妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百七十四話:ザ・ドライビング教室
 
 
 
 
 
「アスカの車を?」
「ええ」
 頷いたウニ頭に、シンジはちょっと怪訝な視線を向けた。確かに丁稚奉公に出すのは事実だが、そこまでの待遇は少し妙だ。
 が、黒瓜堂は平然と、
「この間、君が巴里で大暴れした時のデータを元に、大もうけしました。それから見れば微々たる金額です」
「今何て?」
「もう一度?」
「…いやいい。映像撮ってたの?」
「データ、と言ったはずですが」
「はあ」
 と頷いたがよく分からない。「碇シンジとその従魔大暴れノ図」と称して映像を流すなら、出来すぎるほど理解できるのだが、それ以外だと想像がつかないだけに、不気味な事この上ない。
「個人情報は流出していない、とそれだけ言っておきます。それと、シンジ君に少々協力してもらう事になるのでよろしく」
「協力?」
「ええ、たいした事じゃありませんから。じゃ、そゆ事で」
 寸借詐欺師に丸め込まれたような気もしたが、今までに真っ赤な嘘をつかれた事はないと、とりあえず信用してみることにした。結果、アスカに七十二時間付き合わされる羽目になったのである。
 
 
 
「惣流・アスカ・ラングレーを一週間公休に?別に構わないけれど」
 電話の向こうで、リツコはわずかに首を傾げた。どうして一人だけなのかとか、どうして一週間なのかとか、そんな事はどうでもいい。
 そんな事を訊かねばならぬ相手でもないし、リツコにとっては関係ない事なのだ。
 ただ問題は相手の――想い人の――声が少し不機嫌に聞こえた事だ。
「私の方で処理しておくわ。それとシンジ君?」
「なあに?」
(……)
 リツコは再度首を傾げた。やはりどことなく妙だ。
「あまり機嫌良くはないの?」
「うーん」
 首を捻ってから、
「全身を新品の服で固めて彼女と堤防を歩いていたら沙蚕を踏んづけて、気持ち悪いから靴を洗おうと海につけた途端、タコに巻き付かれた気分かな」
 沙蚕とは、無論五階や六階でも誤解でもなく、魚釣りに使う餌の一種である。アイドル系の小娘が釣り番組に出た場合、これをどう扱うかで番組の評価は大きく変わると言われており、キャーッと騒ぐようなら番組に抗議が殺到する事になる。
「び、微妙な気分なのね」
 感覚的には理解できるが、共感まではいかない。
「それでその…」
 ちょっと言いよどんでから、
「用が終わった日の翌晩は空いているかしら?」
「俺は空くけどリッちゃんが空いてない」
「私が?」
「免許センター用の資料を捏造してもらわないとならないから」
「……」
 刹那絶句したリツコに、
「だいたい事情は読めた?」
「いいえ。でも一つ分かったわ。シンジ君の危険な知り合いが絡んでいるのね」
「うん」
 危険な知り合い、と既に認定されているのが誰かなどと、言うまでもないらしい。
「ん。じゃ、こうする。実習終わってからとか言ってたから、終わり次第リッちゃんはさっさと作って」
「いいわ」
 続きを聞く前にリツコは頷いた。
「五分や十分じゃ出来ないだろうから、夜に取りに行くから。場所はリッちゃんが指定して」
「ええ。完全な書類を作って持っていってあげる」
 目の前で聞いたら、全身の快楽神経を刺激されそうな声であった。教職員が聞いたら多分卒倒するだろう。
「よろしくね」
 通話は、いつも通りあっさりと終わった。
「もう…」
 切ない吐息が静謐な空間に吸い込まれていく。
 
 
「着いた?」
 黒豹の一撃に、黒瓜堂は目を覚ました。無論、その異名を持つ男の一撃ではない。銀座に用があるしりるの車に、無理を言って乗り込んだのだ。
 雇用主命令、を使った可能性は低い。
 前足の肉球でぐりぐりされて――正確には踏まれたのだ――目を開けると、車は帝国劇場に着いていた。
「ありがとう、助かった」
 ドアを開けた後ろ姿に、
「何時頃に終わるの?」
「帰りは構いませんよ。自分で帰ります」
「いいわよ、乗せていってあげるから」
 しりるがこんな事を言うのは珍しい。
 おそらく明日は雪に違いないと思ったら、
「この子がね、肉球でオーナーの顔を押して遊んでたのよ。見ていて飽きなかったわ」
「期待か?それとも謝罪と賠償か?」
「ご想像にお任せするわ」
 美しき暗殺者は妖しく笑った。
「……」
 黙って手を差し出す――豹は素直に前足を乗せた。
「お願いしよう、終わったら電話する」
 車が音もなく走り去った後、黒瓜堂は微妙な表情で歩き出した。何かが引っかかっていたのだ。
「忘れよう」
 重い樫の扉が滑るように開き、三人娘が出迎えた。
「おはようございます」
 挨拶を返してから、
「御前は?」
「もう、お待ちになっておられます。来られたらすぐご案内するようにと」
「分かりました。で、例のモンは動いてますか?」
「ええ、順調に動いています。マニュアルもわかりやすいから、誤動作もありませんし助かってます」
「順調ですかそうですか」
 三人娘の後ろについて歩きながら、
「ところでかすみ嬢」
「はい?」
「今度、システムに編集機能付けておきましょうか?今は防犯用に編集は出来ない仕様ですから」
「編集機能って、ある部分だけ残しておくとかそう言うのですか?」
「ええ。で、私がシンジ君を拐かして帝劇一日体験ツアーを組むと。つまり隠し撮りのし放題…おや?」
 最初にかすみがバランスを崩した。そのスカートを由里が踏んづけ、二人が転んだところで椿がその足に躓いて転ぶ。
「……大丈夫ですか?」
 太股まで見せて三人の娘達が足を絡めている姿は非常に妖しいのだが、見る機会に恵まれた方はまったく興味がないと来ている。
 そんな事は分かっている故に。
 手を引いて起こされた三人の顔が真っ赤なのは、生足を見られたとか転んだとか、そんな事ではない。
「まだ早いですか?」
 三人の顔を眺めながら訊くと、
「『そ、そんな事ありませんっ』」
 元気よく否定が返ってきた。
「じゃ、近いうちに」
「よろしくお願いします」
 がしっと握手が交わされ、危険な談合が行われた事など、シンジは知るよしもない。無論、値段は黒瓜堂の言い値と決まっているのだ。
 地下へ降りる事十五分、ようやく目的地に着いた。帝劇の地下でも最下層にあたるこの場所は、シンジは無論の事花組のメンバーも誰一人として知らない。
 外界の光をいっさい阻むその場所で、彼女たちの前に広がっているのは広大な空間であった。東京のどこにこんなスペースがあるのかと思われる程のその場所では、目下一大建築イベントの真っ最中だ。
「御前様、お連れ致しました」
 かすみが声を掛けると、フユノが振り向いた。
「呼び立てて済まなかったね」
「いや、別に」
 首を振ってから、何十人もの作業員達が一斉に取り付いている建造物を見上げた。
「外観はほぼ出来た。後は内装ですな」
「七割方、既に完成している。ただ、まだ全体像がはっきりしておらぬ。やはり、一度シンジを連れてこねばならぬの」
「必要ないでしょう。第一、来た途端回れ右して帰る可能性が高い。御前、これ以上シンジ君を怒らせない方が身のためだと思うが」
「……」
 フユノの側にいるメイドが聞いたら赫怒しそうな台詞だが、フユノは黙って聞いている。
「何か、妙案がおありかい?」
「シンジ君のデータはだいたい取れている。ダミーを作るのはドクトルシビウに遠く及ばないが、データのみならうり二つの分身が出来る。データさえ打ち込んでしまえば、肉体は要らないのだから」
「いずれ、お願いするよ。ところで、シンジはやはりこれを受け入れないと思うかい」
「私の言う事がまだ分かっていない。理解はしていても、実体として消化できていないんですよ。降魔退治に出るのは、シンジ君ではなく、愉快な仲間達です。尤も、これが稼働するようになる頃には、考えも変わるでしょう。必要なのは、思想ではなく徹底的な敗戦です」
 住人達が聞いたら、柳眉を逆立てて怒るだろう。特にマリアなどは、やはり生かしておいてはならぬ奴と改めて決意するに違いない。
 それを聞いたフユノは、ふっと笑った。
「あんた一人を悪者になどさせやしないよ。あんたをこの計画に引っ張り込んだのは儂じゃ。マリアにも、いい加減目を覚ませねばならぬ」
「不要な事」
 黒瓜堂はひらひらと手を振った。
「邪魔になれば始末すれば済む話です。だいたい、あの娘が私に手出し出来るかどうかなど、御前は一番分かっているはずだが」
「だからこそ余計にじゃ。あんたの所の店員は、オーナーに傷つけられて笑ってみているほど、安いプライドの持ち主かい。黒瓜堂の魔人達をその気にさせた日には、降魔よりも先に帝都が壊滅するよ」
「その大将は、ごく普通の一般人ですよ」
 ウケケケ、と笑ってから、
「システムの方は、既定通りシンジ君に合わせて作ります。頭脳を入れるボックスだけ用意しておいて下さい。で、頭脳の操縦は?」
「そこの小娘三人に任せる予定じゃ」
「うん?」
 振り向くと、かすみ達三人が立っている。
「不足かの?」
「彼女たちがいて、その少し下に私がいる。これ、なんだか分かります?」
 黒瓜堂は、三人娘に手を少し広げて見せた。
「いいえ?」
 首を振った娘達に、
「距離は近いですけどね。いわゆるあれです――超えられない壁」
 そう言うと、踵を返して歩き出す。慌ててかすみが後を追った。
 
 
 
「え、本邸の地下?」
「そ」
 シンジが手を回したから、公休の許可は出た。他の住人達は普通に学校だし、カンナはマリアに付き添っている。
 アスカは、シンジがマリアを寝込ませた張本人である事は知らない――だから本音を言えば、シンジが付きっきりになってしまうのではないかと、ちょっとだけ不安だったのだ。
 確かに自分の事は黒瓜堂の主人から押しつけられた。がしかし、マリアの風邪とどちらを優先するかと考えた場合、冷静に考えて自分という答えはまったく出てこないのが現状である。
 マリアには悪いけれど、内心でほっとすると同時に、何となく妙だと気が付いた。普段のシンジなら、まったく放置という事はあり得ないだろう。
 ただし、それをシンジに問う事は出来なかった。行ってしまうのではないか、と言う思いの方が上回ったのだが、これはやむを得まい。一方シンジの方は、これはもう張本人であり、マリアは最初から放置と決めてある。大体、黒瓜堂が難題を押しつけたせいで今は頭がいっぱいなのだ。
 確かに自分も最初からミサトを横に乗せて運転は覚えた。今から向かう場所は公道ではないから、何をどう走ろうと道交法違反や無免許運転になる事はあり得ない。
「地下にだだっ広い駐車場があるんだ。あそこでなら初心者が走り回ってもまずぶつからない」
「外にも無かった?」
「あるよ。確か何十台だかは置けるようになってるのが。でもそこより地下の方が広いし、地底ならぶつかる心配もないからね。もう車は用意するように言っておいたから」
「あたしの車を?」
「違う、惣流・アスカ・ラングレーの練習用の車」
「何にしてくれたの?」
「ないしょ」
 ふっふと笑ったシンジに、嫌な悪寒が三割と期待七割だったのだ…が。
「――シンジ」
「…何」
「いくら私でもいきなりこんな車を運転するのはちょっと…」
「何も言わないで」
「はい」
 二人の目の前に停まっているのは、リムジンであって軽自動車や普通車ではない。どう見ても、用途を誤った事は一目瞭然である。
 それでも表情は変えず、
「この車を用意してくれたのは?」
 控えていた麗に訊いた。小声だったから、二人の会話は耳に入っていない。
「千鶴さんです」
「呼んできて」
「分かりました」
 言われるまま呼びに行こうとするのを、
「ちょ、ちょっと待ってっ」
 慌ててアスカが止めた。
「何でしょうか?」
「何でしょうかってその…シンジ、呼んできてどうするの?」
「別に。ただ餌にするだけ」
「餌っ!?」
「なにの餌にするかは聞かない方がいいと思うけど…訊きたい?」
 ここまで来て、麗もようやく妙だと気づいたらしい。
「若様、この車がどうかなさいましたか?」
「ううん、別に。ハンドル握った事のない小娘にリムジンいじらせる根性を試してみたいだけ」
「お、お出かけではなかったのですか?」
「空気を読むのは個人の自由だと、とある店のオーナーも言っていた。結果、恥をかいたりピラニアの餌になったりするわけだ。麗、呼んで来…OUCH!」
 お尻をきゅっとつねられて小さく悲鳴を上げたシンジだが、状況はともかくとして、この場にシンジを慕うメイドがいなかったのは幸いだったろう。麗は既に、この場で表情を変えない程には経験を積んできている。
「シンジ、あたしと泊まり込みで修行しようって時に、血を見せようっていうの?」
「ノン」
 シンジは首を振った。
「アマゾンの兵士を生で見るいい機会だから、勉強しておくといい。ピラニアの中に放り込んだら、血を固めたゼリーでない限り血は出ない。秒と経たずに骨と化…きゅう」
 今度はきゅっと締め上げられた。
「誰がそんな物見たがって――」
 無論、殺す気など無い。いつもの事だから、つい締め上げてしまったのだが、その手が不意に凝固した。シンジでさえ、一度も発した事のない凄まじい殺気がアスカの背を叩いたのだ。手を離せば済むとか、そう言うレベルではない。
 その気だけで、アスカを微動だに出来ぬほど呪縛した主はゆっくりと近寄ってきた。
「シンジ様、何のご冗談ですか」
 表情だけは変わっていないのは、無論薫子だ。
 身動きすら出来なくなっているアスカを冷ややかに一瞥し、
「お連れしろ」
 後ろにいた香奈に命じた。
「若様、一度は見逃しましたが二度目はありません。我々は、若様を腑抜けに育てた覚えはありませんよ」
 えらい言われようだが、確かにシンジが本邸にいた頃、小娘に首を絞められている図など誰一人として想像できなかったに違いない。
「……うん」
 シンジが頷いた時、アスカは生きた心地もしなかったのだが、
「薫子ちょっと」
 完全に凝固しているアスカの手をほどき、シンジは薫子を呼んだ。
「耳貸して」
 寄せた耳に口を寄せ、耳朶にはむっと歯を立てる。
(!?)
 反射的に身構えようとするのを許さず、がしっと捕まえた状態で、
「旦那との談合で、アスカに運転を教える事になったんだがな。結果、この有様だ」
 視線が指した先にはリムジンが止まっている。
「目下、奴を餌にしたくてうずうずしてるんだ。あまり刺激しないで」
 奴、とは無論アスカではない。
(今回だけは許してあげます。でも、今度からそう言う事は世界の果てに行ってやって下さい)
(そうします)
 十歳程度ならまだしも、とっくに自立しながら、未だにメイドに怒られる若様もそうそういるものではない。
「若様、ちょっと首見せて下さい」
「首?」
 上を向いた瞬間、首筋に唇が貼り付いた。文字通り、乙女の喉元に牙を立てる吸血鬼の図に近い。シンジは抗わなかった。抗っても無駄だし、何よりも薫子がポーズで怒っているのではないと分かっていたからだ。
 もしもシンジが止めなければ、躊躇う事無くアスカをピラニアたちの前に差し出したろう。全身とまでは行かずとも、手か足くらいはおやつとして供した可能性が高い。
 鏡など見ずとも、くっきり痕が付いたと分かっている。
 つ、と口元を白い指で拭ってから、
「問いませんね」
 と訊いた。
「うん」
「分かりました」
 頷いて、
「若様が燃やしたくなる前に片づけろ。それから香奈、お前の車をこちらのお子様にお貸ししろ」
「はい」
 名前どころか、お嬢さんでも娘さんでもなく、お子様と来た。
 碇家本邸に仕えるメイド達に取って、求められるのは家事能力より戦闘能力である。それも、危険な若主人を抑えるに足るほどのものだが、若いメイド達に武芸百般を教えられるのは薫子しかない。
 他の者でも良いのだが、その場合、
「先に師匠が対象を倒してからにしてもらおう」
 と、派手に撃退される羽目になる。シンジは、妙な所でプライドが高いのだ。
 鍵を受け取り、硬直したアスカを何とか現世に引き戻し、車まで歩いていったが、車を見たシンジの表情が固まった。停まっていたのはインプレッサWRX――分かりやすく言うと、ラリーカーを市販していると言われる車である。
 しかも、リアウイングからして既に付け替えてあり、マフラーも純正ではない。
(うーん…)
 内心で首を捻ったが、アスカの方は知らないから、全く気にした様子がない。九死に一生を得た事は、忘れる事にした。シンジを撃ったマリアが本邸で凄まじい体験をした事は知らないが、どうせ自分がシンジと釣り合うレベルにはないのだと、現時点では諦めている。
 無論、金だの家柄だのではないが、どこが合っていないのかと自分でも分かっていない以上、仕方ない。
 逆に考えればいい。
 黒瓜堂がシンジを十字架に吊して運んできた場合に、誰か攻撃するメイドがいるかどうか。一人もいないだろう。
「ねえシンジ、本当に車借りていいの?」
「イイ。知識は誰かに教えさせるから、実技は習うより慣れろだ。免許センターでの試験に受かればそれで問題ない。地下駐車場なら、そうそうぶつける所もないしね。とりあえず助手席乗って」
 自分がミサトに教えられた時、知識よりも最初にドリフト体験が待っていた。スピン寸前まで持ち込み、それでもタイヤの制御を失わないミサトの運転に、素直に感心したシンジだったが、それが出来るほどこの地下駐車場はだだっ広いのだ。
 乗り込むと、僅かに甘い匂いが漂った。香水の類は置かれていない。キーを差し込んだ瞬間、シンジはわずかな違和感を感じた。
 首は傾げず、クラッチを踏んだ瞬間その正体を知った――いきなりエンストしたのである。クラッチの繋ぎミスなど、実に久しぶりだ。
「『……』」
 やりなおし。
 十五分ほどで特性を掴み、三十分後には、本来の持ち主には遠く及ばないものの、滑らせて遊ぶ程度にはなっていた。バケットシートに身体を押しつけられているアスカだが、さすがに酔ったりはしていない。
 更に三十分後。
 スタートに悪戦苦闘しているアスカがいた。基本動作は分かったから、とりあえずハンドルを握ってみたいと、運転席に座ったのはいいがクラッチが繋げないのだ。
 シンジは、ぼんやりしていた訳ではない。
 別物に取り替えられていたから、勝手が違ったのであって、運転などした事もないアスカがそうそう乗りこなせる筈もない。
「…なんか繋がらないんだけど」
「頑張って」
 笑いはしないが、それ以上のアドバイスはせずに、黙って眺めている。二十回ほど、ガクガクと車体を揺らしてから漸く繋がった。
 そろそろと動きだし、すっとアクセルを踏み込んだ途端ガクンと停まった。
 ぽかっ。
「なんで、ローからサードにいきなり上げんじゃおのれは」
「ネ、ネタよネタ。ネタに決まってるじゃない」
 スパン!
「…真面目にやろうね、アスカちゃん」
「りょ、了解」
「ったくもう」
 無論、ネタではなく素で間違えたのだが、そんな事は口が裂けても言えない。それでも、一時間近くエンストを繰り返した結果、少しずつではあるが走れるようにはなってきた。
「少し慣れてきたね。じゃ、次はドリフト」
「ドリフト〜?」
「そ。ドリフトとは、コーナーを曲がる際に、タイヤを無意味に滑らせながら、一般人の速度プラス四十キロで曲がる事を指す」
 この台詞を黒瓜堂の主人に聞かれたら、十字架から吊される事は間違いない。
「2速であのコーナーに入って、アスカが曲がれる速度で曲がってみて。無理はしないでいいから」
「ん」
 45キロで入ったが、直前で35キロに落とした。それでも僅かに滑った。ブレーキのタイミングとハンドルを切る動作が一致しないからだ。
「この車は感性タイプだから、逆らわないでいい。車が減速しろって言ったらブレーキを踏んで」
「車が言う?」
「言うんです」
「……」
 それはシンジにしかできないわよ、と言いかけたのだが、普通の教習所送りになっては元も子もない。アスカは黙って、もう一度再スタートさせた。
 
 
 黒瓜堂の前にしりるの車が滑り込んだ時、既に太陽は西へと傾いていた。
「香水の匂いがしないが、買い物?」
 無論、文字通りの香水ではない。
「図書館でお勉強よ」
「この子を連れて?」
 言った途端、肉球の一撃を浴びた。
 但し、飼い主に言わせれば極めて珍しいそうだ。もう長い付き合いになるが、爪ではなく肉球を他人に使う場面など見た事が無いという。
 しばらく走ってから、しりるが口を開いた。
「オーナーにプレゼントよ」
 バッグから取り出したのは、プレゼントとは程遠そうな書類の束であった。
「ありがとう」
 中を見る前に礼を言った。表紙には何も書いてないが、落書き帳を寄越すような悪戯は自らのプライドが許さぬ女だと分かっている。
 最初の数ページを読んだ時点で、黒瓜堂の表情が変わった。
「止めて」
 言われるまま、車は路肩へ滑るように寄った。
「かつての裏日本史――言い換えれば、時の権力者達が必死で隠匿しようとする過去って事ね」
 美しき暗殺者が手に入れてきた資料は、黒瓜堂が必死に――降魔に増強の種を送り込んでまでも、探し求めた資料であった。
 力を手に入れた葵叉丹達が何をしようとしているのか――黒瓜堂の求めた答えはすべてそこに記されていた。
「しりる、ありがとう。ずっと探していたんです」
 黒瓜堂の言葉は珍しく、純粋な賞賛を含んでいた。
「別にいいわよ。雇用主の好みを知っておくのは従業員の好みでしょう。オーナーがどうしてもお礼したいというなら別だけど」
「何させたいんです?」
 欲しい、と言う事はあるまい。黒瓜堂は、紙面から顔を上げずに訊いた。
「私の家に泊まって欲しいのよ。大した事じゃないでしょ」
「いいですよ」
 少々予想範囲内からは外れていたが、黒瓜堂はあっさりと頷いた。誰に狙われているのか知らないが、身代わりで一人置かれるなら、武装しておけば済む話だ。
 がしかし。
 しりるの言葉は、黒瓜堂の更に斜め上を行っていた。
「私は今晩用事があるの。この子は家に置いておくから」
「今何と?」
 豹としりるは一体であり、豹を抜きにしてしりるは考えられず、逆もまた同じだ。
「死罠(デス・トラップ)は解除しておくし、この子がいれば危険はないわ。一晩くらい構わないでしょう?」
 一人で放置プレイされるなら分かる、と言うよりそれが一番可能性は高い。が、しりるはいないという。
 どうして豹を置いて出かけたりするのか。
 さすがにこれは黒瓜堂も解しかねたのだが、元より些事など気にしないタイプだし、罠があればちょっと足を突っ込んでみたくなる性格でもある。そうでなければ、ゲンドウやユイが愛息子を、それも悪の道に引き込んでくれなどと頼みはしないだろう。
「分かった」
 数秒経ってから、黒瓜堂は頷いた。
「襲撃予定は聞いていないし、これの中身も解析したい。一晩留置されるとしよう」
 
 
 その翌日。
「で、今日は何やるの?」
「進むのとバックは覚えたでしょ。バックを少し進めて車庫入れをやるけど、その前に体感マシンで感覚を掴んでから。あんなラリーカーで教習やったら、免許取ってから感覚が狂うのは間違いないからね」
「でもさ、その方が逆に究極をマスターできていいんじゃないの?」
「却下だ。俺が拉致されるかどうかの瀬戸際なんだ。そっちの方が重要」
「拉致〜」
「そう、拉致」
 真意など聞かされてはいない。が、シンジは薫子がわざわざ香奈の車など貸した理由は、聞かされずとも見抜いていたのだ。
 幸い昨日は、アスカもぶつけることなく済んだが、今日は分からない。わざわざ火のついている導火線に近寄る事も無いだろう。
 と、そこへ、
「シンジ、あれ黒瓜堂さんじゃないの?」
「ん?」
 アスカに言われて見ると、確かに黒瓜堂の車が停まっている。用があるなら直接来るはずだし、送ってくれるのかと思ったが、車から降りてこない。
 自分から来いと言う意思表示だろうと、二人でてくてくと歩いていく。黒瓜堂がノーマルなタイプだったら、シンジも妙だと思って用心したかも知れない。が、生憎とノーマルには縁遠い男であり、妖気に似たものもあり得ない相手ではなかった。
 ドアが音もなく開き、
「夕べはよく眠れましたか?」
 出てきたウニ頭が、三途の川の渡し守みたいな声で訊いた。
「『う、うん』」
 頷いてから、シンジが妙な事に気付いた。
「旦那、服に何か付いてるけど」
「何かついてます?」
「うん。あれ…動物の毛?猫かなんか飼ってたの?」
「微妙にね」
「こんなにいっぱい付いてるし…この辺に何か踏まれた痕跡みたいな――」
 女の勘が作動した。危険だ、と脳裏で囁いたのだ。
 反射的にシンジの袖を引くのと、黒瓜堂の顔が妖々と上がるのが同時であった。
 ニダーリ、と笑った黒瓜堂が、
「昨夜は豹と戯れていてね。舐められたり踏まれたり囓られたり、なかなか楽しい夜でした。奴は簀巻きにしておきました。君たちにも是非、同じ気分のお裾分けを」
「『キャーッ!?』」
 中身が生もの(壊れ物)、差出人の欄に黒い瓜のマークが書かれた宅配便が、本邸に届いたのはそれから一時間後の事であった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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