒瓜堂さんにクール便で送りつけられたの?」
 火の手が内輪から出てきた。
「だ、だってレニ今あんた言ったじゃない」
「可能性の一つだよ。それに、アスカだってシンジに甘えてたんだからお互い様でしょう」
「『…何ですって?』」
 鎮火どころか火が自陣に返ってきた形勢が、また逆転の兆しを見せた。
「ちょっとレニ、それはどういう事ですの?アスカは何もなかったって言ってましたわよ」
「信じてなかったでしょ」
「そ、それはアスカがそんな表情をしていなかったから…そ、それよりレニ何の事を言ってるのか話してちょうだいな」
「そうよ。分かっているんだったら意地悪しないで教えて」
 レニは軽く肩をすくめて、
「駄目」
「『どうして?』」
「僕は現場なんて見ていないし、今話を聞いただけ。でも分かった。分からないのは、君たちが黒瓜堂という人の性格と思考を理解していないから」
 あまり理解したいものでもない。
 してないからと言われても、理解する事に意欲の湧かない事由である以上、仕方あるまい。
 ここで打ち切りかと思われた時、
「別に良いわよ話しても」
 墓穴を掘ったのはアスカであった。
「別にシンジとホテルに行った訳じゃないし、そもそもあんたの考えが合ってるか聞きたいしね」
 妙に挑戦的なアスカにもう一度肩をすくめ、
「帰りはどうやって帰ってきたの」
 と、レニはそれだけ言った。
 変な事を訊くと思った瞬間、とっちめていた娘達は珍奇なものを見る事になった。
 訊かれた途端、アスカの顔色が三色の間で目まぐるしく変化したのだ。
 赤から青、青から白とくるくる変わった時、織姫達は求めていた答えがそこにあったと知った。
「最初はシンジと抱き合わせで梱包されたのかと思ったけど、それは多分ない。それをやったら、シンジにはともかくアスカには快感にしかならない」
(シンジにはともかくってどういう事よ)
 ムカッと来たが――哀しい現実なので、ぐっと飲み込んだ。
「本当に冷凍するなら荒縄じゃなくて鉄鎖を使うけど、そこまでしなかったという事は単なる憂さ晴らしか、或いは八つ当たりだ。帰りにどこか寄り道もしていないと、アスカは自分で否定した。だとしたら、考えられるのはただ一つ、帰り道の方法だけ。アスカにはシンジと違って自分を内部から暖めるスキルがないから、身体が冷えていた筈」
 と、ここまで言われたがまだ分からない。
 心配していた程の事がなかったのは分かったが、まだ事実は見えない。
 焦らさないで早く、とさくらが言いかけた時、
「シンジは余計な所で気を遣うから。アスカの帰り道はシンジの背中でしょ」
「!?」
 当てられて一瞬動揺した娘と、思ったほどではないがやっぱりただ事ではなかったと知った娘達と、その双方の顔に同じ色が浮かんだ。
 どたばたと乱戦モードに入った娘達をちらりと眺め、
「馬鹿ばっかり」
 レニは小さな声で呟いて、浴場を後にした。
 折角入りに来たのに、現在は第一級危険地帯と化しており、それどころではなくなってしまったではないか。
 浴場を出たレニの足が止まった。
 壁により掛かっていたのはこの場にもっともいてはならぬと思われる娘、アイリスであった。
「…いつからそこに?」
「黒瓜堂のアルバイター」
 ませた娘は、レニとそっくりな口調でそう言った。
(それってほぼ最初から…)
「どうして入ってこなかったの」
「たいした理由じゃないよ。ただ、入っていってアスカをこんがり焼くのと、おにいちゃんに話してよく我慢したねって褒められるのと、どっちがいいか考えたの。今夜はおにいちゃんのお部屋に泊まる日だし。ねえレニ?」
 アイリスはあどけない顔で――裏に邪悪をたっぷり含んだ表情で、にぱっと笑った。
 
 
「ガクガクガタガタブルブル」
「…え?」
「ちょっと身体が冷えた。で?」
 色々な思惑が交錯している現状など知らず、シンジはマリアの部屋に来ていた。先だって口移しで風邪の菌を送り込んだのだが、依然として寝込んでいると聞かされ、やってきたのだ。
「薬は飲ませたんだけどよ、熱が下がらねえんだ。もうあたいの手には負えなくて」
「ま、よくやった」
「え?」
「後は見よう。もういいから料理の練習でもする」
「り、料理?」
「特に上手くはないけど普通には作れる。トウジの妹は手強いよ」
「っ!?」
 顔を赤くしてすっ飛んでいくのを確認してから、シンジはするりと室内に入り込み――わずかに眉をしかめた。
 ペタペタと歩いていき、勝手にベッドに腰を下ろした。額にうっすらと汗の玉が浮かぶマリアの顔は病的だが幾分染まっており、ぞくりと来るほど妖しい。
 が、今はそんな場合ではない。
 頬と頬を合わせてから、
「あつ」
 呟いた時、力弱く手が伸びてきた。
「起こしちゃったかな」
 返答はなく、マリアがゆっくりと身を起こした。
「寝てた方がいい。まだ下がってないでしょ」
「大丈夫よ。それより…話があるの」
「うん?」
「この間は悪かったわ…側にいたのにあなたの変調に全く気づかなかった」
「いい」
 短く言うと、マリアの上体を押して横にならせた。
「そんな事より、どうして熱出してるのかが気になる」
「……」
 あなたのせいでしょ、と言うのが正しい回答だ。が、そんなツッコミを入れる気力が無かったのに加え、膝の上にいながら気づかなかった事で自分を責めていたのだ。
「マリア、ちょっと喉見せて」
「うん」
 言われるまま口を開けたマリアの目が、大きく見開かれた。シンジがいきなり唇を重ねて来たのだ。
 舌は絡んでこなかったが、どう考えてもそんな場面ではないし、それに顔はすぐに離れた。
「臭うな」
 シンジの心ない台詞に、マリアは首筋まで染めた。ぎゅっと唇を噛んで顔を背けようとするマリアに、
「その臭うじゃなくて」
 と、シンジの台詞はあくまで奇妙なものであった。
「…どういう…意味…」
「魔女医が知り合いにいるおかげで、漢方系の組み合わせはたいがい分かるようになった。でも、マリアの口からは違う匂いがした。マリア、桐島に薬もらったね」
「え、ええ…」
「まったく、何を混ぜたんだか。変なモン混ぜるから、さっさと引くはずの熱も引かないんだ。本来だったら、とっくに起きあがってる頃だよ」
「…そうなの?」
「口移しで飲ませたのはそう言うモンです」
「…っ」
 ほんのりと、今度は違う意味で赤くなったマリアが、
「で、でもその…く、薬のせいだけじゃないの」
「だけではない、とは?」
 シンジの口調に、ある種の物が含まれた事にマリアは気付いた。それは、ひどく危険なものであった。
 ただマリアは、それを一瞬で消失させる術も持ち合わせていた――そう、他の娘達には決して為し得ない事を。
「成都での事を…夢に見るの…」
「!?」
 その途端、シンジの全身からすっと刃のような物が消えた。普通の一管理人に戻ったのだ。
「でも…シンジと会う前の事…脇侍達に追われている夢よ…」
「…マリア…」
 原因は分かっている。無論良かれと思っての事だろうが、カンナが調合した薬だ。
 シンジが飲ませたのは、ある意味毒薬だが、解毒剤がない代物だ。つまり、放っておけば一定時間で勝手に熱は下がるし、体調も元に戻るのだ。それが元に戻らないというのは、カンナの選択した物質が予定外の影響を与えた為で、嫌な記憶もそのせいだ。
「夢は仕方ない。それは、人の思いの中にあるものだから。でも、それはそれとして熱は下げないとね」
「また薬を?」
 訊いてから後悔した。また、とは言うべきではなかったと気付いたのだ。
「ううん、違う方法」
 シンジが短く答えた時、かすかながら口調が変わったと分からぬほど、マリアは鈍感ではなかった。
 立ち上がってくるりと身を翻した時、マリアは思わず手を伸ばしていた。どうしてかは、自分でも分からない。
 もう戻ってこないような、そんな気がしたのかも知れない。
 が、数分も経たずに戻ってきた。
(え…?)
 マリアが怪訝な表情になったのも宜なるかな、その手にあったのは釘を始めとする工作道具であった。
 どう見ても、熱を冷ますのに関係あるとは思えない。
 見ていると、箱から鍵と釘と金槌を取り出した。
(!?)
 ガン!ゴン!ゲン!
「な、何を…」
 牧歌的な破壊音が響いた後、扉には鍵が三つ取り付けられた。
「とりあえずはこれでよしと」
 つかつかと歩み寄ってきたシンジが、ベッドの上にぽすっと腰を下ろし、
「さ、おいで」
「え?」
「既に消化されちゃってるから、それを吸い出す技量はありません。でも身体くっつけていれば三時間くらいで熱は取れる。おいで」
 そう言って指したのは自分の膝であった。無論、膝枕だろう。
「あ、あの」
「何?」
「膝だと…私が寝返り打つとお腹に当たるから…」
「大丈夫。鋼鉄の腹当てしておくから」
「…ぶつかった私の頭はどうなるの」
「それもそうでした」
 んー、と考え込んだシンジの袖を、マリアがそっと引いた。
「あん?」
「別に…膝じゃなくてもいいんでしょ」
「構わない。要するに体温を吸い取れればいいんだ」
「そ、それなら…ふ、普通にっ」
「普通〜?」
 聞き返してから、真っ赤になったマリアの顔に気付いた。
「ふーん」
 立ち上がったシンジがさっさと背を向けて歩き出す。
「あ…」
 また置き去りにされたが、すぐに戻ってきた。その手には鍵と紙袋がある。
 ガン!ゴン!ゲン!
 牧歌的な工作音が再度室内に響いた結果、鍵は五重鍵になった。
「これでよし。ついでに結界でも張っとくか」
 元々マリアの部屋である。しかも五重の鍵が掛かったそこへ、誰が無理矢理入って来るというのか。
 紙袋に入っていたのはパジャマであった。さっさと着替えだしたシンジに、慌ててマリアが視線を外す。
「お邪魔します」
「ど、どうぞ」
 マリアが顔を赤くしたまま、もぞもぞと動いてスペースを空ける。ぽんぽんと枕を叩いてから、
「ポパイじゃないけどね」
「ポパイ?」
 ホウレン草と入れ墨の関係かと思ったら、枕が没収されてにゅうと腕が伸びてきた。
(?)
 三秒後、その意味に気付いたマリアの顔色が、一際赤くなった。腕枕と知ったのだ。
 そっと腕に頭を乗せてシンジに顔を寄せる。
 この時二人の考えている事は、まったく別の事であった。シンジの関心は熱っぽく柔らかいマリアの肢体ではなく、カンナが一体何を飲ませたのかと言う事にある。
 自慢する事ではないが、マリアに飲ませた代物は即座に効果を発動し、きっちり時限式で治る代物なのだ。
 黒瓜堂謹製。
 それを狂わせ、あまつさえ悪化させるとはある意味恐ろしい女と言える。
(困ったやつだ)
 まったくもう、と内心で呟いてから、
「目が覚めたらすっきりしてるから。安心しておやすみ」
「え、ええ…」
 それから数分後、
「あの、シンジ…」
 まだ眠っていなかったマリアがシンジを呼んだ。すぐ側にシンジがおり、しかも色気は全然無いが、お互いの心臓の鼓動すら聞こえる位置にいるのだ。
 眠るどころではないのだが、シンジには絶対に言えない。シビウ病院へかつぎ込まれたりしたら一大事である。
「なに?」
「あなたに…言っておく事があるの。言わなければいけないと、ずっと思っていたんだけど…」
「ふんふん?」
「中国での事…」
 ぴくっ。
 その途端、シンジの身体が僅かに反応した。
 向かい合っていれば分からなかったろうが、今はシンジの腕枕に頭を乗せている状態だ。どんな変化でも見逃す事はあり得ない。
「私はまだ…シンジを理解できるほど成長してはいないし、全部を理解する事はできていないわ。だから、シンジの膝にいても変調に気付かなかったりするのよ」
「その事は別にマリアの――」
 言いかけた口に、マリアの細い指が触れた。
「いいの、聞いて。私はただ…シンジが何となく私を置いていったのではないと、それだけは分かるようになってきたわ。何も分からず、再会した時いきなり撃ったりしてごめ…んっ」
 いきなり口が塞がれた。
 ただし、キスではなく指でもない。ぎゅっと抱き寄せられたのだ。
「何も言わないでマリア…」
(シンジ…)
 マリアが小さく、こくんと頷く。
 解放されたマリアは、何も言わずシンジに身体を寄せた。もう、何も言う事はない。
 身を寄せ合った二人が、すやすやと寝息を立て始めたのはそれからまもなくの事であった。
 
 
 
「自分達で利益を上げる〜?」
 その日の夕方、さくらとレニが本邸に呼び出され、フユノに告げられたのは舞台の再開と、利潤をあげる事であった。
 ふうん、と聞いてから、えらい事だと気が付いた。
 今までは舞台だけに専念していれば良く、利益がどうなったかなど考えた事もなかったのだ。そもそも、フユノがそれでいいと言い渡していたのだ。
 また、客の入りが九割を切った事もなかったから、彼女たちも気にしなかったというのが実情である。
 が、それが急遽方針を転換してきた。
「『どうして急にそんな…』」
 顔を見合わせてから、ある事に気付いた。
「そっか、碇さんがいるから、碇さんに相談すればいいじゃない」
「そうですわよ、碇さんならきっと良いアイデアを…レニ、浮かない顔ですわね。どうしたんですの?」
「……」
 何やら考え込んでいたレニが、
「それはいいんだけど――」
「シンジは舞台に微塵も興味がない、そうでしょう」
「うんそう…って、マリアもういいの?」
 姿を見せたのは、今朝方まで熱を出して寝込んでいた筈のマリアであったが、その顔色はもうすっかり元に戻っている。
「ええ、大丈夫よ。心配かけたわね」
「薬が効いたんですか?」
「いいえ、熱を引き取ってもらったのよ。移植主にね」
「…え?」
 他の娘達は知らないが、さくらとすみれは現場に居合わせている。ピク、と眉の上がった二人にうっすらと笑ったマリアが、
「別に心配は要らないわ。それより、シンジが生活リズムを崩して、ついでに体調も崩したみたいで寝込んでるのよ。あなた達ついででい――」
 ぽかっ。
「!?」
「だーれが寝込んでるって〜?」
 無論一撃は対象者のものだが、こっちは何をどう見ても風邪の真っ最中で、熱があるのは一目瞭然だ。
「シ、シンジ大丈夫っ?」
「何か問題でも?」
 ふるふる。
 アスカは慌てて首を振ったがこの管理人、足下からしてふらついているではないか。
「で、お婆が難問出したって?」
「べ、別に難問って言う事じゃないんですけど…」
「ほうほう」
 話を聞いたシンジが、
「じゃ、こうしよう。君らに一千万貸すから、公演が終わった時に二万円の利子付けて返して。とりあえず元手はいるでしょ」
「『え?ええ…』」
 言ってる事は分かりやすいが、ただ、急に言われても分からない。大体経費と収入の概算すらできていないのだ。
「舞台には興味ないから、一切口出しはしないよ。じゃ、後は任せ…あら?」
 蹌踉めいた所を慌ててレニが支えたが、すっとシンジが制した。
「うつられると色々困るんです」
「う、うつるの?」
「伝染ルンです」
 にこりと笑ったシンジが、レニの頭を撫でてから蹌踉と出て行く。ふう、と小さく息を吐き出したマリアが、
「アスカ、今暇でしょう」
「え?ま、まあ暇だけど」
「廊下で倒れてそこら中に菌をまかれても困るから、悪いけど部屋まで送っていってくれないかしら」
「え?」
 すぐにシンジの事だと気付いた。
「しようがないわねえ、じゃあたしが人柱になってあげるわよ」
 どこから見ても軽い足取りで出て行くのを、
「あ、あたしが行きますっ」
「だめ。あなたには舞台があるでしょう。風邪を引いて台無しにするつもり?どうしてアスカに行かせたと思ってるの」
 ある意味ひどい台詞だが、行かされた方は最初から計算済みである。だから嬉々として出て行ったのだ。
「それでレニ、演目は決まっているんでしょう。台本見せてちょうだい」
「今持ってくる」
 出口の方にちらりと視線を向けたマリアが、ありがとう、と内心で小さく呟いた。
(……)
 刹那、視線が優しくなったマリアに、と言うより最初からある程度事態を読んでいたのはマユミただ一人だったが、何も言わなかった。
 シンジの能力は憧憬ではあるが、恋愛とはまったく違う。
 その意味で自分は部外者だし、何よりも、シンジが誰を選ぼうと、それは両想いの結果なのだから――人外を選択する、と言う可能性も決して低くはないのだけれど。
 
 
 
 
 
(つづく)

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