妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百七十二話:熱と吸血姫と民間療法
 
 
 
 
 
「さくらはリクエスト聞いてジュースを。それから織姫とすみれはポップコーン買ってきて」
「ポップコーンって、それなんですの?」
「ポップなコーンだ。つまり弾けたとうもろ…あれ?」
 シンジの知る玉蜀黍とは、少々形が違う。
 何だったかと首を捻ったシンジに、
「乾燥させたコーンを油に浸して、焙った物がポップコーンよ。大体、あなたが作った方が手っ取り早いでしょう」
「俺が?」
「そう、俺が」
 マリアは頷き、
「だいたい、この辺りにポップコーンなんて売ってないし、そもそもすみれはそんな物は知らないでしょう。一般的な生活は送ってこなかったんだから」
「しようがない、じゃ違う誰かに――」
 ピクッとすみれの眉が上がった。
「ちょっとマリアさん、それどういう意味ですの?」
「聞いたままよ。別に嫌みじゃないわ。すみれは知らなかったでしょう?」
「そ、そうかもしれませんけれど、でもわたくしはもう、普通ですわ。その、ポップコーンとか言う物だって買ってきてみせますわよ」
「どこで?」
 射撃は後方からやってきた。
「大体碇さん、ポップコーンなんてこの辺じゃ売ってないでーす。遊園地まで行って買ってくるの?」
「いや、だってすみれが燃えてるから…いひゃい」
 うにーっと頬が横に引っ張られた。
「もう、碇さん意地悪ですわ。いいですわ、わたくし一人でも買ってきますから」
「ごめん、ほんの少しだけ悪かった」
 意地になって出て行こうとしたすみれの手を引っ張って止め、
「アスカ、確か3ブロック先のスーパーに元ネタが売ってた筈だ。すみれと一緒に買ってきてくれる」
「元ネタって、シンジが作るの?」
「マリアが強制するから」
「……」
 数秒経ってから、そうねと頷いた。すぐに反応するのはちょっと口惜しかったのだ。
 二人が出て行った後、
「それからレイは調べ物を」
「何を?」
「ポップコーンの作り方。ネットから検索してきて」
「りょーかい」
 レイは頷くとすぐに立ち上がった。
 二十分後、アスカ達の買ってきた材料とレイの探したデータを元に、コーンの反撃を受けながらも、何とかシンジがポップコーンを作って持ってきた。ただし、塩をふっただけの味気ない代物なのは仕方あるまい。
「作ってみました。ところですみれ、街中はどうなってる?」
「警報は発令されてませんわよ。特に変化はありませんわ」
「あ、そうじゃなくて軍用車両みたいのがウロウロしてない?」
「いないわよ。至って平和」
「ふうん」
「心当たりあるの?」
「ううん、別に。さて、特撮映画の鑑賞といきますか」
「『…あれ?』」
 降魔と交戦中――の筈だ――の画面を見た住人達の反応はこれであった。無論、シンジも含まれている。
 ヘリからの銃撃をまったく受け付けていない降魔と思しき生き物は――どう見ても脇侍を五体くらい固めた程の大きさはある。何よりも、その禍々しい巨体から放たれる強烈な気は、画面越しにすら伝わってくるほどだ。
 今までに見た事のないタイプである。しかも――完全武装した兵士達の攻撃は、まったく通用していないではないか。
 物理的と霊的とか、その程度の差ではない。文字通り、巨岩に水鉄砲を向けるようなものである。
 はて、と首を傾げたシンジが、
「マリアちょっと」
 思い出したように呼んだ。
「何?」
「ここへ」
 至極普通に呼ばれたから抵抗がなかったのだが、数秒後に気付いた時、マリアはシンジの膝の上にいた。
「顔乗せにするからちょっと動かないで」
 肩に顔を乗せられてから漸く気付いた。二人の頬は、文字通り数センチも離れていないのだ。マリアがかーっと赤くなるのと、アイリスとさくらが音を立てて立ち上がるのとが同時であった。
「お、おにいちゃん何してるのっ」「碇さん何してるんですかっ」
「何に見える?」
 何を訊くのかと言わんばかりの口調である。
「さくらでもいいけど足りないから。後十年経ったらよろしく」
 何がよろしくなのかは不明だが、取り合えずムカッと来て一刀両断にしてくれると決めた時、マユミに手を引っ張られた。
「マユミ!?」
「足りないのは胸じゃないんだから、諦めなさい。さくらがマリアさんと入れ替わっても、碇さんの顔が落ちるだけよ」
 端で聞けばかなり失礼な事を言ってるのだが、さくらにはそれに気付く余裕がなかった。
「顔が落ちる?」
 頬が落ちるならまだしも、顔が落ちるとは思えない。その意味に、最初に気付いたのはアスカであった。
 ただし、これも立ち上がらなかったのは一瞬事態が把握できなかった為で、決して現状を許諾している訳ではない。
「ねえシンジ」
 妙に甘い声で呼ぶと、
「それならカンナの方がいいんじゃなーい?」
 意地の悪い声で訊ねた。
(どうしてカンナさん?)
 内心で首を捻ったさくらがやっと気付いた。すなわち、十年経っても足りないに違いない要素なのだと。
 しかし、それなら十年経っても同じではないかと、改めてムカムカしてきたが、何とか抑えた。
「なぜ、桐島を?」
「な、何でって…カ、カンナの方が背は高いじゃない」
「それで?」
「そ、それならカンナの方がいいじゃないのよ」
「即座に却下。その壱、桐島じゃ高すぎる。その弐、桐島なんぞ乗せたら心ここにあらずだから振り落とされる可能性が高い。その参、身長は同じくらいの方が身体の相性もいい」
「…身体の相性〜?」
「顔が落ちたりしないでしょ」
 そんな事を言ってる間にも、シンジの顔はマリアの肩に乗ったままで、マリアの方は首筋まで真っ赤になっている。
「じゃ、おにいちゃんマリアが大きいからマリアにしたの?」
 ちょっとふくれてるアイリスが訊くと、
「それ以外に何かあるの?」
 逆に聞き返された。
「な、無いけどでも…」
「却下」
 言う前に一方的に却下され、
「俺の意志とマリアの都合の間には超えられない壁があるの。アイリスも大きくなったらその内に分かるから」
 完全に子供扱いされてしまった。納得できないのは一人ではないが、マリアが嫌がってるのに、と言い出せる娘はいない。
 どう見ても恋人同士にしか見えない二人だが、片割れの管理人が、そう言う事を全く意に介しない存在である事は、既に自分達が分かり切っているからだ。常識的に判断するようなタイプなら、さっさと裸にして治療するような事などしないし、そもそも距離からして全く縮まってはいまい。
 当のマリアはと言うと、何とか勇気を奮って抗議しようとしたのだが、真っ赤な顔で抗議しても意味がないし、既にマリアの都合は却下するとアイリスに遠回しに言われているからすんなり解放される可能性はまずない。
 住人達が諦めて、自分に恨めしげな視線を送ってこないのが唯一の救いである。
(い、いつも勝手なんだから)
 シンジに聞かれたら、数年付き合ってる恋人じゃあるまいし、と言われそうな台詞を内心で呟いた時、不意にマリアの身体がびくっと震えた。
「10分経ったら起こして」
 シンジが耳元で囁いたのだ。納得はしてないから横目で見張られていたらしく、キッとこっちに視線が飛んできたが、
「な、なんでもないの」
 無理矢理首を振った数秒後、既にシンジは寝息を立てていた。
(シンジ!?)
 マリアの表情が一瞬で元に戻った。シンジとの付き合いはマリアが一番長いが、だらしない格好とか、乱れた服装は一度も見た事がない――自分が酔って裸のまま、シンジの部屋で寝ていた位である。
 少なくとも、こんな場所で眠るような男ではないはずだ。
 余程疲労が溜まっていたのだろうと、穏やかな表情になったマリアが少し身体の位置を変えた。シンジの首が窮屈にならぬよう、姿勢を変えたのだ。
 他人が見たら、間違いなくそこだけ空間が異なっていると言うに違いない。そっちが気になって仕方がないメンバーに入ってないカンナは、視線こそ画面を追っているものの、シンジが言うとおり心はここにない。
 シンジに煽られたせいで、トウジの事が気になって仕方がないのだ。思考的には、トウジとシンジに大きな差はない。やはり第一印象の差であろう。
 視線は一致しているが、思考にはかなりばらつきがあるメンバー達の見つめる中、上野公園に出現した降魔は、圧倒的な強さを見せつけていた。既にハウンドの先鋒は壊滅し、ヘリ四機まで撃墜されている。どう見ても、今までの降魔とは桁違いに強い。
「……」
 厳しい視線で見ていたマリアの手がシンジの肩に触れた。緊急事態と見て、起こそうとしたのだ。が、手は寸前で止まった。
「さくら」
「え…あ、はいっ」
 寝ていると思ったシンジがさくらを呼んだ。
「千葉の某所に電話を。どうするか訊いて」
「分かりました」
 とりあえず頷いた。某所、と言われてピンと来るほどさくらは鋭くない。ただ、聞き返すと自分が惨めになりそうな気がしたのだ。理由はどうあれ、シンジが膝に乗せているのはマリアであって、自分でもアスカでもすみれでもない。
 数秒考えてから電話を手に取った。マリアは別として、自分に某所の単語で通じる所は一カ所しかない。
「ヘイらっしゃい」
 これが第一声であった。
「…え!?」
 どこかのラーメン屋か寿司屋に掛けたのかと思ったが、番号を見ると合っている。
「あ、あの…」
「何です?真宮寺さん」
 聞こえてきた声にほっとして、
「い、碇さんが黒瓜堂さんに電話するようにと…」
「今何をしてます」
「あの、みんなで集まって降魔の様子を」
「シンジ君も?」
「その…ね、眠ってます…」
「自分の部屋にいるなら自分で電話してくる筈だ。風邪でも引いたかな」
「いえ、その…」
 ちょっと躊躇ってから、
「マ、マリアさんを膝に乗せて肩に頭乗せて眠ってるんです」
 囁くような声で言った。
「困ったもんですな」
「まったくです!」
 即座に、そして激しく同意してしまったのはやむを得まい。
「で、何と言ってました?」
「その、黒瓜堂さんにどうするか訊くようにって」
「ほう。じゃ、分かってるようですな。出撃要請は拒否するように言っといて下さい。じゃ、これで」
「あ、はい」
 切ろうとした時、
「ちょい待ち」
「はい?」
「五センチごとに二十万円。効果は保証しよう」
(く、黒瓜堂さん?)
 通話が一方的に切られた後、さくらは電話機を持ったまま立ちつくしていた。意味が分からなかったのである。
(五センチで二十万円って…あ)
 意味が分かった。どうやら、こっちの事態は見抜かれていたらしい。
 にまあ、と笑ったさくらに住人達から奇妙な視線が向けられた。脳内に花畑でも育成したと思われたようだ。
 慌てて表情を戻し、
「あの、出撃要請は拒否するようにって言われましたけど」
「了解」
 一つ頷くと、またすやすやと寝息を立て始めた。寝付きはいいと見える。
 がしかし、話を聞いていない娘達は気が気でない。既に迎撃部隊は這々の体で退却しており、今は降魔が公園内を彷徨いている最中なのだ。とはいえ、シンジが現状を知らない訳ではないし、声を掛けたら半分嫉妬からだと――他の娘達に――思われそうだしと、勝手に悶々としている中で不意に降魔達に動きがあった。
「あら?」
 一体、また一体と池の中にその巨躯を没していったのである。集団自殺するレミングの如き動きだが、無論自殺ではあるまい。園内にいたすべての降魔が池の中に姿を消してから数分後、池の表面は完全に元通りになった。少なくとも、水中をウロウロしているとは思えない。
 やがて園内が静けさを取り戻し、破壊と殲滅の痕だけが残された。住人達が呆気に取られている中、シンジだけは一人寝息を立てている。まもなく、パトカーや救急車が大挙して押しかけた頃、
「終わった?」
 シンジがゆっくりと目を開けた。
「碇さん、分かっていたんですか?」
「あれ?」
「あれです」
「どうしてそう思うの?」
 マユミに聞き返した声は、すこしのんびりしている。
 もう顔は乗せていないのに、まだマリアは下ろされていない。それどころか、縫いぐるみでも抱くかのように、シンジの手はマリアの腰に回っている。ピクッと眉が上がっている娘もいるが、言うだけ不利になると分かっているから何も言えない。
「だって全然緊迫感がなかったし、今まで黒瓜堂さんに電話するように言った事なんて無かったじゃないですか」
「うん。もっとも、前もって知っていた訳じゃないよ。この子達に替えて出てきた連中のお手並み拝見の予定だったけど、妙な物が出てきたんでね。商売が絡んでるから、旦那の方が知っていそうだと思ったのさ」
「黒瓜堂さんが絡んでるんですか?」
「山岸、聞かれたら三十万ボルトの電撃浴びるような台詞は止せ。山岸マユミのウェルダンなんて見たくないし」
「だって今黒瓜堂さんなら知ってるって…」
「そういう意味の知ってるじゃない。大体、旦那があんなモン出して得するわけないでしょ。あ、マリアもう少し後ろ下がって」
 きゅっと腰を引き寄せられたマリアが、
「あ、あのシンジもうそろそろ…」
「降りたい?」
「そ、そうじゃないけどその…」
「却下」
 理解はしたが、決して納得してるわけではなく、こちらを向いている視線はチクチクと痛いのだ。耳元にふっと息を掛けられて、びくっと肩が震えた所で一層視線がきつくなった。
「ちょ、ちょっとシンジいい加減に――」
 マリアが顔を赤くして抗議した時、シンジの携帯が鳴った。
「ん。ああ…分かった行く」
「…それだけなの?」
「用は伝わったからいいの。お呼び出しが入ったからちょっと出かけてくる。マリアも冷たい事だし」
「わ、私は関係ないでしょうっ」
 赤い顔のままシンジを睨んだマリアの表情がふと動いた。何かに気付いたのだ。
「…シンジ?」
「何でもない。じゃ、行ってくる」
(しまった…)
 唇を噛んでシンジの後ろ姿を見送ったマリアに、最初に気付いたのはレニであった。
「シンジに何があったの」
「『え?』」
 他の娘達は気が付いていない。
「私が…冷たかったのよ」
「マリアさんが冷たかったって…まさか!?」
「冷たいのは態度じゃなくて…身体だったのよ」
 そこまで言われて、他の娘達もやっと気付いた。
「じゃ、じゃあシンジ熱があったのっ?」
「ごめんなさい」
 何をどう計算してもマリアのせいではないし、そんな事を言われるのはシンジが最も好まない所と知ってはいるが、マリアは自分に全責任があるかのように俯いた。マリアが冷たい、ではなくマリアの身体が冷たいと感じたのだ。
 ただ、マリアを責められない事は分かっている。分かっているだけに、余計腹が立つのだ――同じ部屋にいながら、自分達もまた気付かなかったのだから。
 そんな住人達の心など知らぬシンジは、すたすたと歩いていったが、門を出た途端蹌踉めいた。ぐらりと傾いた身体が寸前で抱きかかえられる。
「ごめん」
 支えた相手を確認する前にシンジは謝った。相手など分かり切っている。
「車を運転させるとまたぶつけそうだな。吊してもいいが、もう飽きた。どこへ行くんです?」
「魔道省から呼ばれたんだけど、先に夜香の所に行ってくれる?」
「夜香殿一丁。了解」
 頷いたウニ頭――黒瓜堂の主人は、シンジを軽々と肩に担ぎ上げた。
「だ、旦那あのもしもしっ?」
 シンジは慌てた。もしかしたら、このまま担いで行かれるのかと思ったのだ。普通ならあり得ないが、何せ相手が相手だから分からない。
「駐車禁止の取り締まりがあるので、三ブロック先に停めてあるんです」
「あ、そうなんだ…って、そこまでこの格好で?」
「麻袋に詰めて担いでもいいんですが、どうします?」
「じゃ、じゃあこっちでお願いします」
「了解」
 フェンリルは今姉の元に行っている。フェンリルを引き留めなかった事を、これほどまでに後悔した事は初めてだ。
「何か、随分静かじゃない?」
 シンジが放り込まれた車は軽ワゴンであった。既に意識はぼんやりしているのだが、走り出した車のエンジン音が殆どしない事に気付く位の余裕はあった。
「うちのメカ担当に手を加えてもらいました。200キロを超えると喧しくなるんですよ」
「それ…時速?」
「走行距離とか思ったんですか?」
 シンジはぶるぶると首を振った。乗用車ならいざしらず、どうして軽ワゴン車が時速200キロ以上出るようにするのか。喧しくなる、と断定した以上、既に出してみたのだろう。無論、走行可能な速度という事になるのだが、やっぱり黒瓜堂とその一味の思考は分からない。
 無駄な分析はさっさと諦めてシートに身を沈めていると、車は滑るように夜香の屋敷の前に着いた。
「久しぶりに私もお邪魔するとしましょう。先にお行きなさい」
「え?あ、うん」
 車を移動させるのかと思ったが、降りてからちらりと見るとサプリを取り出して飲んでいる。やはり、さっきの駐車禁止云々は嘘だったらしい。だいたい、黒瓜堂の名を持つ人間が警察の取り締まり如きを気にする筈はないのだ。
 ただ、なぜかシンジは小さく頭を下げた。
 門を叩くと、最初に姿を見せたのは麗香であった。
「あ、碇様…」
 嬉しそうに一礼した麗香に、シンジはうすく笑って頷いた。
「夜香は起きてないね?」
 分かって訊いている、そんな口調であった。
「申し訳ありません」
「いいんだ、麗香に用があって来たから」
「私に?」
 ちょっと首を傾げてから、慌てて気付いたように背を向けた。立たせたままなのに気付いたらしい。
「あ、いやここでいいから」
「はい…あっ」
 麗香が小さな声を上げた。振り向いた瞬間、シンジに抱きしめられたのである。
「い、碇様…」
「麗香には随分と迷惑を掛けてしまったね。ごめん。そして…ありがとう…」
「あの方にお会いになったのですね」
 シンジは黙って頷いた。
「すべては俺の弱さが招いた事。迷惑を掛けてしまったね」
「シンジ様っ」
 腕から逃れた麗香が、思い切り首を振った。
「そんな事は仰らないで下さい。私は…」
「いいんだ」
 シンジは緩く首を振った。
「最善を尽くし、その上でなお麗香の力を必要としたのとは訳が違うんだから」
「シンジ様…」
「ところで麗香」
「はい?」
「ごめんで済んだら警察は要らないって知ってる?」
「い、いえそれは」
 首を振った麗香に、シンジはふむと頷いた。
「世の中ではそう言うんだ。尤も、俺なんかが何かできるわけでもないんだけど。麗香、今年の冬は空いてる?」
「冬、でございますか?」
「うん。もう二回断ってるでしょ」
「あ…」
 一瞬怪訝な表情を見せた麗香の顔がみるみる染まっていく。抱きしめられても、顔色は変わっていなかったのだ。
「両日、お泊まりで付き合うから」
「碇様…嬉しい…」
 顔を赤くした麗香の目から、一粒の涙が落ちた。
「俺にできるせめてものお礼だから」
 もう一度、激しく首を振った麗香の目が大きく見開かれた――シンジが不意に倒れ込んだのである。
「碇様っ」
 思わず声を上げた麗香に、
「ちょっと失礼」
 すっと手を伸ばして麗香の額に触れたのは、無論黒瓜堂である。屋敷に仕える者が見たら、八つ裂きにされるに違いない。
 昏倒させた犯人は言うまでもあるまい。車は堂々と公道に置きっぱなしだ。
「冷たいですな。麗香殿、担いでいって下さい」
「黒瓜堂殿?」
「熱出してましてね。人間で言うと少し危ない領域です。悪いが面倒を見てやって下さい。なに、別に栄養剤とか注射はいりません。ちょっとした栄養でいいんです」
「ちょっとした栄養?」
「ええ」
 頷いた黒瓜堂が、麗香の耳元に口を寄せて何やら囁く。
 かーっと首筋まで染めた麗香だが、それでも大事そうにシンジを抱きかかえて奥へと歩いていく。邪悪な囁きの内容は、まんざらでもなかったらしい。
 それから二十分後、黒瓜堂は夜香と対面していた。
 急遽起き出して来たのである。
「映像は見ました。あの改造は、黒瓜堂殿の手によるものですな」
 美貌の貴公子の顔には笑みがある。
 一般人が聞いたら仰天しそうな台詞に、黒瓜堂は笑って頷いた。
「夜香殿が見たらすぐ分かると思ったんです。ほっとしました」
 相変わらず危ない男だが、やはりあの降魔にはこの男が絡んでいたのだろうか。
「侵攻は控えたようでしたが」
「時限性ですから。向こうにも一応知恵袋みたいなのはいます。うちのブレーンの足下にも及びませんが。いくらボンクラの集まりでも、あの程度の種を植え付けた代物で本格的に攻め込んで来たりはしないはずです」
「攻め込んできたら?」
「神」
 黒瓜堂は即座に応じた。
「完全に元通りですか?」
「いや、ある程度は残ってます。今回は改造用の種を送りつけてみました。向こうに改造する能力があれば、少なくとも厚生労働省の三下クラスの手に負えるレベルじゃありません。そろそろ炙り出しておかないとね」
「政治家に癌が?」
「いや、連中の目的です。公園にのこのこ迎撃に出た連中は返り討ちに遭いましたが、園内から一歩も出ていない。と言うより、あれは明らかに何かを探していました。連中の目的が分からないと、一手先を読む攻撃ができない。戦術的に優位に立てるし、うちの方は防衛機器の発注で儲かって一石二鳥と言うわけです」
「劇場の方ですか?」
 いや、と黒瓜堂は首を振り――邪悪に笑った。
「大使館からの発注です。何せ、合法にして非合法ですから」
 
 
「熱は引いた?」
「うん。麗香に伝染っちゃったけど」
 ぽかっ。
「痛っ?なんで俺に突っ込むの」
「何となく」
 見送りに出てきた麗香は首筋まで真っ赤に染めていたが、熱など出していない。出したとしたら、違う意味の熱だろう。
「……」
「で、麗香殿には何を約束したの?」
「…え?」
 シンジにしては間抜けな反応だが、これが精一杯である。聞いていたの?と言いかけて、何とか寸前で踏みとどまったのだ。
「物を送るほど単細胞じゃないでしょう。熱があるのにキスしてうつす趣味もないだろうし」
「2年間断ってたのを行く事にしたの」
「二年越しでイク?」
「…旦那それ発音が違う」
 ウケケケ、と笑ってから、
「何しに?」
「吸血姫にもっとも似合わないイベント、かな」
「ほほう」
 魔道省に着いたシンジを待っていたのは、長官の南郷さつきであった。
「お呼びで?」
「お呼びだよ。お座り」
 指で席を指したが、こんな仕草や口調も珍しい。
「頬で構わないが」
「え?」
「口づけしておくれと言ったらしてくれるかい?」
 と、側近が聞いたら仰天しそうな事を口にした。
「オッケー」
 シンジも即答である。
 さつきはにこりと笑って、
「相当上機嫌と見えるね。厚生労働省の役立たず共が敗退した後、警視庁から出動要請が来たよ」
「ふうん」
「どう聞いても嫌々で、こっちが断ったらほっとした様子だったよ。中間管理職は大変だねえ」
 内乱ではないし、いくら何でも自衛隊は出せない。特殊機動部隊でもいいが、結果は同じだろう。
 かといって、花組に出動を要請できるほど厚顔無恥ではなかったらしい。結果、魔道省に回ってきたのだが、当然のように断った。
 日本国が総理を失う寸前まで行った事を、そしてその犯人が碇シンジである事を、無論警視総監の冬月は知っている。出動要請など、さぞ気乗りがしなかったに違いない。
 あっはっは、と乾いた声で笑ったシンジに、
「それと、こんな物が届いたよ」
「うん?」
 ご丁寧に、速達の上に書き留めまでトッピングされている。無言で受け取ったシンジは、中味など見る前から分かっていた。
「あんたの邪魔をするのは分かっていたの?」
「分かってたよん」
 シンジは当然のように頷いた――封筒に入っていたのは、黒木豹介からの辞表であった。
「黒木なら、総理のおっさんが自ら死刑執行令状にサインしたがるのは分かっていた筈だ。かと言って、その場に同席したって火矢を防げる訳じゃない。黒木に出来るのは唯一、店内に潜んで直前で救出できる事だけさ」
 ぽっと飛んだ火の玉が、辞表を灰へと変えていく。
「ちょっと行ってくるわ」
 シンジは身軽に立ち上がった。
 ドア付近まで歩いてから、その足が止まる。
「キスするって言ったら?」
「撫で斬り」
「グッド」
 表に出ると、もう黒瓜堂はいなかった。分かっていた事ではある。
「熱は処女に伝染せばさっさと治ると聞いた。さすが民間療法は嘘を付かないな」
 麗香が聞いたら何というか。
「ありがとう」
 小さく呟いてから、
「さて行こうか」
 ふわっと地を蹴った。
 
 
 
 
 
(つづく)

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