妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百六十九話:夢の後始末
 
 
 
 
 
 はだエプとスク水。
 それを着てシンジの所へ侵入するのは分かった。
 だが、実際に着てみて――無論、侵入禁止の札を立てかけ、厳重に結界を張った浴場内である――さくら達は一様に絶句した。
 見た目はスクール水着だが、実際に着てみるとかなり扇情的なのだ。股間の部分は、前から見れば普通だが、お尻の方はきゅうっと切れ上がっているし、胸元はと言うと一応U字型だが、かなり深い。
 前屈みにならずとも、谷間はくっきりと見えているのだ。
 唯一エプロンを渡されたアスカに至っては、むき出しの尻と辛うじて覆われている秘所と――胸のところが切り取られ、ぷるっと顔を出している乳房と、そのどこを手で隠すかに必死で、とても自分の姿を見るどころではない。
 お互いの姿を批評する前に、自分の姿に赤くなった娘達だが、結局揃って侵入する事にした。
 一人一人では、各個撃破される可能性が高い上に、自信がない。四人であっても、羞恥が自信に昇華する事は無かった。
 最終的に後押ししたのは、帰ってきたシンジの変貌である。髪を切ったとかそういうことではなく、中身が大きく変化した事に少女達は気付いていた。
 そしてそれが、あまり良い事ではないことにも。
 成長、と見れば良いのかも知れない。ただ、彼女たちの想い人が、浅からぬ傷心にいた事は間違いない。
 黒瓜堂は、シンジが敗戦と失恋を初体験したと言った。仔細を聞かずとも、どれほどの痛手であったか位は、シンジを見れば分かる。
 だてに、女と名の付く人生を歩んではいないのだ。
 とまれ、侵入を決行する事にした乙女達だが、選んだのは初日であった。
 理由は簡単で、シンジが疲れているからだ――普通の日を選び、万が一にも金星人を見るような目で見られたら、もうバスタブ付きの廃屋を探し当てて、中で腐敗した水に浸かるしか無くなってしまう。
 今日ならば多分、目を覚ましても蔑視の視線はないと踏んだのである。
 忍び込んだのは総勢四名、月明かりに照らされて寝ているシンジの元へ、そっと忍び寄る。
 全員ガウン姿なのは、さすがに最初から痴態を晒す自信はなかったせいだろう。
 第一、枕元にはフェンリルがいる可能性もある。
 ガウンをはらりと落とした時点では無論、両側からそっとくっつかれた時にも、シンジは目を覚まさなかった。
「碇さん…お帰りなさい」
 ちう、と頬にキスされても、シンジは微動だにせず寝息を立てている。
 アスカの指がそっとシンジの頬を這う。元よりアスカは、ドイツに帰る気でおり、他の娘達から三馬身近く離されていたアスカが積極的になったのは、それが原因であった。
 神崎忠義は、すみれを溺愛するあまり、周囲が見えなくなってシンジを敵に回した。
 その結果など、最初から分かり切っている。そしてそれは、アスカの両親にしても同様である。
 シンジに惹かれている自分を認めてはいるが、経緯をまったく知らない義理の両親からすれば、シンジが金の力に飽かせて少女を侍らせているようにしか見えまい。
 そしてそれは、シンジが最も好まない所である。
 例え義理であっても――見合いだから帰ってこいと、勝手な理屈で娘を縛ろうとしても――自分を育ててくれた二親であり、目下は止まっているが、仕送りもしてくれている。
 アスカは、彼らを失いたくなかったのだ。
(シンジ、ごめんね…)
 頬を一筋の涙が伝い、それを拭おうともせぬまま、アスカはそっとシンジの身体に頭を乗せた。
 のし掛かっているわけではないが、疲れた身体に四人分の頭はけっこう効く。
 添い寝は初体験の娘達だが、自分達がシンジにとって、金縛りを操る老婆になっているなどとは、夢にも思っていなかった。
 
 
 
 
 
「マ、マリアさんその姿は…」
 驚愕を通り越して、呆然と立ちつくすマユミに、マリアの手は反抗を繰り返すばかりであった。
 どうやっても、手がシーツを引き上げてくれないのだ。マリアは今、マユミの前に半裸を晒したままである。
 私と同じ位大きい胸、とマユミが思ったかどうかは知らない。
 マリアがそれを知る事は、ついになかった。
「ち、違うのマユミこれは…」
 言いかけた時、マユミがいきなり倒れ込んできたのだ。
「マユミ!?」
 思わず立ち上がりかけたところへ、
「ドーブラエ ウートラ」
 入ってきたシンジに慌ててシーツをまとったが、もう一度仰天する事になった。
 ドーブラエ ウートラとは、ロシア語でおはようを意味している。
 奇妙な挨拶をしたシンジが手に持っていたのは下着、それもマリアのブラとパンティであった。
「シ、シンジそれ、わ、私の…」
「俺のに見える?」
 当然のように聞き返したシンジに、マリアは目をぱちくりさせた。
 いくらシンジでも、下着が汚れていたからと言って、勝手に脱がせて洗ったりはするまい。
 だいたい、下着はちゃんと替えてきたのだ――それはともかく。
 一撃で昏倒させたマユミに視線を向けて、
「とりあえず、マリアが裸で、しかも俺のベッドにいたなんてこの都市(まち)中に触れ回られると困る。しばらく眠っていてもらおう」
 マリアは分からなかったが、シンジの一撃は踵落としであった。降ってくる踵に、文字通り全くの無防備だったマユミは、ひとたまりもなく昏倒したのである。
 後ろ手に鍵を閉めてから、
「とりあえず、洗っておいた。替えの下着を持ってくるより、寝かせておいた方がいいと思ったんだけど、裏目に出たね」
「シ、シンジ…」
「あ、あのどういう事なの?」
「股間から出血してない?」
「…え!?」
 一瞬意味が分からず、解した瞬間マリアの顔から血の気が引いた。
 が、見るまでもなく、股間に違和感は無いし、無論出血などしていない。
「そ、そんなものがあるわけ無いでしょう」
「そう?普通の女の子なら全然ない事は無いと思うけど。ま、俺はマリアの周期なんて知らないし」
「周期?」
 シンジが言ったのは破瓜ではなく月経――真っ赤になったマリアの手がぶるぶると震えているのは、羞恥と言うより怒りだろう。
 しかも、素っ裸のままである。
「その分だと、夕べのことは全然覚えていないみたいね。酔いと一緒にすっかり抜けたと見える」
「……」
 マリアはゆっくりと深呼吸した。ここで赫怒しても仕方がない。
 第一、自分が全裸で、しかもシンジのベッドで寝ていたのは事実なのだ。ここは事実確認が先決である。
「シンジ、真面目に答えて」
「ん?」
「私は自分で脱いだの、それともあなたが脱がせたの?」
「半分マリア、半分俺が」
 また分からなくなってきた――ただし、まだ最悪の可能性は消えていない。即ち、ここで酔った勢いでシンジに身を任せた――どころか、自分が押し倒した可能性すらあるのだ。
「わ、私はその…な、何か淫らなことを?」
 シンジがふっと笑った。
「な、何がおかしいの」
「マリアがその格好で淫らとかいうと、とてもえっちに聞こえるんだもの」
「な!?」
 再度首筋まで染めたのは、今度は羞恥の方が割合は上だろう。
「お、お願いだから真面目に答えて。ゆ、夕べ何があったの」
「何かいやな言い方だな。パンツを脱がせたのは俺だけど、ブラを取ったのはマリアだよ。別に、無意識を良いことに何かしたわけじゃない」
「そ、それは分かってるわ…ごめんなさい」
 マリアが素直に謝ったのは、シンジがその気になれば、無意識という手段など決して使わないと分かっているからだ。
 シンジならば正面から来るだろう。問題は、酔った自分がそれを拒みきれるかどうかと言うことにある。
「まったくもう」
 ぼやいてから、
「マリア、胸の谷間見て」
「む、胸の谷間?」
 言われるままに見るが、別に形は変わっていないし、大きくなった形跡もない。
「おっぱいにキスマークみたいなの付いてない?」
「キ、キスマ…!?」
 先刻のマユミ同様、今度はマリアの目が驚愕に見開かれた。
 よく見ると、確かに胸の谷間の少し上部辺りに、鬱血痕のようなものがある。一目では分からないが、少し注意すれば気が付く。
「思い出した?」
 シンジの一言に、マリアの殺気が瞬時に消滅した。てっきり、シンジが寝ている自分に悪戯したと思ったのだ。
「きれいさっぱり忘れてるな。ったくもう」
 つかつかと歩み寄ってきたシンジが、
「とりあえず下着は洗っておいたから。マリア、その手どけて」
 嫌よ、と突っぱねる事は簡単に出来た筈だ。全裸ではあったが、薬を射たれた訳ではないし、身体も拘束されてはいない。
 が、マリアの手は勝手に動いた。
 羞恥に顔を赤らめたまま、胸を露わにしたマリアに、シンジは何を思ったのか、いきなり胸元へと顔を近づけた。
「ちょ、ちょっとシンジ止めなさ…んっ」
 乳房に唇が触れた、と思った次の瞬間、顔はすっと離れた。上がった顔に、欲情の色は微塵もない。
「思い出した?」
 少し冷たいとさえ聞こえる声に、赤くなっていたマリアの顔が、急速に元に戻っていく。
 凝固した表情のまま、懸命に記憶を辿るマリア。
 
 ああそうだ、ワインがこぼれて…そして私が取ってと…。
 で、でもパンティは関係ないわ…。
 
 またまた赤くなったマリアに、
「ある程度思い出したらしいな。じゃ、補足」
 耳元に口を近づけ、はふっと吐息を掛けてから、何事か囁く。
 青くなったり赤くなったりしていたマリアが、ぱたっと倒れ込んだ。
 ふーっと抜け出したのは、どうやら魂らしい。甦った記憶に耐えられなくなったと見える。
「あ、失神(にげ)た」
 男の部屋で、失神している娘が二人いるという、それだけ聞けばとんでもない妄想をされそうな状況にシンジはいる。
「山岸(これ)は病院に連れて行くからいいとして、こっちは…とりあえず下着は着せないと」
 まったく世話の焼けるやつだ、とぶつくさ言いながら、パンティを穿かせてブラを着けさせる手つきは妙に手慣れたものだ。
 昨夜着ていた服を着せ、来た時と同じ状況にしてから、シンジは内線でカンナを呼び出した。
「呼んだかい?」
 顔を出したカンナは、室内の状況を見て、ぎょっとして立ち竦んだが、とりあえず下着姿や裸の娘はいないから、マユミの時とは状況が違う。
「今から、山岸連れてシビウの所行ってくる。マリアはここで寝かせておくから、桐島はメンバー連れていつものパン屋行って。で、マリア用に四つ位適当に持ってきておいて。OK?」
「あ、ああ。でも大将、二人ともどうしたんだよ」
 シンジはそれには答えず、
「昨日は上手く行ったんかい」
「昨日?あ、ああ…」
 急にカンナの様子が変わった。
 何やら赤くなりながら、
「そ、その…」
「あん?」
「お、お礼に今度映画でもって言われちまったんだ。あ、あたい行っていいのかなあ」
「映画〜?」
 恋かは知らないが、カンナがトウジに好意らしき物を持ったのは分かっていた。
 が、ここまでがさつな娘を好むかは別だと、自作のクッキーを持たせたのはいわばリトマス紙のようなものであった。
 食べたトウジの顔が、赤や紫に変われば無論、ジ・エンドである。
 ところが、トウジは映画に誘ったという。
(何でじゃ)
 内心で首を傾げてから、はたと思い当たった。
「桐島、トウジと一緒に誰かいなかったか?」
「え?いや、一人だけだったぜ」
 首を振ったカンナに、今度はシンジが分からなくなってきた。一番考えられるのは、ブラコンの妹よけと言うことだ。
 そしてもう一つは…蓼食う虫も好き好きの法則が発動し、こういう物の方が美味だとインプットされた可能性だが、こちらは低い。
 やはり、妹のナツミがどこかから見ており、トウジと自分の作った菓子しか見えていないカンナが、気付かなかったという事だろう。
(イヒッ)
 シンジは内心でニマッと笑った。
 ナツミは超がつく程ブラコンである。トウジがもてたりしなかった事が、それに拍車をかけた。
 さして美味ではなかったであろうクッキーを全部平らげ、しかも返礼に映画まで誘うとは、ナツミが好意的な視線で見ていなかったのは間違いない。
 しかも、カンナもナツミも武術には長けている。
(武闘派同士の三角関係)
 邪悪な事を密かに呟いてから、
「トウジは不器用な代わりに、社交辞令は使わない。少し難しい所もあるけどね。トウジが言うならそれは本心だ。愉しんでくるがいい」
 少し煽って、自分の助力が必要だと言うことを匂わせておくと、
「ほ、本当か?」
「本当だ。ではカンナ、後は任せた」
「りょ、了解」
 気持ちいい位、すんなりとカンナは乗ってきた。
 無論、強制などせずとも、自分が一言告げるだけで、カンナはトウジから絶縁状を突きつけられるのは間違いないが、シンジはそんな事に興味がない。
 カンナの資質はともかく、トウジが気に入ったのならそれでいいことだ。
 まして、ブラコン主義者のナツミが黙っている訳もなく、シンジは労せずして女の戦いを見物出来るのだから、これを逃す手はない。
 じゃ、行ってくると、マユミを担いでシンジは女神館を出た。
 車はとりあえず修理に出しておいたが、これも迷ったのだ。勿論、きれいに直してくれる業者だが、
「ほう、さっそく下手な運転の上塗りを?」
 と言われるか、
「つまり、私から贈った車など傷ついたまま乗ってもいい、とこういう訳ですな」
 と、どっちに転んでも絡まれそうな気がしたのだ。
 結局修理を選んだのは、自分が恥をさっさと隠したと言われる方が、贈られた物をボコボコにしたまま乗っていると思われるよりましと踏んだのだ。
 がしかし。
 
「ボン・クレー、賭けしようか」
「賭け?なーにを掛けるのよう」
「シンジは、私が贈った車で電柱に突撃を繰り返した。結果、吊されて帰還する事になったのだが、シンジがそれを修理するかどうか。とりあえず、どっちを取っても私に絡まれると、優柔不断に悩む方に七十五マルク。そして、結局贈られた車はきれいな方がいいと修理する方に200ペセタ」
「…なんであちしが負けないとならないのよう。黒ちゃん、あちしと同じじゃナイ!」
 
 黒瓜堂の主人が女神館に来る前、そんな会話があった事など、無論シンジは夢にも知らない。
 ただし、シンジが修理するかどうかを見物にきた訳ではなく、夜ばいの成果を見に来たのだ。
 今までの関係からして、堂々と侵入できない事は分かり切っている。つまり、放っておいても夜這いしかない。それに加え、下着姿で迫った事はあるとは思えないから、行くとしたら当日の晩しかないと踏んだのだ。
 普段の日であっても、シンジはさくら達の痴態に蔑視の視線を向けることはしない。
 それでも、忍んでいく方からすれば、当然反応が気になる所だし、最悪の反応だけは怖い。
 結果、さくら達に取っては吉だが、朝になって大凶になっていた事を知ったのだ。
 自分の与り知らぬところで、密かに陰謀が進んでいた事は知らなかったが、知っても激怒はするまい。
 自分の力を自覚した時から、感情の奔流は殆ど消え失せたシンジなのだ。
 マユミを担いだまま歩くシンジの向かった先は、カンナに言った通り、シビウ病院だった。
 魔物や妖物に襲われ、とてつもなく奇妙な大怪我をして担ぎ込まれたり、或いは自分で歩いて――うら若き乙女が、調合を失敗した薬入りの餌を与えられた結果、巨大化したハムスターに襲われ、一時的に不死の力を得た結果だ――くる事もある。
 降魔大戦後、帝都と呼ばれるようになったのは、都下の二十三区ではなく、特定の三つの区を指している。
 その三つの区だけは、降魔大戦の爪痕が消え去る事無く、それどころか人外の生物が大手を振って歩ける状態となっている。
 この街にあるシビウ病院は、帝都の患者が集中する場所となっている為、並大抵の患者では、周囲の目を引くことは出来ない。
 が、やはり目立った。
 美少女を拐かし、そのままやってきたようなシンジの姿は、長身も手伝ってかなり目立つ。
 つかつかと受付に歩み寄ったシンジに、
「切られたのですね」
「うん」
 頷いてから、
「シビウは今暇かな」
 と訊いた。
 その途端、周囲のざわめきがぴたりと止み、視線が全てシンジに集中する。神か悪魔と契約したと言われる美貌の院長を、呼び捨てに出来る者などこの病院にはいない。
 無論、患者にもだ。
 シビウを呼び捨てにした上、今暇かと来た。
 普通なら、自ら嬉々として自分の死刑執行令状にサインするような行動である。
「今、お伺いしてみます。お待ち下さい」
「あ、ちょっと待った」
 内線を取り上げた娘を制止して、
「一日分の記憶を完全消去してほしいの。精神内科?それとも脳外科?」
「碇さん、私がお預かりします」
 歩み寄ってきた中年の看護婦に、シンジは顔を向けた。
「えーと、確か脳外科婦長の…」
「高梨です」
「そうそう、高梨由美さんだ」
「名前もご存じでしたか」
 眼鏡がきつい光を放っている婦長の表情が、少しだけ緩んだ。シンジから見れば、とりあえず絶対上司にはしたくないタイプだが、部下から総スカンを食うような者を、シビウは上に据えない。
 少なくとも、部下から慕われる事が絶対条件なのだ。上下の信頼関係無しに、ミスの発見・報告の徹底は出来ないし、それも出来ずに完全な病院を作り上げることなど出来る筈もない。
 甲斐と信濃を支配した名将武田信玄は、人は城、人は石垣と唱えてろくな城を造らなかった。
 勇将の下に弱卒なし、この言葉はこの病院に於いて如実に表れている。シビウ病院の最も大きな財産は、院長以下、他病院から見れば垂涎もののレベルにあるスタッフなのかもしれない。
「婦長クラス位は知っておきなさいって、シビウから無理難題押しつけられたんだ。まったく、俺の記憶力に限界がないと思ってるんだから。それはそれとして、じゃよろしく。傷つけないでね」
「分かりました」
 そこへ受付の娘が、
「院長は手が空いたそうです。地下でお待ちになっておられます」
「ありがとう」
 地下と言っても、この病院の地下は広大である。
 にもかかわらず、受付では場所を言われなかった。
 この場合、場所は一カ所しかない。
 どこをどう歩いたかなど、思い出すのも面倒な程歩いてから、シンジが着いた先は浴場であった。
 大理石で作られた浴場で、獅子が湯を吐き出しているが、浴場もこの病院には一つではない。
「……」
 だが、人のいる気配はない。
 外した、と呟いてシンジは踵を返した。この病院で、シビウの居場所を読み間違えたのはこれが初めてだ。
 一歩踏み出した途端、首筋に腕が巻き付いた。
「これで一度も外れなし、ね」
「久しぶり」
 言った途端、きゅっと首が絞められた。
「久しぶりですって?帰国はおろか、連絡もしないでよくそんな事が言えたものね。ここの厚さは一体何センチあるのかしら」
 今度は、むにーっと頬が引っ張られた。
「大暴れだったりホテルに籠もったり機内に籠もったり、色々忙しかったんだ」
「そう」
 シビウの口調に危険な物が混ざった。
 この体勢はまずい。
 しかも、シビウからは容易に一撃を加え得るのだ。
「うちの娘達は、管理人がいなくてもよくやっていた。まして魔女医が」
 ゆっくりと振り向き、
「想いと一緒に髪を置いてくるような役立たずからの連絡を、身悶えしながら待つこともあるまい」
「ふん」
 とりあえず離れた。
「謝ったら生きたまま解剖してあげようと思ったけど、それは許してあげる。でも、私の気が治まったわけではなくてよ」
「別に、シビウ大魔神の気を鎮めにきた訳じゃない」
「…なんですって」
「お前に訊きたい事があってきた」
 シンジの視線がシビウを捉えると、妖艶な魔女医がうっすらと笑う。
 もう、質問など分かり切っているらしい。
「シビウ、俺の身体に何したの」
 それを聞いた時、笑みは一層深くなった。
 
 
 
「兄貴、どういう事か説明してもらうで」
「説明、とは」
 言いかけた途端、いきなり胸ぐらを掴まれて壁に押しつけられた。こんなに殺気立った妹の姿は、初めて見る。
「シンジさんの紹介みたいなもんやし、上手くもないモンを食ったまではええ。せやけどなんでや、なんで映画なんかに誘ったりしたんや。それもあたしの前で!」
「何でお前がそれを気にするかは分からんが…」
 振りほどいたり、怒鳴りつけたりする代わりに、トウジは胸元を掴んでいる手にすっと触れた。
 一瞬ナツミの肩がびくっと震え、やがて手は力無く離れた。
「まあ、シンジのに比べれば、はっきり言ってカスみたいなもんやった。せやけど、あの手を見る限り、作ったのは初めてやろ」
「だ、だからそれは分かっとるって…」
「分かっとらんな」
 トウジは穏やかに否定した。
「シンジがオレを呼び出して、代わりに来たのがあいつや。で、その料理などしたこともない女が何とか作った物を食って、はい美味かったで終わりか?悪いが、そのまま帰らせることは、オレにはできへん」
「じゃ、じゃあ兄貴っ」
 急き込んだ声は途中で止まった。
「何や?」
「そ、その…あ、兄貴はあの女と付き合ったりはしないんやな?」
「ナツミ…お前もそろそろ、兄貴離れしてもいい頃…」
 言葉は最後まで続かなかった。
 顔がストレートに右を向いたのは、チンピラに拉致されたのが最後の筈だった。
「兄貴の馬鹿ーっ!あ、あたしは絶対あきらめないからっ!!」
 ある程度距離を取っていれば別だ。
 がしかし、文字通り顔と顔がくっつくような距離からの一撃に、トウジは追いかける事はおろか、言葉すら出ない。
「あのガキャ…」
 三十秒後、辛うじて出たのがこの台詞であった。
 
 
 
「他の娘(こ)ではいかなくなったのかしら?」
 全裸の肢体をシンジに預けたまま、シビウが訊いた。
「この姿勢で教えろと言うつもり?」
 冷ややかな返答の結果である。
 膝の上に全裸の美女を乗せているが、シンジの手は伸びていない。
「巴里では身悶えしてた。だからそんな事はない。が、所々気になる」
 シンジの言葉に、シビウの眉がかちっと上がった。
 それでも表情に変化はない。無い、と言うよりは抑えているのだ。
「結論から言えば、私は何もしていないわ。だいたい、君は早漏でも包茎でもない。私が何かして治す必要のある事項はないでしょう」
「で?」
「身体の相性…よっ」
 言葉尻は妙に浮いた。
 つうっと尻を撫でたシンジが、いきなり二本指を差し込んだのだ。既に濡れている秘所は、すんなりと指を受け入れた。
 生き物のように蠢く内襞が、ぬるりとシンジの指にからみついてくる。普通の男ならば、入れた瞬間に放出しかねない。
 先に開発されたのはシンジだが、もうシビウの身体は知り尽くしている。
 散開した指に弄り回され、シビウの尻が一瞬浮いた。
「つまり、シビウが何かしたんじゃなくて、俺の身体がシビウを覚えちゃったって言うこと?」
「そう…なるわ」
 シビウが熱い吐息を吐き出した。
「ふーん」
「ちゃんと教えたわ。後ろも…後ろもお願いよ」
 この口調で哀願されたら、男女老若問わず、殺人でさえ唯々諾々として引き受けるに違いない。
 もう片方の手が秘所に伸びる。
 太股まで濡らしている愛液に触れてから、親指を根本まで一気に差し込んだ。
「あんっ」
 理性を投げ捨てたくなるような嬌声を上げてから、顔を傾けたシビウがおもむろに唇を重ねた。
 ねっとりと舌を絡めてくるキスは、生来から備わった天然のものだ。
 淫蕩と知性を同等に、そして多量に併せ持った女のみが身につける事のできる技術である。
 唇同士をつないだ唾液の糸さえ、愛しそうに拭い取ってから、
「今日は、しようとは言わないわ。でも、ちゃんと満足させてくれないと駄目よ?」
 
 
 夕刻になって、マユミを背負ったシンジが帰ってきた。
「記憶は完全に消去したわ。代替の記憶でも良かったけど、必要ないでしょう」
「そだね」
 シンジを送り出したシビウは、女ではなく、優秀な医者の顔であった。
 指の愛撫よりも、シンジから唇を重ねた事で気に入ったらしく、
「ふふ、満足したわ」
 何も塗っていないのに、朱を掃いたように赤い唇に触れてから、回診への同行を命じた。
 死人すら生き返ると言われるこの病院でも、勿論全ての患者が即日退院するわけではない。
 短期で終わるケースもあれば、長期の療養が必要な場合もある。
 それでもシビウが治ると言った時、それは文字通り神の宣言であり――シンジは悪魔の方が可能性は高いと思っているが――誰一人として、疑う者はいない。
 そしてそれを必ず実現する病院、それがここシビウ病院であった。
「相変わらず慕われているお医者さんだね」
「本命の想い人はつれないけれど?」
 妖艶な視線から、かさこそと逃げるように帰ってくると、もうマリアは起きていた。
「お、お帰り」
「ただいま」
「あ、あの夕べはその…」
 まともに顔を合わせられないマリアの唇に、シンジはすっと指を当てた。
「いいんだ、気にすんな。それより、シビウ病院でちょっといじってもらったから、預かっておいて」
「どうかしたの?」
「全裸にシーツだけのマリアの格好なんて、知っているのは俺一人で十分だ。じきに起きると思うから、寝かせておいてね」
 かーっと赤くなったマリアにマユミを預けて歩き出す。
 この国で一番偉い人――内閣総理大臣から個人的に会いたいと、呼び出されたのは三日後のことであった。
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT