妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百七十話:悪代官と悪徳商人が密談を
 
 
 
 
 
 人間なんて、変化する時は突然変わるものだが、自分でもよく分かっていない事が多い。そして、シンジもその例に漏れていなかった。
 サリュを失ってから、どこでどう体質が変化したのか、酒が飲めるようになった。
 ただ、マリアにも言った通り、飲んでもあまり美味しいとは思わない。原因かきっかけかは不明だが、サリュを失った事にあると分かっているからだ。
 顔色を変えぬまま、酔えぬ美酒を淡々と重ねていくシンジだが、もう一人は違った。
 マリアはノーマルである。
 少なくとも、ワインを二本空にした時点で出来上がる程度にはノーマルであった。部屋に入って来た時に着ていたサマーセーターとタイトスカートは、もう脱ぎ捨てられており、今は下着姿で飲んでいる。
 なお、シンジの方は服装どころか姿勢すらまったく変わっていない。
「本当は…ずっと言わないでおこうと…思っていたのよ…」
 自分の過去を住人達に告げたのだと、マリアは少し舌足らずな声で言った。
「そうかい」
「でも、あっさり受け入れたのは…やっぱりシンジの影響よね…」
 違う、とシンジは無言で否定した。受け入れた、と言うよりもカンナへの反感が大きかったのだろうとシンジは見ている。
 前歴はどうあれ、捕まっていない以上前科はなく、正式な犯罪者へのランクアップは済んでいない。
 そして、その者達がフユノのボディガードを務めているのは事実であり、シンジもまた、食事担当として置いていったのだ。
 マリアが以前に人を殺した事があるという過去は、あくまでも過去であって現実(リアル)ではない。
 カンナがシンジの決定を受け入れなかったのは現実(リアル)だ。単に、住人達がどちらを重視したかという話であって、これが平時に出ていれば、また反応も変わってきた筈だ。
 何よりも、彼女たちはそれを目の当たりにしてはいないのだから。
 とはいえ、マリアが上機嫌で飲んでいるところへ、冷水を掛けるのは無粋というものだ。
「そいつは良かった」
 短く頷いたシンジに、マリアがふふっと笑ってグラスを満たした。
 だいぶ上機嫌になっている。
「シンジ」
「うん?」
「私が…良くやったって言ったでしょう」
「ん」
「良くやった、とそれだけで終わり?」
 つうっと身を寄せてきたマリアは目元を染めているが、照れでも欲情でもなく、ひとえに酔いのせいだ。
「たとえば?」
「もう少し、実用性が欲しいところね」
「銃を返せと?」
 言った途端、頬が柔らかく引っ張られた。
「シンジの決定に異議は唱えない、とそう言った筈よ。聞いていなかったの?」
「そうだった」
 シンジは頷いた。
「マリアが俺に逆らう筈はないものね」
 ハリセンが来るかと思ったら、しなやかな指が来た。
「その通りよ」
 指がシンジの頬に触れた途端マリアが姿勢を崩し、当然手にしていたグラスからワインが脱走した。
「ほら、酔ってるのに動いたりするから」
「…私は酔ってないわ」
「はいはい」
「酔っていない、と言ったでしょう」
「分かったよもう。それよりほら、拭かないと」
 こぼれたワインは、胸元に落ちてブラジャーを濡らしている。
「……」
 タオルに伸ばした手が、ぺちっと叩かれた。
「…マリアさん?」
「きれいにして」
 妙に低い声に、だから酔っぱらいは嫌なんだと、ティッシュに伸ばした手が、今度はつねられた。
「マ〜リ〜ア〜」
 ひくっと眉の上がったシンジの目が点になる――マリアがブラを外したのだ。
「タオルやティッシュはお断り」
 と、言われても分からない。
(……)
「シンジが…きれいにして…」
 さっきより幾分赤くなった顔で言われた時、漸く気付いた。求められているのはタオルやティッシュのように無粋なものではなく、シンジの唇なのだと。
「そいつは無理だ」
「どうして」
「吸うならともかく、その程度じゃ舐め取るだけだし。殆どこぼれてないでしょ」
「舐め取る…」
 今度はぽうっと赤くなったマリアが、片手で両胸を寄せて谷間を作り、ワインの瓶を取ると豪快に傾ける。
 深紅のワインが白い胸の谷間に溜まるのを見てから、
「これでも?」
 艶めかしい視線を向けた。
 黙って顔を寄せたシンジが、谷間に溜まったワインを吸い上げると、マリアの口から小さな声が漏れた。
 たっぷりと吸い取ってから、
「これでいい?」
 訊くと、マリアは小さく頷いた。こんなプレイは、シビウ相手でさえした事はない。
 マリアの胸は大きいが、このクラスではまだダムには至らない。まして、鬱血の痕が残るほど強く吸われた事で、力が抜けてしまっている。
「ショーツが濡れてる。もう少し胸は大きい方がいい」
 シンジが言うと、マリアは顔を赤くして横を向いた。
「ね、願って大きくなるものではないわ。さわったって大きくはならないも…んんっ!?」
 顔に手を掛けてこちらを向かせ、その口にワインを流し込んだ――無論、口移しである。
「足りた?」
「し、知らない」
 マリアが酔って乱れれば乱れるほど、シンジから酔いの色は消えていく。数分後、マリアがぽてっと倒れ込んだ時、シンジの表情に酔いの色は微塵もなかった。
「乳酒、か」
 呟いてから首を振った。ネーミングが気に入らなかったようだ。
 酔いつぶれたマリアを眺めながら、シンジは更に一本ワインを開けた。ワインでショーツが透け、淫毛が浮き出ている姿を見られていたと知ったら、マリアは何というか。
 室内を片づけ、とりあえず寝かせるかと抱き上げてから、シンジの眉が寄った。下着が濡れているのを忘れていたのだ。
 酔うと体は反応しないのか、マリアのショーツを濡らしているのは純粋にワインのみである。
「……」
 何を思ったか、徐に下着を脱がせ、全裸にしてから放り出した。
 濡れたまま、部屋の隅に放り出されてあったブラとショーツは、早朝になってからやっと洗濯されたのだが、自分が一晩全裸で寝ていた事は、さすがのマリアも知らなかった。
 素面で目覚めた時、それを知らされなかったのは本人にとって幸運だったろう。
 
 
 
 
 
「厚生労働省所属の特殊部隊〜?」
 フユノに呼び出されたシンジは、聞き慣れぬ名称に首を傾げた。シンジがお土産を持ってきた瞬間から、フユノは完全に復活した。
 身に寸分の隙もない気は、すっかり以前の物に戻っている。
「花組構想の否定じゃ。負けはしなかったが、圧勝では無かったからの。代わりをと考えるのも、ある意味では当然じゃ」
「ふんふん」
「無論、小娘を戦線に出したくないというのは、下らぬ人権主義者共にとってはちょうどいい建前じゃ。女が、それも特に霊的能力に優れた者でなければ、勝つ以前に手も出せぬと言うことなど、知りもせぬ愚か者よ――どうした?」
「ちょっと待って。今度の連中はむさいおっさんじゃないの?」
「その通りじゃ」
 フユノはにっと笑った。
「お前の考えているとおりじゃよ――無理矢理持たせられた能力は身体を、いや精神すら破壊する。廃人になられては後が面倒故、最初から人海戦術じゃ。とりあえず火力で補えば、行き届いた訓練は必要ないからの」
「……」
 さくら達を使うというのは、要するに能力面の問題である。個人的な資質に加え、男より女の方が長く成長し、持続期間も長い。
 だから、選りすぐられた巫女を使うというのなら、まだ話は分かる。
 だがそうではなく、最初から人海戦術で、つまり数度戦闘に駆り出したら次の交代要員と入れ替えるというのだ。
「入れ替え時を間違えれば廃人にリーチだ。随分と思い切った事をする」
 静かな口調で言ったシンジに、
「どうするね」
「別に。外出禁止令が出た訳じゃないからね。それより、何で総理のじじいが俺を?」
「普通に考えれば、押さえるのはお前だよ。機械任せで勝つ見込みがあるわけで無し、花組は使えなかったとはいえ、まだ一度も敗戦にはなっていない以上、お前が簡単に頷くとは思っておるまい」
「俺があの子達の命運を決める訳じゃないさ。ただ、現時点では完全に機体負け。実戦に出して慣れさせるか、或いは暫く修行に専念させるか、どっちがいいかな」
 ?マークのついた言い方だが、自分に訊いている訳ではないと、フユノは分かっている。
 常々自分でも言っている事だが、白馬の王子ではないし、まして正義の味方を気取っているわけでもない。
 どこの連中がどんな部隊を創り、人間を駒として使おうが、そのこと自体を許せぬとする気は微塵もない。
 正直、どうでもいいことだ。
 そもそも、このまま出てくる降魔だけを倒していけば、最後には尻尾を巻いて降参してくるなどとは思っていない。必ずや、逆転の一手を打ってくると見ている。極端に言えば、さくら達はその時に間に合えばいいわけで、今から目の色を変えて前線に出す要はない。
 ただ訓練値において、実戦と訓練のみと、どちらがいいか考えている最中だ。
 しばらく考えてから、シンジは立ち上がった。
「とりあえず、直接聞いてくるわ」
 
 
「と、言う訳なんですよ。どうします?」
 シンジの話を聞いた住人達は、揃って蒼白になっていた。
 悔しいとか、単にそう言う話ではない。シンジ達が全力を挙げて改造した機体が、どれほどパワーアップしたのかは、一度搭乗してよく分かっている。
 乗り手の能力が高ければ高いほど、素直に反応してくれる機体だ。
 だが、結局それを使いこなすどころか、一勝をあげる事すら叶わぬ前に、お役ご免になってしまったのである。
「碇さん…」
「ん?」
「ご、ごめんなさい、私達が力不足なせいで…」
(何も泣かなくても)
 さくらの涙をそっと拭ってから、
「すみれとマリア以外はちょっと外してくれる」
 娘達を室外に出した。
「い、碇さん…」
「ん?」
「今のお話は…じょ、冗談ではないのでしょう」
「真剣、乃至は本気と書いてマジ。冗談ではナッシング」
「や、やっぱりわたくし達の力が足りないせいで…」
「マリアは?」
「……シンジには織り込み済みだったの?」
 逆に訊かれた。
「すみれ、悪いけど外してくれる」
「…分かりましたわ」
 すみれが出て行った後、
「マリアって、時々妙な事言い出すよね。俺が愉しんでるだろうって?」
「そ、そこまでは言ってないけれど…でも、どうして他の皆を?」
「マリア見てると、某日の寝姿思い出しそうだから」
「な!?どっ、どうしてそう言うこと言うのっ。さ、さっさと記憶から消しなさいっ」
「俺様の記憶力を甘く見てるな。もう一生忘れない」
 かーっと赤くなったマリアだが、手先は頼りない――銃はまだ没収中なのだ。
「全裸で丸くなって寝ていた格好を思い出すから…で、全員外したと思ってる?」
「あ、あなたがそう言ったんでしょっ」
 赤い顔のまま横を向いたマリアに、
「自分のところの組員の生首を、十個も国会議事堂前に投げ込まれれば、親玉も少しは気が変わるだろうよ」
「シンジ!?」
 言うまでもなく、暴力団の話ではなく、閣僚の話だ。内閣が、一度に十人の閣僚を失った前例など世界的にもあるまい。
 マリアの顔から、羞恥の色は瞬時に消え失せた。
 完全に表情は戻っている。
「ま、そう言う手もあるけどね、全員揃ったところで言うと問題ありそうだし。どのみち、ここ数回は現状のままだよ。いきなり能力が大増進するわけじゃない。さて、どうしましょうか」
「……」
 他の住人に聞かせられない、と言うことはマリア限定を指している。それが分かっているだけに、ほんの少し気恥ずかしいが、間違っても表情を変える訳には行かない。
 無表情なままシンジを見返し、
「シンジの指示に従うと言った筈よ。シンジが決めて」
「素面の時にそう言う台詞言うの止めてよ」
「べっ、別におかしな意味じゃないわ」
 直球が返ってきた。
「ふむ…じゃ、受けよう。ここの住人は、マリアみたいなのばかりじゃないからね」
「私みたいな?」
「ずらりと並んだ生首をニュースで見て、卒倒しても困るでしょ。さて、待ってる子達呼んできて」
 待ちかねたように入ってきた娘達にシンジが告げたのは、
「悪代官と悪徳商人の密談の結果、とりあえず見物する事になりました。ま、うちらを縛ろうとか考えてる訳じゃなさそうだし。生首になってもやりたい、と言うなら別だけどね。まずは、お手並みを見物してよう」
 一瞬だけ、シンジから危険な気が漂ったが、経緯の分かっているブロンド娘以外に、気付いた者はいなかった。
(結局は優しいのね…ん?悪徳商人?悪代官?)
 スイッチが入りかけたが、住人達の手前、何とか一撃は我慢することにした。
 
 
 住人達の前ではのんびりしていたシンジだが、魔道省では少々異なっていた。
「どうして生首に変えても止めなかったの?」
 口調は眠たげだが、黒木は顔を上げる事もできなかった。シンジの気に呪縛されていたのだ。
 大切にしていた髪をばっさりと切った姿を見た者達はどよめいたが、それでも声を掛ける者がいなかったのは、シンジから漂っていた気の為だ。
「以前の地位にいない事は分かってる。でも、まったく聞いていなかったとは言わせない。巫女の需要が大きいのは、見た目もあるけれど、若い娘の方が霊的能力には長けているからだ。無論、うちの娘達も例外じゃない。到底足りない能力を強制的に補うにはどうするか、分からない訳じゃあるまい。それとも、そこまで落ちぶれたかい?」
「申し訳ございません…」
 現状だけで言えば、負けて敗退し、その結果区民に被害が出たわけではない。
 能力について言えば、秘めている物はいずれも折り紙付きである。
 では使用している機体は?
 シンジが魔道省のエリート達を駆り出し、劣悪な環境の元で働かせ、できうる限りに改造してのけた機体だ。
 何よりも――出撃した少女達が敗退してくる時、ぼんやりと突っ立って殿を務めるのは、碇シンジなのだ。
 シンジは黙って眺めていたが、やがて立ち上がった。
「帰国早々、くだらない報告を聞かされるとは思っても見なかった。余計に疲れた」
 それだけ言うと、さっさと出て行く。もう、後ろなど振り返ろうともしない。
「若…」
 止められたかと厳密に問えば、おそらく答えは否であったろう。黒木とて、それはようござんしたと、頷いていたわけではないのだ。
 ただそれならそれで、最初にシンジの耳に入れるのは、自分にするべきであった。フユノから聞かされてしまったのは、やはり失敗だったと言える。
 シンジから見れば、賛成したも同様なのだろう。
 だからこそ、あんな視線を向けたのだ。この世界に足を踏み入れたばかりの頃、どんなに失敗しても決して向けることの無かった視線を。
「やれやれ」
 肩をすくめて歩き出したシンジの肩が、いきなり左右にぶれた。道の両側を占有して歩いていたグループがぶつかったのだ。
「……」
 歩き出したシンジに、罵声の一つもぶつけて、それでもやり過ごせばまだ往生できたかもしれない。
 だが少年達は五人で、しかも決定打として女連れであった。粋がるには最適でも、退くには最悪の状況である。
 肩を掴んで振り向かせようとした手が根本から断たれ、血相を変えて一斉にナイフを取り出した連中の内二名は、首が胴体に三行半を突きつけた。
「人数が増えようと、所詮屑は屑です。参勤交代の大名行列を迎える農民を見習っていれば良かったものを。わざわざ、僕に会いに来ましたか」
 参勤交代に出くわした時――農民は絶対に土下座であり、顔を上げる事など到底許されなかった。
 シンジがひとつ瞬きした時、取り囲んでいた連中は、目の前にいる長身の青年が根本的に異なる存在へ変化した事を知った。
 数分後、文字通り肉塊と化した連中を見ながら、シンジは携帯を取りだした。
「シンジです。オーナーにお願いがあるんだけど」
 無論、店先ではなく直通である。
 黒瓜堂は一瞬受話器を眺めてから、
「ロケット花火が必要らしいな」
「派手なのをおねがい」
 悪の密談を済ませて通話を切ったシンジの足下を、ジーンズの切れ端が風に吹かれて飛んでいった。
 朱に染まったそれは、ついさっきまでは持ち主の大腿部を覆っていたものである。
 その足は今、八つに裂かれて地面に転がっている。
 
 
「外出禁止令…ですか?」
「そう。シンジからメールが来たのよ。原文のままよ――おねしょしたり、不眠症になりたくなかったら、午後六時から十時まで女神館から一歩も出ないこと――だそうよ」
「お、おねしょって…」
「おねしょは俗称で、医学的には夜尿症の事を指している」
「レ、レニそれは分かってるから」
 酔っていたとは言え、あんな痴態をシンジの前で晒すなど、このマリアタチバナ、まさに一生の不覚である。
 巨大な木槌で以てシンジの記憶を抹消しなければならない所だが、良い案が浮かばず一人悩んでいたところへ、シンジからメールが来たのだ。
 さくら達に告げたのは勿論事実だが、後半の部分は省略してある。関係ないからだ。
「マリアが忘れてというならそうする」
 短い文章を複雑な表情で眺めてから、マリアは返信のボタンを押した。
「何があるのかは、私も知らないわ。ただ、おそらくは結界のレベルだと思うの。魔物とかではなく、対人レベルをかなり上げた筈よ」
「碇さんは何も言っておられなかったんですの?」
「何も――すみれ、私の事疑ってない?」
「そ、そんな事ありませんわっ」
 慌てて否定したが、表情が台詞を裏切っている。
 マリアは――珍しいことに――うっすらと笑った。
「書いてない、というのはあなた達への評価なのよ」
「評価って、おにいちゃんの評価なの?」
 マリアはうなずき、
「一から十まで、全部説明しなければならないお子様達だと思ったら、仕方なしに教えるでしょう?言わなくても通じると思うなら言わないわ」
「そう言う見方もあるんですねえ」
 発見したように頷いたマユミに、
「それ以外なら?」
「えーと、例えば俺様の言うことは黙って聞いておけばいいんだ、とか」
「なるほどね」
 マリアの口元に笑みが――少々危険なそれが浮かんだことに、マユミは気づいていない。
「アスカ、さくら」
「『え?』」
「あなた達の想い人は独裁者だそうよ。困ったものね」
「『…え!?』」
 投下された爆雷に気づくまで、数秒かかった。
(反応が遅い)
 シンジならきっとこう言うに違いないと思いながら、
「シンジが独裁者なら、あなた達からこんなに想われたかしらね」
 導火線を追加して、マリアは席を立った。
「じゃ、今日は外出を控えてね」
 部屋の外に出た後、
「キャーッ!?」
 吊しかくすぐりか――両方だろう。吊されて無抵抗になった所を、全身嬲られるのに違いない。
 
 
 
 
 
「そうか」
 黒服の耳打ちに、倉脇はひとつ頷いた。
 女神館へ迎えのリムジンを差し向けたのだがシンジはおらず、それどころか入り口ですさまじい結界に阻まれ、十余名が重傷を負ったと伝えてきたのだ。あの建物が結界に守られている事は知っている。
 だがそれは帝都を徘徊する魔物の類への結界であって、対人用のそれでは無かった筈だ。おまけに、シンジは三十分を経過してまだ姿を見せていない。
 来る前からこれでは、シンジの反応も推して知るべしであろう。
 宙を見上げた倉脇の手が肩に触れた。見えざる護衛の姿も、今日は外してある。碇フユノが作った影鬼だが、碇シンジを相手にして何の役に立つというのか。
 店外に貼り付けた黒服達は、熟練したSPだが、無論シンジ用ではない。いくら何でも、一国の総理を完全な無防備で出歩かせる訳にはいかないのだ。
「辞世を記してこなかったのは失敗だったか」
 倉脇の口元にある種の笑みが浮かんだが、それは決して冗談ではなかった。人外の存在である護衛はなく、人であれば最強の護衛であろう黒木豹介は、かたわらにはいないのだ。
 自分に良い感情は持っていないであろう青年がその気になれば、自分どころかこの周囲一帯でさえ、焦土と化すのは容易いなどと分かり切ったことだ。
 とそこへ、
「碇様がお見えになりました」
 膝をついて告げた女将に、倉脇は頷いた。
「お邪魔」
 もそっと入ってきたシンジは、ハイネックのセーターにジーンズと、一国の総理に会うにしては、あまりにもラフな格好であった。
 第一、この料亭からしてこんな格好の客は、即座に追い返された上、大量の盛り塩扱いである。
「忙しいところを呼び出して済まなかった。掛けたまえ」
(出ちゃ駄目よ)
 とりあえず抑えてから、シンジは腰を下ろした。
「一献、受けてくれるかね?」
「ん」
 注がれた杯を空にしてから、シンジは頷いた。
「能なしが揃ってる訳じゃなさそうだ。これは黒木から?」
「いや、御前に教えて頂いた。情報は有効だったかな」
「一応ね」
 杯の中身は名水であった。
 今は飲めるようになったが、一国を代表する老人と飲んでも、全然美味しくないのは分かり切っている。
(酔ったマリアを眺めてるならまだしも)
 本人に聞かれたら、顔を赤くしてダーツの的にされそうな事を内心で呟いてから、
「ちょっと海外に行ってる間に、動きがあったと聞いてます。ただ、うちは功名心でやってる訳じゃないし、俺としては別に帝都なんて守っても守らなくても、どっちでもいいと思ってるところです。総理に一つお訊ねしたいが、どうして帝都を守る必要があると考えてるんです?」
「変わった質問だな。私は、総理としても一人間としても、この帝都を降魔の手に渡すわけにはいかないと思っているよ。君は反対かね?」
 シンジはそれには答えず、更に続けた。
「じゃ、もう一つ。降魔の動力源は?」
「大気中にある負の感情から来る物、と聞いているが」
「その通りです。で、そんな物が大量の降魔を動かせるほどこの帝都には渦巻いている訳ですが、それ自体はさしたる事じゃありません。人間なんて、最初から不完全なものだし、皆が負の感情を持たなくなれば、こっちがフリーターにならないといけなくなるからそれは困る。ただ問題は、どっちがいいかと言うことですな」
「文明社会の限界、ということかね」
「そ」
 頷いた時、シンジは初めて銚子を手にして、倉脇の杯に注いだ。入室してからここまでは、手を伸ばそうともしなかったのである。
「魔物が闊歩するこの帝都がはっきりしないのは、中途半端に文化が残っているからです。降魔が完全に支配すれば、少なくとも地球環境が悪化することは無くなります。ついでに言うと、しばらくして自然が復活した頃には、また人間に支配権が移りますよ」
「降魔を動かす動力源が無くなり、結果自滅するという訳か」
「そんなモンです。結局のところ、支配権なんて入れ替わるものでしょう。太古の昔、人間が布きれだけを身につけて山野を走り回っていた頃、地上の支配権は人間には無かったんです」
「なるほど。だが、今の君は帝都を守る側についている。少なくとも、人間による支配を否定してはいないようだが」
「FAの誘いはありましたよ」
「何!?」
 滅多な事ではまず動じない倉脇が、思わず身を乗り出した程シンジはあっさりと告げた。
「こっち側にこないか、と。要するに引き抜き」
「…それで君は…」
「否決。思想にはどちらかと言えば賛成。でも――」
 シンジの視線が倉脇を捉えた。
「彼の地で俺に敵対した時から、連中の運命は殲滅と決まっている。それだけです」
「……」
 シンジの本心は見えてこない。
 ただ、人類にとってひどく危険な思想を持っている事は分かった。数千万年前はいざ知らず、今地上の支配権は万物の霊長たる人間にあるのだ。
 勿論、人類が刻一刻と大地を破壊しつつある事は分かっている。そして、長い間それに気づかず、あるいは目を背けて来た事も。
 だからこそ、遅まきながらも環境の改善に目を向け、少しでも良い環境を次代に、そして子々孫々へ残そうとしているのではなかったか。
「君の考えは分かった。だが、君の言うような状況になれば、人的被害は相当なものになる。君の親しい友人達も、すべてその害を免れる訳にはいかないだろう。そのことはどう考えている?」
「別に」
 考えるのも馬鹿馬鹿しい、とそんな口調であった。
「それは、侵攻側になったら考えますよ。降魔側について、人類総奴隷化の旗頭になりたい訳じゃない。だいたい、地位とか名誉は嫌いなんです。それが好きなら、頼りない住人達の後備えじゃなくて、自分から前線に出てさっさと始末してますよ。帝都防衛のスタメンから外されたから、ぐれるんじゃないかと確認するために呼んだんですか?」
「それもある」
 倉脇はあっさりと認めた。
 ここで否定して、言葉の中で襤褸を出すよりは、その方がいい。
「ほほう」
「実を言えば、君がその気になった時、私が持ちうる権限すべてを行使しても、制止する自信がないのだ。魔道省は皆、君に付くだろう。造反者は一人も出ない。夜の一族も然りだ。その気になれば降魔すら――」
 倉脇を制するように、シンジは手を挙げた。
「あなたが首相になってから、五流だった政治は三流までアップした。ただ、嘘に関してはあまりお上手でないと見える。もし俺があなたでそんなことを心底考えているとしたら、間違っても防衛をほかに移譲したりはしない。命に代えてもそのままにしておきますよ。俺が呼び出すとしたら、飴と鞭を使い分けて、上手く使いこなそうかというところだ。下手に出て煽てるのが失敗した場合、第二作戦は何だったんです?」
「…どう思うかは君の自由だ。ただ、君が妙な気を起こした場合、厄介な事になるというのは事実だよ」
「防ぐ手だては?」
 シンジの口調は、100パーセント他人事である。
 尤も、シンジ本人にその気がないのは既に倉脇も感じていた。後は、反応しかかっているシンジを上手く収めるだけだ。
「強制的に何とかなる、とは思っておらんよ。協力しろとも言わん。ただ、君のところの住人達が暴走しないようにしてくれればそれでいい。君は今回の一件で、特段の反応はないようだが、彼女たちはそうもいかないだろう」
 ふんふん、とシンジは頷いた。
「抑えるポイントは分かっておられる。で、見返りは?」
 訊ねたシンジが、足下に手を伸ばした。なにやら落としたらしい。
「黒瓜堂」
 総理の反応は早く、そして返答は短かった。
「店員のほとんどはインターポールから逮捕状が出回っている。君が首を縦に振ってくれれば、私が全力を挙げて取り消させ――」
 倉脇の言葉が途中で止まった。
 一瞬、室内の空気が変わったような気がしたのである。
 気のせいかと続けようとした時、その全身が硬直した。
 思い過ごしではない!?
 刺客にはしょっちゅう襲われてきたが、以前は黒木が、そして今はフユノに送られた二鬼が護衛している。ガードの能力もさることながら、本人の運が一定の割合を占めている事は言うまでもない。
 その本能が強烈に反応した。最大級の音で警報を鳴らし、この場から今すぐ立ち去るようにと叫んでいる。
 だが体が動かなかった。
 俯いている青年の気が、名宰相と言われた倉脇を硬く呪縛していたのだ。
「俺ならいざ知らず」
 声は同じ、だが異なっている。
「死神が名簿を持って後ろに立っている老人が、僕のオーナーに手を出すのを黙って見ている気はありません。おかしな事を考えなければ、大往生できたものを」
 シンジの顔がゆっくりと上がった。
 完全に別人と化したシンジの視線が倉脇を射抜き、その手が時計に伸びた次の瞬間、辺りに凄まじい音が鳴り響いた。
 銃撃と知っても、倉脇は動かない。いや、動けなかったのだ。
「僕が好きな服の色は明るい方です。黒は好きじゃない。帰り道には真っ黒助が多すぎる。片づけが必要ですね」
 シンジが悠然と立ち上がった時、黒服の一人が飛び込んできた。既に半身は朱に染まっている。
「何事」
「武装ヘリの襲撃です。総理、すぐにお逃げ…」
 言い終わらぬ内に、その首が宙に舞った。
 無論、指一筋動かさぬシンジの仕業である。刃となる風を使うのに、指を動かす必要は既に無い。
「何事か、と訊かれた以上事実を告げるのが責務です。おしゃべりが過ぎますよ」
 鮮血を吹き出しながら倒れている胴体をまたぎ、シンジは歩き出した。
「人の死は、いつでも突然に訪れるものです。僕に送られたと、冥府の門番に伝えておいて下さい。僕も、いずれ行きます」
 外に出ると、既に生きている者は一人もいなかった。賢明な住民はさっさと店や家屋に逃げ込んだし、任務に忠実であった者達は皆蜂の巣と化している。
「こっちこっち」
 シンジが愉しげに手を挙げた瞬間、ひときわ勢いを増した銃撃が料亭内へと降り注いだ。
 
 
 
 
 
(つづく)

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