妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百七十一話:赤い月
 
 
 
 
 
「私ですか?」
「そう。私はヘリをいじれないし、せいぜい銃をぶっ放して愉しむのが関の山だ」
「別に構いませんが…」
 雇い主の奇妙な命令には慣れきっている。と言うより、当然のこととして受け入れられないようでは、この店の従業員はつとまらない。
「分かりました。すぐ用意します。オーナーが自ら行かれるなんて、ターゲットは何者ですか?」
 この場合の表現は、オーナーほどの大物が、と言うそれではない。大体、黒瓜堂は人を使う方であって自らこなす方ではないのだ。
 能力値で比較すれば、店内では断トツに最下位である。
「肩書きは内閣総理大臣。名称は倉脇早善だ。見たことある?」
「了解。確かそんなのがいましたな」
 これで仕事の打ち合わせは終了した。
 
 
 
 
 
 後一分、いや三十秒でも遅れたら、間違いなく間に合わなかったろう。文字通り蜂の巣と化した建物から、倉脇を間一髪救い出したのは黒木であった。
 元々黒木を同席させなかったのは、既に一度、黒木がシンジに命を救われている事を知っているからだ。無論、シンジの性格については調べ上げてある。武器など持たぬ事も、そして激高などせぬタイプである事も。
 従魔の事と交友関係については殆ど掴んでいなかったが、その気になれば自分の首など指一つ動かさずに、斬り飛ばす事も分かっていた。
 そして、その通りになった。
 死など願いはしない。だが、自分の呼び出した青年が、常識を当てはめるにはあまりにも危険である事は分かっていた。
 レッドゾーンが分からないのだ。どんな人間でも、触れられたくない事はある。逆に言えば、激情させるにはそこを突けばいいというやつだ。
 ただシンジの場合、それが分からなかった。かつてフユノを手に掛けようとした時でさえ、激怒した風情は見られなかった。琴線が不明で、しかも多大な力を持っている相手にボディガードを付けるなど、それこそ人的資源の無駄というものだ。
 黒瓜堂の事にしたって、怒らせる気など毛頭無く、手配の取り消しに尽力すると言ったのは本心である。だいたい、テロリストもどきを何人も店員にしている店が、国内で大手を振って経営している時点で異常事態なのだ。
 一国を預かる総理としては最大の譲歩だが、結果この有様だ。
 自分は二発で済んだが、全身に六発を浴びた黒木は、今ベッドで昏睡状態にある。
 とりあえず、マスコミは完全に抑えた。異議を唱えた場合、取りつぶしと引き替えでもいいから抑えろと厳命してある。倉脇が総理になってから、初めてのことだ。
 狭霧にはまだ知らせていない。優秀な看護はできるだろうが、既に身重の妊婦に知らせて良いことではない。とりあえず、命に別状はないとの報告は受けている。
 酸素マスクを当てられた黒木を見ながら、倉脇は唇を噛んだ。弾は大腿部を貫通しており、包帯に血が滲むそこは激痛が走っているが、黒木のことを考えれば蚊に刺されたようなものだ。
 危険の認識はできていた。
 なのに、どうして抑えておかなかったのか。黒瓜堂の動きを見張らせておけば、最低限首と胴が離れるのは自分一人で済んだのだ。
 血の出るほど唇をかみしめた倉脇だが、根本的な事を分かっていなかった。
 すなわち、黒瓜堂と言うのは常に導火線では無いと言うことを。
 自分を俺と呼ぶ少年であれば、銃撃にまでは至らなかったろう――倉脇がその話を持ち出した時、既に自分を俺と呼ぶ碇シンジはいなかったのだ。
 
 
「一つ訊きたい事があるんだが」
「何?」
「さっき、僕のとか言わなかった?」
「ううん、気のせい」
 炎上する料亭を眺めながら、シンジは首を振った。
「オーナー、行間と文字間が不足してますよ。間には“お世話になっている”と入るんです」
「却下」
 ヘッドロックを掛けて、ついでに一ひねりを加えようとしてから、何かに気付いたように手を離した。
「そう言えば、今日の満月は血の色だった」
「……」
 偶然に触れた胸の感触は、男の物ではなかった。
 
 
 
 
 
 総理銃撃さる、この情報はすぐフユノの元にも伝わった。近くを通った愛と泪が気付いたのだ。情報源としては一番早い。
 フユノはすぐに薫子を呼び寄せた。
「何を使っても構わぬ、すぐに戦闘態勢を取れ。できる限りの物は全て用意する。傷一つ付けさせてはならぬ」
「仰せの通りに」
 一国の元首が撃たれ、黙っていたのではもはや政府とは言えない。間違いなく追っ手を差し向けて来る。それ自体は大したことではない。正面からシンジに手を出すのは馬鹿のやることだし、いくら頭に血が上っても、その策を採りはしないだろう。
 自分なら、部下をまとめて始末したくならない限り、そんな方法は採らない。
 攻めるなら、搦め手からだ。
 薫子に命じたのは本邸の守備ではなく、無論シンジの護衛でもない――女神館の防衛であった。
 
 
 
 
 
「さすがに私の想い人だけあって、やる事も発想も大胆ね。そうは思わない?」
「は、はい…」
 ドクトルシビウの元へは先に情報が伝わり、ついで救命車が要請された。無論、即座に拒否されている。
 だいたい、この帝都に於いて総理が襲われる事自体滅多に起きることではないし、その上武装したヘリの仕業と来ればほぼ九割方シンジが絡んでいることは間違いない。そこで発生した死傷者をシビウ病院に依頼するなど、見当外れもいいところだ。
「でも、黒瓜堂さんが行かれなくてもよろしかったのではないかと…」
 シビウは婉然と笑って、人形娘の頭を撫でた。
「それは、あなたの知っている五精使いの青年よ」
「え?」
「黒瓜堂に依頼した碇シンジは、自分を僕とは呼ばないはずよ。それに――」
 刹那、シビウのきれいな眉が寄ったように見えた。
 気のせいかもしれない。
「少し余分につれなくなるのよ」
「それでお姉さま、どうなさいますか?」
 あえてその話題はスルーした。その方がいいような気がしたのだ。
 案の定、シビウはそれ以上触れることなく、
「とりあえず、救命車を全車武装待機させて。可能性は低いけれど黒瓜堂の援護に。とりあえずあそこのオーナーに恩を売って、検査入院させないとね」
「分かりました」
 無論、入院するのが黒瓜堂の主人でないのは明らかだ。
 フユノは女神館の守備に全力を投じ、ドクトルシビウは黒瓜堂に恩を売るため援護を選択した。
 既に人外の者が待ち受ける標的に対して、銃撃を受けた総理はいかなる判断を下すのか。
 
 
 
 
 
「これでわたくしの三連勝ですわね。やっぱりわたくしには大富豪がよく似合ってますわ」
 外出禁止令の出た住人達は、トランプに興じていた。『大貧民』で三連勝したすみれだが、その前のババ抜きでは四連敗した事は忘却したらしい。
 と、そこへ電話が鳴り、ちらっとさくらが時計を見るともう十一時を回っている。
「はい、女神館です。あ…黒瓜堂さん、え?すみれさんですか?分かりました」
 電話だと呼ばれて代わったすみれが、
「神崎すみれでございます。え?いえちょっとわたくしの栄光が…今、何ておっしゃいましたの?」
 ぴくっと眉の上がったすみれに、全員の視線がこっちを向いた。
 なお、カンナとマリア、アイリスとレニはここにいない。
 カンナ達はビリヤードだし、レニはアイリスを寝かしつけているところだ。
 機嫌の針が妙に動いたすみれだが、無論原因は黒瓜堂である。
「そうはイ神崎」
 などと、電話の向こうでぬかしたのだ。機嫌の悪化しかけたすみれだが、すぐに相手を思い出した。
 怒らせてまずくはないが、少し困る。しゃくに障る話だが、シンジの信頼は自分達よりもよほど厚いのだ。
「いえ、何でもありませんわ。それで、どうかなさいましたの?」
 とりあえずぐっと我慢して訊くと、
「シンジ君ですが、今ウチで寝てます。とりあえず今晩はこっちに泊めます。三日以内にはお返しできると思いますが」
「あの…碇さんに何かあったんですの?」
 すみれの言葉に、トランプを持っていた手が一斉に止まった。
「いや、ちょっと疲れてるだけです。元通りにしてお返ししますから、心配はいりません」
(元通り?)
 一瞬嫌な予感がしたが、何も言わなかった。シンジの状態は分からないが、黒瓜堂の主人が元通りにして返すと言ったのだ。目下、騙された事はないし、ここは信じておけばいいだろう。
「眠り姫バージョンでね、よく休んでます。それよりイ神崎嬢」
「…神崎ですわ」
「あ、そうでした。神崎嬢いいですか、よくお聞きなさい。多分動かないとは思いますが、もしかしたら降魔が攻めてくるかもしれない。その時は、君がシンジに代わって指揮を執るのです」
「黒瓜堂さん!?」
 思わず大きな声を出したすみれだが、
「冗談を言っている訳ではありません。少なくとも、マリア・タチバナ嬢以外でないとウチから援軍を出せないんです」
 それどころか、見かけたら背後から撃ってしまう可能性の方が高いのだが、さすがにそこまでは言えなかった。
「…分かりましたわ」
 数秒経ってからすみれは頷いた。すみれも、マリアが黒瓜堂をどういう目で見ているかは知っている。
 そしてそれは、自分達なら決して持たないであろう感情であることも。少なくとも、自分達が危険な目に遭わされたりした事はない――行動を共にしているシンジが悪影響を受けるかもしれない、と言うことはこの際別問題とする。
「ま、実際にはほとんど心配は要りませんよ。最初の迎撃は連中に任せておけばいいんですから。シンジ君から聞いてますね?」
「え、ええ…」
 あまり思い出したくないことを思い出してしまった。
「連中が敗れる時は一大事、の筈ですが、所詮は付け焼き刃です。シンジ君が全力で改造させた機体に乗る君らには敵わない。その時にはウチの連中も見物にいきますから」
「お願いしますわ」
 すみれのこんな台詞など、舞台を別にすれば一年に一回も聞けないだろう。文字通り天然記念物に値する。
 ではこれで、と黒瓜堂が電話を切った後も、すみれはしばらく受話器を耳に当てていた。
 やがて戻ってきたすみれに、
「黒瓜堂さんが何て?」
 真っ先に訊いたのはアスカである。バイトとは言え、自分の雇用主になることが決定しているだけに、気になるらしい。
「碇さんがご一緒で、向こうに数日泊まってこられるんですって。後は適当にと言っておられたわ」
「シンジと一緒なんだ?」
「そうらしいですわよ。なんか、疲れておられるみたいだったけど」
 住人達に、微妙だが嫌な予感がしたが、口にする者はいなかった。ハイジャックされた機内にとっ捕まった時でさえ、シンジは無傷で帰ってきた。
 パリの大混乱からも――シンジが張本人とまではまだ知らない――無事に帰ってきたではないか。おまけに、邪悪のプロフェッショナルが一緒にいる。悪運に掛けては心配要らない筈だ。
 
 
「オーナー、これ本物?」
「偽物に見えるか?」
 眠っているシンジから目をそらし、黒瓜堂はグラスを眺めた。氷が浮かんでいる中身は、白ワインではなく水だ。
「男の子だと思ったのにねえ」
「それ以上言うと殺虫剤浴びせるぞ。無論ライター付きだ」
「あ、それは遠慮する。お肌が焼けちゃうもの」
 レビアは軽く肩をすくめた。今、彼らは東京ではなく熱海にいる。
 薔薇を浮かべた風呂に足を突っ込んだ途端、黒瓜堂から電話が入り、車を持ってくるように言われたのだ。
 こんな横暴な雇い主が死んだ日には、痛んだ薔薇の花で棺の中を満たしてやるのが義務だが、とりあえず雇用主だから仕方がない。車を飛ばして来たレビアが見たのは眠っているシンジと――盛り上がった胸であった。
 しかも、どう見ても本物である。
 突っ込んでみたら脅迫が返ってきた。
「オーナーはもう見慣れてるの?」
「前に一度だけ見た。ただ、数日間ずっとこの状態だったが」
「ふうん……変貌した時いつも変わる訳じゃ――」
 何気なく空を見たレビアが気付いた。
「今日の月は…赤いのね」
 レビアが帰っていった後、黙って水を――ワイングラスで飲んでいた黒瓜堂がふと気配に気付いて振り返ると、シンジが目覚めた所であった。
「何の夢を見ていた?」
「ラチェット抱いてる夢」
 シンジの答えに黒瓜堂は笑った――ように見えた。
「ラチェット・アルカイダだ。もう一人の君に会ったら驚くな」
「……アルカイダだっけ?」
 ぽかっ。
「いたっ」
「アルタイルだ」
「そうそう、アルタイル。オーナー気付いてた?」
「何を?」
「風呂で見たんだけど、何カ所か身体に傷があった。銃の扱いは上手かったけど、平穏な生活を送ってきた訳じゃない…何でそこで笑うのさ」
「風呂で見た、と言ったな。なら君は、暗闇の中とはいえ抱いた時に気付かなかったわけだな」
「騙されたんだ」
 ぷいっとそっぽを向いてから起きあがった。
「着替えとかある?」
「私に女物の下着を買えと?」
「さっき誰かいなかった?」
「あいにく、うちでは俺の評価が低くてね。それに、君を知っているのは誰もいなかった」
「抹殺しても可、ってお触れ出しといて」
「自分でやれ。代用品ならそこに入っている」
「代用品?」
 金庫を開けると、中に入っていたのはシルクのバスタオルであった。
「…これを」
「裂いて使う」
「最低」
「……」
 あさっての方向を向いた所を見ると、どうやらネタだったらしい。片手で脱いだセーターの中から現れたのは、見事な胸であった。
 大きさはマユミとさして変わるまい。
 だが住人達は無論、シビウやフェンリルも、この時のシンジを見た事はないのだ。指一本でバスタオルを裂いてサラシ代わりにしているシンジから視線を外し、黒瓜堂は血のように赤く見える月を眺めている。
「さ、行こ」
「どこへ?」
「どこへって総理は無事でしょう?黒木豹介が邪魔をしています。片づけに行かないとね」
「よく分かったね」
「それぐらいは」
 当然と言った口調で応じたシンジに、
「反撃は?」
「命と引き替えに攻撃する度胸はありませんよ。もう結界のレベルは上げてあります。後は放っておけば、トンブ・ヌーレンブルクがやってくれるでしょう」
 それを聞いた黒瓜堂の表情が動いた。
「やっぱり君は知っていたか。いつ会った?」
「優秀な姉さんが健在な頃」
 それは、少なくとも十八年以上は前の筈だ。
 黒瓜堂が宙を見た――刹那、その双眸から邪悪な色が消えて懐旧に取って代わる。
 すぐ邪悪に戻った。
「女神館は心配要らない。私の店なら攻められないよ。前に一度、ある要人が買い物に来ている時に攻められてね、護衛の反撃にあって壊滅した。尤も、どうしてもあの世に直行したくなる可能性もあるから一応ベニヤ板で周囲は囲ってある。今日はゆっくり休むといい。私も疲れたからあまり動きたくない」
「オーナーがそう言うならそうする」
 素直に布団へ入ったシンジに、軽く頷いた。
「閣僚達の首でチェスをするかは、明日決めればいい。とりあえず回復することが先決だ」
「うん」
 目を閉じたシンジが、顔だけ黒瓜堂の方に向けた。
「オーナー、もし――もご」
 言いかけた口を黒瓜堂の指が抑えていた。
 何を言おうとしていたのか、聞かずとも分かっていたらしい。
「その必要はありません」
 黒瓜堂は穏やかな声で言った。
「私に敵意、と言うよりあれは単なる焼き餅。わかりやすく言うとジェラシー」
「言わなくていいです」
 シンジは憮然とした表情で言った。
「それに、僕は好きじゃありません」
「んな事は分かってる」
 今のシンジは、無論自分を俺と呼ぶシンジはまったく違う。更に言えば、俺から僕に変わったそれよりもまだ違うのだ。
「いずれにせよ、あんな小娘を抹殺していたら、今頃は死人の山を築いていなければならなくなる。私にその気はないよ。さ、もうおやすみ」
 シンジが寝息を立て始めてから、黒瓜堂は冷蔵庫を開けてワインを取り出した。立ったまま一気に半分ほど開けてから、小さく息を吐き出した。まさかシンジが、ガレーンの事を知っているとは思わなかったのだ。
 無論、『俺』の時に訊けば、知りもしないだろう。
 どこまで知っているのか、ふと訊いてみたくなった時、携帯が鳴った。
「ん」
「オーナー、レビアです。県警から連絡が入りました。出撃要請が来たら時間を稼ぐから、その間に何とかしてくれとの事です。なお、官邸の方の動きはありません」
「もう情報が行ったと見える。棺桶に下半身突っ込んでる総理はどうした」
「病院から離れていません。黒木豹介に付きっきりでしょう。オーナー、爆撃しておきますか?今なら間違いなく始末できますが」
「しなくていいですよ。レビア、最近ジャイアンに似てきましたね」
「…聞かれたら撃たれますよ」
 ウケケケ、と笑ってから、
「再攻撃は必要ない。動いてからで十分です。何よりも――」
 一旦言葉を切ってから、
「寝ているシンジは、能力値は通常の十倍を持っています。誘わなかったら一生恨まれそうだ」
「どこで寝てるんです?」
「この部屋だが」
「部屋のどこ?」
「布団の中」
「オーナーは今どこに?」
 ここまで訊かれてやっと分かった。どうやらレビアは、ろくでもない方に妄想がふくらんでいるらしい。
「帰ったら馬体重を二十キロ減らしてやる。首洗って待ってろ」
 一方的に切った黒瓜堂は、
「あ、やっぱりばれちゃった。でも怪しいわよね」
 と、レビアが電話機の向こうで舌を出している事など知る由もなかった。
 
 
 
 
 
「総理、まさか追捕の令は…」
 意識が戻った時、黒木が最初に口にした言葉がそれであった。既に異変を知った狭霧も駆けつけていたが、黒木の手を握ったまま、何も言わなかった。
 犯人は聞かされていたが、夫がなぜ最初から倉脇の護衛に付かなかったのか、聞かずとも分かっていた。花組を第一陣から外すと言うことを、シンジに告げなかった事で相当後悔していたのだろう。結局は止められなかったのだし、堂々と言える事ではない。倉脇がシンジを殆ど理解しておらず、その身に危険が及ぶ事はほぼ確定だと、読んでいたのだ。
 そうなった時、自分が横にいたって無意味だし、何よりも最初からボディガードだなどと言うことはできなかった。間一髪で飛び込んだのは、苦悩の末の決断だったのだろうと狭霧は見ている。
 目を開けた時、無論妻の姿には気付いた筈だ。だが、それよりも先に気にしたのは追っ手を出したのかどうか、と言うことであった。
 倉脇は首を振った。
「まだ出していないよ。とりあえず、君の意見を待とうと言うことで、閣僚とマスコミは抑えてある」
「決して、追捕の手を向けてはなりません。千行けば千、万行けば万が悉く餌食となるのみです。何よりも、追っ手を向ければその時点で帝都の命運は決まります」
 かつて雲南の地で、降魔の大群をフェンリルと二人して壊滅させた事は知らない。だが、万が一にもシンジが向こうに回った場合、急造の部隊如きが歯も立たないことは分かっている。何よりも、火力を増やせば勝てる相手ではないのだ。
「…分かった」
 数秒経ってから倉脇は頷いた。
「君がそこまで言い切る相手に追っ手を向けるのは、死体の山を築くのみになるか」
「はっ」
「君の言うとおりにしよう。今回の一件は不問に付す。ゆっくり休むといい」
 踵を返した倉脇が、狭霧の肩を一つ叩いてから出て行った。看護は任せる、の意であろう。
 既にマスコミは抑えてある。とはいえ、相手を知れば向こうで勝手に自粛しよう。記者生命ならまだしも、文字通り会社生命と引き替えに報じるような記事ではない。
 廊下に出た倉脇に、歩み寄ってきた防衛庁長官が耳打ちした。
「手配は完了いたしました」
 自衛隊――軍隊並みの設備を持ちながら、軍隊ではないとされる不思議な集団――の指揮権は防衛庁長官にあり、その長官を陰で操るのは総理大臣である。何の手配が官僚したのかは言うまでもあるまい。
「よい」
 倉脇が首を振った瞬間、総理が戦闘ヘリで銃撃されるという前代未聞の事件は、闇の底に葬られることが決定した。
 
 
 翌日の夕方、シンジは黒瓜堂に送られて女神館に戻ってきた。もういつもの管理人に戻っていたのだが、
「旦那、一つ訊いていい?」
「何です?」
「目が覚めたとき、どうして俺ってば胸にサラシ巻いてたの?」
「胸の上にメロンパン置いて、私が巻いてみたんです。似合うかな、と思って」
「メロンパン〜?」
「肉まんとどっちがいい?」
 数秒考えてから、
「メロンパンでいいです。で…似合ったの?」
「全然」
「ちょっと安心した」
 メロンパンどころか、自分が巨乳になっていた事など知りもしない様子であり、またその方が当人にとっては幸せだろう。
 変化した時、それは生き方すら変わるのだ。
 それから四日後、降魔が再度侵攻してきた。
 数が百以下と聞いた時、シンジは住人達全員を呼び集めた。
「そこ座って」
 大型テレビの電源を入れると、九つに分割された画面が現れた。
「碇さん、これは?」
「君らの出番が無いでしょ。だから、とりあえず連中のお手並み拝見で某所の監視映像を繋いであるの。さてと、どこまでがんばれるかしら」
 シンジはニマッと笑った。
 
 
 
 
 
(つづく)

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