妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百六十八話:もうね、アボガド。バナナかと。
 
 
 
 
 
 器用ではあるが、群を抜いている訳ではない。
 少なくとも、銃の腕に比べれば、遠く及ばない。
 マリア・タチバナにシンジが告げたのは、
「お礼にクッキーでも持って行くがいい。やつは作れるの?」
 やつとは、無論カンナの事だ。
「多分、無理だと思うけど」
「じゃ、マリアが教えておいて。あんなの簡単でしょ」
 自信はなかったが、自分に出来る事は人にも出来て当然だと、間違いなく思っているに違いないシンジにムカッと来て、
「当然よ」
 即答してしまったのだ。
 案の定カンナは、クッキーの種類は大量に知っていても、作り方などさっぱり知らなかった。
「クッキー?じゃ、あれが美味しいだろ…えーとほら、トーゲンバーガーの」
「ハンバーガー?」
「違う、トーゲンバーガーだよ」
 うろ覚えと全く知らないコンビに結論が出るはずもなく、レイに調べてもらうとスイスのトーゲンバーガー社と判明した。
「そんな物作ってる場合じゃないの。普通のクッキーで我慢しなさい」
「でもよ、自分で食うんなら、好きな物作りたいじゃ…いてー!?」
 スパン、とハリセンの一撃がカンナを襲った。
「誰が私たちのおやつにすると言ったの。あなたが作って持って行くのよ」
「どこに?」
「ハンカチのお礼によ」
「え…」
 次の瞬間、カンナの顔が火を噴いた。少なくとも、マリアにはそう見えたのだ。
「な、な、ななっ、何言ってんだよマリアっ」
「冗談など言っていないわ。だいたい、シンジに頼んだら自分で返せと言われたんでしょう。それとも、借りっぱなしで返さないつもり?」
「べ、別にそう言う訳じゃないけどよ…で、でもあたいクッキーなんて、食った事はあっても作った事なんてないし…」
 180センチを優に超える自分より、更に長身のカンナが、顔を赤くしてもじもじしているのを見ても、マリアの表情に変化はない。
 が、心の中ではうっすらと笑っていた。
 今まで、カンナが狼狽えた姿すら見たことがないだけに、見ていて実に楽しいのだ。
 黒瓜堂とシンジがいたら、呵々大笑いしていたに違いない。
 と、その時、
(傍から見れば自分だって同じよ)
 冷静に突っ込むもう一人の自分は、黒い羽としっぽをはやして、冷たく見下ろしていた。
(わ、私はべつに…)
 これもほんのりと赤くなった自分を振り切るように、
「こ、これはシンジの指示で、私のお節介じゃないのよ。カンナ、やるの?それともやらないの?」 
「や、やるよ。やるってば。ど、どのみち借りた物は返さなきゃいけないんだからよ」
「その通りよ」
 
 それから数時間後、
「これをオレに?」
「こ、この間のお礼にと思ってよ、その…」
 近年、大和撫子という種族は、文字通り絶滅の危機に瀕している。だいたい、実の妹からして、周囲に知れ渡っているブラコンではないか。
 細かいことを言う気はないが、性格が根本的にがさつらしいと、トウジは知った。
 だが、トウジにとっては、この形の崩れたクッキーの方が、遙かに問題であった。勿論、トウジはシンジの腕は知っているし、新種を作ったからと、クッキーの山を食べさせられた事もある。
 いずれも、きれいに形の整った代物であった――中に、青紫蘇クッキーなる物が混入されていた事は別として。
 今目の前にあるのは、トウジの記憶とはかけ離れたものであった。シンジなら、プライドに賭けても、こんなにぱさぱさして、おまけに形の妙な代物は作るまい。
 しかし、トウジを呼び出したのはシンジ本人だ。一枚噛んでいることは間違いないのだが、出てきた代物はこれである。
 つまり、新手の嫌がらせなのかと迷っていたのだ。
「作るのはシンジが教えたんかい?」
「い、いや大将は出かけちまったから、あたいの友達に教えてもらったんだけどよ。その…やっぱり大将みたいにはうまく出来なくて…」
 出来ないにも程があるで、とは無論言わない。
 事情はよく分からないが、とりあえず嫌がらせではなさそうだ。
 記憶にある物体は消去し、一口は食べてみるかと手を伸ばしかけた時、一対の視線に気づいた。
(……)
 視線だけで人を殺せたら、桐島カンナは一瞬で蒸発していたかもしれない、そんな風に思わせる視線の主は言うまでもない。
 義務や責任ではなく、食べてほしいと思って作った初体験に、心拍数の跳ね上がっているカンナは気づいていない。
(ったくあのガキャ)
 三者三様の思考が絡み合う。
 そして、ナツミが見たのは、知らない女からもらった物をあっという間に、それも美味そうに食べる兄の姿であり、無論カンナは、きれいに平らげられた自分のクッキーである。
「ごっそさん。美味かったで」
「ほ、ほんとか?」
「嘘言っても仕方ないやろ。こういうの作るんは初めてやろ。初めてにしては悪くない味や。後は、シンジに教えてもらうんやな」
「あ、ああ」
「ハンカチ一枚程度にしては、ちと高すぎや。今度、映画でもおごったるわ。恋愛よりアクションやろ」
 一瞬理解できなかったのは、カンナのみならずナツミも同様である。
(兄貴〜!!)
 ゴキ、と音がして、木に拳がのめりこむ。それでも、最後の精神力を振り絞って持ちこたえた。
 二秒遅れて理解したカンナが、からくり人形のごとく、首を縦に振る。
「じゃあな」
 帰り道、桐島カンナは、何もないところで転ぶという、さくらの専売特許を三度も侵す事になった。
 サンドイッチを食べようとして、周りが見えぬまま味噌汁に手を差し入れる三十分前の事である。
 
 
 
 
 
「い、い、碇さん今何てっ?」
「二度も言いたくないんだけどな。修行してくるって言ったの。オーケー?」
「オ、オーケーです…って、違うでしょ!どうしてすぐ行っちゃうんですかっ。もうあたしたちの事なんてどうでも良いんですかっ!?」
 と、これはさくららしい台詞だったが、
「さくらの言うとおりだよ大将。あたい達は、大将抜きで何とかなると思うほど、自惚れてはいないぜ」
「『…え?』」
 カンナの台詞に、全員が度肝を抜かれてそっちを見た。
「な、何だよ。別にあたいは大将嫌ってる訳じゃねえぞ」
「で、でもカンナさんらしく…いえ、何でもありませんわ」
 すみれが言いかけて止めた。その語尾が妙だと、シンジに言われていたのに加え、ならば神崎すみれらしく何を言えばいいのかと、瞬時に問いかけて答えは出なかったからだ。
「それとアスカ、おまいさんの方は手配しておくからね。きっちり独立して見せてあげるといい」
「ありがと。でも…どうして急に行くなんて言い出したのよ。昨日はそんな事言ってなかったじゃない」
「勿論。そんな気もなかったしね」
「『え?』」
 では、深更から今朝方にかけて、シンジの思考が大きく変わるような出来事があったというのか。
「じゃ、どうして?」
 訊ねたのは織姫であった。
 シンジはうなずき、
「ちょっと聞いて下さいよ織姫さん」
 奇妙な口調に一瞬目を見張ったが、これだけには無論留まらない。
「昨日夜寝ていたら、一時半頃目が覚めたんです。そしたらね、体が動かないの。もうね、アボガド。バナナかと。修行のやり直しかと」
「『はい!?』」
 さっぱり分からない娘達に、シンジはご丁寧にも四度繰り返して聞かせた。無論、言葉遣いは変わらない。
 アボガドとバナナの関係はよく分からなかったが、シンジが夜中に起きた時、体が動かなかった事は分かった。
 だが、それが修行とどういう関係があるのか。
「俺は昨日、フェンリルと寝てはいない。枕にもしてないし、勿論抱いてもいない。つまり、一人で寝ていたわけで、具合が悪ければ自分で分かる」
「そ、それでっ?」
「それでって分からん?」
「『ぜんっぜん』」
「具合悪くないのに体が動かない、これはもう原因は金縛りしかない。身体的なものに原因がなければ、金縛りは霊障なの。ここに結界を張ってるような奴が夜中に金縛りに遭うなんて、これはもういかにだらけているかという証拠で、修行のやり直ししかないでしょ」
「あっ!」
「な、何ですのさくら急に大きな声を出し…ちょ、ちょっと何を」
 ぴゅうっ。
 合計三名がさくらに拉致連行され、あっという間に別室に消えた。
「シンジ」
「うん?」
 ずっと黙って聞いていたマリアが、初めてシンジを呼んだ。
「前回はともかく、今回は住人一同揃って総反対よ。悪いけれど、行かせるわけにはいかないわ」
「行っちゃ駄目ってこと?」
「行っちゃ駄目」
 ご丁寧に復唱したマリアに、
「お前は俺のお姉さんか?なーにが行っちゃ駄目、だ」
「冗談じゃないのよ。それにほら」
 マリアの指がすっと伸びるのと、シンジの背に冷たい物が流れるのとがほぼ同時であった。
「アイリスも反対してるから」
 チキ、と首筋に当てられたのは、銀のナイフである。
「たとえ不死人(アンデッド)に変えたって、ぜーったいに行かせないんだからっ!」
「アイリスそこまで」
 抑揚のない声でレニが制した。
「レ、レニは行かせてもいいのっ?」
「僕だって行かせたくない。ただ、子供がナイフ振り回したってシンジは止められないよ」
 さすが従妹はよく分かってる、と言いかけたら、
「とりあえず縛り首にしておかないと」
「レニーっ!?」
 
 
「さくら、あんたいきなり何するのよ。こんな所に連れ込んだりして」
「そうよ、こんな事してる場合じゃないでしょ」
「場合なのよ」
 ぎゅっと三人を引き寄せると、
「碇さんが言ってた金縛り…あれって、原因はあたし達よ」
「…な、何ですって?」
「だから、昨日の夜碇さんの部屋に行ったでしょ。あれが原因よ」
 さくらの言葉に、三人の顔から血の気が引いた。
 考えたくもないが、だが確かにそれしか原因は考えられない。この一ヶ月、シンジがどこで何をしてきたか、詳細は分からない。
 しかし、持って生まれた資質は、そう簡単に無くなる物ではない筈だ。
 やはり、自分達が引き金を引いてしまったと考えるのが妥当だろう。
「『どうしよう…』」
 青ざめたがもう遅い。
 だいたい、黒瓜堂の主人が唆すのが悪いのだ。例え、一時的には最高の夢見心地であっても、結果は最悪ではないか。
 ただし、シンジには口が裂けても言えない。そんな事を言った日には、早稲田にある大聖堂の十字架から、逆さに吊されかねないからだ。
 多少乱暴なプレイも悪くないが、そこまでは望んでいない。
 と、そこへ、
「ご免」
「あら?黒瓜堂さんかしら」
「かしらって、玄関で謝るのはあの人しかいないでしょう」
 ご機嫌斜めなすみれを置いてさくらが玄関に出ると、立っていたのは想像通りの人物であった。
「もーにん」
「お、おはようございます。黒瓜堂さん、あの結界はどうしたんですか?もう碇さんが直した筈ですけど」
「破っときました」
 こともなげに言ってから、
「シンジ君はもう起きてますか?」
 訊いた途端、これまた織姫達同様、ぐいと引っ張り込まれた。
 それから七分後、ガラガラと音がして、食堂に台車が入ってきた。
 反射的にマリアが立ち上がる。
 そこに吊されていたのはすみれであった。
「もーにん」
「ウイース。あの、そこで吊されてる小娘は誰?」
「訊いてみます?」
「ううん、いいや」
 ふるふると首を振ったシンジの視線が、すっときつくなってある一点を捉える。その先には、黒瓜堂でもすみれでもなく、マリアがいた。
 無論、マリアが殺気立っているのは当然だが、少々場所と相手が悪い。黒瓜堂相手、と言うことではなく、そのマリアを見つめているシンジの方だ。
「――」
 何か言いかけたシンジを制して、黒瓜堂がすっと手を挙げた。
「誰も玄関で謝ってなどおらぬと、この娘もマスターしたでしょう」
 くいとひもを引っ張ると、すみれはあっさりと外れた。
 逃がした獲物には目もくれず、
「ところで、レニが君を絞首刑にしようとしていたようだが、外に愛人でも作ったんですか」
「そんなモンは作ってないよ。そんな暇もないし」
「ふーん。じゃあ、暇があったら作るって言うことですよね」
 言葉の一文字一文字にとげが生えているような台詞は、無論さくらのものだ。
「修行して、帰りに何人か作ってみる。夜専用とか朝専用とか、或いは風呂専用とか」
 ピキ、とさくらが反応する前に、
「その修行というのは?」
「昨日金縛りに遭ったの。もうサイテー」
 黒瓜堂さんには、アボガドとかバナナとか言わないんですかと、ねちっこく突っ込みたくなったが我慢する。
「よく分からんが」
「え?だから金縛りは霊障でしょ」
「違う」
「あれ?」
「無論、本物ならそうです。でも、君のは違うと言ってるんです。君が帰国した時、霊波がぼろぼろだったのでね、修正しておきました。あまい薬の事は覚えていない?」
(知らない…)
 呼称が僕に変化しても、その時のことは分かっている。
 が、もう一人のシンジが黒瓜堂の主人と二人きりの時は、なぜか覚えていない。そっちでシャットアウトでもしているのだろう。
 そして黒瓜堂がシンジに薬を渡したのは、その時であった。
(碇さん?)
 シンジが黙って首を振った時、その眉根が寄った事に娘達が気付いた。勿論当事者ではないが、少なくとも嫌がらせのような質問には思えない。
「君が何の幻覚を見たかは知らんが、とりあえず金縛りではない。副作用ですよ。効き過ぎる風邪薬は、一時的に高熱を出したりするでしょう。あれと同じです」
「むう」
 確かに、自分に跨る妙な老婆の姿はなかったが、金縛りにしてはあまりにも重かったし、帰って早々霊障に遭うというのも妙な話だ。
「じゃ、あれは霊障じゃないの?」
「イエス」
「単なる副作用?」
「ウイ」
「ふうん」
 くるりとさくら達に向き直り、
「と言うわけで、行くのやーめた」
「ほ、本当にっ?」
「…行って欲しいの?」
 げんこつ。
 あっつー、と頭をおさえているさくらを床に押しつけ、
「そ、そんな訳無いじゃない。シンジにはやってもらうこといっぱいあるんだからっ」
「掃除とか片づけとか整理とか?」
「そうそう…って、そ、それだけじゃないわよっ」
「分かった分かった」
 手を挙げて、
「ところで旦那」
「ん?」
「これなんだけどね」
 指を差した先にはアスカがいる。
「アスカ・ラングレーが何か?」
「ダディとマミーが呼び返しを企んで困ってるの。何かイイ案無い?」
「マミー・リターン?」
 ハッハッハ。
 黒瓜堂の主人が、アスカ達に視線を向けた。
「想い人も成長しましたね」
 かすかに頬を染めて頷いた娘達がいるが、それが向けられていない方は、あまり面白くない。
 何よりも、一番面白くないのはマリアである。自分があんなに言っても、まったく聞く耳を持たなかったくせに、どうしてこんなウニ男が言うと、あっさり聞くのか。
 それでも、
「シンジ、あなたの方でどうにか出来ないの」
 と言うほど、分別を失ってはいなかった。言えば最後、文字通り逆鱗に触れる事は分かり切っているのだから。
「良い案、ですか」
 四秒考えてから、
「舌切り雀の話は知ってますか?」
 妙な事を徐に訊いた。
「舌切り雀って…あの、恩返しの雀が実は擬人化していて、妻から奪い取る為に毎日セックス三昧だったけど、実はそれが罠で、欲張りな女房が一番大きなつづらを持って帰ったら、中にはペニスを切られた夫が入っていたって言う話」
「So good」
 シンジを始め、他の全員が呆気に取られている中で、黒瓜堂だけは満足げに頷いた。
 アスカが触れたのは、無論昔話本に載っている話ではない。昔話は、実はこんなに残酷だったと見直す動きがある中で、とある女流作家がものした話である。
「君には大きいつづらが似合いそうだ。シンジ君、この子はうちで引き受けました」
「ふえ?」
「月に五十もあれば足りますか?」
 ぶるぶるぶる。
 アスカが慌てて首を振った。
 一気に収入が三倍以上になるなど多すぎる。だいたい、今までだってさほど切りつめては来なかったのだ。
 何よりも、交換条件が怖すぎる。例え、自分のような小娘など、歯牙にも掛けない魔人揃いの店だと分かってはいても、だ。
「足りませんか?それなら――」
「ぎゃ、逆よ逆っ。多すぎるの」
「分かりました。じゃ、四十九で」
「そ、そうじゃなくて」
「じゃ、四十八」
「だから多すぎるってば」
「分かりました。四十七で手を打ちましょう」
(シンジ助けてー!)
 必死で念派を送ると、シンジの表情が動いた。どうやら、受信したらしい。
「あのね、旦那」
「何です?」
「いやその、元が二十五だったから――アーウチ!」
「何であんたまで増やすのよっ!このバカ!」
「あれ?」
「分かってますよ」
 理性の糸に切れ目の入ったアスカが、さらなる庸懲の一撃を加えようとするのを、そっとおさえた。
「元は十五万でしょう。そのままで構いませんね」
 アスカはほっとして頷いた。
「じゃ、決まりです。君にはうちで働いてもらう。仕事の内容は――」
 言葉を切った黒瓜堂に、アスカは急速に不安になってきた。フルに働いて十五万ではあるまい。
 だとしたら…いや、そうでなくとも、とんでもない仕事が待っている可能性がある。
「惣流・アスカ・ラングレー、君にはうちの風呂掃除をしてもらう。月に八回で、報酬は二十万です」
「『……え?』」
 人体実験とか、乃至は解剖の手伝いとか言い出しそうだが、風呂掃除というあまりにも簡単なものであった。
「あ、あの黒瓜堂さん」
「何でしょう」
「風呂掃除ってあの、お風呂のことですか?」
「そうですよ。無論、私が使ってる方ではなくて、魔界に直結している方です」
「は、はあ」
 シンジに配慮して、あえて簡単なことを選んだのではなさそうだと気付いたが、そうなるとやはり普通の掃除ではあるまい。
 シンジが見たのは、顔の左右で異なる表情をしているアスカの姿であった。
 
 
「あの、お邪魔するわ」
「ん」
 マリアがシンジの部屋を訪れたのは、晩のことであった。
 もう夕食は済んでおり、皆自分の部屋へ引き上げている。
「どした?」
「その…シンジに留守中の事もきちんと話していなかったから…」
「分かった」
 振り向いたシンジが、
「お前の銃持ってきて」
「え?」
「ほら早く。もたもたしない」
 お尻を押されて出ていったマリアが、怪訝な顔で銃を持ってくると、シンジはそれを受け取った。
「あの、それどうするの?」
「没収する」
「え?」
 マリアは一瞬耳を疑った。シンジの言葉が理解できなかったのだ。
「没収する、と言ったの。お前には、まだ早すぎる」
「ど、どうして?」
「俺が帰ってきた時、電柱に突撃を繰り返して、旦那に吊された訳だが、お前は旦那から送られた物だと知りながら、それに銃を向けたな」
「あ、あれは中身がシンジだとは思わなかったからよ。知っていたら決して――」
「所詮、お前はその程度だ」
 シンジの冷たい台詞がマリアを貫く。
「シ、シンジ…」
「俺が黒瓜堂のオーナーと付き合っているのは、愚痴がロバの耳状態と言うこともあるが、それだけじゃない」
 君がそう呼ぶのはまだ早いですよ、黒瓜堂が聞いたら、きっとそう言われるに違いないと思ったが、本人はここにいない。
(ロバの耳?)
 マリアは内心で首を傾げたが、元ネタとなる童話自体を知らないから、理解できる筈もない。
「祖母が世界中から二人の人間を捜す為に旦那に依頼し、両親は悪の囁きを依頼した。そして、間抜けな孫がハイジャックされた機体で身動きできなくなった時、碇フユノが頼んだのは、元傭兵を始め、卓越した戦闘能力を誇るメイド達ではなく、旦那だった。マリア程度が、銃を向けられる相手ではないよ。そもそも、アブナイ物を送ってくる可能性はあっても、危険な物を送ってくる可能性はゼロだ。そんな事も分からないマリアに、人を殺せるおもちゃは渡しておけない。それとも」
 無機物に向ける視線がマリアを捉える。
「俺を縛り上げて、取り返してみるか?」
 マリアの首が即座に、そして力無く振られた。
「そんな事はしないわ。シンジがそう判断したなら…私はそれに従う。じゃ…私はこれで帰るわ」
 力無く立ち上がろうとした時、
「おにいちゃん?」
 ピクッと、先に反応したのはシンジである。
 パジャマに着替えて帽子をかぶったアイリスは、手にマイ枕を持っており、シンジを抱き枕に就寝と来たのは間違いない。
 咄嗟にマリアの手を引き、強引に腰をおろさせた。
 立ち上がり、後ろ手にドアを閉めてから、
「悪いけど、今日はマリアと話があるの。一緒に寝るのは明日ね」
 潤んだ瞳で見上げられたら、シンジも少し困ったかもしれない。
 が、アイリスの取った行動は、
「今日はマリアと一緒に寝るの?」
 と見上げる事であった。
 ぽかっ。
「いたた…」
 追い返すのにこれ以上のカードはあるまい。
 為す術もなく、アイリスが退散するのを見届けてから、シンジは部屋に入った。
「アイリスがどうかしたの?」
「いや、何でもない」
 首を振り、
「そう言えば、留守中に出たらしいな」
 普段なら気にもしないが、普通に考えれば、あの格好の少女と一緒に寝てるだけで十分危険である。
 あれなら、下着姿の方がまだましかもしれない。
 見られる事を考えれば、マリアの方が問題はずっと小さい。
「え、ええ…」
 頷いたが、話したものか迷っている。機嫌を損ねたと分かっているだけに、さっさと帰った方が良いのではないかと思ったのだ。
 が、どうやら風向きが変わったと知ったマリアは、居ずまいを正し、きちんと座り直した。
 膝に手を置いて、
「ご免なさい」
 頭を下げたのだ。
「あ?何かしでかしたの?」
「いいえ…出来なかったのよ。シンジに留守を任されながら、敵を倒すどころかみんなを危地に追い込んでしまった」
「死人は出たの?」
「え?」
「そ、そこまでは…痛っ!?」
 ぽかっ。
「住人達に出たのか、と訊いてるの」
「そ、そんなの出てないわ」
「ふんふん。で、何を謝ってるの?」
「な、何をって…」
「あんな機体預けられながら、まったく効果を上げられなかったこと?」
「うん…」
「俺はここを発つ時、うちの小娘どもが降魔に袋だたきにされていたら、後はよろしくと旦那に頼んでいった。お前がどう思っているかは知らないが、頼んだのは怪我させずに退却させる事であって、きれいに勝つ事じゃない。目下のレベルでは、楽にどころか勝てる事すら、俺の思考にはないよ」
「そ、そんな…」
 シンジの留守中に帝都は落とさせない――例え命に代えても、とそう思っていたのは自分だけだったというのか。自分達の奮戦など、最初から無意味な物として想定すらされていなかったというのか!?
「不満?」
「だ、だってシンジ――」
 言いかけたマリアの頭を軽く撫でて、
「マリア、“今、負けることはまったく恥じゃない”んだ」
「え?」
「今はまだ、“負けるのが恥である時”じゃないって事だ。そうは思わない?」
「……」
「とはいえ、発つ前にそんな事言ったら、さすがにかわいそうだしね。マリアに後を任せたのもそこにある」
「?」
 ますます以て分からない。
「誰に留守を任せても、事態がそう大きく変わる訳じゃない。ただ、マリアは別だ。放浪時代で身につけた戦闘力もあるし、少なくとも、皆が危機に陥った時、自らが囮や殿となって皆を逃がし、その上で自分も帰って来れると踏んだから任せたんだ。さくら達と違って学校に行ってないから、その分訓練時間も多かったしね」
「そう…だったの…」
「そう」
 頷いたシンジがマリアの頭を引き寄せ、
「だから、マリアは少しも期待に外れはしなかったよ。マリア、よくやってくれたね」
 その言葉を聞いた瞬間、マリアの中で何かが弾けた。
 シンジが帰ってくるまではと、ただそれだけがマリアを支えており、その糸はまだ張りつめていたのだが、シンジの言葉でぷつんと切れてしまったのだ。
 たまらずシンジに抱き付き、肩に顔を埋めて泣くマリアを、シンジは黙って受け止めた。
 お前は分かっていないと、愛銃を没収されはした。
 だが、留守を任されたのは、他に人がいないこともあったが、何よりもマリアならば出来るだろうと、信頼して任されたのだ。
 そしてその通りにやったと、言ってくれた。
 喜怒哀楽、今の感情はきっと全部がごちゃごちゃになっているに違いない。他の娘達の前では、決して涙など見せぬマリアが、子供のように泣きじゃくっている。
 やがてマリアが顔を上げた時、涙の溜まった双眸は真っ赤になっていた。
「ご、ごめんなさい…いきなり泣いたりして」
 うん、とシンジが手を伸ばし、涙の痕をつうっと拭った。
「俺の知っているマリアはよく泣く」
「!」
 その言葉に、マリアが首まで真っ赤に染めた。
「し、知らない…」
 顔を紅潮させたまま、横を向いたマリアを置いてシンジは立ち上がった。
「シ、シンジ?」
 怒らせたかと、慌てて顔を戻したが、すぐにシンジは戻ってきた。
 手にはワインの瓶を持っている。
「飲む?」
 小さく頷いたマリアが、
「でも、確かシンジは飲めないんじゃ…」
 それには答えず、グラスにワインを注ぐとそのまま飲み干した。
 もう一度グラスを満たすと、一口飲み、そのままマリアに唇を重ねる。
(!?)
 当のマリアからして、何が起こったのか分からぬ内に、口の中にはワインが流し込まれていた。
 口移し、と気付いたが、既に首筋まで真っ赤に染まり済みだ。
 こくん、と喉を鳴らして嚥下したマリアに、
「巴里へ行くまでは、実際の所飲めなかったよ。ただ、とてつもなく大きな物を喪った代わりに、ある物を得た」
 シンジは穏やかな口調で言った。
「それって…飲めるようになったって言うこと?」
「そう。今はまだ、飲んでも美味しくはないけれど」
 シンジの言うそれが、飲み始めだから、を指してはいないと気付いた時、マリアの胸が僅かに痛んだ。
 どうしてかは分からない。
「人間っていうのは、何かを喪って、何かを得る生き物なんだと思う。そして俺は、ごく普通の平凡な人間ってこと」
「そ、そんなことないわ。シンジは――」
 思わず大きな声を上げたマリアの唇に、シンジはすっと人差し指を当てた。
「おいで」
 窓際まで歩いていき、窓を開けると、真っ白な満月が見えた。
「こんな晩には、月の下にいくと銀の欠片が落ちてくるらしい。飲もうか?」
 そうだ、これは自分がずっと思っていた光景なのだ。
 シンジが帰ってきたら一緒に飲むのだと、もう自分は決めていた。
 マリアは、何度も頷いた。
 
 
 その晩、一体どれだけ飲んで、そして何を話したのか、マリアはまったく覚えていなかった。
 ただ翌朝知ったのは、自分がシンジのベッドで寝ている事と、そして自分が何一つ身につけていないと言う事であった。
「なっ!?」
 慌てて裸の胸元へシーツを引っ張り上げようとしたところへ、
「碇さんすみません、やっぱり今朝の朝食はパンか碇さんが――え?」
 ひょいと顔を出したマユミとマリアの視線がぶつかった。
「きゃっ」
 普段、決してあげぬような可愛い悲鳴をあげたまではいい。
 だが、人間慌てるとろくな事がないとはよく言ったもので、慌ててシーツを巻き付けようとしたのが仇となり、シーツはするりと手から滑り落ちた。
 マリアの真っ白な胸がたぷっと揺れるのと、マユミの目が点に――メガテンになるのとが同時であった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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