妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百七十三話:丸腰とは即ちお尻が丸い事…なり?
 
 
 
 
 
 女は強い、と昔から言う。
 目先しか見えないし、大局の判断にしばしば私情を交える為、権力を持つと国を滅ぼす事も屡々だが、個人的な要素に関して言えば、男は強さに置いてその足下にも及ばない。
 妊婦だから、と倉脇に気遣われた狭霧だが、重傷を負った黒木を見てもショックを受けたりするほど柔ではなかった。道ばたで暴漢に襲われたならまだしも、総理を救う為に密かに潜んでいた事を聞かされ、良人らしい生き方だと、安堵さえしたのだ。
 これで最初から同席などしていたら、狭霧はさっさと帰っていたかも知れない。決してその生き方を良しとはしていないが、碇シンジという少年の実力は、残念ながら認めざるを得なかったのだ。
「狭霧」
 眠っていると思っていた黒木が不意に呼んだ。
「はい?」
「明日、出国する。準備をしておくように」
「分かりました」
 良人が魔道省に辞表を出した事は知っている。引き留められなかったと言うから、既に受理されている筈だ。自分の信念に従った結果とはいえ、シンジと顔を合わせる事は耐えられないのだろう。狭霧とて、そんな良人の姿は見たくない。
 心から納得した訳ではないが、黒木の意志は狭霧の意志である。立ち上がってドアの所まで行った時、その足が止まった。
 何かの気配を感じたような気がしたのだ。
(?)
 気のせいかとノブに手を掛けた時、ドアは向こうから開いた。反射的にバッグへ手を掛けたが、すっと伸びた手に抑えられた。
「遅い」
 立っていたのは良人に重傷を負わせた張本人――の片割れのシンジであった。
「…何をしに来られたのですか」
「とどめを刺しに、と言えば納得するか?しばらく外せ」
 本邸のメイド達は雇われ人であり、シンジとの間には厳然たる主従関係が存在する。しかし、シンジは彼女たちに対してこんな物言いはしない。
「……」
 すっときれいな眉が上がったが、何も言わずに出て行った。口を開きかけた時、黒木の視線を背後から感じたのである。無論、黒木はこちらなど見ていない。
 ご丁寧に中から鍵を掛けてから、シンジはつかつかとベッドまで歩いていった。
「黒木、忘れ物だ」
 シンジがポケットから取り出したのは、小さな黒い袋であった。無言で受け取った黒木が袋を逆さにすると、中から灰が出てきた。
「最近は、お前の偽者もいるらしいぞ」
「偽者?」
「そいつがお前の名前を騙って辞表を書いていった。もう少し遅かったら受理されてるところだった」
「若…」
「別に、日本から脱出したければしても構わん。黒木豹介は俺の物じゃないし、強制する権利はない。但し、自分の事も分かってない総理は間違いなく寿命縮めるぞ。今回の一件だって、何にも分かっていない」
「……」
「それは黒木が決める事だ。邪魔したね」
 くるりと身を翻したシンジの背に、
「私があの場に来る事を…分かっておられたのですか」
「無論、調べていたわけじゃない。が、黒木は義理堅いからな。ボンクラとは言え、あの総理を放っておく事は出来ないと踏んだ。まあ、同席するようだったら止める価値も無くなってけどね」
 それだけ言うと、黒木の反応は待たず、シンジは部屋の外に出た。洗濯物を持って佇んでいる狭霧に気付いたが、一瞥も向けずに歩いていった。
 病院を出てから左右を見回す。
「あ、いた」
 数百メートル先に、軽ワゴンが止まっている。後ろから見るとエンジンが掛かっているのは分かるが、ほとんど音を立てていない。にもかかわらず、チューニングされたレーシングカーに近い動きを見せるのは、さっき乗ったシンジがよく分かっている。
(こういう車いいなあ)
 シンジは内心で呟いた。高級車なら、金を出せば買えるが、シンジはそんな物に興味はない。今目の前で、危険なオーラを発しながらアイドリングしている車は、単に金を掛けても作れる代物ではあるまい。
 高級な車よりも、むしろこっちの方がシンジとしては惹かれるのだ。
「……!?」
 ぼうっと眺めていたシンジの顔面を、不意に冷たい物が襲った。水鉄砲――しかもベレッタと来た――で攻撃されたと気付くには数秒かかった。
「お客さん、突っ立ってると営業妨害で訴えますよ」
「あ、乗ります」
 乗り込んでから、
「どちらへ?」
 とウニ頭が訊いた。
「ちょっと帰りたくない。適当に」
「流しは料金高いですよ」
「飛ばすのは?」
「普通料金」
「じゃあそっちで」
「分かりました。じゃ、シート倒してベルト締めて下さい。私がいいと言うまで、絶対に顔を上げないように」
「え?うん」
 微妙に嫌な予感はしたが、何も言わなかった。不機嫌ではないが、日常の平穏を選びたい気分でもなかったのだ。走り出した車の中で目を閉じていると、狭い路地をしばらく走ってから車が止まった。
「耳は塞がないでも大丈夫」
「?」
 ぽん、と放り出された物を見て、シンジがぎょっと目を見張った。膝の上の落ちたのはピン――使用目的は無論手榴弾――であった。爆発音が起きても車はすぐに動き出さない。
 怒号とサイレンが聞こえてから、黒瓜堂がゆっくりと車を発進させる。サイレンが至近距離から聞こえた時、シンジはどこに手榴弾を投げ込んだのかを知った。
 いくら危険人物とはいえ、一般民家に投げ込みはしないだろうが、この上なく刺激的な場所である。
「さ、行きますよ」
「ラジャ」
 急発進どころか、悠々と滑るように動き出しており、タイヤはまったく軋まない。それなのに、シンジの体感で百キロを優に超えるまで、数秒と掛からなかったのだ。微量の羨望を禁じ得なかったシンジだが、頭の中では既に、誰ならここまで改造してのけるかと考えている。
「おや、もう付いてこない。シンジ君、どうします」
「え?」
「このまま千切るなら簡単ですが、追われてみたいならご希望に添いますよ?」
 軽ワゴン車で、徹底的に改造――明らかに非合法のレベルまで――された覆面パトカーに挑むなど正気の沙汰ではないが、黒瓜堂を見る限りネジが飛んだ形跡はない。
「拡声器ある?」
「覚醒剤なら」
「…あ、いや拡声器でいいから」
 ネタか本心か分からない。前者だろうと、自分に言い聞かせた。
「そこにマイクがある」
「グッド。それと銃は?」
「ボックスの中」
 何をするかと思ったら、
「本署の興亡この追跡にあり。役立たず共、一層奮闘努力せよ」
 恐ろしい事を、それも拡声器を通して宣ってから、空に向かって銃を撃ったのだ。
 言うまでもなく、かつて日露戦争の名将東郷平八郎が全将兵を撫した、
「皇国の興亡この一戦にあり。各員一層奮闘努力せよ」
 の名言から来ている。無論、いかなる言葉であれ、それは勝利によって初めて裏打ちされる事は論を待たない。
 標的はないが、全車両をここへ向けるには十分であり、たちまちサイレンの音が殺到してきた。
「GO」
 黒瓜堂が頷いてアクセルを踏み込んでいく。
「甲州街道入って、適当に走ったら二車線を塞いで車を回転させて」
「いいですよ」
 都心ではなく、八王子方面を目指して車を飛ばしていく。普通の軽ワゴン車ならば暴走行為だが、あまりにも抑えた走りである事はシンジがよく分かっている。サイレンの五重奏をBGMにして、無人の野を行くかの如く車は走り続ける。
 調布市に入り、Nシステムを認めた時点で黒瓜堂は車を反転させた。わずかにタイヤが軋み、車体が45度ぴたりと横を向いて止まる。
「イヒッ」
 シンジが満足げに、そして怪しく笑った。こんな所でスピンされたりすると、気分が削がれる事この上ないのだ。
 すっと後部座席のドアが開き、にゅうと突き出されたのはシンジの手であった。無論手には何も持っていない。
「劫火」
 手から放たれたのは、火弾ではなく大きな火球であった。猛追撃してたパトカーのタイヤが悲鳴を上げながら、それでも寸前で何とか止まる。宙に浮いているのは直径一メートルほどもある火球であり、この後の命運を選ぶのは自分達だ。
 シンジと黒瓜堂の期待は、無論突っ込んでくる勇者にある。この車にも戦闘装備はあるし、何よりもシンジの方が火球を破裂させたくてうずうずしているのだ。
 がしかし。
 二人の期待は裏切られた。しばらく停まっていた集団が、かさかさと後退し始めたのだ。代わりに重装備の連中でもやって来るかと思ったが、そんな気配もない。
「根性のない奴らだ」
 ちっ、と舌打ちしてから、
「旦那、あれどうすんの」
「……問題ない」
「え?」
「アンテナを後方へ」
「アンテナ?」
 聞き返してからピンと来た。神経を後方に集中したシンジが、ニマッと笑うまでに数秒と掛からなかった。
 風が、遠方から迫ってくる爆音を捉えたのだ。無論、普通の車が大口径のマフラーを装着している音ではない。
「そう言えば妙に車が少なかったけど」
「赤子を寝かせている夫婦にとっては、屑以外の何物でもない集団が、パレードとやらを行う日だ。少なくとも、寝付きの良くない赤子を持つ二百四十組の夫婦からは感謝され、ついでに交通機動隊からは仕事を取ったと恨まれる事になる」
 ぴょん、と元気よく地に降り立ったシンジの視界に、やがて凶悪なライトが入ってきた。しかも、車線を塞ぐようにして車は止まっており、中途半端な正義の味方を印象づけるにはこの上ない位置取りだ。
 
 
「麗香殿の胸に抱かれていた時は、さして悪くなかった筈だが、どこで悪化したんですか?」
「う゛!?」
 黒瓜堂の台詞に、シンジは吹き出しかけたコーヒーを寸前でおさえた。
「な、何を根拠のない事を。言いがかりだ」
 ぷいとそっぽを向いたシンジに、
「そう。ちょっと行って来ます」
「どこへ?」
 反射的に訊いたのは、トイレではないと本能が察したからだ。
「さっき撮れた映像をネットに撒いてくる。偽物だと叩かれたら諦めよう」
「ちょ、ちょっと待った」
「何か?」
「いや、その…」
「じゃ、行ってきます」
 歩き出した途端、袖をがしっと掴まれた黒瓜堂は、ツッコミを入れる代わりに、
「認める?」
 地獄の羅刹のような声で訊いた。
 小さく頷いたシンジに、
「結構。じゃ、撒いてきます」
「あ、何それ話違うじゃない」
「見ます?」
「…え?」
 取り出した携帯端末で画像を見せられたシンジの口が小さく開く――映っていたのは木刀や鉄パイプを振りかざした姿勢で火球に包まれ、断末魔の悲鳴を上げて悶える暴走族達であった。
「ほら、公開しておかないとでっち上げとか言われるかもしれないでしょう?せっかくの武勇伝なのに」
「…麗香とどう関係が?」
「ありませんよ」
 黒瓜堂は当然のようにシンジを見た。
「じゃあ、とかそれなら、とか私は言っていない。空気を読むのは個人の自由ですし」
 呪ってやりたくなったが、確かに直接の引き替え条件とはしていない。だからといって、普通に考えればその映像と考えるのは当然である。
 バリバリ…ボリボリ。
 音を立てて氷をかみ砕き、水の入っていたシンジのコップが完全に空になる。
「ん?」
 黒瓜堂が取り出したのは、ワインの瓶であった。赤い液体をグラスに注ぎ、飲むように目で勧めた。
(……)
 言うまでもなく、ワインが入っているのは水を入れるコップであって、ワインを注ぐようなグラスではない。それでも勧められるまま飲むと、黒瓜堂で出てくる慣れた味がした。
「少し戻りましたか」
「え?」
 一瞬怪訝な顔をして、それからシンジは頷いた。
「じゃ、蒸し返し。麗香殿に移した辺りでは悪くなかった筈だ。どこで悪化したね?」
「別に悪化はしないけどね…」
「ほう」
 と言ったきり、黒瓜堂は促さなかった。炎上する暴走族達の映像を、満足そうに眺めている。
「……」
 映像を見ながら、手だけは器用に動かして、空になったシンジのコップにワインを注いでいき、シンジも何も言わずにコップを空にしていく。
 三杯注いだ時、ようやく視線を戻した。
「で?」
「肝心の所で、分かられてないような気がする」
「それは仕方ないでしょう」
「何でさ」
「研究してないから」
「研究?」
「降魔大戦の折、君の両親から、息子を悪の道に導いてくれと頼まれた時から、私は君を研究してきました。私の部屋には、君に関する研究資料が山と積んであります」
「…嘘」
「まあ、それは嘘」
「……」
「が、研究したというのは本当ですよ。ただ、そんな事をするのはウチ位のモンです。普通はなかなか、そんな事はしないでしょう」
「…ちょっと待って。考える」
 シンジを研究した、と黒瓜堂は言った。黒瓜堂なら全くおかしくないのだが、話が繋がらない。
「対等に見てないって事?」
「そんな感じです」
「下から見上げられるだけって、あまり好きじゃないんだけどな。と言うか、そんな目線で見てるから俺の好みも分からないんだ」
 と、そこまで言ってから気付いた。
「旦那はどこから見てるの?」
「分かりません?」
 黒瓜堂の口元に怪しい笑みが浮かぶ。どう転んでも、対等と言う台詞は出てこないだろう。
「分かんない」
 シンジは素直に首を振った。うかつな事を言うと記憶されて、後々までネタにされる可能性がある。
「斜め上ですよ」
「…はん?」
 シンジの口がぽかんと開き…数秒経ってから満足げに笑った。普通の答えが返ってくる男に両親から悪の道を託されたとあっては、碇シンジの名が廃るというものだ。
「私から見れば、シンジ君が期待しすぎにも見えますけどね」
「ME?」
「ウイ」
「期待過剰?」
「是」
「どの辺が?」
「私みたいに、通常の斜め上を行くタイプは別として、君の所の住人や黒木氏は、君の友人達とは違うんですよ。要するに普通の領域を出てないって事です。人形娘の姫や、夜香殿なら同じ事をするか、と考えれば即座に結論は出るでしょう」
「……」
「辞表を出したにせよそれは形式で、本心ではふんぞり返ってるのが理想だったのでしょう?でもそれは、碇シンジという少年をよく知らないと無理な話です」
「そうかな〜」
 むう、と首を傾げているシンジに、
「そうですよ」
 黒瓜堂は頷き、そのコップにワインを注いだ。
 コップを一気に空にしてから、
「でも、少し直った。適当に起こしてもらっていい?」
「いいですよ」
 シンジがすやすやと寝息を立て始めたのを確認してから、
「フェンリル小姐」
 呼んだ声は、あたかもその場にいる人物へするようなものであった。
「さっきからここにいる」
 美女の姿を取っているフェンリルだが、シンジに聞かれたらもう一度冥界へ押し込まれる事は間違いない。
 シンジの横には、確実に誰もいなかったのだから。店内にいた客が、一瞬ぎょっとしてこちらを見たが、すぐ視線をそらした――まるで、見てはならぬ物を見てしまったかのように。
「このファミレスは二十四時間営業だから、寝込んでいても問題はない。フェンリル小姐、後は頼みます」
「分かっている。ところで、この店の名前がマジレスと言うのか」
「…は?」
「今自分で言ったではないか。忘れたのか」
(煽り?マジレス?)
 シンジが起きたら脳内を解剖してもらう事にして、
「フェンリル小姐、マジレスではなくてファミレス。ファミリーレストランを略してそう言うんです。もう少し勉強なさい」
「…ほう」
 フェンリルの眼光が危険な物を帯びたが、一瞬で消え失せた。
「シンジ君に笑われますよ」
「…マスターが飽きたら、真っ先に滅ぼしてく…いや、なんでもない」
 深呼吸して、
「黒瓜堂…殿…せ、世話になった」
 黒瓜堂は軽く頷き、
「じゃ、私はこれで」
 天に挑むウニ頭が踵を返した後、寝息を立てていた筈のシンジがゆっくりと起きあがった。
「この場でウェルダンになってみるか、フェンリル」
 その声には、黒瓜堂を前にぼやいていた時の物など、微塵も感じられない。フェンリルが途中で言葉を止めたのは、シンジにつねられたからではない。太股に手を置いただけ――ただそれだけなのに、美女の背を凄まじい殺気が貫いたのだ。
 あのまま続けていたら、間違いなく火の矢が自分を貫いていたであろうと、フェンリルにはわかっている。
「ごめん」
 フェンリルはあっさりと謝った。友人にしては不気味だが、二人が端から見ればキモチワルイ程の、妙な関係で結ばれているのはわかっている。自分の妖気がシンジを目覚めさせる事を考えなかったのは、明らかに失態であった。
「お前の好みなどどうでもいい」
 シンジは冷ややかに言った。既に、声は完全に戻っている。
「だが今度口にすれば、その場で滅ぼす。忘れるな」
「…覚えておくわ」
 あんなウニ頭よりも下にされたことで、妖狼のプライドはいたく傷ついたのは間違いない。フェンリルは、何も言わず姿を消した。
「勿論、誰が誰を滅ぼそうとそれは自由です。でも、オーナーはあなたの好きにはさせない。僕の名に賭けてもね」
 低く、そして危険な声で呟いてから、シンジがすっと立ち上がった。危険な気を漂わせながら、ゆっくりと歩いていく。
 その視界には、表の駐車場で屯している若者達の群れが映っている。
 この夜、全員が重傷を負い、文字通り解散せざるを得なくなった暴走族の集団は、実に十五に及んだのである。
 
 
 シンジは明け方になって帰ってきた。
 既に剣呑な気配は姿を潜め、いつもの管理人モードに戻っている。シンジが最初に見たのは、新聞を抱えて戻るマリアの後ろ姿であった。
「ただいま」
 いきなり声を掛けると、びくっとその肩が震えたが、向き直るとキッと睨んだ。
「連絡もしないで一晩中どこへ行っていたの。皆心配し…てたのよ」
「そう」
 と言っただけで、それ以上は口にしなかった。住人達ならいざ知らず、ウロウロしていたのはシンジである。誰が何をどう心配するの?と逆に言われるに違いないと思ったのだが、予想外の反応であった。
「それでその…も、もういいの?」
「風邪?移して治した」
「…そ、そう」
 冗談なのか本気なのかは計りかねたが、シンジならば十分にあり得るのだ。やはり自分が気付かなかったのは事実だったのだと、マリアは何も言えなくなって歩き出した。
「マリアも心配してたの?」
 事実を確認するような、そんな口調でシンジが後ろから訊いた。
「…そ、それは…シ、シンジが具合悪いと思ったからであってその…」
「マリア丸腰だしね」
 そう言った途端、マリアが振り向いた。その顔はなぜか赤くなっている。
「わ、私のお尻が丸いとか、そんな事は関係ないでしょうっ」
「…はん?」
「い、今そう言ったじゃな…いたっ」
 ぽかっ。
「丸腰と言ったんだ。朝から何を寝ぼけてる」
「丸腰って…お、お尻の事じゃ…ないの?」
「ぜんっぜん違います」
 視線を絡ませたまま、シンジがゆっくりと首を振る。
「ほ、本当に?」
「本当に」
 ご丁寧に頷いてから、
「丸腰ってのは、何も持ってない事言うの。銃は没収したからマリアは今丸腰でしょ」
「そ、それの…事を言ったの?」
「当たり前じゃ」
 かーっとマリアの顔が赤くなる。俯いていたならまだしも、視線を絡ませてしまっているだけに逃げられない。
 首筋まで真っ赤にしているマリアだが、
「そう言えば、マリアのお尻は丸かったの?」
「し、知らないっ」
 逃げだそうとした途端、がしっと捕まった。じたばたしても身体は微動だにせず、しかも気付いた時には、シンジの顔がすぐ前に来ていた。
 身長がほぼ同じだから、バランスは取れているのだ。
 いつの間にか顔を両手で挟まれていたが、逃げようとしても身体は言う事を聞いてくれない。
「嫌?」
 と、口に出しては訊かなかった。ただ視線がそう言っている――ような気がした。
 きゅっと目を閉じたマリアに、シンジが躊躇いなく唇を重ねる。唇がねっとりと重なり、やがて舌が入り込んできた。
 マリアの抵抗はない。
 悪くはない。ただ、ほんの少し勘が鈍っていた事は否めない。
 刹那感じた違和感に身体が反応するまで、数秒のロスがあったのだ。絡み合った舌から何かを押し込まれた、と気付いてシンジを押しのけた時にはもう、手遅れであった。
「な、何を入れたのっ」
「ないしょ」
「変な物だったら許さ…あ…」
 言葉を最後まで続ける事は出来なかった。倒れ込んできたマリアを、シンジは片手で受け止めた。
「さて運ぶかな」
 担ぎ上げようとした時、さくらとすみれにばったり出くわした。風呂に行く途中だったらしく、手にはタオルを持っている。
「あ、ただいま」
「……」
 二人の視線がシンジとマリアを行き来する。気絶乃至は眠っているようなマリアが、シンジの肩にもたれ掛かっている状態である。
「お、お幸せにっ」
 走り出そうとした途端、にゅうと手が伸びて捕まった。
 じたばたともがくさくらを捕まえておいて、
「何がお幸せに、だ。0点。で、すみれちゃんの意見は?」
「……」
 じっと見つめられた。睨まれている、と言うほどではないが、微量に殺気がこもっているように思えるのは気のせいか。
「マリアさんに何を飲ませたんですの」
 ふむ、と頷いた。少し満足したらしい。
「55点。さ、二人でこれ運んでいって。朝ご飯にするからね」
「ちょっと碇さん運んでいってってそんな…え?」
 何となく違和感を感じ、マリアの額に触れたさくらの表情が変わった。
「すごい熱じゃないですか、一体どうしたんですかっ」
「風邪引いたんでしょ」
「え?」
 どうもおかしい。本当に風邪を引いたなら、シンジが自分で運んでいくだろう。ちょっと口惜しいけれど、その確信はあるのだ。
「やっぱり風邪を引き起こす何か、ですのね」
「風邪?引き起こす?」
 シンジとすみれの顔を交互に見てから、何か変だと気が付いた。
「も、もしかしてこれ…碇さんが?」
 否定も肯定もせず、シンジは二人の顔を引き寄せた。
「アヌスから入れたげても構わないけど」
「『!?』」
 間髪入れず、二人の顔が火を噴いた。
 真っ赤になった二人に、後はよろしくと預けて、さっさと歩いていく。
「もうっ…い、いつも勝手なんだから…」
 ぶつくさ言いながらも、妙に浮いた足取りで二人はマリアを抱き上げて運搬していった。
 
 
「何これ?」
 朝食の席でシンジがアスカに渡したのは茶封筒であった。中を見ると手紙と札束が入っている。
「黒瓜堂の旦那から。バイトじゃなくて、愛人契約に変える気らしいよ」
「え!?」
「それは冗談だけ――ふえっ!?」
 不意に気道が塞がれた。首を絞められたのである。
「シンジの葬式代に使ったげようか?」
「え、遠慮します」
 ぽいと解放されてから、
「で、何て言われたのよ。ちゃんと言ってよ」
「聞いてないよ。ただ、ちっとばかり協力するようにって言ってた」
「ふーん…」
 中に入っていた札束は二つであった。おそらく二百万だろう。アスカの顔が何となく優れないのは、これを寄越した相手が冗談ではなく本気で言ってもおかしくないと、何となく分かっているからだ。
 がしかし。
 読み終えたアスカが、にぱっと笑った。機嫌の針が、一気に急上昇している。
「ちょいとアスカさん?」
「足はどうするのかだって」
「足って、向こう行く交通手段?」
「うん」
「電車じゃないの?」
「ブー。車で来いって」
 そこはかとなく嫌な予感がした。しかも、この手の予感は大抵当たる。
「ほらこれ」
「……」
「通勤は車で来るものとする。シンジ君を横に乗せて七十二時間の運転経験を積んだ後に、免許証を作ってもらうように。入っているお金は、とりあえず中古車なら買える金額です」
 概略だけ言うとこうなる。
「まあ免許証は作れるし実地も七十二時間やれば…って、そう言う問題じゃなーい!」
 キッと柳眉をあげたシンジの首に、アスカが柔らかく腕を巻き付けた。
「別にあたしが教唆したわけじゃないし。シンジ、よろしくね〜」
「あーもう!」
 無論黒瓜堂からは、ちょっとした協力、としか言われていない。完全に罠に嵌ったと知り、シンジは髪をくしゃくしゃとかき回した。
 
 
 
 
 
(つづく)

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